2016年12月14日水曜日

第29回「参火会」12月例会 (通算393回) 2016年12月13日(火) 実施

「現代史を考える集い」 23回目  昭和45・46年 「繁栄と公害の中で」





今回は、NHK制作DVD23巻目の映像──
第3次佐藤内閣成立、政府は日米安保条約の自動延長を声明、日本万国博覧会(大阪万博)開幕、日本製テレビにアメリカがダンピングと認定、佐藤・ニクソン会談で繊維交渉の再開を約束、富士市田子の浦ヘドロ追放の住民抗議集会、東京に光化学スモッグ公害発生、大阪市天六の地下鉄工事現場でガス爆発、赤軍派が日航機「よど号」をハイジャック、瀬戸内海で観光船「ぷりんす」乗っ取り事件、三島由紀夫割腹自殺、日本山岳会登山隊エベレスト登頂、初の国産人工衛星「おおすみ」打ち上げ成功、東京で歩行者天国始まる、沖縄返還協定調印、日中国交回復促進議員連盟訪中、周恩来中国首相が美濃部都知事と対談し保利書簡を信用できぬと批判、中国の国連加盟が決定し国府は国連脱退声明、成田空港用地強制代執行開始、新潟地裁が阿賀野川水銀中毒訴訟で原告に勝訴判決、環境庁発足、新潟県の海岸でリベリアのタンカー座礁、東亜国内航空「ばんだい」函館郊外に墜落、岩手県上空で全日空機と自衛隊機が衝突、連続女性殺人犯大久保清逮捕、横綱大鵬引退、天皇・皇后ヨーロッパ7か国親善訪問に出発、米のドルショックにより東証ダウが史上最大の暴落・為替市場変動相場制へ移行ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いをいたしました。





「この時代の背景」

前回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」と総括し、[やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していった] と記しました。

ところが45年に入ると、3月31日、赤軍派の9人が、日本航空の「よど号」を乗っ取る事件が起こりました。日本の航空史上初のハイジャックで、富士山の上空を飛んでいたとき、犯人グループは機長に日本刀を突きつけて、北朝鮮へ行くように要求。機長は、燃料不足を理由にこれを拒否し、福岡空港に着陸、給油後に病人や老人・子どもら23人を降ろしてから5時間後に離陸します。北朝鮮領内に入るものの、対空砲火やミグ戦闘機の追跡にあって南下し、韓国空軍機の誘導で韓国の金浦空港に着陸しました。平壌空港に着いたように偽装するものの、気づかれてしまいます。犯人たちは3日間機内に立てこもっている時、交渉に当たった山村新治郎運輸政務次官が身代わりの人質になることで乗客全員が解放され、4月3日「よど号」は平壌に向かうことで終結。犯人たちは亡命状態になり、現在に至っています。

こんなハラハラ・ドキドキするニュースがあったいっぽう、昭和45年のニュースといえば、「大阪万博」のことを思い出す人が多いでしょう。3月14日から9月13日まで183日間に万博史上最大の6421万8770人が入場したといいますから、日本国民の半分以上が出かけたはずです。まさにこの「大阪万博」は、昭和元禄の打ち上げともいえるものでした。アポロ11号が持ち帰った「月の石」など宇宙展示でアメリカ館やソ連館に長蛇の列が出来たばかりか、日本の大企業が先端技術を競って展示し「経済大国日本」を強烈にアピールした大イベントでした。

また45年は、70年安保の年でした。あの騒然とした60年安保が何もなければ「自動延長」されることになっており、政府は早々と自動延長の方針を伝えるいっぽう、学生運動が再燃して猛反対が起こり、「60年安保の再現」を予想する声さえありました。ところが、自動延長される6月23日は、反対統一行動の集会に全国各地に77万4千人が集まったにもかかわらず、多少のゴタゴタはあったものの、あっさり自動延長されました。

こんな日本の状況に、怒りを現したのが作家の三島由紀夫でした。「日本の経済は復興したが、敗戦で喪失した日本人の伝統や文化や精神はなんら復興することがない。アメリカに依存するばかりで主体性がなく、金を儲けるだけでいいのか。こんな腑抜けでいいのか」……と。

11月25日のことでした。三島は、主宰する「楯の会」のメンバー4人を引き連れて自衛隊市ヶ谷駐屯地の「東部方面総監室」に乗り込み、益田陸将を監禁し、「檄」と題する6項目の要求書を突きつけました。止めに入った自衛隊幹部ら8名は切りつけられて負傷。三島は庁舎前に、自衛隊員を集め、バルコニーから決起を促しました。

「自衛隊諸君、だらしのない政府に対しクーデターをおこせ。日本精神はどこにあったのか」と叫び、憲法改正・天皇親政の復活を訴えたのです。ところが、隊員たちからは拍手も賛同もないばかりかヤジられたことから、5分後に三島は、総監室にもどり、制服をぬぎ、正座して短刀で切腹します。隊員の森田必勝らが介錯し、森田も三島の後を追って自決したのでした。これが、「三島由紀夫割腹自殺事件」のあらましです。





昭和45・46年を振りかえる時、高度経済発展の代償ともいえる「公害問題」に、政府が重い腰をあげ、ようやく本格的な対策が講じられるようになった年でもありました。

そのころまでに、「4大公害病」というのが発生していて、訴訟がおこされていました。

① 熊本水俣病 (魚を介した重金属中毒で、新日本窒素水俣工場から出るメチル水銀が原因。昭和35年までに死者42人。44年に原告138人が訴訟・判決48年原告勝訴)
② イタイタイ病(富山県神通川流域で、全身の骨がボロボロになる症状。三井金属神岡工業から排出するカドミウムが原因。昭和43年原告33人が訴訟・判決47年原告勝訴)
③ 新潟水俣病 (阿賀野川有機水銀中毒「第2水俣病」といわれ、昭和電工の工場排水が原因。昭和42年原告76人が訴訟・判決46年原告勝訴)
④ 四日市ぜんそく(石油化学産業育成のため、四日市市には石油コンビナートや水力発電所を次々に建設。大気汚染顕在化して気管支炎患者が続出して、45年までに40人以上の死者。昭和42年原告17人が四日市石油など6社に対し訴訟・判決46年原告勝訴)

そして45年の7月18日、東京に光化学スモッグが発生し、杉並の高校女生徒40数人が目やノドの痛みを訴え救急車で運ばれたほか、都内には同様な症状を訴える人が続出しました。「新型複合汚染」で、自動車の排気ガスの中の窒素酸化物が紫外線で化学反応をおこしてオキシダント(強酸化性物質)となり、これが人間の目やノドを痛めることが判明したのは、大きなショックでした。

また、8月11日には富士市公害対策市民協会が、田子の浦ヘドロ公害を大手4製紙会社と知事を告発します。

これらがきっかけになって、「公害国会」といわれる集中審議が行われ、3年前に成立していたもののほとんど機能していなかった「公害対策基本法」大気汚染・水質汚濁・騒音・振動・地盤沈下・悪臭を対象としていた法律の強化・改訂を行いました。

翌46年7月1日には、「環境庁」を誕生させました。厚生省を中心に11の省庁から集められた500人の職員で発足したものでした。初代長官大石武一の初仕事は、尾瀬の自然保護で、「尾瀬・只見スカイライン建設計画」を中止させましたが、経済成長を重視する通産省や経済企画庁と対立。2001年に、環境庁は環境省に昇格するものの、この対立構造は今も続いています。

さらに、46年という年は、「高度成長の終焉を迎える年」だったことを付け加えなくてはなりません。アメリカは、ベトナム戦争介入による軍事費拡大、福祉予算の増加などで、深刻な財政赤字をかかえ、貿易収支も80年ぶりに赤字に転落する異常事態になっていったことが要因でした。

46年8月15日 ニクソン大統領は、金とドルとの交換の停止、10%の輸入課徴金などのドル防衛策を発表しました(ニクソンショック)。この措置は、対米輸出に依存していた日本経済を直撃し、8月28日からは、戦後まもなく1ドル360円に固定されていたドルが、変動相場制に移行し、12月18日にワシントンのスミソニアン博物館で開かれた「スミソニアン合意」により、一挙に円は16.88%も切り上げられ、1ドル308円に確定されます。不況の中での円高を強いられた各界は、「2年分の利益を失う」(造船)・輸出回復の見込みなし」(繊維)など、多くの業界が悲鳴をあげました……。


会の後半は、前回に引き続き、メンバーの向井さん、増田夫妻、竹内氏の「近況報告」が行われました。



「参火会」12月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年11月17日木曜日

第26回「参火会」11月例会 (通算392回) 2016年11月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」 22回目  昭和43・44年 "昭和元禄"





