今回は、NHK制作DVD28巻目の映像──
大平内閣不信任可決衆院解散・大平首相選挙戦中に急死・衆参両院同時選挙後鈴木善幸内閣成立・自衛隊スパイ事件・伊藤律中国から帰国・早大商学部入試問題漏洩事件・富士見病院不正診療疑惑・静岡駅前地下街ガス爆発・新宿駅西口バス放火事件・川崎の受験浪人両親を殴殺・栃木県川治温泉ホテル火災・銀座で1億円拾得・浩宮徳仁親王成年式・モスクワオリンピック日本不参加決定・福岡国際マラソンで瀬古利彦3連勝・巨人軍長嶋監督辞任・巨人軍王貞治現役引退・歌手山口百恵引退結婚・鈴木首相訪米・ライシャワー元駐日大使各持ち込み発言・ミッドウェー横須賀に帰港・米原潜日昇丸当て逃げ事件・米艦隊秋田県でマスはえなわ切断事件・ロッキード裁判 榎本三恵子証言と小佐野賢治実刑判決・深川通り魔事件・三和銀行オンライン犯罪の伊藤素子マニラで逮捕・芸大教授ニセバイオリン鑑定書事件・敦賀原子力発電所放射能漏れ事件・北炭夕張炭鉱ガス突出事故・中国残留孤児来日・京大福井謙一教授ノーベル化学賞受賞決定・日劇さよなら公演ほか、約52分を視聴後、この時代を振りかえる話し合いをしました。
2度にわたる「オイルショック」を、政界・官界・財界・国民が一体となって工夫をこらし、高度成長時代の水ぶくれ体質を反省しながら、他国に先駆けてこれを乗り越えた日本。多くの先進諸国がもたつく中で、アメリカに次ぐ経済大国として地位を確立し、昭和55年には、自動車の生産台数で800万台のアメリカを大きく引き離し、1100万台を記録しました。その反面、日本製品の海外進出は、とくにアメリカの企業や政府・議会、国民の強い反発を招きました。日米関係はすでに占領時代から大きく変わって対等になっていましたが、その代償に、日本は貿易摩擦の解消と、防衛力増強を約束され、以後の日本経済に大きな問題をかかえこむことになりました。そのあたりの経緯は、下記「この時代の背景」をご覧ください。
なお、会の後半は、来年1月からスタートする「世界遺産」の勉強会に使用することになった本田技研系列のPSGが制作した「世界遺産」(全10巻・税込定価10280円)を、「参火会」のメンバーは、1セットに限り、特価5000円(宅配送料込)で購入できることが説明されました。また、10月に「参火会」が、「壱火会」の時代から通算400回となることから、「世界遺産」の勉強会を、通算400回記念企画と位置づけ、ソフィア会の会員に大いにPRすることを確認しあいました。
「この時代の背景」
昭和55年(1980年)に特筆されるのは、この年、日本の年間自動車生産台数が1104万台となって初めて1000万台を越えたことでしょう。800万台のアメリカを大きく上回って、世界一の生産国になった最大の要因は、その高性能と合理化によって実現された低価格にありました。その中心となったトヨタ自動車は、「ジャスト・イン・タイム」という方式(リーン方式)を生み出しました。これは、必要なときに必要な量だけ現場にあるようにすることで、工場内の原料・半製品・部品・製品の在庫をゼロに近づけ、在庫コストを削減するやり方でした。その際「カンバン」という通知状が使用されるため「カンバン方式」ともいわれます。
当時、ハーバード大学のエズラ・ヴォ―ゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本を著し、その翻訳書が日本でも70万部のベストセラーになって注目されましたが、自動車に限らず、ウォークマンの世界的なヒットを筆頭に、テープレコーダ・カメラ・パソコン・時計・電卓などの電化製品やハイテク製品などにも同様な工夫がなされている点を高く評価しました。また、優秀な官僚が政府に働きかけ、将来国際市場で競争力があるか否かを判断して、競争可能な産業については育成強化していること。アメリカのように、政権が交替するたびにエリート官僚が交替することなく、組織の中で生きがいを見出せるように活性化をはかっていること。各企業間、政府の各部門が公共利益のために協力して、国際貿易交渉やエネルギー政策などの問題に取り組んでいることなどを指摘して、日本人の自尊心をくすぐったことは否めない事実でしょう。こうしてその後しばらくは、「世界の機関車」といわれる好況がつづきました。
