2018年1月24日水曜日

第39回「参火会」1月例会 (通算403回) 2018年1月23日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第1回目 ヨーロッパ篇① スペイン・イギリス・クロアチア

今回は、下記資料「1-①~⑰+番外編」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」制作 1-①~⑰ の映像約42分を視聴した。



1-① セゴビア旧市街と水道橋
文化遺産 スペイン 1985年登録 登録基準①③④
● 時代を越えた大建築物が立ち並ぶ要塞都市
マドリードの近郊二つの川にはさまれたセゴビアは、自然を有効活用した要塞都市。BC80年には、ローマ帝国の支配下に入ったイベリア半島の交通の要所あったこの地は、ローマ帝国にとって重要で、ローマ人の築いた水道橋は、128の2層のアーチからなり、全長813m最後部の高さ28.5mという規模を誇る。12世紀になると、カスティリャ王国のアルフォンソ6世が、ローマ時代に要塞として建造された建物を改造し、アルカサル(王宮)とした。この城は、ディズニー映画『白雪姫』の城のモデルになったといわれる。1525年に建造が始まったカテドラル(大聖堂)は、完成までに200年以上を要した後期ゴシック様式の大聖堂。

1-② アビラの旧市街と城壁外の教会群 
文化遺産 スペイン 1985年登録・2007年追加登録 登録基準③④
● イスラム勢力の防波堤となった街
マドリードから西北西約90kmにある「城壁と聖人の町」の別称で知られるアビラは、ローマ帝国の植民都市アベラが町の起源で、使徒ペトロの弟子による布教活動が行われた。714年にイスラム教徒の占領下に置かれるが、レコンキスタ(国土回復運動)によって1085年、アルフォンソ6世が町を奪還、キリスト教徒を再入植させることに成功した。イスラム教徒の再侵入を恐れたアルフォンソ6世の娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャは、街を要塞化するべく城壁を建設。88棟の塔、9つの門を持つ全長約2.5km、高さ平均12m、厚さ約3mの大城壁を9年かけて完成させ、東側には、大聖堂をつくって城壁と一体化させた。大聖堂には、エル・シモロと呼ばれる塔が設けられた。城壁の完成とほぼ同時期の11世紀末には、この街に古くからあるサン・ビセンテ教会の再建も開始された。また16世紀には、聖テレサ(アラビア生まれの聖人で、カルメル会女子修道院を創設)が、城壁外にサン・ホセ修道院を建立している。

1-③ サラマンカの旧市街
文化遺産 スペイン 1988年登録 登録基準①②④
● スペイン最古の大学とスペイン独自の装飾様式
マドリードの西北西に位置するサラマンカの始まりは、古代ローマのころトラヤヌス帝によって建設された植民都市で、ローマ帝国の滅亡とともに、イベリア半島の大半はイスラム帝国の支配下に入った。レコンキスタが進み、この地がキリスト教圏になると、1218年アルフォンソ9世によってサラマンカ大学が設立された。サラマンカは「知識を欲するものはサラマンカへ行け」と言われ、スペインの繁栄とともに発展した。街の象徴ともいえるサラマンカ大学は、ボローニャ、パリ、オックスフォードと並ぶ世界四大大学に列せられている。街には大学校舎が点在しているが、イスラム様式からヨーロッパのゴシック様式、サン・エステバン修道院のバロック様式などヨーロッパの建築文化が集積され、酸化鉄を含んだ石材からなる建造物など、サラマンカは比類なき美しい町と賞賛されている。

1-④ アントニ・ガウディの作品群
文化遺産 スペイン 1984年登録・2005年追加登録 登録基準①②④
● 美しい曲線を描く天才ガウディの作品群
スペイン東部カタルーニャ地方の港湾都市バルセロナは、首都マドリードに次ぐ第2の都市。1984年に、バルセロナのカサ・ミラ、グエル公園、グエル邸の3件が1984年に世界遺産に登録され、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂の一部、カサ・ヴィセンス、カサ・バトリョ、コロニア・グエル聖堂の地下聖堂の4件が2005年に追加登録された。サグラダ・ファミリアは今も建設中。孤高の建築家といわれるアントニ・ガウディは、1852年に銅板器具職人の息子としてバルセロナに生まれた。バルセロナの建築学校に進学し、苦学の末に建築史の資格を取得。実業家のエウセビオ・グエルに会うと、グエルはガウディの良き理解者となり、パトロン的存在として自邸や別邸の設計を依頼したほか、数々の傑作建設に貢献した。1883年にガウディは、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂の建築主任となり、晩年はその設計に専念するものの、1926年に建築途中の聖堂を残し交通事故で世を去る。カタルーニャ地方で興った芸術運動モデニスモを代表するガウディの建築作品の斬新さは、後世の芸術家に多大な刺激と影響を与えた。