今回は、NHK制作DVD22巻目の映像──
小笠原諸島日本復帰、第8回参議院選挙タレント候補大量当選、皇居・新宮殿落成式、明治百年記念式典、川端康成ノーベル文学賞受賞、オリンピック・メキシコ大会開催、米空母エンタープライズ佐世保に入港、王子・米軍野戦病院設置反対デモ、国際反戦デ―・新宿で大乱闘、イタイタイ病・水俣病など公害病と認定、日本初の心臓移植手術、飛騨川バス転落事故、有馬温泉の旅館火災、金嬉老事件、3億円強奪事件、日大20億円脱税から紛争に、東大医学部闘争(全学無期限スト・入試中止・全共闘安田講堂占拠・機動隊突入)、新宿西口反対フォークソング集会、佐藤首相訪米・日米共同声明、原子力船「むつ」進水、チクロ使用禁止、米アポロ11号月面着陸、東名高速道路全線開通ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いを行いました。







「この時代の背景」

前回の昭和41年・42年を含め、今回の43年・44年も、すべて佐藤栄作内閣の時代でした。昭和39年(1964年)11月、東京オリンピックの閉会を待っていたかのように、病気辞任した池田勇人を引きついだ佐藤は、退任する昭和47年7月まで、7年8か月という日本の内閣史上最長の記録を作りました。

また、この期間は、昭和40年ごろの一時的不況はあったものの、経済成長率10%以上を毎年のように超え、昭和44年末には国民総生産額が62兆円に達して、ついにイギリスや西ドイツを抜いて、資本主義世界ではアメリカに次いで第2位となりました。「いざなぎ景気」に代わり「昭和元禄」が流行語になるほどでしたが、この好況持続の主要因となったのは、アメリカが主導するベトナム戦争の泥沼化による「ベトナム特需」によるものでした。

こうした急速な経済成長に伴って、農村の過疎化や都会の過密化が進み、交通難・住宅難・物価高・公害問題など、さまざまな矛盾が噴出してきました。これに対し政府は、池田時代からのバラマキ政策をとり続け、補助金や公共事業費を支出することによって、これらの矛盾から国民の目をそらそうとしました。また、赤字国債発行の連発で財政赤字を累積させて問題を後に残すなど、大きな禍根を残しています。

こんな高度成長のひずみに、都市住民の不満を背景とした昭和42年の統一地方選挙で、美濃部亮吉革新都知事の誕生など「革新自治体」の拡大につながりました。また、ベトナム反戦運動のさらなる高まりから、昭和43年に入ると、ベトナムへの北爆に参加するアメリカの原子力空母「エンタープライズ」の佐世保入港に対して学生や革新団体などは、激しい阻止闘争を巻きおこましました。

今回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」ともいわれています。「エンタープライズ」反対闘争に続き、王子野戦病院開設反対闘争(43年1~4月)、成田新国際空港反対闘争(42年11月~)、国際反戦デー新宿騒乱事件(43年10月21日)など、反日共系全学連が、これらの運動の中心となって、街頭や現地実力闘争を展開し、いちやく70年安保闘争の主役に躍り出ました。

警察発表では、43年末に全国115大学が紛争状態にあったといい、こんな学生による異議申し立てや反乱は、日本だけでなく、アメリカではベトナム反戦運動、フランスでは「5月革命」(43年5月・カルチェラタン闘争)という反政府運動をリードした他、西ドイツやイタリアなど先進資本主義国でもおこっていました。性格は異にするものの、中国の紅衛兵による「文化大革命」が、国家機構をマヒさせる事態を引き起こしていたのも、世界の流れと見るむきもあります。

日本の「学園闘争」の頂点に立ったのが、「日大闘争」と「東大闘争」でした。当時日大は、10万人の学生を擁する日本一のマンモス大学でしたが、学生の自治活動は、厳しく抑制されていました。それが43年4月に、東京国税庁の摘発によって、20億円の使途不明金が明らかにされると、鎮静を強いられてきた学生たちは、怒りを爆発させ、5月に全学共闘会議(秋田明大議長)を結成させて、学園民主化闘争を開始しました。大学当局との大衆団交を要求したり、各学部がバリケード・ストライキに突入すると、大学側に立って日本刀などで武装した体育会系学生の殴り込みや、再三の機動隊との衝突で数百人もの負傷者・逮捕者を出すなど、他の学園闘争にはない激しいものでしたが、少しずつ一般学生たちの支持を拡大させていきます。

9月30日の両国講堂での全学集会(団交)では、翌朝3時まで12時間にわたる数万人の学生の追及の前で、古田会頭以下、全理事が退陣を表明。これまでの対応を謝罪し、学生自治権の回復、体育会の解散などを約束しました。学生たちは「これで大学は正常化する」と喜んだものの、翌日佐藤首相は、「大衆団交」について「こんな集団暴力は許せない」と発言し、政治問題化します。そして10月3日、大学側は一転して約束を破棄、秋田議長ら指導者に逮捕状が出されました。翌年2月には機動隊を導入してストを解除し、ロックアウトを行い、学生たちから誓約書を取って授業を再開すると、運動は下火になっていきました。

「東大闘争」は、43年1月、「インターン制度」廃止にともなう「登録医制度反対」の医学部無期限ストが発端でした。これに対し医学部当局は3月に17人の学生の処分を発表します。その中の一人がそのころ東京にいなかったのに処分されるという「事実誤認問題」がおこると、学生側は態度を硬化させ、数十人が安田講堂を占拠しました。すると6月、大学当局がこれを排除するため機動隊を導入したことから、紛争はいっきに全学に拡がり、10月には全学部がストに入るという開学以来初となる異常事態となりました。

紛争は長期化し、大量留年、入試中止が懸念されるようになると、事態収拾の動きがではじめ、44年の1月10日には、7学部の学生代表団と大学当局との交渉により、10項目の確認書が交わされました。医学部処分の撤回、大学運営に学生も参加などでしたが、政府はこれに強く反発、この年の入試は中止としました。また、この話し合いに参加しなかった全共闘系学生は、15日に安田講堂をバリケード補強するなど要塞化し、支援する他大学学生や労働者などが立てこもって対決色を強めていきました。





退任した大河内一男学長に代って加藤一郎総長代行は、何度も交渉を重ねたにもかかわらず、話し合いに応じない学生たちの抵抗にしびれを切らし、警察に占拠排除を要請します。こうして1月18日午前7時、機動隊8500人が出動してバリケードの撤去を開始し、工学部・医学部・法学部などにガス銃の一斉射撃・放水をくりかえすと、学生側も投石や火炎瓶などで応戦するものの、昼ごろまでに封鎖は解除されました。

全共闘主力が立てこもる安田講堂に機動隊が突入したのは午後3時ごろで、講堂周辺は4機のヘリコプターから投下された催涙ガスの白い霧に包まれる中、講堂に滝のような放水を浴びせ、学生側は投石と火炎瓶で頑なに抵抗しました。結局、機動隊が講堂最上階の時計台に達し、学生たち全員を排除したのは、翌日の午後5時45分のことでした。この2日間にわたる「安田砦攻防戦」は、全国にテレビ中継され、日本じゅうの人々が衝撃の映像を見続けました。

いっぽう、この攻防戦がつづいているころ、神田駿河台周辺では、中大、明大、日大を中心とした学生たちが、フランスの「バリ5月革命」(カルチェラタン闘争)にならって、機動隊と市街戦をくりひろげ、御茶ノ水駅から神保町に至る道路の一部を封鎖して「解放区」にしていました。

こうした「安田講堂」や「解放区」が解除されて一連の騒動が終わると、大多数の学生を巻き込んだ東大・日大の学生運動は、いっきに下火になるいっぽう、その他の大学では、闘争のテーマは違っても、全共闘は依然として健在で、全国165大学が「バリケード・ストライキ」を行い、11月には佐藤首相が沖縄返還交渉のために訪米する際には、抗議のゲリラ戦を演じて2000人以上が逮捕されたりしました。

やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していったのでした……。

会の後半は、前回に引き続き、メンバーの郡山・岩崎・小田・菅原各氏の「近況報告」が行われました。当時の「上智大学」にも学園紛争があり、日大闘争のような大規模なものではなかったものの、法政大学などの支援を受けた学生によるバリケードストライキ、これに対抗した大学側が機動隊出動を要請してロックアウトするなど、騒然とした一時期があった話には、多くのメンバーの関心を引きました。また、アメリカの大統領選に勝利した「トランプ・ショック」の話にも盛り上がり、今後の「昭和史研究の集い」の後半は、その後の「トランプ・アメリカ」など、話題のニュースをとりあげて話し合いをしようということになりました。


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)



