今回は、下記資料「7-①~⑬」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した7-①~⑬ の映像約40分を視聴した。
7-① カイロ歴史地区
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①⑤⑥
● 豪華なモスク群を擁するイスラム都市
エジプトの首都カイロは、7世紀にイスラム帝国がこの地に侵攻し、エジプト支配の拠点としてフスタートという都市を建設した。フスタートは、現在の市街地の南にあるオールド・カイロ地区にあった。以後、フスタートは首府や州治所としての役割を果たすようになる。10世紀の中ごろ、ファーティマ朝がフスタートを征服し、ミスル・アル=カーヒラ(勝利の町)を建設した。カーヒラ=カイロで、ここからカイロという名前が歴史上に出てくるようになり、宮殿やアズハル・モスクなどが造られた。12世紀から、アイユービ朝のサラーフ・アッディーンにより、エジプトの政府機能がすべてカイロに集約され、多くの歴史的建造物を抱えた。13世紀中ごろから16世紀初頭までのマムルーク朝時代に入るとカイロは黄金期をむかえ、十字軍やモンゴルの侵入を退け、世界最大規模のイスラム都市として繁栄した。14世紀には、600ものモスクがあるうえ、1000以上のミナレット(塔)を擁するため「千の塔の都」と称されるようになったという。1518年、イスタンブールを首都とするオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすと、エジプト全体が帝国の属州となり、カイロの世界における政治的地位は低下していった。イスラム建築の模範となっていたカイロ独特の建築も、イスタンブール風のモスクにおされ、独自性は失われていった。現在のカイロは、1200万人も住む大都市だが、地盤がゆるく、歴史的建造物が徐々に崩壊するなど、諸問題をかかえている。なお、1979年に「イスラーム都市カイロ」として世界遺産に登録された後、2007年に「カイロ歴史地区」と名称が変更された。その範囲は、カイロ東南部にある約8㎞×4㎞で、イスラム地区である旧市街と、カイロ発祥の地であるオールド・カイロが含まれる。主な建築物は、イスラム最古の大学「アズハル大学」、モカッタムの丘にある城塞「シタデル」、オスマン帝国のエジプト総督が建設した「ムハンマド・アリーモスク」、カイロで最も高い約80mのミナレット持つ「スルタン・ハサン・モスク」などがある。
7-② メンフィスのピラミッド地帯
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 古代エジプト文明の象徴的存在
エジプトの首都カイロの近郊、ナイル川西岸にある「メンフィスのピラミッド地帯」は、古代エジプトの古王国時代(紀元前2650~前2120年ころ)の首都メンフィスと、王たちが作った巨大墓地遺跡で、メンフィス周辺のギザから、サッカラ、ダハシュールにかけて、約30のピラミッドや建造物が点在する遺跡群が含まれている。この遺跡群の多くは、エジプト古王国時代の第3王朝期から第6王朝期にかけて建設された。この世界遺産の見どころはやはり「ギザの3大ピラミッド」だろう。第1は「クフ王のピラミッド」……紀元前2550年ころに建造されたエジプト最大のピラミッドで、基底部の1辺の長さ約230m・高さ137m。第2は「カフラー王のピラミッド」……クフ王のすぐ南西にあり紀元前2500年ころ建造、基底部の1辺の長さ約214m・高さ136.5m、参道の途中にスフィンクスが横たわる。第3は「メンカウラー王のピラミッド」……カフラー王のすぐ南西にあり紀元前2450年ころに建造、基底部の1辺の長さ約105m・高さ66.5m。