今回は、NHK制作DVD12巻目の映像視聴(約50分)から始まりました──
皇居一般参賀始まる、帝銀事件、芦田均内閣成立、昭電疑獄、第2次吉田茂内閣成立、改正国家公務員法成立、東宝争議開始、本庄事件、ソ連引揚げ再開第1船帰国、「異国の丘」大流行、復興のきざし(両国花火大会、国産自動車ダットサン・C62機関車登場、集団見合いなど)、主婦連合結成、泉山蔵相国会で酔態、踊る宗教の北村サヨ上京、作家太宰治情死、福井大地震、極東国際軍事裁判(東京裁判)判決、第24回衆議院総選挙、第3次吉田内閣成立、ドッジ公使経済安定政策、国鉄人員整理、下山事件、三鷹事件、松川事件、湯川秀樹ノーベル賞、古橋・橋爪全米水上選手権で世界記録、「青い山脈」ヒット、プロ野球・プロボクシング・上野動物園人気、国立新制大学69校設置、「光クラブ」山崎自殺、法隆寺金堂の壁画焼失…など。
「この時代の概要」
前年(昭和22年)、新憲法体制を築き上げるために行われた4月の総選挙では、民主・国民共同との連立内閣ながら、社会党首班の片山哲内閣が成立しました。
当時の世界情勢は、中国では延安に押し込まれていた毛沢東率いる共産党が優勢になり、アメリカが支持してきた蒋介石の「国民党」が広東など南方に退却。朝鮮半島では、38度線をはさんで、ソ連の支持をえた金日成が北朝鮮を牛耳る勢い。ドイツにおいては、米・英・仏による西ドイツを共同占領統治、ソ連は東ドイツを占領統治をしますが、ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニアを衛星国にしつつあり、さらに4国が共同統治していたベルリンを東西に分割し、封鎖(S23.6)。核兵器を含む原子力を国連管理下にしようとするアメリカのもくろみも、まもなく原爆を製造するとつっぱねるなど、「冷戦」は決定的になっていました。
アメリカ本国政府(トルーマン大統領)としては、マッカーサー率いるGHQの日本統治に疑問が生まれ、このままでは、日本も共産主義国になりかねないと、昭和23年初頭にマッカーサーへ「日本を共産主義進出の防波堤にせよ」と命じました。アメリカ政府としては、マッカーサーは、大統領→陸軍長官→統合参謀本部→参謀総長の下の「アメリカ太平洋陸軍総司令官」でしかありません。しかし、マッカーサーには「連合国軍最高司令官」という意識があって、独立してやりたいことがやれるという自負心から、ワシントン政府の指示を素直に受け入れません。
しびれをきらしたアメリカ政府は、昭和23年3月、ケナン特別使節を送り、次の命令を伝えました。① 改革、追放をこれ以上進めない ② 東京裁判の早期終結 ③ 貿易など経済復興をめざせ ④ 日本の独立に向けGHQの権限を日本政府に委譲せよ──というものでした。
(東京裁判)
これに対し、マッカーサーはしぶしぶ受け入れながらも、できるところから片づけると、「東京裁判」を昭和23年11月12日に判決を下し、A級戦犯被告28人のうち、、判決前に死去した松岡洋右と永野修身、精神異常とされた大川周明を除く25被告には全員有罪、東条英機ら7人が絞首刑、木戸幸一ら16名が終身禁固刑、東郷茂徳が禁固20年、重光葵が禁固7年になりました。同年12月23日に東条ら7名を処刑、翌日、岸信介・笹川良一・児玉誉志夫らA級戦犯容疑者19名釈放することで、東京裁判を終結させました。終身禁固・禁固者もS58年までに全員出獄)
アメリカのキーナン主席検察官のもとで連合国11か国のおこなった「東京裁判」のねらいは、① アメリカの原爆投下やソ連の満州侵攻など、連合国側の正義を確認するもので、日本の侵略性をもつ戦争の否定するもの ② 連合国でも、多数の国民の死があり、その死が無駄でなかったことを自国民に納得させる儀式的なもの ③ 戦争中の言論封鎖により、具体的なことを知らされなかった日本人に、南京事件、無通告の真珠湾攻撃、シンガポール虐殺事件、バターン死の行進など、日本軍国主義の罪状を明らかにし、犯罪的軍閥だけを処罰。日本人を啓蒙し、よき日本人民主主義国家の人民となることを導くもの──という側面があったことを確認しました。
いっぽう日本が、戦争総括を自分たちでは何も行わず、この「東京裁判」にゆだねてしまったことが、同じ敗戦国のドイツと大きく違い、開戦計画の実態、戦場での残虐行為、それに対する徹底した償いをしなかったことが、いまだにアジア諸国との本当の意味の融和がはかれないといった意見が出され、多くの賛同をえました。
(ドッジの施策 [ドッジライン] とその影響)
日本の経済力強化を求めるアメリカ政府は、昭和23年12月に「経済安定9原則」を、GHQを通じ日本へ指示しました。固定為替レートの早期導入、金融機関の融資抑制、徴税強化、賃金安定などで、インフレを終わらせ、デフレ状態化させることが目的でした。GHQ内部の改革も進め、マッカーサーの腹心で「日本国憲法制定」に大きな貢献をしたホイットニー民生局長とケーディス民生局次長らを解任し、「経済科学局」のウィロビーを中心に経済改革へと大転換をします。
そして昭和24年2月、デトロイト銀行頭取でドイツの経済改革に実績を残したドッジ公使が、アメリカ政府から派遣されると、大蔵省に詳細な指示を行い、一般会計・特別会計ともに黒字という「超均衡財政」を組ませました。4月には1ドル360円の為替レートを決定し、5月末には公務員を28万5千人を整理の対象とする「行政機関職員定員法」を公布させました。
国鉄(今のJR)を独立採算制の公社とし、6月1日に下山定則が国鉄総裁となり、7月4日に3万7千名の人員整理を発表すると、翌々日に総裁が常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見される「下山事件」がおこり、7月15日には中央線三鷹駅で無人電車が民家に突っ込み6人が即死する「三鷹事件」、8月17日には東北本線松川駅付近で列車が脱線転覆して乗員3名する「松川事件」が相次いで発生しました。いずれの事件も真相がわからず、迷宮入りとなりますが、労働組合に大きな打撃を与え、年末までに国鉄だけで9万5千人が解雇されたほか、企業倒産も続出しました。ドッジのもくろみ通り、インフレの元となっていいヤミ値は急速に下落し、庶民の生活は苦しいながらも安定につながったのでした。
「参火会」9月例会参加者
(50音順・敬称略)
- 植田康夫 文新1962年卒
- 岩崎 学 文新1962年卒
- 小田靖忠 文新1966年卒
- 草ヶ谷陽司文新1960年卒
- 郡山千里 文新1961年卒
- 酒井猛夫 外西1962年卒
- 酒井義夫 文新1966年卒
- 菅原 勉 文英1966年卒
- 谷内秀夫 文新1966年卒
- 反畑誠一 文新1960年卒
- 増田一也 文新1966年卒
- 増田道子 外西1968年卒