  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年10月20日木曜日

第26回「参火会」10月例会 (通算391回) 2016年10月18日(火) 実施

今回の「参火会」例会は、8月が大学の夏季休暇、9月は台風16号が関東接近のために休会となったため、3か月ぶりの開催となりました。恒例の「昭和史を考える集い」を変更し、メンバーの植田康夫氏が最近出版された『戦後史の現場検証━ルポライターの取材メモから』のお話を聞くことからスタートしました。




この本は、植田氏が大学を卒業後、「週刊読書人」に入社してわずか4年後の1965(昭和40)年に企画、「週刊読書人」に昭和41~43年(3年間)にわたって掲載した松浦総三、青地晨、草柳大蔵、田原総一朗ら第一線のジャーナリスト20名による渾身のルポルタージュ128編を収録した大著 (植田康夫編・創元社刊) です。




はじめに「ルポライターの見た戦後史」として、ルポライターの草分け的存在だった梶山季之と草柳大蔵両氏による対談があり、占領時代の松川事件、60年安保闘争、浅沼事件、東京オリンピックをめぐる裏情報など、「特ダネ」ともいえる内容の数々に、まず驚かされます。

全体の構成は、5章からなり、つぎのような目次になっています。

第1章 戦後理念の揺らぎ
45年(昭和20年)の実像・民主化の陰の人々・消えた民主人民戦線・20年前の保守と革新・戦後財界の黎明・2.1スト中止命令・松川の黒い霧①②③・知られざる言論弾圧①②③・朝鮮戦争と再軍備①~④・レッドパージ①~⑤

第2章 サンフランシスコ講和から血のメーデーまで
昭電疑獄と「中央公論」①②・講和と安保①~⑤・血のメーデー①~⑥・極左冒険主義の陰に①~⑩・「菅生事件」を追って①②・20年代の帰結 青梅事件①②③

第3章 出版界と言論ジャーナリズムの転換
転換するジャーナリズム①~⑭・砂川 そこに戦う人々①~④・長崎国旗事件の背景①②・ミッチ―ブームの裏側①~④・和歌山勤評闘争の背景①②③

第4章 日米安保とジャーナリズムの使命
安保闘争 市民運動の高揚①~⑤・安保闘争 体制側の論理と行動①~⑥・安保闘争 全学連をめぐる混迷・「安保」前後のマスコミ①~⑬

第5章 終わらざる戦後 
三池炭鉱事故の陰に①②・進行する過疎化の実相①②・在日朝鮮人の苦悶①②③・日本の中のベトナム戦争①~⑤・終わらざる戦後①~⑦

タイトルだけ見ただけでも、いかに力の入った企画だったかがわかります。植田氏の、当時を思い出すかのように語る言葉の一つひとつは生き生きとし、特に「松川事件」「下山事件」「帝銀事件」などをめぐる謎の事件が、その裏にアメリカがいたことをにおわす部分など、迫力のあるものでした。そして、連載から50年後にして、創元社の矢部社長という方が、この連載を高く評価し、「今もまったく同じ問題に直面していることに注目」して出版を決意したことも、高く評価したいものです。

それにしても、昨年から『「週刊読書人」と戦後知識人』の刊行、『出版の冒険者たち。(活字を愛した者たちのドラマ)』の出版により、『本は世につれ。(ベストセラーはこうして生まれた)』『雑誌は見ていた。(戦後ジャーナリズムの興亡)』に続く「出版3部作」を完結させ、今回の「日本の今に覚醒を促す」ルポと、立て続けに話題作を連発する姿に、大きな拍手をおくりたいものです。植田氏は、まさに「日本に初めて出版論を学問として確立させた功績者」であり、そういう人物が、私たちメンバーの身近におられることを、誇らしく思います。




その後、メンバーの一人ひとりが、「最近やってきたこと」 「これからやりたいこと」 「今、こころを占めていること」等など……1人3~5分程度の「近況報告」をする予定でした。ところが、鴇沢・反畑・山本・草ヶ谷各氏4名の話をうかがった段階で、時間切れとなってしまい、他のメンバーのお話は、次回以降に順延することになりました。


「参火会」10月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年7月20日水曜日

第26回「参火会」7月例会 (通算390回) 2016年7月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」 21回目  昭和41・42年 「経済大国をめざして」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
全日空機が羽田沖に墜落、カナダ航空機が羽田空港防波堤に衝突・炎上、BOAC機富士山付近で空中分解、YS11機が松山空港沖に墜落、愛知県・猿投町でダンプカーが暴走し園児11人死亡、戦後初の国債上場、世界最大級のタンカー「出光丸」進水、第1回物価メーデー、ビートルズ来日、NHK「おはなはん」放送開始、早大紛争始まる、千葉大チフス菌事件、荒船清十郎急行停車事件、田中彰治代議士恐喝・詐欺容疑で逮捕、共和製糖事件、衆議院「黒い霧解散」、衆議院総選挙・第2次佐藤内閣発足、美濃部革新都政誕生、佐藤首相外遊、佐藤・ジョンソン会談と日米共同声明、第1次羽田事件、吉田茂国葬、中央高速道路が一部開通、四日市ぜんそく訴訟、初の建国記念日……など約50分を視聴後、ベトナム戦争と反戦運動、中国・文化大革命、イスラエル・エジプト6日間戦争(第3次中東戦争)など、激動する世界について話し合いをしました。



「この時代の背景」

昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」は、戦後の復興と先進国の仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。しかし閉会の翌日、池田は病気辞任を発表。これを受けて同じ「吉田学校」の優等生でライバルだった佐藤栄作が首相となりました。

佐藤は、経済成長に全力をそそいでいた池田のやり残した政治・外交問題に取り組み、1965年(昭和40年)に日韓基本条約と付属の協定を結びました。さらに、沖縄の祖国復帰をめざす宣言をして、首相としてはじめて沖縄を訪問しました。高度経済成長も波に乗り、与野党の対立はあるものの大きな政治的な対立もなく、国民も猛烈に働きながら、「昭和元禄」を謳歌する時代でした。

しかし、海外に目を向けると、大きな動きを見せていました。

まず、「ベトナム戦争の激化と反戦運動の盛り上がり」です。そもそもアメリカがベトナムの内戦に介入するきっかけとなったのは、昭和37年(1962年)にアメリカが「南ベトナム」(ベトナム共和国)にベトナム軍事援助司令部を設置し、4千人もの軍事顧問団を派遣したことからでした。これが「北ベトナム」(ベトナム民主共和国)と、そのバックとなっている「ベトミン」(ベトナム独立同盟会・「ベトコン」はその兵士で、「南ベトナム解放戦線」を設立)を刺激し、内戦的なゲリラ戦があちこちで繰り返されていきます。

そんな小競り合いのなか、北ベトナム海域をパトロール中の米駆逐艦に北ベトナムの哨戒艇が攻撃を加える「トンキン事件」がおきました。これに対する報復として、昭和40年(1965年)2月に北ベトナム爆撃(北爆)を開始したアメリカは、重武装の海兵隊を投入し、大戦争に踏み切りました。(のちに「宣戦布告なき15年戦争」といわれる)  これに対抗して、中国やソ連が北ベトナムに大量の軍事物資を供給するなど介入をはじめ、ベトナムは冷戦下にある大国の代理戦争の様相を呈しはじめました。





以来、ジョンソン大統領の人気急落により、昭和43年(1968年)3月に北爆の停止と次期大統領選に不出馬を表明するまで、3年余り続いたアメリカ軍による北爆は、出撃機数26万機以上、投下爆弾16万トン以上(この中には、猛毒ダイオキシンの一種「枯葉剤」や強力な焼夷弾「ナパーム弾」も含まれていた) と大規模なものでした。このアメリカ軍の飛行機は、沖縄をはじめ、佐世保、横須賀、横田、岩国、三沢、相模原など、日本にある軍事施設は、アメリカがベトナム戦争を遂行する上で、不可欠なものでした。

日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立であるわけにいかず、アメリカの政策を支持しつづけました。平和憲法があるため、自衛隊を直接派遣することはなかったものの、日本の産業界は資材や技術などをアメリカ軍に供給することにより、ベトナム特需が産みだされ、日本経済が大いに潤ったのは事実でした。

いっぽう、世界戦争に直結しそうなベトナム戦争に反対する「反戦運動」が、世界各地でおこります。アメリカの反戦運動は、大学から開始され、次第にその規模は拡大され、数十万、全米で数百万人の市民が参加する反戦デモまで組織されました。

日本の反戦運動は、当初は、当時の有力な労働組合「総評」が、ベトナム反戦を掲げてストライキを行いましたが、さまざまな無党派の市民運動が高まりはじめ、その代表といえるものが、1965年4月に発足した「ベトナムに平和を! 市民連合」(べ兵連)でした。

