今回は、下記資料「4-①~⑭」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した 4-①~⑭ の映像約42分を視聴した。
4-① ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り
文化遺産 ハンガリー 1987年登録・2002年範囲拡大 登録基準②④
● ハンガリーの苦難と栄光の歴史を刻む街
ハンガリーの首都ブダペストはその美しさに定評があり、「ドナウの真珠」「ドナウのバラ」「ドナウの女王」など、それを称える異名をいくつも持っている。ドナウ川西岸のブダ地区と東岸のペスト地区からなり、もともとはブダとオーブダ、ペストの3地区の街だった。1848年にドナウ川に架けられた「くさり橋」(鋼鉄のチェーンが375mの橋を釣り下げて支えている)によって合併の機運が高まり、1873年に合併した。ブダ地区は、9世紀にこの地区に入ったマジャル人が建国したハンガリー王国の都として繁栄した。丘に建てられたブダ城は、時代とともに増改築がくりかえされた。さまざまな他民族に支配され翻弄され続けた歴史を象徴する建造物で、16世紀半ばにオスマン帝国に征服されてからは、ブダ城の一部は火薬保管庫とされ、その後火薬の爆発で潰滅的被害を受けた。17世紀後半にハプスブルク家がオスマン帝国から街を奪還すると、廃墟になっていたブダ城は、バロック様式で再建、さらに18世紀にマリア・テレジアの命で大増改築が行われた。第2次世界大戦でドイツ軍とソ連軍の戦闘で大きな被害を受けたが、戦後に修復され、今の姿になっている。ペスト地区は、国会議事堂(皇妃エリザベートの努力で自治国家となった象徴として建築がはじまり、20年後の1904年に完成)や官公庁が立ち並ぶ。1872年にはアンドラーシ通りが敷設され、ハンガリー建国千年祭が開かれた1896年には、この通りの下にヨーロッパ大陸初の地下鉄が開通した。
4-② プラハ歴史地区
文化遺産 チェコ 1992年登録 登録基準②④⑥
● 「黄金のプラハ」と呼ばれた東欧・中欧のモデル都市
チェコの首都プラハは、たくさんの歴史的建造物により、「黄金の街」「魔法の都市」「建築博物館」などと称えられ、世界でもっとも美しい街の一つに数えられている。1000年以上の歴史を誇る街並みにはロマネスク、ゴシック、ルネサンスからロココ、アール・ヌーヴォーまで、あらゆる建築様式が混在し、カフカ、リルケ、ドヴォルザーク、スメタナらを輩出し、モーツァルト、シューベルト、ミュシャらが愛した街だけに、ゆかりの文化財も数多い。6世紀後半、スラブ民族がモルダウ川の岸辺に集落をつくり、7世紀に丘の上に砦を築いたのが起源で、880年ころモルダウ川左岸にプラハ城の前身となる城塞が築かれ、900年にこの川の右岸にヴィシェフラト城が建造されると、2つの城にはさまれた区域に人口が集中。973年に司教座がプラハに設置されると、市域は広がって人口も増加し続けた。14世紀半ば、ボヘミヤ王のカレル1世が神聖ローマ帝国カール4世として即位すると、プラハは帝国の首都となった。カール4世は、帝都にふさわしい都市とするためにイタリアやドイツから高名な芸術家を招へいしたり、1348年からプラハ旧市街の隣に新市街の建設をはじめると、プラハは人口5万人面積7.6㎢におよぶ中央ヨーロッパ随一の都市へと成長した。しかし、15世紀初頭、教会の規律の乱れを危惧するプラハ大学教授のヤン・フスが教皇を批判して火刑に処されると、この処置に抗議するフス派と、神聖ローマ皇帝やカトリック教会との間に「フス戦争」がおこり、プラハは戦乱の舞台となって、戦争終結後も混乱がつづいた。16世紀からハプスブルク家が国王になると、少しずつカトリック化が進み、ルネサンス風の建物も登場した。17世紀前半にはプロテスタントが反乱をおこして三十年戦争のきっかけをつくったが、皇帝軍の前に敗退し、本格的にカトリック化が進んだ。現在プラハには3670もの建造物があるが、そのうちの1500余りが、歴史的・文化的価値があると認められている。なかでも『プラハ城(聖ヴィート大聖堂)(聖イジー聖堂)』『カレル橋』『ストラホフ修道院』『ティーン聖堂』『旧市庁舎(オルロイ天文時計)』は人気が高く、特に日本になじみのあるザビエルら30体もの聖人像のある全長560m・幅10m・車両通行禁止のカレル橋は、いつも大きなにぎわいをみせている。
