2018年4月18日水曜日

第42回「参火会」4月例会 (通算406回) 2018年4月17日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第4回目『イタリア特集』

フィレンツェの歴史地区・ローマの歴史地区・ヴァティカン市国・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と食堂にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

前月の「参火会ブログ」に記した通り、今回は、ルネサンスの先駆けとなり、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロ、ミケランジェロらの優れた才能が残した芸術作品にあふれる「花の都フィレンツェ」、フォロロマーノ・コロッセウム・パンテオン・コンスタンチヌスの凱旋門など、単独でも世界遺産に登録してもよさそうな名所旧跡の宝庫ともいえる「ローマ」、ローマ市内にあってカトリックの総本山でもある「ヴァチカン」、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と隣接する食堂に描かれたレオナルド・ダ・ビンチの最高傑作のひとつ「最後の晩餐」に焦点をあてた会とすることになった。



まずはじめに、2004年にディアゴスティーニ・ジャパンから発売された「世界遺産DVDコレクション」の第1巻「フィレンツェ・ローマ・最後の晩餐」約47分の映像を視聴したあと、酒井義夫(弟)が中心となってメンバーとの対話を行った。酒井弟は、1987年に初めてローマを訪れてヴァチカン美術館やローマの数々の遺跡に感嘆して以来、1998年と2001年の「イタリア旅行」でヴァチカンを含むローマを3度訪ねたほか、フィレンツェとミラノの「最後の晩餐」には2度対面している。先に配布した資料の該当部分を加筆し、「最後の晩餐」(番外)を書き下ろしたので、参考にして下さい。

3-② フィレンツェの歴史地区
文化遺産 イタリア 1982年登録 登録基準①②③④⑥
● ルネサンスが咲き誇った「花の都」
イタリア中部に位置するトスカーナ地方のアルノ河畔に広がるフィレンツェは、14世紀末から17世紀にかけてルネサンスの中心となった商業都市。12世紀に自治都市(コムーネ)宣言をし、中世に毛織物業や金融業で栄え、14世紀初頭には13万人を擁する大都市に成長した。その中で台頭したメディチ家は、メディチ銀行を拡大させ、莫大な財を蓄えた。15世紀半ばには [コジモ・メディチ] が実質的に市政の支配権を握り、以後300年にわたってフィレンツェを支配した。市民の信望をえて、のちに「祖国の父」という称号を与えられたコジモは、市の税収の半分を負担し、図書館などの公共施設を建設、プラトン・アカデミーを設立して古典研究を奨励するとともに、ルネサンス芸術家を庇護した。フィレンツェの街でひときわ目を引く「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は、コジモの援助によって建設されたルネサンス様式の建物である。ほかにコジモはヨーロッパ初の孤児院やメディチ・リッカルディ宮なども建設した。つづくコジモの孫の [ロレンツォ・メディチ] は、他都市と巧みに均衡をはかって外交を安定させ、「春(プリマベーラ)」「ビーナスの誕生」で知られる画家のボッティチェリ、「モナリザ」の作者で学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家を支援した。若きミケランジェロを見出して彫刻を学ばせたのもロレンツォで、1501年に26歳のミケランジェロは、巨大な大理石から像を掘り出すという難行に挑んだ「ダビデ像」(アカデミア美術館所蔵) は、ローマ帝国以来の傑作とたたえられた。



16世紀に入ると、[コジモ1世] がトスカーナ大公となって領土を拡大し、数々の建物を改築するなどしてフィレンツェをさらなる華やかさに高めた。16世紀半ば、コジモ1世は、14世紀初めに建設されたゴシック様式の政庁舎ヴェッキオ宮を住居とし、大改築を施した。この宮殿の「五百人広間」壁面にはメディチ家を賞賛する絵で埋め尽くされている。また、メディチ家の財産はフィレンツェのものとされ、「ウフィツィ美術館」には、ボッティチェリの「春(プリマベーラ)」ほか代表作の数々、ダ・ヴィンチ「受胎告知」、ミケランジェロ「聖家族」など、世界最大級ともいえるメディチ家が収集した美術品が時代順、様式順に公開されており、「ルネサンス発祥の地・フィレンツェ」を代表する大美術館といえる。