べ兵連の代表は作家の小田実(当時31歳)で、これまでの平和団体と異なり、規約・会員制度・役員選挙もなく、参加する市民の自発性によるユニークな活動を展開しました。この組織はその後の市民運動・NGOなどの原型を築いたものでした。その主な行動は、「反戦徹夜ティーチイン」(「東京12チャンネル」[今のテレビ東京]で放送) を行ったり、作家の開高健が中心となって『ニューヨークタイムズ』への意見広告の掲載、米脱走兵への援助、在日米軍兵士への反戦工作、東京新宿西口地下広場での「フォーク・ゲリラ集会」(毎週土曜日の夜、反戦フォークなどを歌う)など、広範な知識人がこれを支持・参加したほか、賛同する市民によって全国的な拡がりを見せ、各都市、大学、地域にべ兵連グループが作られ、最盛期の数は350を越えたといわれています。

いっぽう、隣国の中国では、昭和41年(1966年)5月に、「文化大革命」がはじまりました。当時の流行語になった「造反有理」は、背くことに理がある、反逆は正しいといった意味で、裏でこの革命を指導していた毛沢東は、中国が資本主義に傾斜することを防ぐには、革命を持続しなくてはならない。革命で新政権を作っても必ず腐敗する。だからまた、革命をつづけなくてはならないという持論を、当時10代の少年少女の「紅衛兵」に吹きこみ、これをを尖兵として、反革命分子を追放、粛清する運動を開始しました。3か月後には、紅衛兵旋風が巻き起こり、赤い腕章をつけたたくさんの中学・高校生らが、大人たちを次々につかまえて、三角帽子をかぶせ、糾弾しました。彼らは「黒五類」(こくごるい=地主・富豪・反動・腐敗・右派分子)と「四旧」(古い文化・思想・風俗・習慣)の破壊をスローガンに、連日連夜市内を駆けめぐり、知識人や市民をつるしあげたのです。毛沢東亡き後、中国近代化の象徴ともなった鄧小平も、つるしあげられた一人でした。こうして、北京を中心に全土で「文化大革命」が、10年もの長期間にわたって続きました。





翌年の昭和42年(1967年)6月5日には、イスラエル軍がエジプトを爆撃する「第3次中東戦争」が勃発しました。イスラエルの飛行機350機が、カイロ周辺にある20か所のエジプト空軍基地を一斉に攻撃し、エジプトの飛行機400機以上を地上で破壊、あっというまに制海権を奪いました。

つづいてイスラエルは、戦車を主力とした部隊を、ヨルダン領の東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの占領下にあったゴザ地域、シナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領しました。あわてた国連は11日、イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンに停戦要求し、双方がこれを受け入れたため大事にいたりませんでしたが、そのまま続けば、「世界戦争」につながりかねなかっただけに、全世界の人たちは、ほっと胸をなでおろしました。

イスラエルはこれを「6日間戦争」と呼んで誇らしげだったのに対し、エジプトとアラブ諸国はにとってこの敗北は大打撃となりました。11月になって国連安全保障理事会は、イスラエルに占領地からの撤退を要請し、中東諸国の主権を承認したものの、紛争の解決にまでは至らず、40万人ものパレスチナ人が難民として故郷を追われました。

またこの年の10月9日に、キューバ革命の功労者であるチェ・ゲバラが、ボリビアで戦死しました。世界革命を信じる人たちにとって、「どこにいようと、死がわれらに不意打ちをかけるなら、それを歓迎しようではないか」というゲバラの言葉は、彼らのスローガンの一つとされ、こんな社会主義革命が世界的に大きな動きとなっていた時代だったといえそうです。



「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒

2016年6月22日水曜日

第25回「参火会」6月例会 (通算389回) 2016年6月21日(火) 実施

「現代史を考える集い」20回目  昭和39・40年 「東京オリンピック」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
新潟地震、東京・品川の宝組化学品倉庫爆発、町田市商店街にジェット機墜落、米原子力潜水艦シードラゴン号佐世保入港、「蜂の巣城」陥落、ミロのビーナス公開、東海道新幹線開業、オリンピック東京大会開催、池田首相辞意表明・佐藤栄作内閣成立、日韓基本条約調印、衆議院で条約を強行採決、ベトナム戦争で北爆開始、ベ平連が初の反戦デモ、佐藤首相沖縄訪問、山陽特殊製鋼倒産、春闘・私鉄24時間スト、慶大・学費値上げ反対スト、東京の公衆浴場一斉休業、福岡・山野鉱ガス爆発、川崎市で土砂崩れ、ライフル銃乱射事件、朝永博士がノーベル物理学賞受賞、南極観測船「ふじ」出航……など約55分を視聴後、高度経済成長の象徴ともいえる東京オリンピック・東海道新幹線開業を中心に話し合いをしました。



「この時代の背景」





昭和39年という年は、何といっても「東京オリンピック」といってよいでしょう。戦後の復興と、先進国への仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。10月10日の秋晴れの下、世界94か国、7492人の選手・役員が参加(史上最高)して、第18回オリンピック東京大会が開幕、7万4500人収容の国立競技場は超満員でふくれあがりました。それから15日後の10月24日夕方の閉会式では、整然とした開会式とはうって変わって、各国選手入り乱れながら、和やかに大会の幕を閉じるまで、多くの国民はテレビ中継にかじりつき、「スポーツの祭典」に酔いしれました。この15日間は、太平洋戦争で孤立した日本が「先進国入り」したことを実感した日々でもありました。選手たちの活躍もめざましく、体操、レスリング、柔道、重量挙げ、女子バレーなどを中心に、金16個、銀5個、銅8個のメダルを獲得。金メダルの数では、アメリカの36個、ソ連30個に次ぐものでした。

また、同年4月1日、日本がIMF(国際通貨基金)の8条国に移行したことで、「円」が世界の主要通貨と交換可能な通貨となり、戦後19年にして欧米主要国と並ぶ世界経済の仲間入りをはたしたことは、経済面でも世界から認められたことを意味していました。同時に、海外渡航が自由化され、これまでは政府関係、企業の業務関連、留学などに限られていた海外旅行が、一般の人たちへ開放されました。4月28日には、OECD(経済協力機構)の21番目の加盟国となり、アジアで唯一、国際社会で一人前の大人の国として認められました。輸入の自由化、外貨導入拡大ができる反面、発展途上国援助など、先進国としての義務と責任を負うことになりました。

9月7日には、IMF世界銀行東京総会が行われ、102か国1800人を前に、池田首相は「所得倍増計画は、国民に自覚と自信を与えた。戦後19年の高度成長で、日本の国民所得は、西欧水準に近づきつつあります。戦前80年でできなかったことを、戦後20年でやろうとしているが、これを可能にしたのは、国民の努力と国際協力である」と、胸を張りました。そして、10月1日には東海道新幹線が開業して、東京━大阪間を4時間(翌年11月には3時間10分)で走り、その9日後の東京オリンピック開幕となったわけです。また、この東京オリンピック開幕にあわせ、首都東京の大改革がなされ、首都高速道路・モノレール・地下鉄(丸の内線・日比谷線・浅草線)の交通網が整備されるなど、直接・間接投資は1兆円といわれる大規模なものでした。

ところが、東京オリンピックの中心となるべき池田首相は、このころガンに侵されて入院し、開会式にも病院から出席する状態で、オリンピック終了の翌10月25日、引退を表明しました。突然のことだったため選挙は行われず、11月9日に自民党両院議員総会で佐藤栄作が次期首相に決まり、同日、池田内閣の閣僚と高度経済成長をそのまま引き継いで、佐藤内閣がスタートしました。





昭和40年に入ると佐藤首相は、池田前首相が意識的に避けてきた政治的な問題への取り組みを開始。1月にケネディ暗殺後にアメリカ大統領を引き継いだジョンソンと会談し、日米間の懸案だった沖縄・小笠原諸島の施政権の問題を解決することを両者で確認しあいました。さらにジョンソン大統領は、経済成長を続ける日本に対し、アメリカの負担を肩代わりすることを求めました。

こうして佐藤首相は、沖縄問題を自身の内閣で解決せねばならないと自覚するとともに、8月には沖縄を訪問し「沖縄が祖国復帰しない限り、戦後が終わっていない」と、国民にもそれをしめしました。また、もう一つの懸案である韓国との国交正常化に取り組み、6月22日に「日韓基本条約」と関係協定、議定書の調印を行いました。これにより、韓国が朝鮮半島唯一の合法政府であることの確認がなされ、協定では対日請求権問題・在日韓国人の法的地位と待遇問題・漁業権問題などで合意し、韓国に対し総額8億ドル(2880億円)以上の経済協力を約束しました。