4-③ モスクワのクレムリンと赤の広場
文化遺産 ロシア 1990年登録 登録基準①②④⑥
● ロシアの歴史の主人公になった建造物群
ロシアの首都モスクワにある27.5万㎢の「クレムリン」(ロシア語でクレムリ「城塞」を意味する)と、クレムリンの外側に設けられた7万3千㎢の「赤の広場」は、ピョートル大帝以前のロシア帝国の宮廷や、ソビエト連邦(ソ連)から現在のロシア連邦までの動乱の歴史を刻んだシンボルともいうべき場所で、タマネギ型のドームで知られるロシア正教会の大聖堂「聖ワシリー聖堂」も赤の広場にある。
モスクワの歴史は、1147年にユーリー・ドルゴルキーがモスクワ川左岸に木造の砦を築いたのが起源とされる。1480年、過去240年間にわたるモンゴルの支配から脱却し、自らをツァーリ(皇帝)と称したイワン3世が、14世紀半ばにつくられた城壁をいっそう強固にしようと壁と塔をレンガ造りに変えた。さらに、全長2235m、高さ最大19m、厚さ3.5~6mの城壁内に、皇帝の戴冠式が行われてきた「ウスペンスキー大聖堂」をはじめ、グラノヴィータヤ宮殿などを建て、現在みられるクレムリンの原型をこしらえた。クレムリンには、20の城門があり、城壁内には多くの塔(最大の塔は80m)など、何世紀にもわたって築かれたさまざまな建築物のある複合建築群となっている。三角形の城壁内の中心には周囲に聖堂が立ち並ぶサボールナヤ広場が広がり、建造物だけでなく、14~15世紀のフレスコ画、イコン、高価な写本、礼拝用具など芸術レベルの高い作品や、数々の宝物を収めたダイヤモンド庫などの見どころがある。
4-④ サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群
文化遺産 ロシア 1990年登録 登録基準①②④⑥
● 西洋文化を採り入れたロシアの水の都
サンクト・ペテルブルクは、バロックや古典主義様式など、ヨーロッパの文化や芸術を採り入れた帝政ロシア時代の都。ロマノフ朝のピョートル大帝は、1697年3月から18か月にわたってヨーロッパ諸国を歴訪し、帰国後にロシアの西欧化を推進すると、1701年にスウェーデンとの間の北方戦争の最中にフィンランド湾奥の湿地帯に新都を建設すると発表、1703年、大帝はバルト海に開かれた港と要塞を建設した。湿地帯に都を建てることは困難をきわめたが、何万人ものトルコ人やスウェーデンとの戦争捕虜を動員して道路や水路を整備して主要な建築物の建設を進め、1712年、新都を大帝とその守護聖人ペテロにちなんで「サンクトペテルブルク(聖ペテロの町)」と名づけ、モスクワに代わる首都とした。街並は、当時のヨーロッパを模して建てられているために中世ヨーロッパの姿が今も残っている。ピョートル大帝以降では、代々の皇帝がくらした1762年に「冬宮」が完成した。現在は「エルミタージュ美術館」となって、レオナルド・ダ・ビンチの聖母子をはじめ、ラファエロ、ミケランジェロ、ルーベンス、レンブラント、ゴヤらの古典作品から、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソ、マティスら近代美術のコレクションも豊富な美術館は必見。18世紀後半にエカチェリーナ2世が即位すると、バロックに代わって古典主義様式の建物が多く作られた。
4-⑤ バイカル湖