1-⑤ 古都トレド
文化遺産 スペイン 1986年登録 登録基準①②③④
● 三大宗教の文化が混在するスペインの古都
スペインの首都マドリードから南へ約70kmに位置するトレドは、タホ川が取り囲む花こう岩の岩山にある。伝説によれば、方舟で知られるノアの末裔によって開かれ、ローマ帝国や西ゴート王国の支配後、711年からイスラム勢力の統治下におかれ、レコンキスタの末、1085年にキリスト教徒の手に戻り、カスティリャ王国の首都となった。このような歴史背景をもつため、トレドにはユダヤ・キリスト・イスラムの各信者が宗派を問わずくらしていた。しかし、1492年にレコンキスタが終了すると一転、キリスト教徒による迫害がはじまり、イスラム教徒は去っていった。1561年にフェリペ2世が宮廷をマドリードへ移すまで栄えていた。こうした特異な歴史の中で作られた建造物は珍しく、観光スポットにもなっている。中でも有名なのが「トレド大聖堂」で、1227年に着工、完成は1493年。長い年月がかかったため、ゴシック様式のカテドラルの中に、一部ムデハル様式(イスラム様式)の部屋が存在するなど珍しい造りとなっている。トレド大聖堂は、現在でもスペイン・カトリックの大本山であり、キリスト教の中心地でもある。トレド大聖堂の他に、イサベル様式(ゴシック様式とムデハル様式が混在)の代表的なものとして「サン・ファン・デ・ロス・レージェス修道院」がある。古都トレドが生み出したものは建造物だけではなく、スペインの絵画三大巨匠のひとりエル・グレコが16世紀半ばにトレドへ移住し、多くの作品を残している。世界3大絵画の一つといわれる「オルガス伯の埋葬」は、「サント・トメ教会」で見ることができる必見の傑作。

1-⑥ コルドバの歴史地区
文化遺産 スペイン 1984登録・1984年追加登録 登録基準①②④
● レコンキスタ前と後の建築が共存する地区
スペインの南西部アンダルシア地方にあるコルドバは、イスラム・ユダヤ・キリスト教の文化が融合する商業都市。711年、北アフリカからやってきたイスラム教徒のムーア人がイベリア半島を征圧し、コルドバはその王朝の首都として、ヨーロッパにおけるイスラムの重要拠点となる。10世紀には、人口が10万以上となり、コンスタンティノープルやバクダッドと並び称されるほど大都市として繁栄、何百というモスクが立ち並んだ。いっぽう、コルドバはキリスト教世界がめざすレコンキスタの対象都市となり、カスティーリャ王国のフェルナンド3世により、1236年に奪還された。イスラム独特の馬蹄型アーチやモザイク装飾のミフラーブが残る「メスキータ」がキリスト教の聖堂になるなど、この地は急速にキリスト教文化が浸透していった。このように2大宗教の統治下にあったことにより、両者の文化が色濃く残る建築物が多数残されている。これは、イスラム支配下の時代に、他宗教に対し寛容な措置がとられていたことが強く影響している。異文化を折衷したことにより、コルドバには他の都市には見られない、独特の中世の面影が残っている。ユダヤ人街が残されていたり、迷路のように入り組んだ路地や白い壁に囲まれたパティオと呼ばれる中庭など、イスラム文化のたたずまいも残されている。 