その他、アルノ河左岸にある「ビッテ宮殿」には、ラファエロの「椅子の聖母」「ラ・ベラタ」やティツィアーノの「マグダラのマリア」などの名品がある「パラティナ画廊」のほか、磁器・銀器・馬車博物館、衣装美術館などルネサンス美術を概観できる宮殿も必見。

3-⑦ ローマの歴史地区
文化遺産 イタリア 1980年登録・1990年範囲拡大 登録基準①②③④⑥
● 長い歴史を伝える「永遠の都」
イタリア半島の中部にある首都ローマは、古代ローマ帝国の首都やキリスト教世界の中心地となった。ルネサンス以降は、芸術・文化の発信地などと地位を変えながらも、約2600年にもわたって、ヨーロッパの歴史の中で、重要な役割を果たしてきた。伝説によると、牝オオカミに育てられた双子のロムルスとレムスのうち、兄ロムルスが紀元前753年にパラティーノの丘にローマを築いたとされる。ローマの名はロムルスに因んでいる。紀元前10世紀ごろからこの地に人が住み始めると、都市国家となり紀元前509年に共和制となって、紀元前270年ころには半島全土を征圧して地中海の覇権を握った。その後政治的混乱に陥ったが、これを救ったのがカエサル(シーザー)で、紀元前46年に事実上ローマ皇帝の地位に登りつめたものの前44年に暗殺された。神格化されたシーザーの威光を利用した養子のオクタビアヌスが権力を掌握すると、紀元前27年にアウグストゥスを名のって初代皇帝となり、帝政が始まった。歴代の皇帝は、首都ローマに凱旋門、劇場、浴場、神殿、円形闘技場などを次々に建築し、現代も残る建築物群が立ち並ぶようになった。313年にはコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認すると、キリスト教文化が繁栄し、教皇の住むカトリック教会の中心地として聖堂群が建てられている。「ローマ歴史地区の主な建築物や場所」を掲げると、① フォロ・ロマーノ……「ローマ市民の広場」を意味する古代ローマの中心であり、最も重要な施設が集まっていた場所。廃墟に等しい状態とはいえ、政治的な演説や集会、祭り、皇帝たちの凱旋行進が行われた当時の道路や建物群を忠実に追うことができる。② コロッセウム……80年に完成した世界最大の円形闘技場。ヴェスバシアヌス帝が市民のための娯楽場とし、剣闘士同士の戦いや剣闘士と猛獣との格闘などの見世物が行われた。一層目がドーリア式、2層目がイオニア式、3層目がコリント式。③ パンテオン……ローマ人が信仰する「万神殿」。紀元前27年にアグリッパが建て、ハドリアネス帝が改築。ミケランジェロが「天使の設計」と絶賛する古代ローマ時代の建築当時の姿をほぼ伝える唯一ともいえる建造物。④ コンスタンチヌスの凱旋門……315年に、キリスト教を公認するきっかけとなったマクセンティウスとの戦いに勝利したことを記念して建てられたローマ最大の凱旋門で、のちのパリの凱旋門の手本となった。



⑤ スペイン広場……映画『ローマの休日』で有名になった広場。135段の階段を一番上まで登ると、ローマを一望できる。「フランス教会」(リニタ・デイ・モンティ教会)前にある18世紀の「オベリスク」も人気スポット。階段下には、低い水圧を利用したベルニーニの父ピエトロの「パルカッチャ(老いぼれ舟)の噴水」があり、飲料水としておいしいと評判。⑥ ボルゲーゼ美術館……名門貴族ボルゲーゼ家歴代のコレクションが堪能できる邸宅美術館で、バロック期の偉大な彫刻家ベルニーニの最高傑作の数々、ラファエロ「一角獣を持つ若い女性の肖像」カラヴァッジョ「果物かごをもつ少年」、ティツィアーノ「性愛と俗愛」、クラーナハ「ヴィーナスとキューピッド」などを所蔵。