自然遺産 ロシア 1996年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 「シベリアの真珠」と呼ばれる世界一透明度の高い湖
ロシアのシベリア南東部に位置し、三日月型の湖のバイカル湖は、2500万年の歴史と1700mの水深を持つ世界最古で最深の湖。湖底での地震で発生する化学物質や鉱物が湖水を浄化することから、世界一透明度が高く、セレンガ川、バルグジン川、上アンガラ川など336本の河川が流入するが、流出する河川は南西端に近いアンガラ川のみであるため水量が常に豊富で、世界最大の貯水量を誇る。こうした特異な環境は、豊かな生物相を育み、水生生物だけでも1500種類以上も生息し、そのうちの80%はこの湖の固有種。淡水にすむ唯一のアザラシ「バイカルアザラシ」が代表的。本格的な調査は1980年代後半に始まったばかりであり、未確認の固有種も少なくないと予想される。
4-⑥ ベルゲンのブリッゲン地区
文化遺産 ノルウェー 1979年登録 登録基準③
● ハンザ同盟で繁栄した美しい家々が立ち並ぶ港町
スカンジナビア半島の南西沿岸部にあるベルゲンは、1070年にノルウェー王オーラヴによって開かれ、海上交易で栄えた。その後ドイツの商人たちが経済の実権を握り、13世紀には、バルト海の交易を独占していたハンザ同盟の拠点の一つとなり、ブリッゲン地区は、ヨーロッパで需要の高かった干ダラ(乾燥ダラ)の取引の中心地となり、ハンザ商人の事務所・商館・宿泊地として使用されるようになった。やがて商人だけでなく職人も移り住むようになって、ノルウェー最大の港湾都市に発展していき、約400年にわたってハンザ商人たちによる支配は続いた。現在、ブリッゲン地区に立ち並ぶ奥行きのある三角屋根のカラフルな木造家屋は、1950年代に発生した火災の後に再建されたもの。1761年建造のハンザ同盟会議場のショートスチューエネや、12世紀創建のドイツ人のための聖母マリア聖堂も残っている。
4-⑦ クロンボー城
文化遺産 デンマーク 2000年登録 登録基準④
● ハムレットの舞台として名高い海峡の城
デンマークの首都コペンハーゲンから北に約30kmの、バルト海に面した海岸線にあるクロンボ―城は、デンマーク国王フレゼリク2世が16世紀に完成させた城で、海峡を渡る船から税金を徴収するために建てられた城を改修した。スウェーデンと対するエアスン海峡の幅は4kmしかなく、城には多くの大砲が備えられている。兵舎や牢屋、現在は商業海事博物館も設けられている。1629年の火災で焼失したが、再建されて現在の姿となった。しかし、1785年から1924年までは、デンマーク軍の基地司令部として利用されていたため、城内は創建当時の面影を残していない。なお、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の舞台「エルシノア城」として有名な城だが、シェイクスピア自身はこの城を訪れたことはない。城内には、シェイクスピアを記念した石版が掲げられており、毎年夏には城の中庭を使って演劇公演が行われている。
4-⑧ イスタンブール歴史地区
文化遺産 トルコ 1985年登録 登録基準①②③④
● 東西文明を結ぶアジアとヨーロッパの架け橋
トルコ北西部にある、トルコ最大の都市イスタンブールは、シルクロードの要衝という特異な立地から、ヨーロッパとオリエント両文明の交流点として世界の富が集まり、「この地を制覇するものは世界を制する」と言われるほどだった。また、キリスト教国のビザンツ帝国、イスラム教国のオスマン帝国という2大宗教の覇権争いの舞台となって1500年も大国の首都となった歴史を持つ。
