2016年7月20日水曜日

第26回「参火会」7月例会 (通算390回) 2016年7月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」 21回目  昭和41・42年 「経済大国をめざして」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
全日空機が羽田沖に墜落、カナダ航空機が羽田空港防波堤に衝突・炎上、BOAC機富士山付近で空中分解、YS11機が松山空港沖に墜落、愛知県・猿投町でダンプカーが暴走し園児11人死亡、戦後初の国債上場、世界最大級のタンカー「出光丸」進水、第1回物価メーデー、ビートルズ来日、NHK「おはなはん」放送開始、早大紛争始まる、千葉大チフス菌事件、荒船清十郎急行停車事件、田中彰治代議士恐喝・詐欺容疑で逮捕、共和製糖事件、衆議院「黒い霧解散」、衆議院総選挙・第2次佐藤内閣発足、美濃部革新都政誕生、佐藤首相外遊、佐藤・ジョンソン会談と日米共同声明、第1次羽田事件、吉田茂国葬、中央高速道路が一部開通、四日市ぜんそく訴訟、初の建国記念日……など約50分を視聴後、ベトナム戦争と反戦運動、中国・文化大革命、イスラエル・エジプト6日間戦争(第3次中東戦争)など、激動する世界について話し合いをしました。



「この時代の背景」

昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」は、戦後の復興と先進国の仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。しかし閉会の翌日、池田は病気辞任を発表。これを受けて同じ「吉田学校」の優等生でライバルだった佐藤栄作が首相となりました。

佐藤は、経済成長に全力をそそいでいた池田のやり残した政治・外交問題に取り組み、1965年(昭和40年)に日韓基本条約と付属の協定を結びました。さらに、沖縄の祖国復帰をめざす宣言をして、首相としてはじめて沖縄を訪問しました。高度経済成長も波に乗り、与野党の対立はあるものの大きな政治的な対立もなく、国民も猛烈に働きながら、「昭和元禄」を謳歌する時代でした。

しかし、海外に目を向けると、大きな動きを見せていました。

まず、「ベトナム戦争の激化と反戦運動の盛り上がり」です。そもそもアメリカがベトナムの内戦に介入するきっかけとなったのは、昭和37年(1962年)にアメリカが「南ベトナム」(ベトナム共和国)にベトナム軍事援助司令部を設置し、4千人もの軍事顧問団を派遣したことからでした。これが「北ベトナム」(ベトナム民主共和国)と、そのバックとなっている「ベトミン」(ベトナム独立同盟会・「ベトコン」はその兵士で、「南ベトナム解放戦線」を設立)を刺激し、内戦的なゲリラ戦があちこちで繰り返されていきます。

そんな小競り合いのなか、北ベトナム海域をパトロール中の米駆逐艦に北ベトナムの哨戒艇が攻撃を加える「トンキン事件」がおきました。これに対する報復として、昭和40年(1965年)2月に北ベトナム爆撃(北爆)を開始したアメリカは、重武装の海兵隊を投入し、大戦争に踏み切りました。(のちに「宣戦布告なき15年戦争」といわれる)  これに対抗して、中国やソ連が北ベトナムに大量の軍事物資を供給するなど介入をはじめ、ベトナムは冷戦下にある大国の代理戦争の様相を呈しはじめました。





以来、ジョンソン大統領の人気急落により、昭和43年(1968年)3月に北爆の停止と次期大統領選に不出馬を表明するまで、3年余り続いたアメリカ軍による北爆は、出撃機数26万機以上、投下爆弾16万トン以上(この中には、猛毒ダイオキシンの一種「枯葉剤」や強力な焼夷弾「ナパーム弾」も含まれていた) と大規模なものでした。このアメリカ軍の飛行機は、沖縄をはじめ、佐世保、横須賀、横田、岩国、三沢、相模原など、日本にある軍事施設は、アメリカがベトナム戦争を遂行する上で、不可欠なものでした。

日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立であるわけにいかず、アメリカの政策を支持しつづけました。平和憲法があるため、自衛隊を直接派遣することはなかったものの、日本の産業界は資材や技術などをアメリカ軍に供給することにより、ベトナム特需が産みだされ、日本経済が大いに潤ったのは事実でした。

