2017年1月18日水曜日

第30回「参火会」1月例会 (通算394回) 2017年1月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」 24回目  昭和47・48年 「列島改造」とオイルショック





今回は、NHK制作DVD24巻目の映像──
沖縄復帰・沖縄県発足、佐藤首相退陣表明、佐藤内閣総辞職・田中角栄内閣成立、田中首相中国訪問、北京で日中国交正常化の共同声明、上野動物園パンダ公開、妙義山中で連合赤軍最高幹部永田洋子と森恒夫を逮捕、連合赤軍軽井沢の浅間山荘に籠城(浅間山荘事件)、大阪千日デパートビル火災、北陸トンネルで列車火災、元日本兵横井庄一グアム島で発見、飛鳥高松塚古墳で極彩色壁画発見、冬季オリンピック札幌大会開幕、ミュンヘンオリンピック開会、西独ミュンヘン五輪にアラブゲリラ侵入、勤労順法闘争中の上尾駅で乗客1万人暴動、水俣裁判患者側勝訴、衆議院本会議で水銀・PCB問題で緊急質問・政府はPCB中止を言明、日航機オランダ上空でハイジャックされる、
韓国新民党元大統領候補の金大中氏が東京で誘拐される、熊本の大洋デパート火災、東京渋谷駅のコインロッカーから嬰児死体発見、石巻市の菊田医師新生児を実子として斡旋の事実を公表、江崎玲於奈博士ノーベル物理学賞受賞、大相撲訪中団出発、日本シリーズで巨人V9、第40回ダービーで常勝のハイセイコーを破ってタケホープ優勝、OAPEC緊急閣僚会議で石油の生産削減・供給制限決定ほか約54分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いをいたしました。





「この時代の背景」

昭和47・48年は、戦後史の中でも特筆される2年間でした。まずあげなくてはならないのは、歴史的といってもいい「沖縄返還」を花道に、日本の内閣史上7年8か月という最長記録を続けた佐藤首相が引退したことでしょう。

佐藤は、池田勇人に代わって昭和39年11月に初めて組閣したときから、「沖縄返還」を最大の政治課題にあげました。40年1月に訪米した時、当時のジョンソン大統領に沖縄返還の申し入れをし、8月に現職首相として初めて沖縄入りして、「沖縄の祖国復帰がない限り、日本の戦後は終わらない」と言明しました。こうして、43年から「沖縄返還に関する日米協議」が始まり、44年の佐藤・ニクソン会談で、47年の「核抜き本土並み返還」が決まって、47年5月15日、沖縄は27年ぶりに日本復帰したのでした。

その間には、さまざまな難題がありました。その焦点になったのは、アメリカの持つ核兵器 (昭和40年前後に800発前後沖縄に存在) の扱いをどうするかということでした。佐藤は、「核兵器を持たず、作らず、持ちこませず」の非核3原則を打ち出し、なんとか日米共同声明に盛り込むことに成功しました。(佐藤は49年にノーベル平和賞を受賞するものの、死後に核持ち込みの密約が発覚している)

こうして佐藤首相が引退すると、自民党内の福田赳夫VS田中角栄両陣営による激しい総裁選争いの末、47年7月に田中角栄内閣が誕生しました。田中はわずか就任2か月後に、懸案だった「日中国交回復」を実現しました。日中の共同声明で 「日本は中国を唯一の合法政府として承認」したため、日本は台湾の国民政府との国交を断絶、民間での交流だけが残されることになりました。(なお、6年後の昭和53年、「日中平和友好条約」が締結され、経済や文化交流面でも緊密化)

また田中は、総裁選のさなかの6月に、「日本列島改造論」を発表しました。その主旨は、太平洋岸に集中している工業地帯を日本全国の拠点都市に分散し、人口20万~40万の中堅都市を育成して、これらの都市を新幹線と高速道路で結ぶというもので、これが総理就任後の大方針となりました。

新潟の農村出身で、これまでの総理が東大を中心に大卒がほとんどだったのに対し、高等小学校(中学に相当)卒の田中が、最高権力者についたことで「角栄人気」はかつてないものになりました。その庶民的な人柄から「庶民宰相」とか「今太閤」(現代版の豊臣秀吉)と呼ばれ、同時に「日本列島改造論」は90万部の大ベストセラーとなって、「列島改造ブーム」を引きおこしました。田中首相は、私的諮問機関として70人の委員から成る「日本列島改造問題調査会」を発足させ、列島改造に走りだしたのです。

しかし、すでに日本を取り巻く情勢は変わっていました。日本経済の高度成長と個人消費拡大を前提とした改造計画は、物価の暴騰、インフレの加速を促すものでした。さらに翌48年10月6日、イスラエルとエジプト・シリア間で勃発した第4次中東戦争は、イスラエルに武器を補給しているアメリカとアラブ諸国の対立に発展します。

そして10月17日にOAPEC(アラブ石油輸出機構)は、石油を政治交渉の武器とする戦略を発表、原油生産の削減と、アメリカなどイスラエル支持国(日本も含め)への石油割り当てを減少させることを決定しました。24日には、サウジアラビア国営石油会社が70%の値上げを日本に通告したのをきっかけに、他の大手国際資本がいっせいに「日本向け原油の供給削減」を通告してきました。石油消費量の99.7%を輸入に頼り、安い石油を背景に発展してきた日本経済は大打撃を受けることになったのです。

こうして、アラブ産油国のとった石油戦略は日本を直撃。大商社の「買い占め」「売り惜しみ」が問題になったところにおきたこの「石油ショック」は、11月には、トイレットペーパー買いに殺到した主婦らが売り場に殺到し、老女が大ケガをする事件までおこりました。政府は、石油緊急対策要綱を決め、マイカーの自粛、企業の石油・電力消費10%削減などを呼びかけるいっぽう、トイレットペーパーは充分にある、メーカー出荷価格1パック140円に凍結を発表するものの、買いだめは砂糖・洗剤・塩などにおよび、全国各地で同様なパニックがおこりました。

12月になると政府は、「狂乱物価」といわれる異常なインフレ抑制をはかろうと、「石油需要適正化法」「国民生活安定緊急措置法」という「石油緊急2法」を公布・施行します。しかし、街からネオンサインが消えて盛り場の店も早じまい、テレビも11時に終了するなど、「じっとガマンの子であった」(ボンカレーのコマーシャル)という [暗い時代] の始まりでした。もはや「列島改造」など夢物語でしかなくなっていたのです。





会の後半は、前回に引き続き、メンバーの酒井猛夫、深澤雅子さん、谷内秀夫氏の「近況報告」が行われました。 (酒井義夫記)


「参火会」1月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内  光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