このイスタンブール旧市街地区に最初の都市をつくったのは紀元前7世紀ころ、ギリシャの都市国家メガラのビザスが建設した都市と伝えられる。この植民都市は、現在トプカプ宮殿がある丘につくられ、ビザスにちなんで、ビザンティオンと命名された。この地は、三方を海に囲まれ、交易に適し軍事的価値も高かったことからその領有権をめぐって、幾度となく抗争がくりかえされた。スパルタ、アテネ、アレクサンドロス率いるマケドニア王国、ペルガモン王国、ローマ帝国と次々に支配者が代わり、2世紀末に「ビザンチウム」に改名された。さらに330年には、ローマ帝国皇帝でネロ皇帝以来禁止されてきたキリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌス1世(大帝)は、腐敗したローマに代わる首都として自身の名にちなんで「コンスタンティノポリス」(コンスタンティノープル)と改名し、従来の城壁の2km西に城壁を築き、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。395年、ローマ帝国が東西に分裂すると、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都となり、476年に西ローマ帝国が滅亡した後も繁栄。1054年にキリスト教会が東西に分裂すると、西のローマがカトリック教会の中心になったのに対し、コンスタンティノープルは、ギリシャ正教会の本拠地となった。やがて栄華をきわめたビザンツ帝国もしだいに衰退し、13世紀初頭にはローマ教皇が派遣した十字軍によりコンスタンティノープルが占領されて滅亡の危機に陥る。ビザンツ帝国の亡命政権ハイル8世が奪回するものの、かつての栄光は戻らなかった。
1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国との激しい攻防戦の末にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。コンスタンティノープルは、オスマン帝国の新首都となり、「イスタンブール」という呼称がしだいに定着していった。メフメト2世は、帝国各地からの移民を受け入れて市街の再開発を推進し、イスタンブールは首都として再び繁栄の時を迎えた。16世紀、スレイマン1世(在位1520~66年)が統治する時代に最盛期を迎え、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域まで勢力を拡大させた。後続の君主(スルタン)も17世紀末までこれを維持して隆盛を誇った。1922年に、トルコ共和国の成立に伴い、アンカラが新しい首都になったが、今でも、トルコ最大で、活気に満ちた都市であることは変わらない。世界遺産に登録されたイスタンブール旧市街があるのは、ボスポラス海峡の西岸のヨーロッパ側の地区で、無数のモスクや教会など多くの歴史的建造物が残され、東西文明の交差点だった歴史を伝えている。
必見の建築物としてはまず、メフメト2世によって15世紀半ばに建造された「トプカプ宮殿」があげられる。15世紀から19世紀半ばまで37代にわたりオスマン帝国の君主が改築を加えながら居住し執務にあたった宮殿。国の執政を裏側から操っていたのがトプカプ宮殿の中にある「ハレム」で、スルタンの寵愛を受けた妃とスルタンの母、女官や宦官が生活していた。スルタンが側近や家族、親交の深い友人と宴を開いた「スルタンの大広間」もハレム内にある。現在、宮殿は博物館として公開され、オスマン帝国の繁栄ぶりをうかがわせる貴重な品々を多数展示している。