これに対し、両国とも学生を中心に大規模な反対運動が勃発しました。この条約が正式調印(批准)されると日本・韓国・アメリカの軍事同盟に発展し、アジアの平和安定が乱され、北朝鮮の出方次第では緊張が増すというものでした。両国の国会でも与野党の乱闘騒ぎがおきるものの、同年12月18日にソウルで批准書が交わされ、「日韓基本条約」が正式に成立しました。不人気な佐藤首相でしたが、歴史に残る成果を残すことになりました。

しかし、昭和40年度の補正予算として、佐藤内閣が行った戦後初となる「赤字国債」の発行を閣議で決めたことは、特筆せねばなりません。昭和40年は、急成長の矛盾が初めて表面化した年でもあり、山陽特殊鋼の倒産、山一証券の危機となって現れたことに対し、11月19日、歳入不足分を2590億円の赤字国債の発行で補うことを発表しました。これ以後、国債発行は雪だるま式に増えつづけ、わずか8年後の1973年に100兆円をこえ、現在1044兆円となっている財政赤字の端緒となりました。太平洋戦争中の「愛国国債」の乱発によるインフレの悪夢に難色を示した大蔵省(田中角栄大蔵相)が、押し切られたといわれています。

いっぽう目を外にむけると、昭和39年8月、トンキン湾で北ベトナムの哨戒艇が米国の駆逐艦2隻を攻撃するという事件がおこりました。ジョンソン米国大統領は、議会から、以後の武装攻撃を武力撃退してもよいという権限を与えられました。これに基づきジョンソンは、翌昭和40年2月7日、爆撃命令を下し、米軍の攻撃機70余機は国境を越え、北ベトナムのドンホイにある軍事基地を爆撃しました(北爆の開始)。さらに翌日には、重武装の海兵隊が投入し、以後27か月にも及ぶ、大戦争へ踏み切ったのでした……。

なお、「東京オリンピック」は、メンバー全員にとって、青春時代の大イベントだったことから、当時の思い出話に盛り上がる楽しい会となりました。

また、メンバーの竹内氏から、「参火会」(壱火会) のスタートした母体ともいえる「新聞学科同窓会」が54年の歴史があるにもかかわらず、長く休会状態なのは寂しい限りであること。特に、在校生たちとの交流に先鞭をつけ、新聞・出版・放送・広告の4分野から一人ずつ講師を立て、在校生たちに体験談を語る会は、とてもユニークで、こんな同窓会活動を行う学科は他に類を見ないもの……といった話をうかがいました。多くのメンバーの共感をえて、どんな方法で再活動をするのがよいか、今後の課題とすることになりました。



「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年5月18日水曜日

第24回「参火会」5月例会 (通算388回) 2016年5月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」19回目  昭和37・38年 「先進国への道」





今回は、NHK制作DVD19巻目の映像──
若戸大橋開通、国産機YS11試験飛行成功、北陸トンネル開通、東京都の人口1000万人突破(世界初の1千万都市誕生)、太平洋側の諸都市に連日のスモッグで有害ガス発生、三河島二重衝突事故、京浜運河でタンカー衝突、三宅島の雄山大噴火、堀江青年がヨットで太平洋横断、F・原田がフライ級王者に、IMF8条国移行、黒四ダム完成、鶴見二重衝突事故、三池・三川鉱でガス爆発、吉展ちゃん誘拐事件、狭山事件、草加次郎事件、小さな親切運動始まる、新千円札発行、松川事件最高裁で無罪確定、吉田石松さんに無罪判決、プレオリンピック開催、大鵬6場所連続優勝、初の日米宇宙中継でケネディ暗殺を受信……など約52分を視聴し、東京オリンピックを翌年にひかえた時代を、資料を見ながら振り返りました。


 「この時代の背景」

安保・安保で日本じゅうが揺れ動いた昭和35年の前半でしたが、国民の大反発にあいながらも、新安保法案を自然成立させたことで、使命を終えた岸信介が退陣を表明。自民党総裁選に勝利した池田勇人は、鳩山・岸と続いた改憲・再軍備路線から、軽軍備・通商国家路線に切り替え、同年の年末に所得倍増計画を発表しました。

「経済成長率を年平均7.9%とし、今の国民総生産(GNP)13兆円を10年後に26兆円にします。そうすれば、今約10万円の国民所得は、倍の20万円になります。私はウソを申しません」━━この池田のスローガンは、その後長く続く、日本の高度成長の幕開きとなりました。

ただし、池田首相になってから急に高度成長がはじまったわけではなく、昭和30年ころから2年間ほどは「神武景気」といわれる好景気があり、33年は「鍋底景気」という不景気になるものの、34年ころからは「岩戸景気」といわれ、実質経済6%以上の成長をとげていました。そんな好景気を背景に、安保闘争でデモに励んだ人たちは、これからは懸命に働けば経済的利益が得られ、欧米並みの豊かな暮しができると、池田スローガンにあわせて、がむしゃらに働きはじめました。





こうして、昭和37年からの池田の高度経済成長方針は、重化学工業を中心とする工業化と都市化を本格化させ、それに必要な労働力を農村から都市へ吸引する政策を進めました。戦前の農林業の就業者が全就業者の50%以上だったのが、昭和37年には29%以下となり、その後も急速に減っていきました(昭和40年には25%)。農村の中学卒業生は「金の卵」といわれ、大企業が集団的に採用。農村の働き手の中心だった壮年男子まで都市へ出稼ぎに出かけたため、農業は、じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの「3ちゃん農業」が一般的になりました。

いっぽう目を世界に向けると、東西の冷戦が衝突しました。昭和37年10月に起こった「キューバ危機」は、世界中を震撼させました。3年前に成立したカストロの革命政府にソ連が船で核兵器を持ちこもうと、ミサイル基地をつくっていることが、空からの偵察機の航空写真で確認されたのです。もし出来てしまえば、キューバ西部からフロリダ半島まで200kmしか離れていないため、アメリカには防御の方法がありません。10月22日、ケネディ大統領は「キューバへ武器を運べぬよう、交通遮断を行う」と海上封鎖の声明をだしました。さらに、「航行中のソ連船が停船命令を拒否すれば撃沈する」といい、もしこれが起きれば核による世界戦争となり、地球滅亡の危機となります。ケネディ米大統領が、ソ連に対し「24時間以内にミサイルを撤去するか、もしくは戦争か」とせまると、フルシチョフ首相は、アメリカのキューバ不可侵を条件に、ミサイルの撤去と国連による検証を提案。ケネディが海上封鎖を解除することを言明したのは、6日後の28日のことでした。





このキューバ危機回避のあと、ケネディとフルシチョフに友好ムードが高まり、翌昭和38年8月5日に、イギリスを含めた「部分的核実験停止条約」(大気圏内、宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約)に調印をしました。これには米ソ両国とも、猛反対する人たちがたくさんいましたが、両首脳は核戦争が起こらないようお互いに協調することを誓い、冷戦状態をなんとか収める外交努力をしたことは、大いに評価されるところでしょう。

ところが、翌年の東京オリンピックの中継準備として同38年の11月22日に、日米間にテレビ宇宙中継実験放送が行われて成功したものの、その一報がなんと「ケネディ大統領暗殺」という衝撃的ニュースでした。テキサス州ダラス市内をオープンカーでパレード中、何者かに狙撃されたのでした。FBIと地元警察は、ただちにオズワルドを容疑者として逮捕するものの、2日後には容疑者も護送中に射殺され、事件の真相は不明のままとなりました。





この年に特筆されるのは、アメリカの環境汚染の危険を告発したレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が、全米のベストセラーとなったことです。この本は、春になっても鳥の声が聞かれないのはなぜ? という疑問から、DDTなどの農薬が自然を破壊している実態を4年にわたる厖大な資料の検討と調査に基づいて著したもので、大統領の科学諮問委員会もこの内容を評価して危険な農薬禁止につなげました。のちに、カーソンに刺激された作家の有吉佐和子が『沈黙の春』の日本版ともいえる『複合汚染』(1974年)を著し、ベストセラーとなっています。

高度成長の光の裏側にある影の部分として、日本でも、海や河川の汚染が問題になり、特に水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病の報道がされはじめたのもこの時代からでした。





メンバーの植田康夫氏が最近、現代の出版界を読み解く3部作の最終版「出版の冒険者たち。活字を愛した者たちのドラマ」を上梓されました。ポプラ社、二玄社、小学館、大修館書店、冨山房、暮しの手帖社、農山漁村文化協力会の7社を取材した力作で、「雑誌は見ていた。雑誌ジャーナリズムの興亡」「本は世につれ。ベストセラーはこうして生まれた」に続く完結編です。