その他の主なピラミッドを3つあげると、「階段ピラミッド」……サッカラにあり、紀元前2650年ころジェセル王により建造された最古のピラミッド。「屈折ピラミッド」……ダハシュールにある紀元前2600年ころに建造されたピラミッドで、下部に比べ上部が緩やかになっているのは建設中に地盤がゆるんだためといわれる、基底部の1辺の長さ約190m。「赤のピラミッド」……ダハシュールにあり、スネフェル王により紀元前2600年ごろに建造された赤い石材が使用された現存最古の正四角錘ピラミッドで、基底部の1辺の長さ約220m。さて、あの巨大建造物のピラミッドは、どのように作られたのかは、さまざまな説が唱えられてきた。もっとも信憑性のある説として、農閑期の国家事業として農民たちによって作られたというもの。ナイル川は毎年7~10月にかけて氾濫し、農閑期に入ってしまうため、失業状態の農民達に仕事を与える意味もあった。切り出した石をどうやって運んでどうやって積み上げていったかだが、使われた石は堆積岩で、砂が集まってできた石なので、切り出すのも容易。石切場から離れたピラミッド建造現場までは、氾濫して水かさが増えたナイル川を船で運び、コロを使って現場まで運ぶ。クフ王のピラミッドは平均2.5tの石が230万個使用され、完成までに22~23年の年月がかかっている。石を積む作業は、ピラミッドの横に傾斜のついた坂を築いて、石を引いてあげたとされ、上に行くほどに傾斜を高くしていった。粗く形成された石は、角を直角にして水平にならして積んでいき、積み上げるたびに水平を測っていったという説が有力。
7-③ 古代都市テーベとその墓地遺跡
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● ツタンカーメン王の墓がある新王国時代の遺跡
エジプトの首都カイロの南約670㎞、ナイル川中流にある「古代都市テーベとその墓地遺跡」は、ルクソール近郊にあり、地中海からおよそ800㎞南方に位置している。テーベは約1000年もエジプトの首都として栄華を誇り、現在ではルクソールと呼ばれている。この地は、紀元前4000年頃から紀元前3000年頃にかけて、セペトという都市国家があった。その後、エジプト中王国(紀元前2000年~前1800年ころ)の第11王朝の時にエジプトの首都となり、新王国(紀元前1570年~前1069年ころ)の第18~20王朝までの約1000年間にわたって王国の中心として繁栄した。元来ここではアメン神が信仰されていたが、エジプト王国の太陽神ラー信仰と合わさり、アメン・ラーとなり、「カルナク神殿」はアメン・ラー信仰の総本山となって、約5000㎡の大列柱広間は、第19王朝期のラメセス2世の時に完成した。その他、テーベの主な遺跡には、カルナク神殿の副神殿にあたる「ルクソール神殿」があり、カルナク神殿と参道でむすばれている。ラムセス2世の建てた高さ25mのオベリスクや中庭、第18王朝第9代ファラオのアメンヘテプ3世の中庭などがある。ナイル西岸の墓地遺跡群には、「王家の谷」があり、第18王朝トトメス1世から第20王朝ラムセス11世までが眠っているが、特に有名なのは、1922年に発見された第18王朝12代目ファラオのツタンカーメンの墓。王家の墓の南西にある「王妃の谷」には、第17王朝から20王朝までの王子や王女が眠る。ナイル西岸の葬祭殿群には、8tもの巨大胸像のある「ラメセス2世葬祭殿」や第18王朝5代目ファラオの「ハトシェプト女王葬祭殿」がある。この地は、考古学的価値が非常に高い一大遺跡地区として名高い。
7-④ (アブ・シンベルからフィラエまでの)ヌビア遺跡群
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 危機を免れた新王国期・プトレマイオス期の遺跡群