イスタンブールの歴史的変遷を象徴する「アヤソフィア(聖なる叡智の意)」は、360年にコンスタンティヌス1世が、ローマ帝国の新首都建設の一環として建設したキリスト教の聖堂だった。しかし、2度にわたって焼失したため、現在のアヤソフィアは、537年にユスティニアス1世が南北70m・東西75m・高さ56m・中央ドーム直径31mという大聖堂に再建したもの。15世紀末にコンスタンティノープルがオスマン帝国の手に落ちると、メフメト2世はこの大聖堂をジャミイ(モスク)に改修するように命じ、聖壇にはミフラーブ(説教台)を取りつけさせ、ビザンチン文化の最高傑作といわれその象徴ともいえるキリスト・聖母マリア・ヨハネらのモザイク画を漆喰で塗り固めさせ、4本のミナレット(尖塔)を新たに建設させた。1932年、トルコ共和国初代大統領となったケマル・アタチュルクはモザイク画の復元作業を命じ、1934年アヤソフィアは、無宗教の博物館に変わった。
「地下宮殿」と呼ばれる地下空間にも注目したい。ここはビザンチン帝国時代、アヤソフィアをはじめ街に水を送るために造られた貯水池で、奥行140m・幅70mのうす暗い空間にヘレニズム時代の遺跡の柱を流用したとされる無数の大理石の柱が立ち、その足元にきれいな水をたたえた幻想的な雰囲気がただよう。水の上に歩行通路が設けられ、ぐるっと一周できるようになっているが、いちばん奥にあるギリシャ神話の怪女メデューサの首をかたどった2本の柱には驚かされる。神話によると、メデューサは巻毛の美しい娘だったが美貌を自慢して女神アテナと争ったため、巻毛はヘビに顔は怪物に変えられ、メデューサを見た者は石に変えられてしまう。ゼウスの息子ペルセウスは、アテナの盾にメデューサの顔を写し、眠るメデューサの首を切り落としたと神話は伝えている。
4-⑨ ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石群
複合遺産 トルコ 1985年登録 登録基準①③⑤⑦
● 自然が生み出した奇観とキリスト教徒を支えた岩窟聖堂
首都アンカラの南東約280km、標高1000mを超える高原地帯にあるカッパドキアは、キノコ形や尖塔形などの奇岩が林立するなかに、洞窟聖堂や洞窟修道院が点在する地域。
およそ300万年前に火山の大噴火がおこり、大量の溶岩と火山灰が一帯をおおった。これらが堆積して凝灰岩や玄武岩の層になり、長い経過のうちに軟らかい凝灰岩の部分が風雨に浸食されて奇岩の群れに姿を変えていった。紀元前4000年ころになると、削りやすい凝灰岩を利用し、一帯に洞窟住宅が作られていった。紀元前15~12世紀ごろ、古代オリエントの王国ヒッタイトの中心地として栄えた。やがて3世紀半ばにローマによるキリスト教の弾圧が始まると、キリスト教徒たちが隠れ住んで信仰を続ける地下都市となっていく。ギョレメ渓谷には約30の岩窟教会があり、36の地下都市が存在するが、現在公開されているのは4か所のみ。多くの旅行者が訪れるのは、大規模なことで知られる「カイマクル地下都市」で、20層にも積み重なった床が狭い階段でつながっており、多いときは5000人以上が暮らしていたという。台所や食糧庫、教会やワイナリーなど、長期間生活するための施設が整って都市の機能を果たしていたといわれるが、人々の困難な暮しぶりが想像できるだけに胸を打たれる。現在、カッパドキアで人気のアクティビティは、気球(バルーン)による空中散歩。年間のフライト日数と参加者は世界でも断トツに多く、世界有数の気球フライトのポイントになっている。この地特有の植物は100種を超え、動物ではオオカミや赤ギツネなどが生息し、貴重な自然遺産と文化遺産の共存が課題となっている。
4-⑩ ヒエラポリスとパムッカレ
複合遺産 トルコ 1988年登録 登録基準③④⑦
● 石灰棚の奇観と繁栄を築いていた古代都市
