2016年6月22日水曜日

第25回「参火会」6月例会 (通算389回) 2016年6月21日(火) 実施

「現代史を考える集い」20回目  昭和39・40年 「東京オリンピック」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
新潟地震、東京・品川の宝組化学品倉庫爆発、町田市商店街にジェット機墜落、米原子力潜水艦シードラゴン号佐世保入港、「蜂の巣城」陥落、ミロのビーナス公開、東海道新幹線開業、オリンピック東京大会開催、池田首相辞意表明・佐藤栄作内閣成立、日韓基本条約調印、衆議院で条約を強行採決、ベトナム戦争で北爆開始、ベ平連が初の反戦デモ、佐藤首相沖縄訪問、山陽特殊製鋼倒産、春闘・私鉄24時間スト、慶大・学費値上げ反対スト、東京の公衆浴場一斉休業、福岡・山野鉱ガス爆発、川崎市で土砂崩れ、ライフル銃乱射事件、朝永博士がノーベル物理学賞受賞、南極観測船「ふじ」出航……など約55分を視聴後、高度経済成長の象徴ともいえる東京オリンピック・東海道新幹線開業を中心に話し合いをしました。



「この時代の背景」





昭和39年という年は、何といっても「東京オリンピック」といってよいでしょう。戦後の復興と、先進国への仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。10月10日の秋晴れの下、世界94か国、7492人の選手・役員が参加(史上最高)して、第18回オリンピック東京大会が開幕、7万4500人収容の国立競技場は超満員でふくれあがりました。それから15日後の10月24日夕方の閉会式では、整然とした開会式とはうって変わって、各国選手入り乱れながら、和やかに大会の幕を閉じるまで、多くの国民はテレビ中継にかじりつき、「スポーツの祭典」に酔いしれました。この15日間は、太平洋戦争で孤立した日本が「先進国入り」したことを実感した日々でもありました。選手たちの活躍もめざましく、体操、レスリング、柔道、重量挙げ、女子バレーなどを中心に、金16個、銀5個、銅8個のメダルを獲得。金メダルの数では、アメリカの36個、ソ連30個に次ぐものでした。

また、同年4月1日、日本がIMF(国際通貨基金)の8条国に移行したことで、「円」が世界の主要通貨と交換可能な通貨となり、戦後19年にして欧米主要国と並ぶ世界経済の仲間入りをはたしたことは、経済面でも世界から認められたことを意味していました。同時に、海外渡航が自由化され、これまでは政府関係、企業の業務関連、留学などに限られていた海外旅行が、一般の人たちへ開放されました。4月28日には、OECD(経済協力機構)の21番目の加盟国となり、アジアで唯一、国際社会で一人前の大人の国として認められました。輸入の自由化、外貨導入拡大ができる反面、発展途上国援助など、先進国としての義務と責任を負うことになりました。

9月7日には、IMF世界銀行東京総会が行われ、102か国1800人を前に、池田首相は「所得倍増計画は、国民に自覚と自信を与えた。戦後19年の高度成長で、日本の国民所得は、西欧水準に近づきつつあります。戦前80年でできなかったことを、戦後20年でやろうとしているが、これを可能にしたのは、国民の努力と国際協力である」と、胸を張りました。そして、10月1日には東海道新幹線が開業して、東京━大阪間を4時間(翌年11月には3時間10分)で走り、その9日後の東京オリンピック開幕となったわけです。また、この東京オリンピック開幕にあわせ、首都東京の大改革がなされ、首都高速道路・モノレール・地下鉄(丸の内線・日比谷線・浅草線)の交通網が整備されるなど、直接・間接投資は1兆円といわれる大規模なものでした。

ところが、東京オリンピックの中心となるべき池田首相は、このころガンに侵されて入院し、開会式にも病院から出席する状態で、オリンピック終了の翌10月25日、引退を表明しました。突然のことだったため選挙は行われず、11月9日に自民党両院議員総会で佐藤栄作が次期首相に決まり、同日、池田内閣の閣僚と高度経済成長をそのまま引き継いで、佐藤内閣がスタートしました。