1-⑦ セビーリャの大聖堂・アルカサル・インディアス古文書館
文化遺産 スペイン 1987登録・2010年追加登録 登録基準①②③④
● イベリア半島の歴史を映す建築物群
スペイン南西部のセビーリャの大聖堂・アルカサル・インディアス古文書館と、3つの建築物は、同じ都市にありながら異なる時代に誕生し、異なる意味を持つ。セビーリャの大聖堂は、本来はイスラム教徒が築いた大モスクだったが、レコンキスタ後にキリスト教の大聖堂に改修された。1401年、さらなる改修の命令が下され、完成までに125年がかかった。長期間の工事だったため、ゴシック、ゴシック・リバイバル、ルネッサンス様式が複雑に入り込む特異な建築物となった。構造は五廊式(列柱が左右2列)で、カトリック教会としては、トレド大聖堂と並び、国内最大。礼拝堂にある祭壇衝立はカトリックの中でも最大で、隣接する「ヒラルダの塔」と呼ばれる鐘楼は98mを誇るセビーリャのシンボルとなっている。

1-⑧ グラナダのアルハンブラ宮殿、ヘネラリーフェ離宮、アルバイシン地区
文化遺産 スペイン 1984年登録・1994年追加登録 登録基準①③④
● イベリア半島最後のイスラム王朝が残した芸術的宮殿
アンダルシア地方のグラナダにあるアルハンブラ宮殿、ヘネラリーフェ離宮、アルバイシン地区は、イスラム勢力によるイベリア半島支配期に築かれたイスラム文化の面影を残す遺構。1238年イスラム勢力支配者だったサスル族のムハンマド1世が住民に招かれてグラナダ王国が興るが、レコンキスタによるキリスト教徒から攻撃を受け、1492年に滅亡。宮殿の中心には、王のプライベート空間として建設された「ライオン宮」と、王が公務を行う「コマーレス宮殿」がある。宮殿の各部屋には大理石の床や化粧漆喰のアラベスク文様、透かし彫りの窓など、華麗な装飾に彩られている。

1-⑨ ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター・アビーとセント・マーガレット教会
文化遺産 イギリス 1987年登録・2008年追加登録 登録基準①②④
● イギリス王室の歴史を刻む壮大な建築物群
ロンドンの中心部に位置するウェストミンスター地区には、ウェストミンスター宮殿、それに隣接するウェストミンスター・アビー(修道院)とセント・マーガレット教会など、11世紀に建てられた宮殿や大修道院など歴史的建築物が並んでいる。宮殿と修道院は、敬虔なキリスト教徒だった懺悔王の名で知られるエドワード王によって建てられた。これらはゴシック様式の傑作であるとともにイギリス王室と議会、教会を象徴するものだった。ウェストミンスター宮殿は、16世紀にヘンリー8世がロンドン市内のホワイトホールに王宮を移すまで国王の主な住居で、1547年の寄進礼拝堂解散法により、国会議事堂として使用されるようになった。

1-⑩ ロンドン塔
文化遺産 イギリス 1988年登録 登録基準②④
● イギリス王室を象徴するノルマン様式建造物
テムズ川沿いにそびえるロンドン塔は、11世紀にイギリスを征服したノルマンディー公ウィリアム1世が、強い自治意識をもつロンドン市民を威圧する目的で建造した砦。歴代の王が居住したロンドン塔は、中世以来、王立動物園、天文台、造幣所が作られた。ロンドン最古の建築物であるロンドン塔は、建設当初は簡素な木造だったが、石材を使用したノルマン様式で改築され、1097年、ウィリアム1世の息子ウィリアム2世によって完成された。27mの楼閣は当時としては最も高い建造物で、その石材の白さから「ホワイト・タワー」と呼ばれている。

1-⑪ エディンバラの旧市街と新市街
文化遺産 イギリス 1995年登録 登録基準②④
● スコットランドの盛衰を体現する都市
スコットランドの首都エディンバラは、中世の街並みを残す旧市街と、18世紀から整備された碁盤目状の新市街で構成されている。旧市街の代表的建造物のエディンバラ城は、7世紀につくられた砦が起源だといわれているが、現在みられるノルマン様式の建築は、18世紀に再建されたもので、軍事博物館になっている。エディンバラ城の東には、今も王室の滞在地として使用されているホリールード宮殿がそびえている。このふたつをつなぐ1.6kmのメインストリートは「王宮通り」と呼ばれ、この途中には、12世紀前半に創建された聖ジャイルズ大聖堂がある。他にも数多くの歴史的建造物がある旧市街では、現在、新しい建物を建てることは禁止されている。新市街は、区画整理された美しい街並みが特徴で、西側にあるシャーロット広場は、都市における新古典派の傑作と評されている。