いっぽう、世界戦争に直結しそうなベトナム戦争に反対する「反戦運動」が、世界各地でおこります。アメリカの反戦運動は、大学から開始され、次第にその規模は拡大され、数十万、全米で数百万人の市民が参加する反戦デモまで組織されました。

日本の反戦運動は、当初は、当時の有力な労働組合「総評」が、ベトナム反戦を掲げてストライキを行いましたが、さまざまな無党派の市民運動が高まりはじめ、その代表といえるものが、1965年4月に発足した「ベトナムに平和を! 市民連合」(べ兵連)でした。

べ兵連の代表は作家の小田実(当時31歳)で、これまでの平和団体と異なり、規約・会員制度・役員選挙もなく、参加する市民の自発性によるユニークな活動を展開しました。この組織はその後の市民運動・NGOなどの原型を築いたものでした。その主な行動は、「反戦徹夜ティーチイン」(「東京12チャンネル」[今のテレビ東京]で放送) を行ったり、作家の開高健が中心となって『ニューヨークタイムズ』への意見広告の掲載、米脱走兵への援助、在日米軍兵士への反戦工作、東京新宿西口地下広場での「フォーク・ゲリラ集会」(毎週土曜日の夜、反戦フォークなどを歌う)など、広範な知識人がこれを支持・参加したほか、賛同する市民によって全国的な拡がりを見せ、各都市、大学、地域にべ兵連グループが作られ、最盛期の数は350を越えたといわれています。

いっぽう、隣国の中国では、昭和41年(1966年)5月に、「文化大革命」がはじまりました。当時の流行語になった「造反有理」は、背くことに理がある、反逆は正しいといった意味で、裏でこの革命を指導していた毛沢東は、中国が資本主義に傾斜することを防ぐには、革命を持続しなくてはならない。革命で新政権を作っても必ず腐敗する。だからまた、革命をつづけなくてはならないという持論を、当時10代の少年少女の「紅衛兵」に吹きこみ、これをを尖兵として、反革命分子を追放、粛清する運動を開始しました。3か月後には、紅衛兵旋風が巻き起こり、赤い腕章をつけたたくさんの中学・高校生らが、大人たちを次々につかまえて、三角帽子をかぶせ、糾弾しました。彼らは「黒五類」(こくごるい=地主・富豪・反動・腐敗・右派分子)と「四旧」(古い文化・思想・風俗・習慣)の破壊をスローガンに、連日連夜市内を駆けめぐり、知識人や市民をつるしあげたのです。毛沢東亡き後、中国近代化の象徴ともなった鄧小平も、つるしあげられた一人でした。こうして、北京を中心に全土で「文化大革命」が、10年もの長期間にわたって続きました。





翌年の昭和42年(1967年)6月5日には、イスラエル軍がエジプトを爆撃する「第3次中東戦争」が勃発しました。イスラエルの飛行機350機が、カイロ周辺にある20か所のエジプト空軍基地を一斉に攻撃し、エジプトの飛行機400機以上を地上で破壊、あっというまに制海権を奪いました。

つづいてイスラエルは、戦車を主力とした部隊を、ヨルダン領の東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの占領下にあったゴザ地域、シナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領しました。あわてた国連は11日、イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンに停戦要求し、双方がこれを受け入れたため大事にいたりませんでしたが、そのまま続けば、「世界戦争」につながりかねなかっただけに、全世界の人たちは、ほっと胸をなでおろしました。

イスラエルはこれを「6日間戦争」と呼んで誇らしげだったのに対し、エジプトとアラブ諸国はにとってこの敗北は大打撃となりました。11月になって国連安全保障理事会は、イスラエルに占領地からの撤退を要請し、中東諸国の主権を承認したものの、紛争の解決にまでは至らず、40万人ものパレスチナ人が難民として故郷を追われました。

またこの年の10月9日に、キューバ革命の功労者であるチェ・ゲバラが、ボリビアで戦死しました。世界革命を信じる人たちにとって、「どこにいようと、死がわれらに不意打ちをかけるなら、それを歓迎しようではないか」というゲバラの言葉は、彼らのスローガンの一つとされ、こんな社会主義革命が世界的に大きな動きとなっていた時代だったといえそうです。



「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