2019年3月20日水曜日

第52回「参火会」3月例会 (通算416回) 2019年3月19日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第13回目   日本の世界遺産② 白川郷と五箇山の合掌造り集落/広島の平和記念碑(原爆ドーム)/琉球王国のグスク及び関連遺産群/厳島神社/白神山地/知床/屋久島

今回は、下記資料「12-①~12-⑦」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した下記12-①~⑦ の映像約41分を視聴しました。




12-① 白川郷と五箇山の合掌造り集落
文化遺産 1995年登録 登録基準④⑤
● 豪雪地帯における伝統的建築物
飛騨高地は、岐阜県北部と富山県南部にあり、白川郷と五箇山はその険しい山間を流れる庄川沿いの段丘に形成された集落。一帯はわが国有数の豪雪地帯で、外界との行き来が困難だった。そのため、戦後になって電気や道路が整備されるまでは、昔から伝わる社会制度・民俗・慣習・20~30人で暮らす大家族制などが根強く残され、独自の生活や文化を育んできた。とくに「合掌造り」といわれる独特の家屋と周囲の自然環境は、後世に伝える歴史遺産としての美しさを保つ。合掌造り家屋の最大の特徴である茅葺きの大屋根は、積雪を防ぐため45~60度の傾斜がある。また雪の重みと風の強さに耐えるため部材の結合には釘など金属はいっさい使用せず、縄でしばって固定する工法が守られてきた。各集落には江戸時代から続く互助組織「結い」による協力体制が発展してきた。特に30~40年に1度行われる茅葺屋根の葺き替え作業は「結い」が不可欠で、白川郷では村民100~200人が総出となって、1日で葺き替えを終えたという。19世紀末までは、300棟以上の合掌造りの家屋があったが、1930~60年代にダムがいくつも建設されたことで水没した家屋も多くあり、70年代に入って保護活動が本格化したことで、世界遺産となった1995年には、岐阜県白川村の「荻町集落」(白川郷) には59棟、富山県南砺市の五箇山には「相倉集落」に20棟、「菅沼集落」に9棟が残された。

12-② 広島の平和記念碑(原爆ドーム)
文化遺産 1996年登録 登録基準⑥
● 原爆の悲劇を語り継ぐ平和のシンボル
広島市の平和記念碑(原爆ドーム)は、1945年8月6日、人類史上初めて原子爆弾が投下された当時の姿を後世に伝える「負の遺産」。この建物は、1914年にチェコの建築家ヤン・レツルによって設計され、1915年に「広島県物産陳列館」として誕生したもので、1945年当時は「広島県産業奨励館」に改称されていた。建物は一部鉄骨を使用した3階建てのレンガ造りで、楕円形のドームや湾曲した壁面から「ネオ・バロック」の影響を受け、柱頭や窓枠の正方形や幾何学模様を配置した装飾からは、19世紀ウイーン分離派の「ゼツェッション様式」といわれる。2つの建築様式を融合した大胆なデザインは、周囲の美しい庭園とともに、創建当時から市民の注目を集めていた。またこの建物は、原爆により一瞬にして廃墟となったが、爆風がほぼ真上から襲ったため、全壊を免れた。戦後、この廃墟を「不幸の記憶」として解体すべきか、「平和の象徴」として保存すべきか議論が繰り返されたが、当初保存に消極的だった広島市が、1966年の市議会で「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で可決させた。人類が作り出した最も強力で悲惨な兵器のひとつといえる原子爆弾の被害の実態を後世に伝えるだけでなく、原子爆弾を含めたすべての核兵器の根絶と恒久的な世界平和を訴えるモニュメントとしての価値が高い。なお、登録範囲は原爆ドームの建つ3900㎡の爆心地域と、平和記念公園・平和資料館・原爆死没者慰霊碑・原爆の子像のある場所や周辺の河川地区など約42万㎡となっている。