1-⑫ ストーンヘンジ、エイヴベリーの巨石遺跡
文化遺産 イギリス 1988年登録・2008年追加登録 登録基準①②③
● 多くの謎に包まれた先史時代の巨石群
イングランドの南部、ソールズベリー平原に存在するストーンヘンジは、先史時代に築かれた大規模な環状列石。ヘイジとは、メンヒルと呼ばれる立石の上に水平に石を載せて連結させた構造物のこと。ストーンヘンジの北約30kmにあるエイヴベリーにも巨石遺跡が残っていて、こちらは1.3kmの外周に100個のメンヒルが配置され、内側には中心部の祭祀場を囲むようにふたつのストーン・サークルが設置されている。発掘された土器の破片により、紀元前3000年ごろには存在したといわれ、エイヴベリーの石を流用してストーンヘンジが作られたという説もある。

1-⑬ ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸
自然遺産 イギリス 1986年登録 登録基準⑦⑧
● 巨人がつくったという伝説の残る石柱群のある海岸
アイルランド島北端の海岸線に位置するジャイアンツ・コーズウェイは、約6000万年に地殻変動でできた正6角形をした約4万本の玄武岩の石柱が約8kmにわたって連なる海岸。この壮大な奇観は、この地方に伝わる巨人伝説にちなんで、ジャイアンツ・コーズウェー(巨人の石道)と名づけられた。これは大量のマグマが冷える過程でできた自然現象で、地球創世の歴史を知るうえで貴重な遺産となっている。

1-⑭ ドゥブロヴニクの旧市街
文化遺産 クロアチア 1979年登録・1994年追加登録 登録基準①③④
● 内戦から復興を遂げた要塞都市
クロアチアの南部、アドリア海に面するドゥブロヴニクは、7世紀初頭から海上交易の重要拠点として発展。美しい街並みから「アドリア海の真珠」とうたわれた。13世紀に共和制の自治都市となって以降、次々と宗主国を変えながらも、独自の立場で共和国として自由を保持していた。城壁に囲まれた旧市街と城壁外の歴史地区の一部が世界遺産に登録されていて、約25mの城壁が街の4つの要塞を結んでいる。ユーゴスラビア内戦で深刻なダメージを受けたが、内戦の終結によって平和がもどると、すぐに復興工事が進められた。

1-⑮ スプリットのディオクレティアヌス宮殿と歴史的建造物
文化遺産 クロアチア 1979年登録 登録基準②③④
● ローマ宮殿の跡に築かれた街
スプリットにあるディオクレティアヌス宮殿と歴史的建造物は、古代ローマ皇帝ディオクレティアヌスが295年から建造させた建築物群。皇帝の死から数百年を経た7世紀、スラブ人などの攻撃で宮殿とサロナの街は甚大な被害を受けた。サロナの街の人々はスプリットに移り住み、宮殿の石材を使ってその敷地内に新たな街を築き始めた。その後、さまざまな勢力の支配を受けたスプリットの街には、ローマ遺跡の上に、ゴシック、ルネサンス、バロックなどいくつもの建築様式が融合した街並みが見られる。

1-⑯ 歴史都市トロギール
文化遺産 クロアチア 1997年登録 登録基準②④
● 中世美術の至宝が残る要塞都市
クロアチア南部、アドリア海に浮かぶトロギールは、紀元前385年ごろにギリシャの植民地として建設された要塞都市。もとは半島の一部だったが、中世に敵の侵入を防ぐため周囲に水路を設けて島になった。半島から分離することで、防衛力を高めた。旧市街の中心である広場の周りには、11世紀に再建された聖バルバラ聖堂、15世紀にルネサンス様式で建てられたタウンホールなどが並んでいる。その中でも有名なのが聖ロプロ大聖堂で、完成に3世紀を要し、ルネサンス様式の礼拝堂やゴシック様式の聖歌隊席などさまざまな建築様式が混在している。

1-⑰ シベニクの聖ヤコブ大聖堂
文化遺産 クロアチア 2000年登録 登録基準①②④
● ゴシックとルネサンスが融合するヨーロッパ屈指の名建築
クロアチア南西部の街シベニクにある聖ヤコブ大聖堂は、15世紀にシベニクの大評議会が、当時のイタリアの建築家に依頼して建造した。当時、この聖堂はヴェネチアの支配下で貿易港として発展していたシベニクの象徴だった。ユーゴスラビア内戦で大規模な破壊を受けたが、現在は完全に修復された。大聖堂のユニークな設計は、当時クロアチアのアドリア海沿岸と、北イタリアやトスカーナ地方との間で芸術交流が盛んだったことを伝えている。


