『壱火会』のこと

──その成り立ちと経緯について 

(以下の文は、「壱火会」の世話役を、鴇沢武彦氏とともに長期間担当された竹内 光氏に依頼し、記述いただいたものです) 

『壱火会』といえば、振り返ってみると、きりなく思い出されることがある。




すり切れたような「上智大学新聞学科同窓会・記名ノート」が残されている。表紙には、「58年4月1日・起、No1」と書かれている。「58年」とは、『昭和58年』(1983年)のことだ。この『壱火会』は、毎月のように例会を開いて、なんと363回を数え、分厚い記名ノートは3冊目になっていた。つまり、1年12回の月例会を30年間続いて開いていた計算になる。

新聞学科OBによる『壱火会』を開くきっかけは、昭和17年(1942)に上智大学専門部新聞学科創設10年を記念して「上智報友会」名簿を発行したことに始まるといえよう。少しく、歴史を振り返って、『参火会』へのはなむけにしたい。


● 新聞学科同窓会の活動

大袈裟に云っているのではなく、第2次大戦最中の昭和17年、「卒業生は100人を超え、新聞記者として大東亜建設に奉仕するもの数十名に及ぶ…」ということで、「上智報友会」という学科同窓会を結成しようということになった。

「上智報友会」も例外ではなく歴史に翻弄された。敗戦後の昭和23(1948)年新学制が施行されたのに伴い専門部は廃止となり、文学部新聞学科となった。先輩たちは戦場に散った仲間などの消息を集め、昭和28年に344名に達したところで、「新聞学科同窓会名簿」をガリ版刷りで発行した。報友会名簿企画という同窓会活動開始から10年が過ぎていた。しかし、実を伴った同窓会活動がスタートするには、もう少し時間が必要だった。

新聞科創立30周年を控えた昭和34(1959)年6月11日、まず学科同窓会が結成され総会が上智会館で開かれた。同窓会長には、塚原嘉平治氏(昭和16年卒)を選び、塚原氏ら専門部OBも含めた603名(うち在校生204名)が会員となった。その一方で、新聞学科創立30周年記念式典は、昭和36(1961)年12月2日に上智会館で小野秀雄主任教授を中心に行われた。

新聞学科同窓会は、1961年11月第3回総会を有楽町のニュートーキョーで開き、約150人の会員が出席するという盛会だった。この辺りまでの数年間、同窓会活動は順調だったが、間もなく会費未納会員の増加による財政難に陥った。さらに、70年安保闘争に向けた日本中の大学に学園闘争が頻発し、上智大学も学生運動のうねりに飲み込まれてしまった。この同窓会活動は、昭和40年ごろを境に中断してしまった。大学封鎖を含めご記憶に新しいことと思う。


● 同窓会の再活動と『壱火会』

昭和57(1982)年春ごろから同窓会活動再開の機運が高まった。何度かの準備会が開かれ、11月20日、上智会館で「同窓会再設立総会」を開いた。総会では、「会報」の発行などと合わせ、今後の会員の親睦を深めるための活動の一つとして、昭和58(1983)年4月から、同窓会運営幹事の渡辺秀夫氏(昭和28年卒)が勤務する有楽町のニュートーキョーのザ・ケラーで、『同窓会クラブ』を開くことを正式決定した。

『クラブ』は、①毎月第一金曜日に開く ②飲食代は、各自負担する ③参加者は記名ノートに記帳する… となっている肩の凝らないゆるい組織だった。その1年後の1984年4月から、ニュートーキョー側の都合もあって混雑する金曜日夜を避けて、「毎月第一火曜日に開催することになった。『参火会』の母体となった『壱火会』の活動は、この「『同窓会クラブ』にルーツがあるのだ。

この『クラブ』の第1回の会合の参加者は、12人だった。専門部昭和16年卒という大先輩の塚原嘉平治・新聞学科同窓会会長をトップに、偶然か、語らったのか、鴇澤武彦、植田康夫、越次正隆、小川進、竹内光の5人の昭和37年卒組がいる。また昭和31年卒の最首公司氏が連れてこられた長女(聖心女子大生)が、紅一点で入っている。お天気は、雨だった。

これまで見て来たように、「参火会」の前身に「壱火会」があり、これは「新聞学科同窓会公認」の同窓会活動の一翼を担ってきたのだ。単に新聞科のOBが集まって酒を飲んでいたというのではないことが明らかになったのではないでしょうか。

有楽町のニュートーキョーの一角で始まった「壱火会」活動の中心には、常に同窓会長の塚原嘉平治氏がいた。戦前の昭和16年に専門部卒業して、時事通信社で活躍された大先輩でした。そのころには、時事通信を卒業して、聖心女子大学の広報部長として事務局勤務をしていた。

