2016年3月16日水曜日

第22回「参火会」3月例会 (通算386回) 2016年3月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」18回目  昭和35・36年 「安保闘争と高度成長」





今回は、NHK制作DVD18巻目の映像──
岸首相訪米・新安保条約に調印、自民党が新安保条約と会期延長を単独強行可決、安保阻止統一行動、ハガチー事件、全学連が国会突入し東大生樺美智子死亡、新安保条約自然承認、浅沼社会党委員長刺殺される、三井三池大争議、チリ地震三陸海岸に大津波、浩宮徳仁親王誕生、皇太子夫妻がアメリカ訪問、オリンビック・ローマ大会開催、池田勇人内閣成立、所得倍増計画発表、池田・ケネディ会談、第1回日米経済委員会開催、ソ連工業見本市にミコヤン副首相来日、北陸に豪雪、大阪釜ヶ崎で暴動、嶋中事件、三無事件(池田内閣要人暗殺計画発覚)、ソ連がヴォストーク1号打上げ成功、シベリア墓参団出発、全国一日一斉休診、小児麻痺大流行で生ワクチン輸入、文部省高校生急増対策発表、大相撲・柏鵬時代へ、日紡貝塚バレーボール部がヨーロッパ遠征で24戦全勝、余暇ブーム……など約50分を視聴後、新安保条約を中心に話し合いを行いました。






 「この時代の概要」

昭和35年1月19日、岸信介首相は、ワシントンでアメリカとの「安保改定(新安保)」の調印式に臨みました。前年10月までに、藤山外相とダレス国務長官とのあいだでの下固めもあり、ほぼ問題なく調印を終えました。新安保が以前のような、アメリカが日本防衛の義務のない、また期限もない、アメリカ側に都合のよいものでなく、「極東における国際平和・安全の維持、共通の危険に対処するため、日本は、軍隊を持たない・戦争はしないという憲法の制約の中で、アメリカに協力する。アメリカは日本を完全に守る」というもので、期限についても「当初10年の有効期間(固定)が経過した後は、1年前にどちらかが予告することにより、一方的に破棄できる」とし、過去にあるさまざまな条約改定と比べても、遜色ないものでした。

ところが、批准(承認)のために2月初めからの議会で、与野党の対決がはじまると、事態は一変。その後の半年間は、国論は真っ二つに分かれて日本社会を揺さぶりつづけ、まさに「安保」「安保」の半年間となりました。そのきっかけは、日米が協力しあう地域「極東」(far east)は、どの範囲をさすのかというものでした。「朝鮮半島と日本だ」「中国と国民政府(台湾)も入る」など、さまざまな議論が噴出すると、岸首相は「フィリピン以北、日本周辺」(2月8日答弁)、「北千島は含まず、金門島・馬祖島(台湾の中国よりの島)は範囲」(2月10日答弁)に対し、自民党内非主流派は「金門・馬祖は除外せよ」と、自民党内も一枚岩ではなくなってきました。

いっぽう、前年3月には、社会党と総評(連合の前身)を中心に、原水爆禁止日本協議会、憲法擁護国民連合など134団体が加盟する「安保条約改定阻止国民会議」(国民会議)が結成されていました。これらの団体は、新安保が成立すれば、日本側は自衛隊の増強を強いられ、極東有事の際には自衛隊が在日米軍と協力して、アメリカが引き起こしたアジアの戦争に日本も協力せざるをえないことになる。日本人は、再びアジア人と戦火を交えていいのか、さらにそれが日本を核戦争にまきこむ可能性だってあるという考えが共通の認識でした。この運動は、同年4月の第1次統一行動では全国で1万人ほどだったのが、6月の第3次統一行動では10万人に達すると、新聞テレビのマスコミでも積極的に報道されるようになり、大学人や文化人の啓蒙活動も活発化、さらに12月には、全国学生自治会総連合(全学連)が安保闘争に加わりました。

国会では、先の「極東」の範囲などをめぐり、社会党の猛反対など議論ははてしなく続きます。議論が重なるごとに条項の不備が指摘されてもめ続けるうち、6月19日に新安保の日本批准を見込んで、アメリカのアイゼンハワー大統領(アイク)の訪日が決定しました。条約というのは、衆議院を通過させれば、参議院の議決がなくても、30日後には自然成立することが憲法61条に規定されています。そのため岸首相は、5月19日までに衆議院を可決させなくてはなりません。しかし議会は紛糾して、そんな状況にならないまま5月19日をむかえました。一刻も早く国会審議を打ち切ろうとする岸内閣に対抗し、野党は、衆議院議長清瀬一郎を議長室におしこめて審議をさせない作戦。当日夜10時過ぎ、自民党は本会議開会を知らせる予鈴を鳴らして、安保特別委員会を開きました。そして、野党欠席のまま政府と与党だけで委員会を通し、本会議を開くために警察官500人を導入して、議長室前でスクラムを組む野党議員一人ひとりを排除して議長を衆議院議長席に座らせ、この重要法案をわずか数分で強行採決させたのでした。





この暴挙に、マスコミ全紙は「議会制民主主義の危機」と問題化し、総評は岸内閣を「ファッショ的」と断定、国民会議は「30日以内に国会解散を勝ち取れば新安保批准を阻止できる」と最後の盛り上げをはかり、全学連ら学生や一般市民までがいっしょになって、未曾有のデモ隊が国会議事堂を取り囲みはじめ、戦場さながらにした安保騒動が始まりました。さらに、雑誌「世界」に掲載された清水幾太郎の「今こそ国会へ請願のすすめ」という論文が話題になりました。全国の国民が1枚の請願書持って議事堂を取り巻き、その行列が途切れなかったら、新安保の批准を阻止し、議会政治を正道に戻せるというものでした。これが大評判となって、5月から6月にかけて全国各地の人々が毎日数万人の請願デモが国会へ押し寄せました。特に条約自然承認直前の6月15日から18日にかけては、全学連や労働組合のデモ隊が議事堂を取り囲みました。特に6月15日の夜には、構内に突入したデモ隊と警察官が激突。東大生樺美智子が死亡した他、重傷43名を含む数百人が負傷する大惨事となりました。後でわかったことですが、6月15日に岸首相は、赤城防衛庁長官に自衛隊の出動を打診、赤城は「戦車や機関銃を装備する自衛隊が出動すれば、デモは革命的に全国へ広がる(内乱の危機)」と拒否。そのため、岸は16日にアイク訪日を断る決断をせまられ、閣議決定されました。こうして、6月23日、目黒の外相官邸で批准書が日米で交わされ、その後まもなく岸首相は退陣を表明したことで、安保騒動は一気に終焉しました。

昭和35年7月19日、自民党内の総裁戦に勝利した池田勇人が首相になると、「国民の所得を10年で倍増させる」と打ち出したことで、大風呂敷と揶揄されながらも、12月27日に閣議決定されました。まさにこれが、日本の高度成長の幕開けとなったのでした……。

なお、この時代になると、ほとんどの参加者は高校生以上となり、中には大学を卒業して社会人になった人もいて、それぞれの立場から安保騒動とどう向き合ったかが語られる、印象深い会となりました。



「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