☆ 世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や伝統・思想・信仰など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象をもつ地域
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


上に紹介した以外の「世界遺産」(番外)

サンティアゴ・デ・コンポステーラ(旧市街)
文化遺産 スペイン 1985年登録 登録基準①②⑥
● 聖ヤコブが眠るキリスト教3大巡礼地のひとつ
イベリア半島の最西端にある「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」は、バチカン、エルサレムと並ぶキリスト教3大巡礼地のひとつ。9世紀初頭にアストゥリアス王国のアルフォンソ2世が聖ヤコブをまつる聖堂を建設したが、10世紀末、イスラム勢力によって破壊された。現在の聖ヤコブが眠る大聖堂は、1128年に築かれたが、その後も増改築がくりかえされ、「黄金に輝く傑作」と呼ばれるチェリゲラ様式のファサード(正面部分のデザイン)が完成したのは1750年のこと。また「栄光の門」と呼ばれる大聖堂の正面門は、彫刻家マテオが20年の歳月をかけて1188年に完成させた。なお、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路は1993年、フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路は1998年、世界遺産に登録されている。

バレンシアのラ・ロンハ・デ・ラ・セダ 
文化遺産 スペイン 1996年登録 登録基準①④
● バレンシアの富を象徴するゴシック建築
マドリード東南に位置しスペイン第3の都市バレンシアにあるラ・ロンハ・デ・ラ・セダは、この地の主要な建物を手がけていた建築家ペレ・コムプテによって、1482年に建造がはじめられた絹(セダ)の商品取引所(ロンハ)。1498年に塔と実際に取引が行われた大ホールが完成、後期ゴシック建築の建物全体は1533年に完成した。重厚で豪華なつくり、壁面には繊細で独自の石造装飾がほどこされ、床にはイタリア産の大理石がふんだんに使用されるなど、当時のバレンシアの経済力の大きさを偲ばせる。

プリトヴィツェ湖群国立公園
自然遺産 クロアチア 1979年登録・2000年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨
● 階段状の湖とそれをつなぐ滝との景観をもつ自然保護区
クロアチアの首都ザグレブの南約100㎞にある、総面積295㎢の「プリトヴィツェ湖群国立公園」は、エメラルドグリーンの水をたたえる大小16の湖が、92の滝によってつながる幻想的な風景が見られる。この一帯を流れるプリトヴィツェ川の水は炭酸カルシウムの濃度が高く、川の急勾配で沈殿した炭酸カルシウムが石灰化して川の水をせき止めたため、長い年月のうち川の途中にいくつもの湖が形成された。1991年、この地はセルビアとの内戦に巻き込まれ、1992年に危機遺産登録されたが、内戦終了後にクロアチア政府が保全措置をとったため、1997年に危機遺産リストから脱した。一帯は植物群落の多様性が特筆されるほか、動物種や鳥類に関してもきわだった多様性を示している。ヨーロッパ種のヒグマやオオカミ、ワシミミズク、ワイルドキャット、オオライチョウといった稀少動物種が見られるほか、鳥類は少なくとも126種が記録され、そのうち70種以上がこの湖群を繁殖地としている。


以上の映像を視聴後、今回の講師役酒井猛夫を中心に次のような補足説明が行われ、メンバーとの対話や討論などが活発におこなわれた。

1-⑤「古都トレド」


スペインの3大画家といえば、ベラスケス、ゴヤ、グレコがあげられる。この3人は、パリのルーブル美術館、ロンドンのナショナルギャラリーと並び世界3大美術館のひとつとされるマドリードの「プラド美術館」の中心画家でもある。ギリシャのクレタ島出身のグレコは、トレドとは切り離すことができない人物で、ヴェネチアのティントレットらに学んだ後、30歳半ばの1570年にスペインに移り、ギリシャ人を意味する「エル・グレコ」を名乗って、トレドを住家(現在はグレコ美術館)に多くの作品を描き、人気画家になった。その作品の多くは宗教画で、代表作は『聖衣剥奪』『悔悛するマグダラのマリア』『聖母被昇天』など。特にトレド「サント・トメ聖堂」の礼拝堂を飾る『オルガス伯の埋葬』は、ベラスケスの『ラス・メニーナス(宮廷の待女たち)』、レンブラントの『夜警』と並び、「世界3大名画」の一つとして高く評価されている。