12-③ 琉球王国のグスク及び関連遺産群
文化遺産 2000年登録 登録基準②③④
● 周辺諸国との交流と、独自の文化をあらわす遺産群
沖縄県内に点在する「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、15~19世紀にかけて存在した「琉球王国」の文化を今に伝える。この地に農耕が本格的に展開した12世紀ころ、按司(あじ)と称する首長が各地に勃興し、城砦(グスク)を築いて覇権を争い、14世紀中頃には北山・中山・南山という三王国が並立していた。これを1429年に中山王の「尚巴志」が統一して生まれたのが「琉球王国」だった。1609年に薩摩藩の侵攻により事実上同藩の支配を受けてはいたが、1879年に沖縄県になるまで450年間にわたり、日本をはじめ中国(明)・朝鮮・東南アジア諸国との広域の交易を経済的な基盤としてきた。沖縄各地に残るグスクは、沖縄が独立国だった時代の歴史を伝えてくれる。今帰仁(なきじん)城・座喜味城・勝連(かつれん)城・中城(なかぐすく)城は、いずれも三王国並立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城であり、首里城は琉球王がその居所と統治機関を設置するために築いたもの。これらの城壁は、主として珊瑚石灰岩により造営されており、曲面を多用した琉球独自の特色を備えている。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」構成する9遺構
◇ 首里城跡…那覇市にあり、那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスク。三王国並立時には中山国王の居城で、琉球王国が成立後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たした。グスクは内郭(内側の小区画)と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されている。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていたが第二次世界大戦末の沖縄戦で全壊、1992年に復元された。
◇ 今帰仁(なきじん)城跡…標高100mの古期石灰岩丘陵に築かれた三王並立時の北山王居城。グスクは6つの郭から成り、総長1500mにも及ぶ城壁は、地形を巧みに利用しながら野面積みで屏風状に築かれている。 難攻不落のグスクだったが、1416年に首里城を拠点とする中山軍によって滅ぼされた。落城後は、王府から派遣された北山監守の居城となり、監守制度は1665年まで続いた。
◇ 座喜味城跡…中山軍の今帰仁城攻略に参加した有力按司(首長)の「護佐丸」によって15世紀前期に築かれたグスク。国王の居城である首里城と緊密な連携を図るという防衛上の必要性から、首里城より眺望可能な丘陵上に立地し、北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていた。 グスクは、2つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩を用いて屏風状に築かれている。
◇ 勝連(かつれん)城跡…琉球王国の初期、最後まで国王に抵抗した有力按司である「阿麻和利」の居城。眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されている。 城内には建物跡、固有信仰の「火の神」を祀った聖域のほかに、最上段の郭(本丸)には玉ノミウヂ御嶽(うたき=祭祀などを行う施設)という霊石があり、信仰の対象となっている。
◇ 中城(なかぐすく)城跡…勝連城主の阿麻和利を牽制するため、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が15世紀中期に整備したグスク。琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たした。6つの郭からなり、県内でも城壁が良く残るグスクの一つ。 城壁は、琉球石灰岩の切石を使用し、地形を巧みに利用しながら曲線状に築かれた。1853年に来琉したアメリカのペリー艦隊の探検隊がその築城技術を高く評価したことが文献や絵画に残されている。
◇ 玉陵(たまうどぅん)…1501年頃、第二尚氏王家歴代の陵墓として造営された。国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、墓を造ったと推測されている。墓室は三室に分かれ、中室には洗骨前の遺骸、東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族などを納骨する。
◇ 園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門…1519年に創建された石造の門。日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造建物で、木製の門扉以外はすべて石造。第二次世界対大戦で破壊されたが、1957年に修復された。
◇ 識名(しきな)園…王家別邸の庭園として1799年に築庭。王族の保養の場としてだけなく、海外の要人を饗応する場所としても利用され、国の外交面において重要な役割を果たした。庭の地割には日本庭園の影響が、池の小島に架かる石橋や六角堂と称される建物の意匠には中国の影響が見られるものの、琉球独自の構成や意匠を主体としている。第二次世界大戦で大きな被害を被ったが、1996年に甦った。
◇ 斎場御嶽(せーふぁうたき)…王国最高位の女神官である聞得大君(きこえおおぎみ)の就任儀式「御新下(おわらお)り」が行われた格式の高い御嶽。中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしただけでなく、琉球の開閥神「アマミク」が創設した御嶽の一つといわれる。