トルコの西部にあるパムッカレ(トルコ語で「綿の城」の意)は、幾世紀もの時を経て出来た石灰棚で、二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となり、その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の景観を作り出した。レストランやカフェを併設した「パムッカレ・テルマル」は、天然温泉(水着を着て入るのがルール)を楽しむ人たちでにぎわっている。パムッカレの近くの台地の中腹に広がるヒエラポリスは、紀元前2世紀ペルガモン王国が築き、ローマ時代に温泉保養地として栄えた古代ローマの都市。ローマ帝国時代に地震で破壊されるが、その後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。かつて1万5千人を収容したローマ劇場や、マルティリウムと呼ばれる八角形の聖堂、浴場などがヒエラポリス遺跡に残る。
4-⑪ ワルシャワ歴史地区
文化遺産 ポーランド 1980年登録 登録基準②⑥
● 国民の熱い思いでよみがえったボーランドの首都
ポーランドの中部、ヴィワス川に面したワルシャワは、破壊と再建の歴史を歩んできた都市。統一国家ポーランドが成立したのは、10世紀後半のことで、首都がワルシャワに定められたのは1611年。ポーランドは、国土の大半が平地で天然の防壁がないため、幾度となく周辺国や他民族の侵略を受けてきた。1772年と1793年のロシア、プロイセン、オーストリア3国による「ポーランド分割」でポーランド王国は滅亡し、第1次世界大戦後に独立が認められたものの、ナチスによりドイツに併合された。抵抗組織をつくったワルシャワ市民は、1944年に蜂起するが、ナチス・ドイツの反撃により敗北。ワルシャワの85%が灰燼と化し、市民66%の85万人が犠牲となった。第2次世界大戦後に再独立すると、遷都案も出たが、国民はワルシャワ復興と完全な復元を希望し「すべてを未来のために」を合言葉に、古い図面や写真、18世紀後半の国王に仕えていたベルナルド・ペレットが描いた風景画を参考に、中世のゴシック様式から19世紀新古典主義に至る多様な様式の建築物が連なる姿に復元させた。
4-⑫ クラクフ歴史地区
文化遺産 ポーランド 1978年登録・2010年範囲変更 登録基準④
● ポーランド王国最盛期の面影を残す古都
ポーランド南部にあるクラクフは、11世紀から17世紀のワルシャワ遷都までの約600年間首都として栄えた街で、ポーランド王国の最も繁栄した時代を今に伝える。1978年、世界遺産第1号の12件の1つになったクラクフ歴史地区は、約10㎢の旧市街で、国の歴史を語る上で欠かせない歴史的建造物が点在している。かつての国王の居城だったヴァヴェル城が築かれたのは、10世紀の中頃と伝えられているが、歴代の国王によって増改築が行われた。中央ヨーロッパで第2の古い歴史を持つ教育機関ヤギェウォ大学や、中央広場にある全長100mの織物会館、聖マリア教会も残っている。
4-⑬ アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所
文化遺産 ポーランド 1979年登録 登録基準⑥
● ナチスによる虐殺の歴史を語る負の遺産
第2次世界大戦中の1940年にナチス・ドイツによってつくられたポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所は、ドイツ軍が接収したポーランド軍兵舎を改築・増築したもの。この場所が選ばれたのは、鉄道での輸送・運搬が容易で、周囲からの隔離が簡単にできるためだった。海外向けには、「善意によってユダヤ人を保護収容する」「幸福世界」などと喧伝されていたが、実際には収容者に強制的な重労働を課し、処刑する場所だった。1942年にはアウシュヴィッツの近隣に第2収容所としてビルケナウ強制収容所を完成させた。殺害された人の数は約150万人と推測されており、90%がユダヤ人だった。以前は400万人ともいわれたが、正確な数は定かではない。ユダヤ人以外には政治犯、犯罪者、精神・身体障碍者、ロマなど少数民族も28種族にもおよび、多くの人命が毒ガスによって奪われた。銃殺刑や絞首刑、過労死、栄養失調死、自殺した者もいたという。終戦間近、ドイツは大量虐殺の実態を隠すため、強制収容所の破壊を始めたが、ソ連が予想より早くポーランド国内に侵攻したため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの建物の一部は残された。終戦後の1947年、ポーランド政府は、「死の収容所」を、ナチス・ドイツの凶行を証明するモニュメントとして保存することを決定。犠牲者を悼む慰霊碑も建設された。
