2016年12月14日水曜日

第29回「参火会」12月例会 (通算393回) 2016年12月13日(火) 実施

「現代史を考える集い」 23回目  昭和45・46年 「繁栄と公害の中で」





今回は、NHK制作DVD23巻目の映像──
第3次佐藤内閣成立、政府は日米安保条約の自動延長を声明、日本万国博覧会(大阪万博)開幕、日本製テレビにアメリカがダンピングと認定、佐藤・ニクソン会談で繊維交渉の再開を約束、富士市田子の浦ヘドロ追放の住民抗議集会、東京に光化学スモッグ公害発生、大阪市天六の地下鉄工事現場でガス爆発、赤軍派が日航機「よど号」をハイジャック、瀬戸内海で観光船「ぷりんす」乗っ取り事件、三島由紀夫割腹自殺、日本山岳会登山隊エベレスト登頂、初の国産人工衛星「おおすみ」打ち上げ成功、東京で歩行者天国始まる、沖縄返還協定調印、日中国交回復促進議員連盟訪中、周恩来中国首相が美濃部都知事と対談し保利書簡を信用できぬと批判、中国の国連加盟が決定し国府は国連脱退声明、成田空港用地強制代執行開始、新潟地裁が阿賀野川水銀中毒訴訟で原告に勝訴判決、環境庁発足、新潟県の海岸でリベリアのタンカー座礁、東亜国内航空「ばんだい」函館郊外に墜落、岩手県上空で全日空機と自衛隊機が衝突、連続女性殺人犯大久保清逮捕、横綱大鵬引退、天皇・皇后ヨーロッパ7か国親善訪問に出発、米のドルショックにより東証ダウが史上最大の暴落・為替市場変動相場制へ移行ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いをいたしました。





「この時代の背景」

前回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」と総括し、[やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していった] と記しました。

ところが45年に入ると、3月31日、赤軍派の9人が、日本航空の「よど号」を乗っ取る事件が起こりました。日本の航空史上初のハイジャックで、富士山の上空を飛んでいたとき、犯人グループは機長に日本刀を突きつけて、北朝鮮へ行くように要求。機長は、燃料不足を理由にこれを拒否し、福岡空港に着陸、給油後に病人や老人・子どもら23人を降ろしてから5時間後に離陸します。北朝鮮領内に入るものの、対空砲火やミグ戦闘機の追跡にあって南下し、韓国空軍機の誘導で韓国の金浦空港に着陸しました。平壌空港に着いたように偽装するものの、気づかれてしまいます。犯人たちは3日間機内に立てこもっている時、交渉に当たった山村新治郎運輸政務次官が身代わりの人質になることで乗客全員が解放され、4月3日「よど号」は平壌に向かうことで終結。犯人たちは亡命状態になり、現在に至っています。

こんなハラハラ・ドキドキするニュースがあったいっぽう、昭和45年のニュースといえば、「大阪万博」のことを思い出す人が多いでしょう。3月14日から9月13日まで183日間に万博史上最大の6421万8770人が入場したといいますから、日本国民の半分以上が出かけたはずです。まさにこの「大阪万博」は、昭和元禄の打ち上げともいえるものでした。アポロ11号が持ち帰った「月の石」など宇宙展示でアメリカ館やソ連館に長蛇の列が出来たばかりか、日本の大企業が先端技術を競って展示し「経済大国日本」を強烈にアピールした大イベントでした。

また45年は、70年安保の年でした。あの騒然とした60年安保が何もなければ「自動延長」されることになっており、政府は早々と自動延長の方針を伝えるいっぽう、学生運動が再燃して猛反対が起こり、「60年安保の再現」を予想する声さえありました。ところが、自動延長される6月23日は、反対統一行動の集会に全国各地に77万4千人が集まったにもかかわらず、多少のゴタゴタはあったものの、あっさり自動延長されました。

こんな日本の状況に、怒りを現したのが作家の三島由紀夫でした。「日本の経済は復興したが、敗戦で喪失した日本人の伝統や文化や精神はなんら復興することがない。アメリカに依存するばかりで主体性がなく、金を儲けるだけでいいのか。こんな腑抜けでいいのか」……と。