そこで今回は、植田氏にこの本が生まれたいきさつを語っていただきました。特に、思い入れの強かったポプラ社に力点がおかれ、終戦後まもなく世田谷の4畳半の部屋で一人の青年と小学時代の恩師との出会いから生まれたこと、苦境に陥ると書店回りを積極的に行い、売り込むだけでなく市場の情報を集めて出版企画につなげたこと、図書館が整備されると聞くと図書館に参入するための本づくりをし、2002年に「総合的な学習の時間」ができるという情報から「ポプラディア」という百科事典を作りあげて大成功をおさめるなどの話を語っていただきました。



「参火会」5月例会 参加者

 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年5月2日月曜日

第23回「参火会」4月例会 (通算387回) 2016年4月19日(火) 実施

臨時会 「東日本大震災 被災地を巡って……」

2011年3月11日におこった「東日本大震災」から5年が経過しました。
この大震災は、日本人とくに東北・関東に住む私たちにとっては、一生のうちでも、最も強烈な体験であり、印象に残る大事件のひとつだったと思われます。

当日、リポートしてくださったメンバーの山本明夫氏にとっても、人一倍関心のあるテーマで、だからこそ、発生から2年半後、3年後、5年後の今回と、3度にわたって被災地の三陸・福島訪問という行動をおこされたのでしょう。

そこで今回は、会場での山本氏のリポートを再現していただきながら、特に訴えたいこと、現地を訪問しなくてはわからないこと、今後も被災地を見つめ続けることの大切さなどをつづってもらいました。





「東日本大震災 被災地を巡って……」 山本明夫氏 (71文新卒)

2011年3月11日には、私は赴任先の宮崎市にある大学研究室でテレビの国会中継を聞いていました。委員会室が大きく揺れる様子が写しだされ、緊急地震速報のチャイムが聞こえたため、急いで録画を始めました。

まず皆さんに見ていただくのが当日の津波の様子を伝える映像です(15分間)。
中継映像を見つつ鳥肌が立ち背筋が寒く震えたのを、つい最近のことのように覚えています。

次に、被災地の中で私が関心を持って訪れている女川(宮城県)、釜石(岩手県)、富岡町(福島県)の震災後の5年間の映像を見ていただきます(11分間)。





こうした被災地への訪問を続けていると、復旧・復興の様子がそれぞれの場所で違っていることがわかります。その中で、2013年秋に訪れて以来疑問に思っていることは“土地のかさ上げ”と“防潮堤”の復旧のあり方です。

ふたつとも国の取り組みはとても早いものでした。災害列島日本の政府は、こうした事態への対応に慣れているのかもしれません。しかし現地に入ってみると、「大津波被害をこれで本当に防げるのか?」という疑念が湧きあがってきました。そして、地元の人たちから話を聞くとその置かれた立場によって人さまざまな反応が返ってきます。人命を第一に思う人、生活基盤を優先する人……。

復旧を急ぐ官庁の担当者たちは、そうした人々の声を十分に聞いているのか? 多分そうではなく、過去の経験則を基に復旧工事を急いでいるのだろうと推測できるのです。

市街地再建にしても、まず道路がつき電柱が立ちます。しかし訪れるたびに移設が行われているのに気付きます。建物はすべて流されているのですから、幹線の上下水道や電気・ガスなどのインフラの整備をまず整えてから道路をつければ、掘り返しなどの二度手間が省けると思うのですが、そうはなっていません。荒涼とした土地に電柱が林立する様子は「住む人が復旧の中心に居ない」という印象を強く受けました。

防潮堤についてお話しします。国は海岸線400kmにわたって7~10mを超えるものを整備するとしています。しかし既に多くの関係者から指摘のある通り、「海沿いでありながら海の見えないところに住まうのか?」「今回も海が見えないために住民の避難が遅れた」などの問題が横たわったままになっています。

これに対して上智の卒業生でもある細川護煕さんや元横浜国大教授の宮脇昭さんなどが設立した「森の長城プロジェクト」は、震災瓦礫を海岸線に沿って高さ5m程に積み上げて盛り土をし、そこにドングリの生る常緑樹を植えて防潮堤の代わりとするものです。松などは根を横に張るため津波の直撃を受けると横に倒れてしまいますが、ドングリの生える植物の多くは根を縦に深く張るため津波の直撃を受けても倒れずにしなるようにして力を弱められると見られています。仙台市の南の岩沼市や福島県の南相馬市などで3年前に植えられた50cmほどの苗は地元の高校生や関東地方のボランティアの手入れもあり、すでに人の背丈を超えるほどに成長しています。

この森の長城は、単に津波を和らげるだけでなく公園としての役割も果たして、景観に溶け込んだ自然豊かな海辺のリクリエーションゾーンとして期待されています。こうした運動が、なぜ国の施策として実施されないのか不思議に思います。

また、女川町では浸水地域のかさ上げとともに新しい街づくりに着手しています。ここで注目するのは単なるかさ上げではなく、港から奥に向かってなだらかな傾斜地を造成したことです。日常では女川駅や商店街から海が見られますが、いざという時にはこのスロープを上って高台に避難することになります。日常性と減災対策の両立を取り入れた復興事業だと思います。かさ上げに用の土砂を削り取って出来た土地は住宅地として整備されると聞きました。

被災地を巡って感じることは、避難した人たちの帰還が進んでいないということです。地元の商業者は、なんとかして元の状態に戻したいと歯を食いしばって再建に取り組んでいるようですが、肝心の住民の減少が大きなネックとなっています。夜などは本当に「火の消えた町並み」で、被災地域の厳しさが迫ってきます。

私たち遠方の者たちには「千年に一度の未曾有の災害」を受けた人々に何ができるのか問われていると思います。さりとて妙案も出てこず、私としては被災地を巡ることによって人々の思いを聞き、声を掛けるとともに地元の旨いものをいただくことによって、多少とも力添えになるのではないかと考えており、今後も訪問を続けようと思っています。
 


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年3月16日水曜日

第22回「参火会」3月例会 (通算386回) 2016年3月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」18回目  昭和35・36年 「安保闘争と高度成長」





今回は、NHK制作DVD18巻目の映像──
岸首相訪米・新安保条約に調印、自民党が新安保条約と会期延長を単独強行可決、安保阻止統一行動、ハガチー事件、全学連が国会突入し東大生樺美智子死亡、新安保条約自然承認、浅沼社会党委員長刺殺される、三井三池大争議、チリ地震三陸海岸に大津波、浩宮徳仁親王誕生、皇太子夫妻がアメリカ訪問、オリンビック・ローマ大会開催、池田勇人内閣成立、所得倍増計画発表、池田・ケネディ会談、第1回日米経済委員会開催、ソ連工業見本市にミコヤン副首相来日、北陸に豪雪、大阪釜ヶ崎で暴動、嶋中事件、三無事件(池田内閣要人暗殺計画発覚)、ソ連がヴォストーク1号打上げ成功、シベリア墓参団出発、全国一日一斉休診、小児麻痺大流行で生ワクチン輸入、文部省高校生急増対策発表、大相撲・柏鵬時代へ、日紡貝塚バレーボール部がヨーロッパ遠征で24戦全勝、余暇ブーム……など約50分を視聴後、新安保条約を中心に話し合いを行いました。






 「この時代の概要」

昭和35年1月19日、岸信介首相は、ワシントンでアメリカとの「安保改定(新安保)」の調印式に臨みました。前年10月までに、藤山外相とダレス国務長官とのあいだでの下固めもあり、ほぼ問題なく調印を終えました。新安保が以前のような、アメリカが日本防衛の義務のない、また期限もない、アメリカ側に都合のよいものでなく、「極東における国際平和・安全の維持、共通の危険に対処するため、日本は、軍隊を持たない・戦争はしないという憲法の制約の中で、アメリカに協力する。アメリカは日本を完全に守る」というもので、期限についても「当初10年の有効期間(固定)が経過した後は、1年前にどちらかが予告することにより、一方的に破棄できる」とし、過去にあるさまざまな条約改定と比べても、遜色ないものでした。

ところが、批准(承認)のために2月初めからの議会で、与野党の対決がはじまると、事態は一変。その後の半年間は、国論は真っ二つに分かれて日本社会を揺さぶりつづけ、まさに「安保」「安保」の半年間となりました。そのきっかけは、日米が協力しあう地域「極東」(far east)は、どの範囲をさすのかというものでした。「朝鮮半島と日本だ」「中国と国民政府(台湾)も入る」など、さまざまな議論が噴出すると、岸首相は「フィリピン以北、日本周辺」(2月8日答弁)、「北千島は含まず、金門島・馬祖島(台湾の中国よりの島)は範囲」(2月10日答弁)に対し、自民党内非主流派は「金門・馬祖は除外せよ」と、自民党内も一枚岩ではなくなってきました。

