今回は、NHK制作DVD29巻目の映像──
ホテルニュージャパン火災・日航機羽田沖に墜落・ミッテラン仏大統領訪日・サッチャー英首相訪日・東北および上越新幹線開業・臨時行政調査会(臨調)基本答申・教科書検定問題・長崎集中豪雨・IBM産業スパイ事件・三越事件・ゲーム機警察汚職事件・日本シリーズ西武初優勝・ソ連ブレジネフ書記長死去・鈴木首相退陣を表明・自民党総裁選挙四氏が立候補・中曽根康弘内閣発足・中曽根首相訪韓・中曽根首相訪米・中川一郎氏自殺・中学生ら浮浪者を襲う・戸塚ヨットスクール問題・NHK連続テレビ小説「おしん」人気を呼ぶ・行政改革大綱決まる・参院選初の比例代表制導入・社会党飛鳥田委員長辞意により石橋委員長選出・死刑囚再審の免田事件で無罪判決・日本海中部地震・山陰地方に集中豪雨・三宅島噴火・OPEC基準油価引き下げ・ウィリアムズバーグサミット開幕・大韓航空機撃墜事件・米原子力空母カールビンソン佐世保に入港・田中元首相に実刑判決・第37回衆議院総選挙・第2次中曽根内閣発足ほか約50分を視聴後、この時代を振りかえる話し合いをしました。
この2年間のうち、特に注目されるのは、「臨時行政調査会」(臨調)と「臨時行政改革推進審議会」(行革審)を発足させ、大きな成果をあげたことでしょう。ともに、会長は謹厳実直な人柄と行動力の持ち主で「ミスター合理化」「行革の鬼」といわれた「土光敏夫」でした。土光は、石川島播磨重工業の社長をへて、経営危機に陥っていた東芝の経営再建を依頼されて社長に就任し、経営危機を乗り越えた手腕の持主で、その後第4代経団連会長に就任し、「第1次石油ショック」の際には、財界が一体となって減量経営に成功していました。この時期の国家財政は、赤字公債の累積が60兆を越えていたため、放置すれば増税がさけられません。土光はあえて、「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、減量経営を政府に対して要求します。鈴木善幸内閣とそれにつづく中曽根康弘内閣もこれに応えて、大きな成果をあげたことは特筆されます。このあたりの流れは、「この時代の背景」をごらんください。
なお、後半は、メンバーの竹内光氏から提案があり、8月29日に実施された「参火会」8月臨時会『「TBS「世界遺産」放送20周年記念企画「世界遺産」20年の旅展』観賞、および懇親会についての報告がありました。参加者は、竹内光・小田靖忠・増田一也・増田道子・酒井義夫(敬称略)の5名でしたが、展示内容・4K画像のすばらしさなど、感動的なものがあり、来年1月からスタートする「世界遺産研究会」に役立たせる予定です。記念写真は、横浜中華街の一角にある「新聞の父・ジョセフ彦」記念碑前の参加者。
「この時代の背景」
2度にわたる「石油ショック」(第1次……昭和47~48年・第2次……54~55年)を難なく突破した日本経済は、好調な輸出をバネにして、昭和57・58年ともに、欧米先進国の苦戦に反し、国民総生産(GNP)は3~4%の安定成長を維持してきました。日本が、資本主義世界第2位の経済大国となったことは明らかで、特に、自動車・テレビ・VTRなどの電気製品を中心とする耐久消費財の輸出の伸びはすさまじく、アメリカをはじめヨーロッパ先進諸国との貿易摩擦が大きな問題になってきました。
自動車の生産で、昭和55年に日本は、年間自動車生産台数が1104万台となり、800万台のアメリカを大きく上回って、世界一の生産国になりましたが、その勢いはおとろえを見せず、昭和58年末には世界の生産量の25%を占めるに至ったばかりか、テレビの生産台数も20%、造船量では世界全体の半分(50%)と驚異的な数字となっています。
対ソ連と対決姿勢を見せるアメリカのレーガン政権は、経済大国となった日本に対し、大国の責任として軍事負担の増額を強く求め、日米軍事同盟関係の強化をせまりました。この圧力を受けて鈴木善幸首相は防衛費を特出せざるを得ず、財政再建の公約を果たせないこともあって、昭和57年10月、突然の退陣を表明したのでした。
自民党の後任総裁選びは、河本敏夫を推す岸信介ら反田中派に対し、田中角栄は中曽根康弘を推しました。中曽根総理・福田赳夫総裁という分離案も出ましたが、最終的な予備選挙の結果、田中元総理の強力な支援を得た中曽根が、圧倒的多数を獲得して当選をはたしました。そのため中曽根は、田中派系列から後藤田正晴、秦野章、竹下登ら7人を大量入閣させたため、「角影内閣」といわれる中曽根内閣が、57年11月に出現しました。
中曽根は、新任早々の58年1月に訪米すると、18日にレーガン米大統領との首脳会談を行って、「日米は、太平洋をはさんだ運命共同体」と発言。さらに翌日行われたワシントンポストの取材には「日本列島を不沈空母化する」と述べたことは、賛否両論となって話題となりました。また、中曽根のめざす防衛費のGNP1%枠突破は、自民党内にも抵抗があり、60兆円を越える赤字国債の利子負担という財政事情のもと、防衛費の増額は、大きな国内問題となりました。
それらが影響して、58年12月の衆議院選挙で、自民党は大きく議席を減らし、新自由クラブと連立することで、かろうじて政権を維持しました。こうして第2次中曽根内閣は発足しましたが、中曽根の政治手腕は、「ローテーション内閣」(田中角栄の辞任から、三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸と、ほぼ2年ごとに首相がかわる)といわれてきた短命内閣とは一味違うものがありました。
その骨格となったのが、経団連の会長だった土光敏夫を会長に起用した「臨時行政調査会」(臨調)でした。臨調は、56年に中曽根が鈴木内閣の行政管理庁長官のとき、消費税導入が不可能になったなかで、財政再建のためには、思い切った行政改革を実現するほかはないと判断したことからスタートしたものでした。「増税なき財政再建」を旗印に掲げた土光臨調は、第1次石油ショック後に財界が実行した減量経営を、政府に対して要求したものでした。
土光臨調は、つぎの5点に要約できそうです。① 答申に対し、政府は必ず実行すること。② 徹底的な行政の合理化をはかり、小さな政府をめざすこと。③ 中央政府だけでなく、地方自治体を含む日本全体の行政合理化・簡素化をめざすこと。④ 3K(国債・国鉄・健康保険)の赤字解消や特殊法人を整理すること。⑤三公社(国鉄・専売公社・電電公社)の民営化への提案など、5次にわたる答申をして、いったん解散をしました。
そして58年7月、中曽根は首相の諮問機関として、こんどは「臨時行政改革推進審議会」(第1次行革審)を発足させ、再び土光敏夫を会長に、官業の民営移管を徹底的に行っていきました。その後の行革審は、3次にわたるものになりますが、電電公社・専売公社の民営化や国鉄の分割・民営化などは、次回以降の業績となります。
(文責・酒井義夫)
「参火会」9月例会 参加者
(50音順・敬称略)
- 小田靖忠 文新1966年卒
- 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
- 郡山千里 文新1961年卒
- 酒井猛夫 外西1962年卒
- 酒井義夫 文新1966年卒
- 菅原 勉 文英1966年卒
- 谷内秀夫 文新1966年卒
- 竹内 光 文新1962年卒
- 反畑誠一 文新1960年卒
- 増田一也 文新1966年卒
- 増田道子 外西1968年卒
- 向井昌子 文英1966年卒
- 山本明夫 文新1971年卒