4-⑭ ヴィエリチカ岩塩抗
文化遺産 ポーランド 1978年登録・2008年範囲変更 登録基準④
● 岩塩で築いた礼拝堂がある岩塩抗
ポーランドの古都クラクフ南東に位置するヴィエリチカ岩塩抗は、13世紀から本格的な採掘がはじまった岩塩採掘所。2千万年前には海だったこのあたり一帯は、地殻変動により陸地に囲まれた塩湖となり、長い年月のうちに水分が蒸発して広大な岩塩層が誕生した。10世紀末にはその存在が知られ、12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、ヴィエリチカの採掘権を独占した。14~16世紀に採掘された岩塩は、ポーランド王国の財源の1/3を占めるほどだったという。18世紀にこの地がハプスブルク家領になった後、フランツ2世が坑道内を視察するために鉄道が敷かれた。こうしてヴィエリチカは9つの層に分かれる大規模なものとなり、700年間で深さ700m以上、総延長300kmに及んだ。坑道内には、頑丈な岩塩に守られた空間が広がり、特に観光客向けの3.5kmの坑道には、歴史上や神話上のさまざまなモチーフをかたどった彫像が並んでいる。屈曲した部屋や礼拝堂が岩塩で形成され、岩塩採掘史の展示までがなされている。さながら岩塩製の地下大聖堂のごとき景観を呈している。ここも、クラクフ歴史地区と同様、世界遺産第1号の12件の1つになったが、1989年に危機遺産リストに加えられた。原因は、換気装置に問題があったためで、坑内の湿度が適切に保たれるようにしたことで、1998年に危機遺産リストから除外された。
世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性
DVD視聴後は、半月前に中欧旅行から帰ったばかりの菅原勉氏から、チェコが一人当たりのビール消費量世界一で、この国ほどビールが安くて旨い国はないといった興味深い話や、過去にチェコの首都プラハを訪れた反畑誠一氏と深澤雅子さんが音楽との関わりを語ってくれました。後半は、「5つの世界遺産をめぐるトルコ10日間の旅」を体験して4月5日に帰国した酒井義夫が、映像にあったイスタンブール・カッパドキア・パムッカレ以外に、「トロイヤ遺跡」と「エフェソス」を番外として紹介しましたので、参考にしてください。
「番外1」トロイヤ遺跡
文化遺産 トルコ 1998年登録 登録基準②③④
● 歴史が幾重にも重なる謎多き古代都市
トルコ北西部に位置し、ヒサルルクの丘に広がるトロイヤ遺跡は、紀元前3000年から紀元500年ごろに至るまで、9つの時代(第1市~第9市)が、古い年代順に折り重なるように層をなす古代都市遺跡。
「トロイヤ」が有名なのは、紀元前8世紀に書かれたホメロスの叙事詩『イリアス』で、トロイヤ戦争の舞台として登場するためだ。この物語は、トロイヤの王子パリスが、スパルタ王妃のヘレネを奪ったところから始まる。激怒したスパルタ王メネラーオスは、兄のミケナイ王アガメムノンと組み、ギリシャ中から兵を集めてトロイヤを攻めるものの、大きな城壁に囲まれたトロイヤは、10年経っても打ち破れない。ギリシャ連合軍将軍オデュッセウスが策略をめぐらせ、攻略をあきらめたふりをして、巨大な木馬を残し撤退したとみせかける。勝利を確信したトロイヤの戦士たちは、木馬を城内に引き入れ、祝宴に酔いしれてしまう。すると木馬の中に潜んでいた50人の勇士と、引き揚げたはずのギリシャ兵がもどって急襲し、トロイヤの町は一夜のうちに全滅したというもの。