いっぽう、前年3月には、社会党と総評(連合の前身)を中心に、原水爆禁止日本協議会、憲法擁護国民連合など134団体が加盟する「安保条約改定阻止国民会議」(国民会議)が結成されていました。これらの団体は、新安保が成立すれば、日本側は自衛隊の増強を強いられ、極東有事の際には自衛隊が在日米軍と協力して、アメリカが引き起こしたアジアの戦争に日本も協力せざるをえないことになる。日本人は、再びアジア人と戦火を交えていいのか、さらにそれが日本を核戦争にまきこむ可能性だってあるという考えが共通の認識でした。この運動は、同年4月の第1次統一行動では全国で1万人ほどだったのが、6月の第3次統一行動では10万人に達すると、新聞テレビのマスコミでも積極的に報道されるようになり、大学人や文化人の啓蒙活動も活発化、さらに12月には、全国学生自治会総連合(全学連)が安保闘争に加わりました。

国会では、先の「極東」の範囲などをめぐり、社会党の猛反対など議論ははてしなく続きます。議論が重なるごとに条項の不備が指摘されてもめ続けるうち、6月19日に新安保の日本批准を見込んで、アメリカのアイゼンハワー大統領(アイク)の訪日が決定しました。条約というのは、衆議院を通過させれば、参議院の議決がなくても、30日後には自然成立することが憲法61条に規定されています。そのため岸首相は、5月19日までに衆議院を可決させなくてはなりません。しかし議会は紛糾して、そんな状況にならないまま5月19日をむかえました。一刻も早く国会審議を打ち切ろうとする岸内閣に対抗し、野党は、衆議院議長清瀬一郎を議長室におしこめて審議をさせない作戦。当日夜10時過ぎ、自民党は本会議開会を知らせる予鈴を鳴らして、安保特別委員会を開きました。そして、野党欠席のまま政府と与党だけで委員会を通し、本会議を開くために警察官500人を導入して、議長室前でスクラムを組む野党議員一人ひとりを排除して議長を衆議院議長席に座らせ、この重要法案をわずか数分で強行採決させたのでした。





この暴挙に、マスコミ全紙は「議会制民主主義の危機」と問題化し、総評は岸内閣を「ファッショ的」と断定、国民会議は「30日以内に国会解散を勝ち取れば新安保批准を阻止できる」と最後の盛り上げをはかり、全学連ら学生や一般市民までがいっしょになって、未曾有のデモ隊が国会議事堂を取り囲みはじめ、戦場さながらにした安保騒動が始まりました。さらに、雑誌「世界」に掲載された清水幾太郎の「今こそ国会へ請願のすすめ」という論文が話題になりました。全国の国民が1枚の請願書持って議事堂を取り巻き、その行列が途切れなかったら、新安保の批准を阻止し、議会政治を正道に戻せるというものでした。これが大評判となって、5月から6月にかけて全国各地の人々が毎日数万人の請願デモが国会へ押し寄せました。特に条約自然承認直前の6月15日から18日にかけては、全学連や労働組合のデモ隊が議事堂を取り囲みました。特に6月15日の夜には、構内に突入したデモ隊と警察官が激突。東大生樺美智子が死亡した他、重傷43名を含む数百人が負傷する大惨事となりました。後でわかったことですが、6月15日に岸首相は、赤城防衛庁長官に自衛隊の出動を打診、赤城は「戦車や機関銃を装備する自衛隊が出動すれば、デモは革命的に全国へ広がる(内乱の危機)」と拒否。そのため、岸は16日にアイク訪日を断る決断をせまられ、閣議決定されました。こうして、6月23日、目黒の外相官邸で批准書が日米で交わされ、その後まもなく岸首相は退陣を表明したことで、安保騒動は一気に終焉しました。

昭和35年7月19日、自民党内の総裁戦に勝利した池田勇人が首相になると、「国民の所得を10年で倍増させる」と打ち出したことで、大風呂敷と揶揄されながらも、12月27日に閣議決定されました。まさにこれが、日本の高度成長の幕開けとなったのでした……。

なお、この時代になると、ほとんどの参加者は高校生以上となり、中には大学を卒業して社会人になった人もいて、それぞれの立場から安保騒動とどう向き合ったかが語られる、印象深い会となりました。



「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒

2016年2月17日水曜日

第21回「参火会」2月例会 (通算385回) 2016年2月16日(火) 実施

「現代史を考える集い」17回目   昭和33・34年 「消費革命の時代へ」





今回は、NHK制作DVD17巻目の映像──
藤山ダレス会談、警職法改定案国会提出、和歌山で勤評阻止全国大会、「売春防止法」施行、のちの「水俣病」報道、本州製紙に漁民乱入、紀州沖で「南海丸」沈没、阿蘇山大爆発、狩野川台風襲来、関門国道トンネル開通、特急「こだま」運転開始、大相撲6場所制に/栃若時代、西鉄が日本シリーズで巨人に逆転優勝、1万円札発行、トランジスターラジオ普及、東京タワー完成、皇室会議・皇太子妃に正田美智子を承認、ミッチ―ブーム、皇太子ご成婚、馬車パレード、清宮貴子婚約発表、安保改定交渉再開、安保阻止国民会議ほか国会構内に入る、砂川裁判に伊達判決、浅沼社会党訪中団長「米帝国主義は日中共同の敵」と演説、民主党結成へ、岩戸景気による消費革命・農村へも波及、伊勢湾台風襲来、次回(第18回)オリンピックが東京に決定、巨人・阪神戦の天覧試合、児島明子がミス・ユニバースに、四国ブーム、自動車・オートバイ普及……など約55分を視聴後、ミッチ―ブーム・大衆社会とマスコミ文化を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

憲法改正、再軍備政策を進めたい岸信介首相は、もう一つの目的である、不平等な「日米安保条約」を改訂し、対米平等の立場を確固たるものにし、軍事大国をめざす──。この信念を、昭和33年に入っても変えませんでした。

3年前(昭和30年2月)の総選挙以後、鳩山・石橋・岸と3つも内閣が交替しながら、一度も国民に信を問うことがなかったことで、議会に解散の声が高まってきました。岸は解散は抜き打ちでやるべきではないと、社会党の鈴木茂三郎党首と会談し、「話し合い解散」を決めました。こうして、5月22日に衆議院選挙が行われます

その結果、自民党287人(選挙後11人入党)、社会党166人(選挙後1人入党)ということで、安定多数は保ったものの、憲法改正に必要な2/3にはほど遠いものでした。そこで第2次岸内閣は、「安保改定」に目的をしぼりました。しかし、これまでの低姿勢とは打って変わって高姿勢で臨み、閣僚もアメリカとの交渉を進めてきた藤山愛一郎外務大臣以外は総入れ替えし、主流派で固めました。そして、安保改定への動きを始めれば、反対勢力が立ちふさがるのは目に見えるため、その勢力を抑え込もうと、その第1弾として「日教組」への攻撃を開始します。当時「日教組」は、政府が打ち出した「勤務評定」(勤評)問題や、道徳教育の実施促進に大反対し、8月15日には、総評も支援した勤評反対・民主教育を守る全国大会を和歌山で開催。9月15日には、勤評反対全国統一行動をおこすなど、これが父兄を巻き込んでの大騒動となり、教育問題が政治問題化していきました。

そうした混乱がさめやらぬ10月8日、政府は突然、反対勢力抑え込みの第2弾となる「警察官職務執行法(警職法)改正案」を国会に提出しました。その内容は、警察官の権限を大幅に強化するもので、警察官の職務質問や所持品調べ、土地や建物への立ち入り、逮捕状なしで留置を可能にすることなどが含まれていました。戦前・戦中派は「オイコラ警察の復権」を危惧し、新憲法の人権尊重がすでに定着してきた戦後派世代からは、「デートを邪魔する警職法」と、私生活を脅かされるのを懸念しました。社会党、総評を中心に「警職法改悪反対国民会議」が結成されると、イデオロギーを越えて広範な反対運動が展開されました。以来、日本じゅうが「警職法」騒ぎに明け暮れ、国会も大荒れとなって、成立に執念を燃やしていた岸内閣もついに断念、11月22日、改正案は審議未了で廃案となりました。

そんなギスギスした世の中に、この騒ぎを鎮静化する話題が登場しました。「皇太子の婚約発表」です。皇太子妃候補の正田美智子さまが初めての「平民」だったこと、軽井沢のテニスコートでのロマンスなど「自由恋愛」を強調するマスコミ報道で、美智子さまはいちやく「昭和のシンデレラ」として国民の人気の的になり、「ミッチ―ブーム」がおこりました。





こうしてマスコミ報道は、皇室関連ニュースに占拠され、政治関連ニュースは片隅に追いやられていきました。そして翌昭和34年4月10日、盛大な「ご成婚式典」と「野外パレード」は、テレビ生中継され、この「世紀の祝典」の視聴者数は推定1500万人といわれ、「マスコミ文化」の中心は「テレビ」が主導するきっかけとなりました。