ヌビア遺跡群は、エジプトのナイル川上流にある古代エジプト文明の遺跡で、新王国時代とプトレマイオス朝時代(紀元前304~前30年)に建てられた建造物群。1960年代、エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったが、このダムが完成すると、ヌビア遺跡が水没する危機が懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始すると、世界60ヶ国が名乗りをあげ、約20か国の調査団が技術支援、考古学調査支援などを行った。その後、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立したため、ヌビア遺跡群は、世界遺産が出来るきっかけとなった物件といえる。ヌビア遺跡群を代表するのは、古代エジプト神殿建築の最高傑作といわれる「アブ・シンベル大神殿」。新王国時代第19王朝のファラオで「建築王」と呼ばれたラムセス2世が建てたもので、1964年から1968年の間に正確に分割され、ナイル川にせり出した岩山を掘削して造られた岩窟に移築された。神殿正面には高さ約22mもあるラムセス2世の座像が4体並び、足元には王の母や王妃、息子、娘などの小さな立像がある。「アブ・シンベル小神殿」は、大神殿の北100mほどの場所にあり、ラムセス2世が王妃ネフェルタリのために建造した神殿。「カラブシャ神殿」は、ヌビアの太陽神マンドゥリスが祀られ、ヌビアの神々に捧げられた神殿で、新王国時代に建設されアメンホテプ2世やトトメス3世が関わっていたといわれており、その後、プトレマイオス朝、ローマ帝国支配時代に再建されてアスワンの南約50キロのナイル川西岸にあったが、1970年にアスワン・ハイ・ダムの近くに移築された。ナイル川上流の中州にあるフィラエ島の「イシス神殿」は、古代エジプトの神オシリスの妹であり妻でもある女神イシスに捧げられた神殿で、紀元前3~4世紀のプトレマイオス朝時代に建てられた。神殿の壁面には、神々の姿を描いたレリーフが残っている。
7-⑤ フェズ旧市街
文化遺産 モロッコ 1981年登録 登録基準②⑤
● モロッコ最古のイスラム都市
モロッコの首都ラバトの東170km、セブ川中流のフェズ旧市街は、2.2㎞×1.2㎞の城壁に囲まれており、複雑な街並みから「世界一の迷宮都市」とも呼ばれている。789年、ベルベル人でイドリース朝のイドリース1世により建設され、フェズはモロッコ最古のイスラム王都となった。マリーン朝などの以後のイスラム王朝でも王都とされ、13世紀頃からモスクやマドラサ(イスラム教における高等教育施設)が造られたことで、アラブ諸国から多くの留学生を迎え入れ、芸術や学問の中心として繁栄した。特に、旧市街の中心に位置するカラウィーン・モスクは、859年ころに建てられた礼拝堂が元になって、増改築がくりかえされ、北アフリカ最大の2万人収容のモスクとなったが、非ムスリムは入ることができない。このモスクに付随する世界最古のマドラサは、10世紀に大学の機能を持ち、カイロのアズハル大学と並ぶイスラム最古の大学のカラウィーン大学の前身となった。歴史家のイブン・ハルドゥーンら偉大な学者が教鞭を執ったことで、遠くヨーロッパにまで名を馳せ「アフリカのアテネ」と呼ばれている。街並みが複雑になったのは、外敵の侵入を防ぐためで、坂や路地、階段が入り組んで、車が入ることができない場所がほとんど。そのため、今でも物流の手段としてロバやラバが使われている。手工業が盛んで、最も有名なものはタンネリという一画があり、皮をなめして染める産業は、モロッコでも最大規模を誇る。また、フェズブルーという青一色で彩色した陶器も生産されている。旧市街には約30万人が暮らすが、住宅環境や水利環境が充分でないのが、大きな課題となっている。
7-⑥ 古都メクネス