11月25日のことでした。三島は、主宰する「楯の会」のメンバー4人を引き連れて自衛隊市ヶ谷駐屯地の「東部方面総監室」に乗り込み、益田陸将を監禁し、「檄」と題する6項目の要求書を突きつけました。止めに入った自衛隊幹部ら8名は切りつけられて負傷。三島は庁舎前に、自衛隊員を集め、バルコニーから決起を促しました。

「自衛隊諸君、だらしのない政府に対しクーデターをおこせ。日本精神はどこにあったのか」と叫び、憲法改正・天皇親政の復活を訴えたのです。ところが、隊員たちからは拍手も賛同もないばかりかヤジられたことから、5分後に三島は、総監室にもどり、制服をぬぎ、正座して短刀で切腹します。隊員の森田必勝らが介錯し、森田も三島の後を追って自決したのでした。これが、「三島由紀夫割腹自殺事件」のあらましです。





昭和45・46年を振りかえる時、高度経済発展の代償ともいえる「公害問題」に、政府が重い腰をあげ、ようやく本格的な対策が講じられるようになった年でもありました。

そのころまでに、「4大公害病」というのが発生していて、訴訟がおこされていました。

① 熊本水俣病 (魚を介した重金属中毒で、新日本窒素水俣工場から出るメチル水銀が原因。昭和35年までに死者42人。44年に原告138人が訴訟・判決48年原告勝訴)
② イタイタイ病(富山県神通川流域で、全身の骨がボロボロになる症状。三井金属神岡工業から排出するカドミウムが原因。昭和43年原告33人が訴訟・判決47年原告勝訴)
③ 新潟水俣病 (阿賀野川有機水銀中毒「第2水俣病」といわれ、昭和電工の工場排水が原因。昭和42年原告76人が訴訟・判決46年原告勝訴)
④ 四日市ぜんそく(石油化学産業育成のため、四日市市には石油コンビナートや水力発電所を次々に建設。大気汚染顕在化して気管支炎患者が続出して、45年までに40人以上の死者。昭和42年原告17人が四日市石油など6社に対し訴訟・判決46年原告勝訴)

そして45年の7月18日、東京に光化学スモッグが発生し、杉並の高校女生徒40数人が目やノドの痛みを訴え救急車で運ばれたほか、都内には同様な症状を訴える人が続出しました。「新型複合汚染」で、自動車の排気ガスの中の窒素酸化物が紫外線で化学反応をおこしてオキシダント(強酸化性物質)となり、これが人間の目やノドを痛めることが判明したのは、大きなショックでした。

また、8月11日には富士市公害対策市民協会が、田子の浦ヘドロ公害を大手4製紙会社と知事を告発します。

これらがきっかけになって、「公害国会」といわれる集中審議が行われ、3年前に成立していたもののほとんど機能していなかった「公害対策基本法」大気汚染・水質汚濁・騒音・振動・地盤沈下・悪臭を対象としていた法律の強化・改訂を行いました。

翌46年7月1日には、「環境庁」を誕生させました。厚生省を中心に11の省庁から集められた500人の職員で発足したものでした。初代長官大石武一の初仕事は、尾瀬の自然保護で、「尾瀬・只見スカイライン建設計画」を中止させましたが、経済成長を重視する通産省や経済企画庁と対立。2001年に、環境庁は環境省に昇格するものの、この対立構造は今も続いています。

さらに、46年という年は、「高度成長の終焉を迎える年」だったことを付け加えなくてはなりません。アメリカは、ベトナム戦争介入による軍事費拡大、福祉予算の増加などで、深刻な財政赤字をかかえ、貿易収支も80年ぶりに赤字に転落する異常事態になっていったことが要因でした。

46年8月15日 ニクソン大統領は、金とドルとの交換の停止、10%の輸入課徴金などのドル防衛策を発表しました(ニクソンショック)。この措置は、対米輸出に依存していた日本経済を直撃し、8月28日からは、戦後まもなく1ドル360円に固定されていたドルが、変動相場制に移行し、12月18日にワシントンのスミソニアン博物館で開かれた「スミソニアン合意」により、一挙に円は16.88%も切り上げられ、1ドル308円に確定されます。不況の中での円高を強いられた各界は、「2年分の利益を失う」(造船)・輸出回復の見込みなし」(繊維)など、多くの業界が悲鳴をあげました……。


会の後半は、前回に引き続き、メンバーの向井さん、増田夫妻、竹内氏の「近況報告」が行われました。



「参火会」12月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