1-④ アントニ・ガウディの作品群

「サグラダ・ファミリア」は、民間のカトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人たちの聖家族」に捧げる贖罪教会として建設を計画したもので、ガウディは、1883年から引き継いだ2人目の建築家。彼のライフワークともなる「未完の大教会・サグラダ・ファミリア」は、現在でも日本の彫刻家外尾悦郎氏ら200人以上の人たちが工事を続行しており、教会内部の見学・入場料で、建築経費を賄っているという。2026年ころまでに完成するというが、「神様は完成をお急ぎにならない」と考える人が多いようだ。



ガウディの作品群の中でも、バルセロナの小高い丘の上に建てられた「グエル公園」も必見。トカゲの噴水、お菓子の家のような「門衛の詰め所」、多彩色のタイル陶片を埋め込んだベンチ、椰子の木を題材にした柱廊の傾いた支柱など、ガウディの構想力の豊かさに驚かされる。



1-⑧ グラナダのアルハンブラ宮殿
この宮殿は、レコンキスタにより、イスラム支配がグラナダだけになった13世紀前半に、ナスル朝ムハンマド1世により着工し、城塞アルカサバが造られてから約170年後に完成したイスラム王朝最後の砦。1492年にグラナダは陥落し、王族は宮殿から追放された。しかし、イスラム文化を象徴する建物群や庭園などは破壊されることはなく、今日まで引き継がれている。この宮殿にいると、名目上の勝者が敗者に飲み込まれている感じさえもする。宮殿は、1230~40年に建てられた城塞「アルカサバ」、「王宮」、王族の離宮と庭園「ヘネラリフェ」、「カルロス5世宮殿」があるが、特に1万4千㎡という広大な敷地にあり、イスラム芸術の粋を集めた「王宮」はまさに圧巻。イスラムは、偶像崇拝が禁じられていたため、装飾には幾何学模様(アラベスク模様)が多く用いられる。王宮には「大使の間」「メスアールの中庭」「アラヤヌスの中庭」「二姉妹の間」「諸王の間」「ライオンの中庭」などがあるが、それぞれに工夫されたアラベスク模様に見とれてしまう。



「閑談休話」 タブラオ(フラメンコショーをやるレストラン)のこと
酒井兄弟は、2003年10月と2008年4月、2度いっしょにスペイン旅行をしたが、2度ともグラナダで「タブラオ」に出会った。2003年は、200人以上も入る劇場化した規模とマイクを通した歌声には多少違和感を感じた。2008年は、洞窟の中のショーで、うなぎの寝床のような穴倉に100人ほどがすし詰め状態で、いかにも観光地化しすぎているようでなじめなかった。実は酒井弟は30年前に、営業マン7人を連れてマドリードを訪れたことがあり、この時は、王宮近くのタブラオで、本場の「フラメンコ」に出会って感動したことを、つい最近のようにはっきり覚えている。目の前の舞台で踊る迫力、タップをはるかに越えるすさまじい勢いで床をたたきつける足技、何ともエキゾチックな歌とギターのコンビネーション……。2時間ほどがあっという間に過ぎ、全員大満足で帰国したものだった。2008年のマドリードでも、最終日の前日にオプショナルで「フラメンコショー」があるというので、兄夫妻と申し込み、ツァー仲間の大半とともに参加した。初めて出会ったあのフラメンコの店だったらラッキーだし、もし不満足だったら、最終日の夜、ガイドブックで目星をつけたあの店に行ってみようと計画していた。それがまさにラッキー、30年前のタブラオ「トレス・ベルハメス」だった。


アルハンブラ宮殿のアラベスク模様を擬した室内装飾を見たとたん、30年前の記憶がすぐよみがえってきた。そして、華やかで情熱的なショーは、あの日を彷彿とさせるもので、今回も参加者全員が満足したことが、拍手や歓声、表情から読みとれた。なお、日本にも本場のフラメンコを観賞できる「タブラオ」があるのをご存知だろうか。新宿の伊勢丹会館6階にある「エル・フラメンコ」は、1967年創業以来51年目をむかえ、毎晩2回のショーが行われている。すでに私(酒井弟)は、親類や友人・知人を誘って10数回訪れているが毎回はずれはなく、うまくすると本場以上のメンバーに出くわすことがある。

