2016年1月20日水曜日

第20回「参火会」1月例会 (通算384回) 2016年1月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」16回目  昭和31・32年  "もはや戦後ではない"





今回は、NHK制作DVD16巻目の映像──
日ソ交渉妥結、新教育委員会法案審議で参院大混乱の上に法案成立、鳩山内閣総辞職・石橋湛山内閣成立、日本国連に加盟、弥彦神社の初もうで大惨事、魚津市で大火、参宮線列車脱線、第7回冬季オリンピック(コルチナダンペッツォ)で猪谷千春銀メダル、メルボルンオリンピック開催、イタリア歌劇団公演、経済企画庁「経済白書」発表、大阪の通天閣再建完成、第1次南極観測船「宗谷」出発、最後の引揚船「興安丸」舞鶴港に入港、英・クリスマス島で水爆実験、石橋内閣総辞職・岸信介内閣成立、岸首相訪米に出発、日米共同声明発表、米駐留地上軍撤退開始、相馬ヶ原演習場ジラード事件、「第5北川丸」座礁転覆、谷中五重塔で放火心中、天城山心中事件、南極観測隊オングル島上陸、東海村に原子の火ともる、国産ロケット1号打ち上げ、ソ連人工衛星1号打ち上げ成功、国際ペン大会開催、ボリショイ・バレー団公演、カナダ杯ゴルフで中村寅吉優勝…など約50分を視聴後、日ソ国交回復、日本の国連加盟を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

昭和29年12月、ついに6年2か月(通算7年2か月)続いた吉田ワンマン内閣が退陣しました。吉田内閣の退陣は、同時に戦後期の終焉を意味していました。このころから、ようやく復興を遂げた日本経済は、昭和30年後半からアメリカの景気回復に支えられた船舶輸出などで貿易黒字は5億ドルに達し、空前の大豊作もあって好景気(いわゆる神武景気)をむかえ、ほとんどの経済指標は、戦前の水準を突破しました。翌昭和31年7月に発表された経済白書は「もはや戦後ではない」とバラ色の展望をしめしました。

政治面では、追放を解除された戦前政治家を中心とする鳩山一郎内閣は、「憲法改正・再軍備」を公然と進める保守路線を掲げ、昭和30年2月選挙で、鳩山一郎の「日本民主党」が第1党となりました。これに対し、平和を守り、憲法を擁護しようとする運動も高まり、この選挙では左派社会党が大躍進するなど、護憲派が、憲法改正阻止に必要な議席1/3を確保したばかりか、左右両派社会党統一の機運が高まり、昭和30年10月に4年ぶりに再統一をはかりました。

財界に危機感を与えたことから、同年11月15日「自由党」と「民主党」が保守合同して「自由民主党」(自民党)が結党され、これはのちに「55年体制」とよばれ、この「自民党」と「社会党」2党体制は、1993年まで38年も続く政治システムを形成したのでした。

「憲法改正・再軍備」という目標が困難とみた鳩山一郎は、第2の目標だった「対共産圏外交」特にソ連との国交回復に目を向けました。ソ連は、講和条約までは代表部が日本に駐留し、独立後も残留していました。鳩山が日ソ講和をめざしているのを感じたソ連代表部主席ドムニツキ―は、昭和31年1月、秘かに鳩山を訪問し「日ソ国交正常化文書」を手渡しました。

いっぽう、同年2月24日、フルシチョフ第1書記が、第20回ソ連共産党大会最終日に、4時間にわたるスターリン批判の演説を行い、その権力欲と粗暴な性格を暴露しました。これは、自分たちがもはや秘密国家でなくなったことを国際的に示したものでした。(演説内容は6月4日、アメリカ国務省が全文を発表)これをチャンスとみた鳩山は、4月に北洋漁業で日ソ間でもめている問題を解決させようと河野一郎農相をモスクワへ送り、7月には重光葵外相をモスクワにやって、国交回復交渉を詰めさせました。懸案は、領土問題でした。ソ連側は歯舞、色丹のみの返還を提案したのに対し、日本側は国後、択捉を含めた4島返還を主張したことで暗礁にのりあげました。しかし、いずれ平和条約をを締結したときは、歯舞、色丹を返還するので、国交回復の共同宣言に合意しないかという提案を受け、同年10月鳩山・河野を全権代表とする代表団を自ら作り、「日ソ国交回復の共同宣言」の調印にこぎつけたのでした。




この共同宣言には、① 戦争状態の終結  ② 大使の交換 ③ 抑留者の送還 ④ 漁業条約締結 ⑤ 日本の国連加盟支援 とあり、その結果、12月18日には、日本の国連加盟案を国連総会が全会一致で可決し、めでたく80番目の「国連加盟」が実現しました。こうして、日本は「戦争犯罪国」から脱し、完全に国際復帰することができました。これはまた、貿易拡大を中心とする日本経済の高度成長への道を拓くものでした。




鳩山は、帰国と同時に、これらの成果を花道として退陣を表明。ここから、自民党内で、だれを次期総理にするかが大問題となりました。その混乱の中で、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3人が候補になり、決選投票で258対251票の僅差で石橋が岸に勝利し、12月23日に、石橋内閣が成立しました。石橋湛山といういう人物は、ジャーナリスト出身の剛毅な性格の持ち主で、東洋経済新報社長だったことから経済に強く、池田勇人を蔵相に起用して「積極財政」を表看板に掲げた政権でした。ところが、張り切り過ぎた石橋は、過労で倒れてしまい、当分静養が必要との診断に「議会の最重大な国政審議に出席できないのは総理大臣の資格はない」と言い張って辞任してしまいました。

昭和32年2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形で、岸信介内閣が成立しました。岸は、鳩山以上の憲法改正・再軍備論者で、「戦前の大日本帝国の栄光をとりもどせ」が持論でした。当初は、鳩山や石橋のようなブームらしきものが起こらなかったため、低姿勢でしたが、5月7日の参院内閣委員会で「憲法は、自衛のための核兵器を禁ずるものではない」と発言し、社会党は内閣不信任案を提出するほどでした。防衛問題にも積極的で、6月に国防会議が提案した、陸上自衛隊18万人増強などの「長期防衛計画」を即座に承認し、7月にはこれを手土産に訪米、アイゼンハワー大統領やダレス国務長官と会談して、「日米安保条約早急改定」など、「日米新時代」を主張しました。こうしたやり方は、平和護憲勢力との対立をますます激化させるもので、経済発展により国民生活は向上するものの、保守と革新、改憲と護憲、再軍備と平和などをめぐる国内の対立と緊張が高まっていく、そんな時代となっていきました。



「参火会」1月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