文化遺産 モロッコ 1996年登録 登録基準④
● 北アフリカのヴェルサイユ
モロッコの首都ラバトの東130km、フェズの西60kmの平野に位置するメクネス(ミクナース)は、総延長約40kmの城壁に囲まれた旧市街が世界遺産に登録された地域。9世紀に軍事拠点として建設されたメクネスは、17世紀にイスラム教のアラウィー朝の首都となった。スルタン(王)のムーレイ・イスマイルはヨーロッパとの交流に力を入れ、特にルイ14世に傾倒したため、メクネスをヴェルサイユのような街にしたいと考え、大規模な改修を始めた。古い街並みを壊し、ヨーロッパの文化を取り入れた建物を造ったことで、イスラム+ヨーロッパ風の建物はマグレブ(ヒスパノ・モレスク)様式と呼ばれ、街の至る所に見られるようになった。しかし、街が完成する前にイスマイルは亡くなり、後を継いだ王の息子は他に都を移してしまったことで、メクネスはわずか50年ほどで衰退の一途をたどることになったがために、歴史的建造物が残されることになった。旧市街の南半分を占める王宮地区には、1732年に完成したマンスール門をはじめ、クベット・エル・キャティン、20年分の兵食を蓄えられる巨大穀物倉庫、キリスト教徒の地下牢、スルタンの眠るムーレイ・イスマイル廟などが林立しており、どれもモザイク・スタイル装飾が見もの。
7-⑦ ヴォルビリス遺跡
文化遺産 モロッコ 1996年登録2008年範囲拡大 登録基準②③④⑥
● モロッコ最大のローマ都市遺跡
モロッコの首都ラバトとフェズの間にあるヴォルビリスは、北アフリカにおける古代ローマ都市の最も保存状態のよい遺跡のひとつで、総面積40万㎡もあり、西暦40年ころに発展した。作物が豊かに育つため、小麦やオリーブなどが大量に生産される農業都市となって3世紀ころまで繁栄は続いた。2万人もの人々がこの地にすんでいたといわれ、217年には「カラカラ帝の凱旋門」が建造されたり、全長2300mの城壁や8つの城門、40以上の塔、公共浴場など壮麗なローマ建築が建造された。しかし、3世紀末にローマ帝国が撤退すると、ベルベル人の侵入を許し衰退していった。7世紀にはイスラムが席巻し、681年にはアッバース朝の支配下に入った。やがて、イドリース2世によってフェズの都市が建設されると、ヴォルビリスの重要性は失われた。遺跡群は、1755年のリスボン大地震の際に被害を受け、さらに前後する時期には、メクネスでの建築資材として大理石が一部持ち去られなど、廃墟状態となっていった。1915年、フランス人の調査団によって発掘が開始され、広範囲にわたるローマ都市遺跡群が出土した。大通りにある邸宅群の床にある美しいモザイクは見もの。オリーブの圧搾施設や穀物倉庫など農業都市ならではの遺跡も見つかっている。
7-⑧ マラケシュ旧市街
文化遺産 モロッコ 1985年登録 登録基準①②④⑤
● 南方の真珠とうたわれた赤レンガの古都
モロッコ中央部、サハラ砂漠西方に位置し、アトラス山脈のふもとに位置するマラケシュ旧市街は、1071年、ムラービト朝の君主ユースフ・ブン・ターシュフィンが築き、首都として整備されてきた都市。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」を意味し、モロッコではフェズに次ぐ歴史を持つ。ムラービト朝は、西サハラからイベリア半島南部に至る広大な地域を占領したため、イベリア半島や大西洋沿岸、東のサハラ砂漠を越えた地域をつなぐ通商路の要衝となった。その後、1147年にムワッヒド朝により、ムラービト朝時代の建物は大半が壊されてしまった。前王朝の建造物を破壊して新たなものを造り直すのが、当時のイスラム王朝のやり方だった。マラケシュは、1147年、ムラービト朝を滅ぼしたムワッヒド朝の時代でも首都で、政治・経済・文化の中心都市として発展した。