この物語は神話上の架空の話といわれていたが、ドイツの実業家シュリーマンは史実に基づくものであると確信し、私財を投じて古代都市トロイヤの発掘に執念を燃やし、1873年に「プリアモス王の宝」と呼ばれる装飾品の杯や矢じりなどを発見する。その発掘で、この遺跡が一時代のものではなく、興亡を繰り返した数時代の遺跡が折り重なるように層をなしていることが判明。遺跡の調査は今も続いているが、その後の調査で、ミケーネ文明とトロイヤ文明が同時期であること、第6市と第7市がプリマオス王のトロイヤと推定された。また、第1市から第7市までは青銅器時代、第8市はギリシャ人、第9市はローマ人が建設したとされている。
「番外2」エフェソス
文化遺産 トルコ 2015年登録 登録基準③④⑥
● 悠久の歴史を物語る世界最大級の都市遺跡
トルコ西部の港湾都市エフェソス(エフェス)は、紀元前10世紀ころから人々が定住しはじめ、やがてギリシャからイオニア人がエフェスを中心にエーゲ海沿岸に都市国家をつくり、地中海貿易の集積港として栄えた。紀元前133年にはローマ帝国の支配下に入るとアジア州の州都として最盛期を迎えた。この遺跡には、紀元後2世紀ころまでの建造物が保存状態良く立ち並んでいる。必見遺跡のいくつかをあげると、まず、群を抜く美しさを誇るのが「セルスス図書館」の遺構で、壁には知識などを象徴する4体の像が立ち、柱、梁は細部にまで精緻な装飾が施され、かつては1万冊以上もの蔵書を誇り、アレキサンドリア、ペルガモンと肩を並べる図書館だったという。2万4000人を収容した半円形の「大劇場」は、丘を背にしたすり鉢状の構造は音響効果に優れ、今もオペラやコンサートなどが催されるそうだ。「ハドリアヌス神殿」には、みごとな女神ティケとメドゥーサの彫刻が残っている。三角屋根のある水道水として利用されていた「トラヤヌスの泉」のほか、商店や売春宿まで残るメインストリートを歩くと、活気に満ちたかつての大都市の様子や人々の暮しぶりが容易に想像できる。
紀元前3世紀には、アテネのパルテノン神殿をしのぐ「アルテミス神殿」(古代の世界七不思議の1つ)がエフェスに建っており、120本のイオニア式円柱に支えられた内部には、黄金や宝石で飾られた高さ15mのエフェソスの主神で豊穣の女神「アルテミス像」が祀られていたという。(2世紀に造られた2対のアルテミス像は「エフェス考古学博物館」に所蔵されている)
なお、キリストの昇天後聖母マリアと使徒たちは、エルサレムに教会を建てて布教をはじめたものの迫害にあい、ヨハネの弟ら命を落とす者も出てきた。エルサレムから逃れる決意をしたヨハネは紀元42年頃、聖母マリアとともにエフェスに移り住み、ヨハネはこの地で福音書を記して没した「聖ヨハネ教会(墓所)」がある。また、聖母が暮していたとされる東西全長260mもの「聖母マリア教会」も残されていたが真相は不明だった。18世紀になって、あるドイツの修道女が「聖母マリアの家はエフェスの丘にある」という夢を見たということがきっかけになって、本格的な調査が行われた結果、事実であることが証明され、1961年にローマ教皇ヨハネ23世は「エフェスは聖地」という宣言をしている。
(文責・酒井義夫)
「参火会」5月例会 参加者
(50音順・敬称略)
- 小田靖忠 文新1966年卒
- 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
- 郡山千里 文新1961年卒
- 酒井義夫 文新1966年卒
- 菅原 勉 文英1966年卒
- 竹内 光 文新1962年卒
- 反畑誠一 文新1960年卒
- 深澤雅子 文独1977年卒
- 増田一也 文新1966年卒
- 増田道子 外西1968年卒
- 蕨南暢雄 文新1959年卒