いっぽうわが国の政界は、依然混乱をきわめていました。前年(昭和54年)10月の衆議院選に敗北した大平内閣は、のちに「40日間抗争」といわれる自民党史上最大の分裂危機を、派閥均衡策と新自由クラブとの政策協定を行って11月に、なんとか第2次大平正芳内閣を発足させました。
ところが、昭和55年3月になって、派閥抗争が再燃しだしました。そのきっかけは、ロッキード事件の児玉・小佐野ルート公判で、検察が小佐野受領の20万ドルが浜田幸一議員にわたり、ラスペカスでのカジノ賭博の借金返済にあてられたと暴露したことからでした。自民党反主流の福田・三木派らは、野党が提出した浜田議員への国会証人喚問を支持しました。4月になって浜田は議員辞職をするものの、反主流派は「自民党刷新連盟」を結成して、主流派と対立します。そして5月16日、社会党が内閣不信任案を提出すると、反主流の自民党員は73名も欠席し、不信任案が成立するというハプニングがおこりました。
こうして衆議院は解散され、参議院選挙と同日の6月22日の総選挙が決定すると、衆参選挙公示の5月30日、大平首相はトラックに乗って街頭演説の陣頭指揮に立ったものの、夕方には激しい胸痛を訴えて入院し、狭心症と診断されました。一時は快方に向かったものの6月12日に病状が急変して死亡しますが、これが不幸中の幸いとなって、自民党は弔い合戦と勢いづき、野党は気勢を削がれて、自民党の圧勝となったのでした。
自民党の新総裁に選ばれたのは、大平派の盟友で、田中とも親密な鈴木善幸でした。鈴木は自民党の総務会長を10回もつとめたまとめ役で、「和の政治」を掲げ、三木内閣以来4年以上もつづいた党内抗争に終止符をうつことに成功します。しかし鈴木は、内政のベテランではあっても、外交には不慣れでした。
昭和56年(1981年)1月20日、「強いアメリカ」をアピールし、対ソ強硬策を主張する共和党のレーガンが、カーター前大統領に圧勝してアメリカ40代大統領に就任しました。当時のアメリカが、莫大な財政支出の増加と2ケタ台のインフレに苦しんでいたことから、日本との貿易摩擦に対しては、アメリカ国内の保守派や大企業などからのプレッシャーを受けて、鈴木内閣に対し貿易不均衡の解消姿勢をとり続けました。鈴木内閣は、日本車の対米輸出が前年240万台だったのを、年間168万台に自主規制せざるをえませんでした。それでも、日本車の優位は続いたため、電化製品やハイテク商品の不買運動など、アメリカの「ジャパン・バッシング」(日本たたき)は激しさを増していきます。
昭和56年5月、鈴木首相は渡米してレーガン大統領と会談し、初めて日米「同盟関係」を強調する共同声明を発表しました。日米関係は、すでに占領時代の上下関係から大きく変わって対等にはなっていましたが、その代償に防衛力増強を約束させられました。具体的には「シーレーン防衛」というもので、日本周辺数海里と航空帯1000海里(1850km)という洋上の「面」の部分を日本が責任を負うことを確約させられました。日本商船航路確保のためとしていましたが、実質的には、日本が米戦略ミサイル原潜の活動海域の確保を引き受けることを意味し、ソ連潜水艦を探知・捕捉することが海上自衛隊の重要任務となり、これまでの日米安保の枠が大きく広げられることになったのです。
(文責・酒井義夫)
「参火会」7月例会 参加者
(50音順・敬称略)
- 岩崎 学 文新1962年卒
- 小田靖忠 文新1966年卒
- 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
- 郡山千里 文新1961年卒
- 酒井猛夫 外西1962年卒
- 酒井義夫 文新1966年卒
- 菅原 勉 文英1966年卒
- 竹内 光 文新1962年卒
- 反畑誠一 文新1960年卒
- 増田一也 文新1966年卒
- 増田道子 外西1968年卒
- 深澤雅子 文独1977年卒
- 向井昌子 文英1966年卒
- 山本明夫 文新1971年卒