全長20kmの城壁の中で、赤土色のレンガでできた民家が美しく映える光景は、ヨーロッパの詩人から「アトラス山脈に投げられた南方の真珠」と称賛されている。現在残っている建物は、ムワッヒド朝が建てた12世紀のものがほとんどで、クトゥビーヤ・モスクは、この街の中心的な建造物。12世紀半ばに建設されたこのモスクの特徴は、69mのミナレット(小塔)が併設されていることで、旧市街のシンボルでもある。このミナレットは、スペイン・セビリアのヒラルダの塔、首都ラバトのハサンの塔と並び、三大ミナレットのひとつに数えられ、今日でもミナレット建築の手本とされている。ムワッヒド朝時代につくられた著名な建物としては、馬蹄形のアーチ周辺の装飾の美しさと赤い砂岩が特徴的なアグノー門があげられる。旧市街の城壁に設置された巨大な門で、マラケシュで最も美しい門と絶賛されている。1269年にムワッヒド朝を滅ぼしたマリーン朝は、マラケシュを首都としなかったが、この時代にも大規模なマドラサ(イスラム世界の高等教育機関)が建造されている。ベン・ユーセフ・マドラサは、16世紀に再び首都としたサアド朝時代に手が加えられ、さらに大規模なイスラム神学校になって現存している。「バイーヤ宮殿」は、白い壁とタイル張りの床や天井が美しい宮殿で、中庭を囲むように女性たちの部屋が配置されているアラブ・アンダルシア建築の傑作といわれている。「ジャマエルフナ広場」は、旧市街の中心にあり、アラビア語で「死人の集会所」という意味の名を持つ広場は、昔は公開処刑が行われた場所だった。400m四方の広場には多くの屋台がひしめき合い、大道芸人がこぞって芸を披露している。人々は活気にあふれ、この空間は「ジャマエルフナ広場の文化空間」として、2001年に無形文化遺産に登録されている。
7-⑨ 要塞村アイット・ベン・ハドゥ
文化遺産 モロッコ 1987年登録 登録基準④⑤
● イスラムから逃れた人々が築いた要塞村
モロッコ中部にありアトラス山脈南麓に位置するアイット・ベン・ハドゥは、7世紀に北アフリカの先住民ベルベル人が造った要塞型の村。一帯にはイスラム勢力から逃れてきた人たちが、部族間抗争や盗賊などの略奪から自分たちを守る「クサール」と呼ばれる要塞化した村がいくつかあるが、そのなかでもアイット・ベン・ハドゥの集落は最も保存状態が良いもののひとつ。村は城壁に囲まれ、単純な造りの家屋から、複数階建ての「カスバ」(砦・城砦の意)とよばれる建物までが立ち並ぶ。カスバは1階が馬小屋、2階が食糧倉庫、3階以上が居住空間になっている。建物は赤茶色の日干し煉瓦を使用して造られ、壁は非常に厚く、夏季に40度を超える気候にあっても、室内を涼しく保てるようにできている。外敵の侵入に備えて入口は1つしかなく、道は細く入り組んで、まるで迷路のよう。住居は侵入してきた敵の視界をさえぎるために室内は暗く、飾り窓に見せかけた銃眼から敵を銃撃することができる仕組みなど、侵入者を防ぐたるの工夫がいくつも施されている。村の丘の上には、アガディールと呼ばれる見張り台を兼ねた穀物倉庫、羊の群れを監視する共同小屋、会議を行う会堂などもある。また、8世紀にイスラム化したこともあり、学校やモスクも遺されている。これらの土やレンガでできた建物はは耐久性に乏しく、2世紀以上の歴史をもつものはひとつもなく、周辺のクサールの中には風化したものもある。家々も傷みが進み、近年、復旧作業が続けられているが、今も居住している住人が数家族いるものの、ほとんどの住民は対岸の住居に移住している。なお、この地は、映画『ソドムとゴモラ』『アラビアのロレンス』などのロケ地としても有名な場所で、年間を通して多くの観光客が訪れる地となっている。
7-⑩ テトゥアン旧市街
文化遺産 モロッコ 1997年登録 登録基準②④⑤
● イスラムとスペインが混じった白亜の街並み