⑦ トレビの泉……ローマで最も大きな噴水。肩ごしにコインを投げ入れると、またローマに戻って来られるという伝説がある。1700年代半ばにコンテストで優勝したニコラ・サルヴィの設計によるもので、想像以上の大きさのバロック様式の泉に圧倒される。⑧ カラカラ浴場……1600人が同時に入浴できるほか、劇場・運動場・庭園を含む16万㎡もの総合娯楽施設跡。そのほか、ローマには単独でも「世界遺産」登録の価値あるものが多数存在する。

3-⑧ ヴァティカン市国
文化遺産 ヴァティカン 1984年登録 登録基準①②④⑥
● 教皇庁の置かれるキリスト教世界の最重要都市



ローマ教皇を国家元首とする「ヴァティカン市国」は、面積0.44㎢、人口800人の世界最小の独立国で、カトリック教会の中枢として、国全体が世界遺産に登録された唯一の場所。サン・ピエトロ寺院の立つヴァティカンの丘は、イエス・キリストの最初の弟子といわれる聖ペテロの墓所があったとされる場所。そこに、ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教を保護したコンスタンチヌス1世の命により、バシリカ式の教会堂が建てられた。それから1000年ほど経った15世紀中頃になると、教会堂が老朽化したため、時の教皇ニコラウス5世によってより大きな聖堂への改築工事が始められた。ブラマンテを主任建築家に迎えて建築が始まるものの、技術的・資金的理由で工事は長い年月がかかり、ブラマンテの死後、ミケランジェロらに引き継がれて世界最大の「サン・ピエトロ大聖堂」が完成したのは1626年、着工から完成までに約120年後のことだった。大聖堂以外の「ヴァティカン市国の主な建築物」は次のとおり。① ヴァティカン宮殿……サン・ピエトロ大聖堂の北部に広がるこの宮殿は、1378年以降ローマ教皇の住居となっている。宮殿内部には美術館、図書館、礼拝堂など多数あり、それらを総称して「ヴァティカン美術館」といわれている。美術館として開放されている部分だけでも1400部屋にもおよび、歴代教皇のコレクションで飾られている。



② システィーナ礼拝堂……ヴァティカン美術館内の礼拝堂のひとつで、ミケランジェロの描いた天井画「創世記」や壁画「最後の審判」が特に有名。

③ ラファエロの間……ラファエロが手掛けた壁画がある4室。特に「署名の間」にあるギリシャの哲学者を描いた「アテナイの学堂」はラファエロの最高傑作とされる。



④ サン・ピエトロ広場……ベルニーニが設計した284本の円柱が広場を囲む。列柱廊の上部にある140体の聖人像もベルニーニとその弟子たちによる彫刻。⑤ オベリスク……サン・ピエトロ広場の中央に立つモニュメント。古代ローマの皇帝カリグラがエジプトから運ばせたとされる。

「番外」
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と食堂の「最後の晩餐」
文化遺産 イタリア 1980年登録 登録基準①②
● レオナルド・ダ・ヴィンチの不朽の名作が残された修道院
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院は、15世紀半ばにドメニコ会の修道院としてゴシック様式でつつましく建てられていた。これを1492年、ミラノ公ルドヴィコは、一族の霊廟にするため、ルネサンス建築の先駆者で当世一の建築家ブラマンテ(のちにヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の設計を手がけた)に命じ、ルネサンス様式による改築と拡張を図ることを決めた。ブラマンテは聖堂の北側に、修道院の景観を見渡すルネサンス様式の回廊を造り、 聖堂には、スフォルツァ家の霊廟となる 巨大な円蓋を載く内陣を新たに建設した。さらにミラノ公は1494年、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに、修道院に隣接する食堂の壁画に『最後の晩餐』の制作を依頼した。