1-⑥ コルドバのメスキータ


1236年に、コルドバはキリスト教徒に再征服され、15世紀末から240年かけて、モスクの中にカテドラルが造られた。長期にわたった工事のために、ゴシック・ルネサンス・バロック様式が混在するといわれる。モスクの時代は19ヵ所に入口があったものが、現在2ヵ所になるなど、改築が行われたが、「円柱の森」といわれる850本の赤く塗られた柱など、モスク時代の原型は残された。2003年に訪れたときは、モスクを壊してカテドラルに変えたのは「キリスト教徒の暴挙」にも思えたが、2008年に訪れたときは「よくぞ原型に近いものを残した」と、キリスト教徒の懐の深さを讃えたい気持ちに変化した。もちろん、破壊する気持ちになれないイスラム文化が立派だったことでもあろう。メスキータの面積は、隣接する「オレンジの中庭」を含め、2.4万㎡もあり、これはメッカに次ぐ規模だという。

1-⑦ セビーリャの大聖堂


セビーリャ(スペイン語では「セビージャ」)は、日本ではビゼーの歌劇「セビリアの理髪師」が有名なため「セビリア」と呼ばれており、ビゼーを代表する歌劇「カルメン」の主人公カルメンは、セビーリャの煙草工場で働いていた。モーツァルトが1786年に作曲した歌劇「フィガロの結婚」、1787年作曲の歌劇「ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)」と、2つの名作もセビーリャが舞台で、画家ベラスケスや、ムリーリョもこの街の出身。この街を代表する「セビーリャの大聖堂」は、スペインの詩人リバスが「比類なき神聖なる浪費」と表現したように、世界でも3番目の規模を誇っている。奥行き116m、幅76m、ゴシックとルネサンスの混合様式の建築。この地は、12世紀までは西ゴートの教会堂があり、1172年にアルモハッド朝の支配下に入ってモスクが建設された。1248年キリスト教徒の奪回後、モスクをを基礎に1402年から約1世紀をかけて建造された。内部には93枚のステンドグラスが飾られて美しい光がさしこみ、「中央礼拝堂」には1000体以上の彫像でキリストの誕生・受難など聖書のエピソードを再現した220mもある祭壇衝立は必見。16世紀に建設された「聖杯室」には、ゴヤ、ムリーリョ、スルバインのらの美術品などが収められている。2008年に訪問した時は、隣接する「ヒラルダの塔」に上った。現在はカテドラルの鐘楼なっているが、もとはイスラムのミナレット(モスクに設ける尖塔)だった。1辺が13.6m、7層から成る四角形の塔で、高さ98mもある。キリスト教徒は、この塔の上に礼拝の時刻を告げる大小28個の鐘を乗せ、さらにその上に女性像を乗せて「風見鳥」役とした。我々が上れる70mの展望台から眺める光景も見事だった。カテドラルの「中央礼拝堂」の北側に、4人の男に担がれた「コロンブス」の墓がある。