テレビは、昭和28年2月にNHKが放送を開始したものの当初は1000台弱、翌月でも企業をふくめ1500台足らずでした。同年8月に日本テレビ放送網(NTV)が開局して民間テレビ放送も始まりました。日本テレビは大型の受像機を全国の広場や街頭に設置して普及をはかり、力道山のプロレスや大相撲中継などスポーツが中心で「街頭テレビブーム」をおこすものの、高価だったため、一般家庭への普及にはいたりませんでした。それが皇太子の婚約二ュースが話題になりだした昭和33年末には100万台を突破、「ご成婚式典」時には200万台に達し、その半年後には300万台を越え、1~4月までにフジ、毎日など民間放送局14局が開局して「テレビ時代」に突入していきます。

もうひとつの「マスコミ文化」の大きな変化は、出版社系週刊誌の隆盛でしょう。週刊誌は戦前から続く『週刊朝日』『サンデー毎日』の2誌に加え、昭和27年に『週刊サンケイ』『週刊読売』が加わりました。昭和29年に初めての出版社からの週刊誌『週刊新潮』が新潮社から創刊され、五味康祐の「柳生武芸帳」と柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」の2大連載小説が大ヒットしました。昭和32年から33年には、『週刊女性』(主婦と生活社)、『週刊明星』(集英社)、『週刊大衆』(双葉社)、『週刊女性自身』(光文社)が創刊し、昭和34年には『週刊文春』(文芸春秋社)、『週刊現代』(講談社)、『週刊コウロン』(中央公論社)などが登場、テレビとともに日本文化をリードしていくのでした。

ご成婚も無事にすんだ昭和34年6月、岸首相もそろそろ本格的に動き出し、6月2日に参議院選挙が行われました。自民党は改選前より5つの議席を伸ばし、計132議席の安定多数を獲得したことで自信をとりもどし、10月には、党内で安保改定案のとりまとめを行い、翌年1月にワシントンで行われる「安保改定調印式」にそなえるのでした……。


「参火会」2月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年1月20日水曜日

第20回「参火会」1月例会 (通算384回) 2016年1月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」16回目  昭和31・32年  "もはや戦後ではない"





今回は、NHK制作DVD16巻目の映像──
日ソ交渉妥結、新教育委員会法案審議で参院大混乱の上に法案成立、鳩山内閣総辞職・石橋湛山内閣成立、日本国連に加盟、弥彦神社の初もうで大惨事、魚津市で大火、参宮線列車脱線、第7回冬季オリンピック(コルチナダンペッツォ)で猪谷千春銀メダル、メルボルンオリンピック開催、イタリア歌劇団公演、経済企画庁「経済白書」発表、大阪の通天閣再建完成、第1次南極観測船「宗谷」出発、最後の引揚船「興安丸」舞鶴港に入港、英・クリスマス島で水爆実験、石橋内閣総辞職・岸信介内閣成立、岸首相訪米に出発、日米共同声明発表、米駐留地上軍撤退開始、相馬ヶ原演習場ジラード事件、「第5北川丸」座礁転覆、谷中五重塔で放火心中、天城山心中事件、南極観測隊オングル島上陸、東海村に原子の火ともる、国産ロケット1号打ち上げ、ソ連人工衛星1号打ち上げ成功、国際ペン大会開催、ボリショイ・バレー団公演、カナダ杯ゴルフで中村寅吉優勝…など約50分を視聴後、日ソ国交回復、日本の国連加盟を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

昭和29年12月、ついに6年2か月(通算7年2か月)続いた吉田ワンマン内閣が退陣しました。吉田内閣の退陣は、同時に戦後期の終焉を意味していました。このころから、ようやく復興を遂げた日本経済は、昭和30年後半からアメリカの景気回復に支えられた船舶輸出などで貿易黒字は5億ドルに達し、空前の大豊作もあって好景気(いわゆる神武景気)をむかえ、ほとんどの経済指標は、戦前の水準を突破しました。翌昭和31年7月に発表された経済白書は「もはや戦後ではない」とバラ色の展望をしめしました。

政治面では、追放を解除された戦前政治家を中心とする鳩山一郎内閣は、「憲法改正・再軍備」を公然と進める保守路線を掲げ、昭和30年2月選挙で、鳩山一郎の「日本民主党」が第1党となりました。これに対し、平和を守り、憲法を擁護しようとする運動も高まり、この選挙では左派社会党が大躍進するなど、護憲派が、憲法改正阻止に必要な議席1/3を確保したばかりか、左右両派社会党統一の機運が高まり、昭和30年10月に4年ぶりに再統一をはかりました。

財界に危機感を与えたことから、同年11月15日「自由党」と「民主党」が保守合同して「自由民主党」(自民党)が結党され、これはのちに「55年体制」とよばれ、この「自民党」と「社会党」2党体制は、1993年まで38年も続く政治システムを形成したのでした。

「憲法改正・再軍備」という目標が困難とみた鳩山一郎は、第2の目標だった「対共産圏外交」特にソ連との国交回復に目を向けました。ソ連は、講和条約までは代表部が日本に駐留し、独立後も残留していました。鳩山が日ソ講和をめざしているのを感じたソ連代表部主席ドムニツキ―は、昭和31年1月、秘かに鳩山を訪問し「日ソ国交正常化文書」を手渡しました。

いっぽう、同年2月24日、フルシチョフ第1書記が、第20回ソ連共産党大会最終日に、4時間にわたるスターリン批判の演説を行い、その権力欲と粗暴な性格を暴露しました。これは、自分たちがもはや秘密国家でなくなったことを国際的に示したものでした。(演説内容は6月4日、アメリカ国務省が全文を発表)これをチャンスとみた鳩山は、4月に北洋漁業で日ソ間でもめている問題を解決させようと河野一郎農相をモスクワへ送り、7月には重光葵外相をモスクワにやって、国交回復交渉を詰めさせました。懸案は、領土問題でした。ソ連側は歯舞、色丹のみの返還を提案したのに対し、日本側は国後、択捉を含めた4島返還を主張したことで暗礁にのりあげました。しかし、いずれ平和条約をを締結したときは、歯舞、色丹を返還するので、国交回復の共同宣言に合意しないかという提案を受け、同年10月鳩山・河野を全権代表とする代表団を自ら作り、「日ソ国交回復の共同宣言」の調印にこぎつけたのでした。




この共同宣言には、① 戦争状態の終結  ② 大使の交換 ③ 抑留者の送還 ④ 漁業条約締結 ⑤ 日本の国連加盟支援 とあり、その結果、12月18日には、日本の国連加盟案を国連総会が全会一致で可決し、めでたく80番目の「国連加盟」が実現しました。こうして、日本は「戦争犯罪国」から脱し、完全に国際復帰することができました。これはまた、貿易拡大を中心とする日本経済の高度成長への道を拓くものでした。




鳩山は、帰国と同時に、これらの成果を花道として退陣を表明。ここから、自民党内で、だれを次期総理にするかが大問題となりました。その混乱の中で、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3人が候補になり、決選投票で258対251票の僅差で石橋が岸に勝利し、12月23日に、石橋内閣が成立しました。石橋湛山といういう人物は、ジャーナリスト出身の剛毅な性格の持ち主で、東洋経済新報社長だったことから経済に強く、池田勇人を蔵相に起用して「積極財政」を表看板に掲げた政権でした。ところが、張り切り過ぎた石橋は、過労で倒れてしまい、当分静養が必要との診断に「議会の最重大な国政審議に出席できないのは総理大臣の資格はない」と言い張って辞任してしまいました。

昭和32年2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形で、岸信介内閣が成立しました。岸は、鳩山以上の憲法改正・再軍備論者で、「戦前の大日本帝国の栄光をとりもどせ」が持論でした。当初は、鳩山や石橋のようなブームらしきものが起こらなかったため、低姿勢でしたが、5月7日の参院内閣委員会で「憲法は、自衛のための核兵器を禁ずるものではない」と発言し、社会党は内閣不信任案を提出するほどでした。防衛問題にも積極的で、6月に国防会議が提案した、陸上自衛隊18万人増強などの「長期防衛計画」を即座に承認し、7月にはこれを手土産に訪米、アイゼンハワー大統領やダレス国務長官と会談して、「日米安保条約早急改定」など、「日米新時代」を主張しました。こうしたやり方は、平和護憲勢力との対立をますます激化させるもので、経済発展により国民生活は向上するものの、保守と革新、改憲と護憲、再軍備と平和などをめぐる国内の対立と緊張が高まっていく、そんな時代となっていきました。



「参火会」1月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