その上には、昭和12年卒の読売新聞OBの山崎英祐氏も、「壱火会」のよちよち歩きを見守ってくれた。週刊読売編集長だった山崎氏は、日本テレビの長寿人気番組「11PM」が白黒で放送していた初期のころから司会 (今どきならキャスターというのか) を務めた著名人だった。

最低1人から20人を超えるメンバーが勝手気ままに毎月集まる『壱火会』に場所を確保・提供してくれたのは、ニュートーキョーの部長だった渡辺秀夫氏(昭和28年卒)でした。“職権濫用”をも厭わずに新聞科OBのために尽くしてくれた。

こうした大先輩に劣らず、「記名ノート」を用意して記入を頼んだり、初期のころ何かと面倒を見てくれたのが、PR会社を経営していた細谷浩氏(昭和39年卒)だった。事務局長というか世話係というか、余人をもって代えがたかった。

『壱火会』が偶然50回目を迎えた昭和62(1987)年6月の例会では、山崎大先輩の上智卒業50年・金祝のお祝い会となった。雑誌社に入社して2カ月目の最若手のOGも出席していたが、「持って来た名刺が全部なくなった!!」と悲鳴を上げたりしたこともあった。

天皇崩御で年号が昭和から平成に変わった1989年春、塚原会長が、新聞学科同窓会会長を辞任して、再生同窓会2代目会長には、鴇澤武彦氏(昭和37年卒)が就任した。そして平成6(1994)年12月6日が、ニュートーキョーでの最後の「同窓会クラブ=壱火会」開催となった。なんと1983年の第1回開催から勘定して12年後の第140回目の例会だった。
 
年が明けた平成7(1995)年1月10日、新年例会を新装なった「ソフィアンズ・クラブ」で開いた。有楽町のニュートーキョーからソフィアンズ・クラブに例会場を移したのは、上智大学がキャンパス整備計画の一環として、卒業生専用のクラブハウスを新築したからだった。

今はもう取り壊された大学の6号館と7号館の脇で、上智会館に挟まれた300坪ばかりの用地に建っているクラブだった。木造平屋建てといえども、母校の中で卒業生が気楽に集まれる専用施設の開設は、願ってもない有難くうれしいことだった。小さいながらも2室の会議室とバーカウンターのあるラウンジがあり、ウイスキーなどはビンを預けることもできた。ソフィアンズ・クラブでの第1回目例会となる通算第141回の集まりには、鴇澤同窓会長ら13人が参加した。

ソフィアンズ・クラブでの「壱火会」の2回目となる例会(1995年2月7日開催)の記名ノートには、「この前1月17日日淡路島北部を震源地とするいわゆる『阪神大地震』があって、昨日現在で5283人もの方が亡くなった。ここで、こんなことで飲んでいていいのだろうか?」との自省の弁が記されている。出席者は、11人だった。

『壱火会』の長い活動歴の中では、常連だった会員が鬼籍に入ったり、体調不備で“長欠”になったりが、ノートに記されている。平成8(1996)年4月例会の記録には「3月3日に、文新、昭和41年卒の妻・祐子が、帰天いたしました。新聞学科OB、OGの皆様の温かいご厚情に感謝いたします」と鴇澤同窓会長の悲痛な言葉が書き込まれている。

「新聞学科創立50周年」の1982年、休眠状態だった同窓会が“再生”して、塚原会長体制で『壱火会』活動が始まった。そして7年経った1989年、第2代同窓会長は鴇澤氏に引き継がれたのだ。同窓会が結成されて実質的活動を始めてから40周年を迎えた2002(平成14)年に、『壱火会』の母体とも云える同窓会の第3代会長に松本真理氏(昭和49年卒)が就任した。新聞学科の卒業生にも女性が増えてきていることや組織の若返りのために期待された女性会長の誕生であった。

鴇澤体制で40周年を迎えた同窓会は、1982年に第1号を発行した「上智大学新聞学科同窓会報」の完全復刻版330ページを2001年末に発行したことは、エポックメイキングであった。また通常は6ページ建ての同窓会会報が、40周年記念ということで16ページの特別号(第48号)として発行された。その後、松本会長の下で、会報はカラー化が図られたが、第50号の発行をもって、休刊状態に入っている。

この活動休止状況の理由はいくつかあるようだ。まず、松本会長が外資系会社の経営者になって多忙になったこと。同窓会活動の裏方役・事務局長を務めてくれていた鈴木優雅教授(昭和50年卒)が、主任教授・学科長に就任して大学本来業務に専念しなければならなくなったたこと。などなどが重なって、リーダーとして同窓会をひっぱって行く牽引役が不在になったことがある。ということで2014年現在、同窓会活動は、松本会長体制のままでストップしている。その中で『壱火会』活動だけが継続していることになる。