4人の男は、胸の衣装からカスティーリャ・レオン・アラゴン・ナバーラと、4つのスペイン王国を表すといわれ、1899年にキューバのハバナのカテドラルから移送された。

「番外」 サンティアゴ・デ・コンポステーラ
2003年に「スペイン旅行」をしたにもかかわらず、2008年に「スペイン・ポルトガル旅行」を決めた最大の理由は、友人たちとの会話の中によく登場するキリスト教3大巡礼地のひとつ「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」訪問が含まれているからだった。9世紀初頭、星に導かれた羊飼いが、キリスト12使徒のひとりである「聖ヤコブ」(スペイン語でサンティアゴ)の墓を発見した。その地は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(星の野の聖ヤコブ)と呼ばれ、巡礼者がめざす一大聖地となった。11世紀になってから、聖地も巡礼路も整備され、巡礼者はサンティアゴの象徴とされるホタテ貝を身につけ、ズタ袋を背負い、杖を手にしてこの道をたどった。最盛期の11世紀には、その数は年間50万人を超えたという。巡礼路はいくつもあるが、フランスの西から入り、ブエンテ・ラ・レイナを経由してまっすぐ向かう道がもっともポピュラーなようで、世界遺産にもなっている。スペイン国内の巡礼路だけでも800㎞という途方もない長さがある。その中の100㎞を歩行した人・自転車で200㎞進んだ人には、今でも「巡礼証明書」が与えられるそうだ。キリスト教徒が聖地を巡礼することで、すべての罪が赦されると信じての長旅は、苦しさが伴うのも当然なのかもしれない。非信者とはいえ、我々がバスでラクラクとこの地に入り、この聖地に立っていることに、いささか後ろめたさを感じるのも事実。1075年に建設がはじまり、1世紀以上かかって完成した「大聖堂(カテドラル)」の見学がメインだが、この日はガルシア地方名物の小雨が降っていた。雨の中でのカテドラルの威厳さはさらに増したように思えた。オブラドイロ広場のファサードから中に入ると、200体以上の聖人像を刻んだ「栄光の門」に迎えられる。これは1166年から20年以上かけて建造されたもので、「ロマネスク芸術の最高傑作」といわれる。3つのアーチの中央がキリスト教徒、左がユダヤ教徒、右が異教徒のものとなっている。ここが「巡礼の道の終着点」で、巡礼の証明書を発行するオフィスもあった。主祭壇は、スペイン・バロック様式で、聖ヤコブの墓の上に造られている。


正面右手には、宝物庫や図書館、大きな香炉があり、香炉は風呂に入らずに歩き続けた巡礼者の体臭を消すのに使われたという。カテドラルばかりでなく、周囲の建物も壮大なもので、カテドラルの外れの小道には、巡礼者の故郷への土産になるのだろうか、たくさんの聖祭具を売っている店もあった。エスパーニャ広場に面し、カテドラルの北側には5つ星国営ホテルの「パラドール・デ・サンティアゴ・デ・コンポステーラ」がある。旧王立病院で、ローマ法王はじめ世界中のVIPが宿泊する。内部を見学し、写真にも収めた。その後、バスは東に位置するレオンに向かったが、巡礼者にとっては、西に向かって上りとなる最後の50kmが最大の難関といわれるが、バスはその逆に東に向かって下ることになる。バスの中で、巡礼者の苦難を想像していた。

1-⑭ ドゥブロヴニクの旧市街
酒井兄弟は、2011年4月にこの地を訪れた。この街は、イギリスの詩人バーナードショーが「地上の楽園を求める者は、ドゥブロヴニクに来たれ!」と記したように、魅力あふれる場所だった。ドゥブロヴニクの旧市街は城壁に囲まれた要塞の趣きがある。1537年に建設された半円形のピレ門から入り、オノフリオの大噴水や2万個以上の薬壺を保存した薬学博物館やヨーロッパで3番目に古い薬局のある「フランシスコ修道院」を見学、カフェや銀行、土産者屋などが並ぶプラツァ通りを歩き、スポンザ宮殿や大聖堂をのぞいた。もっとも楽しかったのは、自由時間に歩いた城壁散歩。ピレ門そばの階段から逆時計回りで一周に挑戦した。城壁の幅は3~5mあって歩くのに不自由はなく、城壁の高さは平均10mで最も高いところが25mほどだった。城壁の西側は赤い瓦屋根の家々が並び、東がアドリア海で、海に向けて大砲も置かれていた。振り返ると、歩いたばかりの「プラツァ通り」だが、高いところから見ると感じが全く違うのに気づいた。城壁を進むと「ポカール要塞」があり、アドリア海が大きく広がるのは爽快でもある。城内を見ると、洗濯物を干す家もあって違った楽しみもわいてくる。この地を訪れる人には、ぜひ歩いてほしい散歩道だ。昼食後は、ケーブルカーに乗って標高412mの「スルジ山」に向かう。このケーブルカーは1991年の内戦で破壊されたのが、2010年に復活したのは幸運だった。山頂から見るドゥブロヴニクの赤い屋根と海の青のコントラストはまさに絶景だった。


なお、この日は、4年ぶりの大雪となってしまい、雪かきで腰を痛めるなど、出席予定の3名の方が欠席となってしまったのは残念でした。

(文責 酒井猛夫・酒井義夫)


「参火会」1月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