12-④ 厳島神社
文化遺産 1996年登録 登録基準①②④⑥
● 寝殿造りを神社に持ちこんだ美的センス
広島県廿日市市にある安芸の宮島(別名厳島)は、瀬戸内海にあり、標高535mの弥山(みやま)を擁する島全体が「ご神体」としてあがめられてきた。遠く離れた場所から拝むことが信仰の始まりだったが、次第に水際に神殿が形成されていった。平安時代末期、平清盛は保元・平治の乱の戦功などで権力を手中に収め、全盛期を迎えていく。宋との貿易を盛んに行ったことから、瀬戸内海の海上交通を整備し、海上の守り神として厳島神社の社殿を整えていった。現在の厳島神社の原型ともいえる構造物群が完成したのは1168年といわれ、色鮮やかな朱塗りの社殿が海に向かって鳥が羽を伸ばすように広がり、本社(本殿・拝殿・祓殿など)を中心に、37棟の建物が300mもある回廊でむすばれている。有名な大鳥居とともに、満潮時には海に浮かぶという世界にも例を見ない宗教施設。たび重なる火災、水害による被害を受けたが、現在残る主要な殿舎は、1223年に焼失したものを1241年に再建したもの。その後も厳島神社は何度となく風水害に遭いながらも、時の権力者や在地の有力者により修復されてきた。海上に立つ大鳥居もしばしば倒壊したが、1537年の再建に際し控柱をもつ形式の両部鳥居に収められた。現在の大鳥居は、1850年に台風で倒壊したものを1875年に再建したもので、柱の中は空洞となっており、そこへ小石を詰め込んで重くした平安末期から数えて8代目。厳島神社には、1407年に五重塔が、1587年には豊国神社本殿(別名・千畳閣=秀吉が僧恵瓊に建立を命じた857畳の大広間を持つ建物)などが寄進されている。

12-⑤ 白神山地
自然遺産 1993年登録 登録基準⑨
● 東アジアに残る最後の原生温帯林
「白神山地」は、青森県南西部と秋田県北西部をまたぐ1300㎢の範囲に広がる山岳地帯の総称で、世界遺産に登録されたのはその中心部分の約170㎢。およそ8000年前に形づけられた原生的なブナ林が世界最大級の規模で分布し、貴重な動植物の宝庫としても極めて重要であると高く評価された。このブナの純林には、約500種類もの植物が分布しており、この豊富な植生が、哺乳類では国の特別天然記念物のニホンカモシカや大型ツキノワグマから世界最小のトガリネズミまで約20種、鳥類では天然記念物のクマゲラや絶滅危惧種のイヌワシなど約80種、2000種以上の昆虫類など、多種多様な生き物たちの命を育んでいる。微生物に至っては何兆種類ともいわれ、白神で発見された野生酵母は、天然酵母パンの材料としてすっかりおなじみとなった。1000m級の山々と清らかな流れ、V字に切れ込んだ谷壁を流れ落ちる幾筋もの滝など、景観の美しさでも知られるが、森林生態系保護のため秋田県側のコアゾーン(核心地域)への入山は原則禁止。遊歩道の整備された青森県側のバッファゾーン(緩衝地域)は入山可能のため、「暗門の滝」や「十二湖」などへの名勝めぐりやブナの森林浴などが楽しめる。山を熟知している現役のマタギ(猟師)が案内するエコツアーも人気。

12-⑥ 知床
自然遺産 2005年登録 登録基準⑨⑩
● 海と陸が育む複合生態系
「知床」として世界遺産に登録されたのは、北海道の東端にある細長い知床半島の陸域(487㎢)と、海岸線から3kmの海域(224㎢)とあわせた総面積711㎢の範囲。知床半島には、最高峰の羅臼岳(1661m)をはじめ硫黄山(1562m)など1500m級の火山群が縦走する。そこにトドマツ・エゾマツなどの針葉樹やミズナラ・シナノキなどの落葉広葉樹の原生林が広がる。北緯44度に位置する知床は、世界でも最も低い緯度で海水が氷結する「季節海氷域」にあたることで、流氷が運んでくる豊富な栄養塩は春になると溶けて豊富な植物プランクトンを供給する。それを動物ブランクトンが食べ、小魚・甲殻類・貝類などが繁殖するといった「食物連鎖」がおこる。この海から始まる連鎖は絶滅に瀕するトドやアザラシを生息させ、河川を遡上するサケやマスを捕食するヒグマやキタキツネなどの哺乳動物、希少種のオオワシやオジロワシなど魚食性の大型鳥類を支える。オホーツク海に面した海岸線には100mを越える断崖絶壁が連なり、知床連山では800種以上の貴重な高山植物が咲きほこるなど、知床半島には数知れない見どころが存在する。なかでも『知床八景』は、是非訪れたい場所としてよく知られている。① 高さ100mの断崖の途中からオホーツク海へと流れ落ちる不思議な滝「フレペの滝」、②深い原生林に抱かれた溶岩台地にある5つの小さな湖の総称「知床五湖」、③ 活火山である硫黄山の中腹から湧き出る温泉が川に流れ込む「カムイワッカ湯の滝」、④ ハイマツ帯が広がる標高738mの「知床峠」、⑤ オホーツク海と阿寒国立公園の遠望が見渡せる絶景と夕日の名所「プユニ峠」、⑥ ウトロ港の東側にある高さ100mの巨大岩「オロンコ岩散策路」、⑦ ウトロ湾を見下ろす夕日の名所「夕陽台」、⑧ 落差約80m知床半島最大の滝「オシンコシンの滝」の8か所。なお、知床では豊かな生態系を保護するため、イギリスのナショナルトラスト運動を手本にした、市民の寄付で土地を買い取る「知床100㎡運動」が行われ、1997年からは「100㎡運動の森・トラスト」に発展させ、環境保護と観光を両立させる「エコツーリズム」に力をそそいでいる。