● 懇親会から問題提起型研究会へ

そこで『壱火会』の何があっても休むことのない活動に戻ってみよう。2005(平成17)年3月例会の折に、鴇澤前会長が次のようなノートを残している。「壱火会も今回で262回目の例会となった。262回を単純に1年12回で割ると、21年と8回になる。壱火会は21年続いているわけだ。オドロキダ!! 聞くところによると大学の校舎建設計画が進んでいて、このソフィアンズ・クラブも、今夏で閉鎖されるらしい。壱火会開催が22年目に届くかどうか? ギリギリになるらしいとも…。クラブも新校舎の一部へ移転するらしい」

キャンパスで一番高層な校舎7号館の北側に、地下1階地上5階建ての「12号館」の建設が、鴇澤会長の予想通りに2005年夏に始まった。幸いにもソフィアンズ・クラブは、7号館東にあたるので、今回の新築工事には関係なく、『壱火会』は継続開催となった。最大の関心は、新校舎のどこら辺りに、どんな規模で、新クラブが開設されるかであった。

このころ(2005年)から「壱火会」の活動もいささかマンネリ化してきた。まず、例会出席者が固定化してきているうえ、4,5人しか出席者がいない状況が断続的に6か月ばかり続くこともあった。そこで、単なる《飲み会》を改革しようということなった。

2005年10月例会(第269回)から『新聞を読んで』という大テーマのもと、前月中に月例会ごとの出席予定会員から担当者を決めて、その時々に関心事を時事問題解説的に、噛み砕いて話すことになった。もちろんその後は、自由討議の形を取ることになった。

その最初となる10月例会では、「新聞メディアの将来像」と題して、毎日新聞OBの竹内光が、直前の8月21日に起きた朝日新聞の虚偽捏造記事事件について話した。朝日新聞には時々違法取材や記事を捏造することがあるが、メディアの“自殺行為”であることなどが話し合われた。(韓国の慰安婦問題でもウソ記事を載せ国際問題化して20年以上ほっかむりしていたことが2014年明らかになった事件がある)

その後、「楽天とTBS」問題。ヒロシマ被爆60周年問題。欧州の小国ルクセンブルグのあれこれ。最近のトルコ共和国について。インドネシアの影絵芸術と日本。「ユネスコの歴史と活動」などなどについての報告、問題提起が熱心に行われてきている。

2007年夏、工事中だった上智の新校舎「12号館」が完成した。それに合わせてソフィアンズ・クラブが解体されることになり、一方新校舎のクラブは用意が整わずの状況で2007年9月例会は、臨時休会となった。『壱火会』は、第292回にあたる2007年10月例会から、新クラブで開かれ、今日に至っている。

また、『壱火会』活動に新風をもたらした例会出席会員が報告者になる問題提起型の活動を、さらにニュース性を高めようと、竹内光の提案で、現役記者からの報告・解説を加えることになった。その第1回は第304例会(2008年11月)で、上智OBで、毎日新聞の政治部編集委員から「麻生政権の行方」の解説を聞いた。新聞科OBで広告代理店執行役員の尾崎不二夫氏の「転換期を迎えた広告市場」の話も関心をよんだ。そのほか、毎日新聞政治専門編集委員、サンデー毎日編集長(女性)、女性宮家創設の是非について宮内庁担当の編集委員、東電福島原発事故後には、「原発爆発の悪夢と現実」という題でチェルノブイリ事故現場を見て来た局長記者の報告も聞いた。2013年11月(第359回例会)には、中国の習近平体制について、元中国総局長に話してもらった。

このような紆余曲折、経過を経て第363回の2014年3月例会で、『壱火会』は発展的に解消され、『参火会』へ移行したのだ。この「壱火会」最終回の出席者は、9人だった。有楽町で新聞学科同窓会のクラブとして産声を上げた『壱火会』は、30年余の年月を重ねて新たなクラブ『参火会』に生まれ変わったのだ。


【注】2005年の朝日の記事捏造事件は、郵政民営化法案の可否、成立を巡って小泉首相は衆議院を解散し、総選挙態勢に入っていたときに起きた。朝日新聞記者が、同法案に反対の亀井静香氏が自民党公認を得られないので、田中康夫長野県知事と会談して新党を立ち上げ、総選挙に臨む云々、という記事をねつ造したのだ。政局に直結する二人の会談だけに大騒ぎになった。長野支局の記者が、まったくないことを捏造したことが分かり、当時の朝日社長は辞任する騒ぎにまで発展した。

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