昭和40年に入ると佐藤首相は、池田前首相が意識的に避けてきた政治的な問題への取り組みを開始。1月にケネディ暗殺後にアメリカ大統領を引き継いだジョンソンと会談し、日米間の懸案だった沖縄・小笠原諸島の施政権の問題を解決することを両者で確認しあいました。さらにジョンソン大統領は、経済成長を続ける日本に対し、アメリカの負担を肩代わりすることを求めました。

こうして佐藤首相は、沖縄問題を自身の内閣で解決せねばならないと自覚するとともに、8月には沖縄を訪問し「沖縄が祖国復帰しない限り、戦後が終わっていない」と、国民にもそれをしめしました。また、もう一つの懸案である韓国との国交正常化に取り組み、6月22日に「日韓基本条約」と関係協定、議定書の調印を行いました。これにより、韓国が朝鮮半島唯一の合法政府であることの確認がなされ、協定では対日請求権問題・在日韓国人の法的地位と待遇問題・漁業権問題などで合意し、韓国に対し総額8億ドル(2880億円)以上の経済協力を約束しました。

これに対し、両国とも学生を中心に大規模な反対運動が勃発しました。この条約が正式調印(批准)されると日本・韓国・アメリカの軍事同盟に発展し、アジアの平和安定が乱され、北朝鮮の出方次第では緊張が増すというものでした。両国の国会でも与野党の乱闘騒ぎがおきるものの、同年12月18日にソウルで批准書が交わされ、「日韓基本条約」が正式に成立しました。不人気な佐藤首相でしたが、歴史に残る成果を残すことになりました。

しかし、昭和40年度の補正予算として、佐藤内閣が行った戦後初となる「赤字国債」の発行を閣議で決めたことは、特筆せねばなりません。昭和40年は、急成長の矛盾が初めて表面化した年でもあり、山陽特殊鋼の倒産、山一証券の危機となって現れたことに対し、11月19日、歳入不足分を2590億円の赤字国債の発行で補うことを発表しました。これ以後、国債発行は雪だるま式に増えつづけ、わずか8年後の1973年に100兆円をこえ、現在1044兆円となっている財政赤字の端緒となりました。太平洋戦争中の「愛国国債」の乱発によるインフレの悪夢に難色を示した大蔵省(田中角栄大蔵相)が、押し切られたといわれています。

いっぽう目を外にむけると、昭和39年8月、トンキン湾で北ベトナムの哨戒艇が米国の駆逐艦2隻を攻撃するという事件がおこりました。ジョンソン米国大統領は、議会から、以後の武装攻撃を武力撃退してもよいという権限を与えられました。これに基づきジョンソンは、翌昭和40年2月7日、爆撃命令を下し、米軍の攻撃機70余機は国境を越え、北ベトナムのドンホイにある軍事基地を爆撃しました(北爆の開始)。さらに翌日には、重武装の海兵隊が投入し、以後27か月にも及ぶ、大戦争へ踏み切ったのでした……。

なお、「東京オリンピック」は、メンバー全員にとって、青春時代の大イベントだったことから、当時の思い出話に盛り上がる楽しい会となりました。

また、メンバーの竹内氏から、「参火会」(壱火会) のスタートした母体ともいえる「新聞学科同窓会」が54年の歴史があるにもかかわらず、長く休会状態なのは寂しい限りであること。特に、在校生たちとの交流に先鞭をつけ、新聞・出版・放送・広告の4分野から一人ずつ講師を立て、在校生たちに体験談を語る会は、とてもユニークで、こんな同窓会活動を行う学科は他に類を見ないもの……といった話をうかがいました。多くのメンバーの共感をえて、どんな方法で再活動をするのがよいか、今後の課題とすることになりました。



「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