2年後に完成した作品は、「この中に裏切り者がいる」と、イエス・キリストとその言葉に驚愕して動揺する使徒たちを描いたもので、磔刑前夜の劇的瞬間を描いた芸術史に新しい時代を開いた名作として讃えられている。当時の壁画は、漆喰を塗った壁に水で溶いた顔料で描くフレスコ画が主流で、漆喰が乾く前に一気に仕上げねばならず、作業の中断や描き直しは不可能だった。気が乗らないとすぐに仕事を中断し、熱中すれば何度でも描き直したダ・ヴィンチは、中断や描き直しができるテンペラ画法(乾いた壁に、顔料を卵などの溶剤で練った絵の具で描く)を選択した。ところが、テンペラは絵の具が壁に染み込まず、やがて湿気で剥落する運命にあった。完成してまもなく、絵には細かい亀裂が生じていたため、ダ・ヴィンチは、それを一度は塗り直したものの、ミラノを去り、以後、この絵に執着することはなかった。剥落は次第に激しくなり、50年後には絵の多くが傷んでいた。18世紀の修復家は、油彩で筆を入れ、原画を描き変えるなど強引な修復が行われ、これは美術ファンの期待を裏切るものだった。1977年に、本格的な修復活動が始まった。修復家のピニン・ブランビッラが中心になり20年以上の歳月をかけたもので、表面に付着した汚れなどの除去、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が進められたことで、後世の修復家の加筆は取り除かれ、「キリストの口が開いていた」「背景の左右の壁にある黒い部分には花模様のタペストリがかけられていた」などが 新たに判明するなど 、この執念の修復で、500年ぶりにダ・ビンチの原画が復活したといえそうだ。

会の後半は、インターカルチャークラブが制作した「世界の美術館」の『ヴァティカン美術館』を観賞した。特に、システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画『創世記』を詳しく解説した部分はとてもわかりやすく、改めてそのすばらしさに感嘆したという声や、「聖母の画家」といわれるラファエロが描いたヴァティカーノ宮・署名の間にある『アテネの学堂』の見事さを改めて知ったという声もあがった。

なお、植田康夫氏が4月8日に転移性肺がんでお亡くなりになり、11日に家族葬をされたことを、16日に「参火会」メンバー全員に次のようにメールした。

植田氏は、上智大学新聞学科を卒業後すぐに、出版界の情報紙の一つ「週刊読書人」に入社して同紙の編集に携わり、1982年から編集長を務めました。1989年に同社退社後、新聞学科の助教授、1992年から2008年まで同教授として新聞学科長を務めながら、日本出版学会会長、日本マスコミ学会理事などを歴任されました。2008年からは名誉教授のかたわら「週刊読書人」取締役編集主幹、2013年からは同社社長となって活動するかたわら、『本は世につれ。』『出版の冒険者たち。』『雑誌は見ていた。』という氏の遺書ともいうべき出版3部作を発表され、敬服しておりました。まさに植田氏は、「出版論」を学問として確立した現代日本を代表する編集者の一人として称えられる存在でしょう。そういう経歴の方が、私たち「参火会」のメンバーとして身近に接してくれたことに感謝するとともに、氏のご冥福をお祈り申し上げます。



そこで今回は会の始めに、向井昌子さんや増田道子さんが用意してくれた花束やお香、竹内光氏が用意してくれた元気なころの写真を前に、植田康夫氏の霊へ献杯させてもらった。また、植田氏が「大宅壮一東京マスコミ塾」の第1期生で、大宅壮一文庫の監事をやられていたことから、後日「大宅壮一文庫」が中心となってお別れの会が開かれる予定という最新情報を伝えた。
(文責・酒井義夫)


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