12-⑦ 屋久島
自然遺産 1993年登録 登録基準⑦⑨
● 樹齢1000年を超えるスギの群生地
九州最南端の佐多岬から南南西約60kmにある屋久島は、約1400万年前に花崗岩が隆起して誕生した約500㎢(東京23区ほど)の円形の島。世界遺産に登録されたのは、島の西部海岸線から標高1936mの宮之浦岳をはじめ、1000m級の山が46座もあることで「洋上のアルプス」とも呼ばれる約107㎢の範囲。年間の降雨量は多く、海岸部でも平均4000㎜を超え、山間部では1万㎜にも達する。海岸付近は年間平均気温が19℃もあり1年中ハイビスカスが咲く南国の亜熱帯気候なのに対し、山頂部の平均気温は9℃前後と冷寒帯~亜寒帯に近く、冬には雪が2~3mも降って氷に閉ざされる。そのため、海岸からこの島の急峻な山々までには南西諸島から北海道までの植生が垂直分布しており、まさに日本の植生の縮図ともいえる。標高0~500m付近ではガジュマルやオオタニワタリなどの亜熱帯の森なのに対し、600~1500mに分布する屋久島のシンボルともいえる「屋久杉」は樹齢1000年以上のスギで、1000年未満のスギはここでは「小杉」と呼ばれる。樹齢7200年と推定される「縄文杉」や推定樹齢3000年の「紀元杉」など、樹齢1000年以上のスギの数は2000本以上あるという。本来スギの寿命は300年前後なのに対し、屋久島のスギは栄養分の少ない花崗岩の大地に育つため成長が遅く、そのため材質が緻密で多量の樹脂を蓄えることで腐りにくく、長生きして大きくなるといわれている。屋久杉はもともとはご神木としてあがめられ伐採されることはなかったが、16世紀後半に豊臣秀吉によって寺の建築のため伐採が始まり、江戸時代になると伐採した杉を屋根を葺く平木に加工して年貢として幕府に納めるようになって、森林の50~70%が伐採されてしまった。「屋久杉」の保護は、1924年に原生林が天然記念物に指定されたのに始まり、1954年に特別天然記念物に指定され、1964年には国立公園に編入されたものの伐採は続けられてきた。屋久島島民は、1971年に伐採の中止を求めて「屋久島を守る会」を結成して保護運動を前進させ、1980年代に入っていっさいの伐採が禁止された。こうした保護運動のなかで、1981年屋久島杉はユネスコの「生物圏保護区」に指定され、世界遺産登録への第一歩が築かれた。屋久島には、植物ばかりでなくヤクシカやヤクシマザルなどの固有の哺乳類、アカヒゲやヤクシマアカコッコなど絶滅危惧種の鳥類なども生息している。


上記の映像を視聴後は、2月13~22日まで、「モロッコ 7つの世界遺産をめぐる10日間の旅」に行かれたメンバーの菅原勉氏に、体験レポートをしていただきました。7つの世界遺産のうち、2012年に登録された首都「ラバト」以外の6か所 (世界一の迷宮都市「フェズ」、北アフリカのヴェルサイユ「メクネス」、モロッコ最大のローマ都市「ヴォリビリス」、南方の真珠とうたわれた古都「マラケシュ」、イスラムから逃れた人々が築いた要塞村「アイット・ベン・ハッドゥ」イスラムとスペインが混じった白亜の街「テトゥワン」) は、昨年9月の例会で視聴してはいましたが、その現場ばかりでなく、サハラ砂漠をラクダに乗る姿など、間近に撮影された多くの映像による氏の説明は、とても説得力のあるものでした。
(文責 酒井義夫)


「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