モロッコ北端の街テトゥアン旧市街は、古くからモロッコとイベリア半島をつなぐ拠点として栄えていたが、14世紀末、8世紀から行われてきたキリスト教徒のによるイベリア半島の解放運動「レコンキスタ」の一環として、スペインによって破壊されてしまった。再建したのは、15世紀ごろに「レコンキスタ」(特に1492年のグラナダ陥落で)難民となり土地を追われてきたイスラム教徒とユダヤ教徒の手で、テトゥアンは城塞都市として建設された。20世紀、モロッコの大半はフランス領となったが、テトゥアンの街は1956年までスペイン領だったため、南スペイン・アンダルシア地方の影響を受け、イスラム文化と融合した白亜の街並が広がっており、これらはスペイン・ムーア文化と呼ばれている。旧市街中央に立つ17世紀の王宮はその典型。
7-⑪ ツィンギ・ド・ベマラハ厳正自然保護区
自然遺産 マダガスカル 1990年登録 登録基準⑦⑩
● 奇岩が連なるキツネザルの避難所
マダガスカル島西部にあるツィンギ・デ・ベマラ厳正自然保護区は、自然保護、景観保護を目的とした約1520万㎢の保護地域。ツィンギとは、マダガスカル語で「先の尖った」という意味で、ナイフのように尖った高さ100mもの岩が多数そそり立つ特異な景観が広がっている。この岩山は、石灰岩のカルスト台地が1億6千万年もかけて侵食され、形成したものと考えられている。この奇岩地帯は、降水があっても尖った岩と岩との隙間に吸収されてしまうため、植物はこの地を原産とするアロエやサボテンの仲間などの乾燥に強い珍しい種類のものが多数自生して、保護区内には原生林やマングローブの沼地も広がっている。これらの樹木は岩肌に根を張り、石灰岩台地の地下にまで根を伸ばして水をくみ上げることから、動物たちが暮らせる環境を作り出す。森や沼地には、多くの種類の鳥や世界でも珍しい動物が生息し、黒い顔に真っ白な毛を持つベローシファカというマダガスカル固有種のサルをはじめ、童謡でおなじみの絶滅危惧種アイアイなどのキツネザルの仲間、体長が60~70cmにもなる世界最大のカメレオンのウスタレカメレオンなどがよく知られている。
7-⑫ 隊商都市ペトラ
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● 砂漠に浮かぶナバテア王国の古代都市
ヨルダン南部のテトラは、紀元前2世紀ころ北アラビアを起源とする砂漠の遊牧民族ナバテア人によって栄えた隊商都市。もともと隊商の略奪や保護料の徴収などを行っていたナバテア人だったが、やがて自分たちで交易を始めるようになり、ペトラを首都にナバテア王国を興した。ペトラは砂漠の交易路を支配することで大いに繁栄したが、やがて交易ルートから外れ、衰退していった。4、5世紀にはキリスト教の教会が作られ、7世紀にはイスラム教徒の支配に入り、12世紀に十字軍の城塞が築かれたのを最後に、廃墟となって砂に埋もれてしまった。1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトによって再発見され、20世紀初頭から発掘調査が始まったが、2014年時点でもわずか15%しか発掘が進まず、85%が未発掘とされている。ペトラの都市遺跡は、総面積900㎢の山岳地帯に点在し、岩山に刻まれた壮大な建物や用水路などで構成されている。最も有名な遺跡は、砂岩の断崖に刻まれた「カズネ・ファルウン」(エル・カズネ)で、宝物殿として知られる。2003年の調査で、1世紀初頭にナバテア人の王の墳墓として造られたものと推測され、切り立った岩の壁を削って造られた正面は、幅30m、高さ43mにもおよぶ。この遺跡をはじめ、ペトラの遺跡の多くは岩壁を彫刻のように彫りぬいて造られている。ナバテア人は、平らに削った岩壁に設計図を書き、その輪郭にそって彫りぬく方法で、大半の遺跡を築いたとされる。そうした優れた建築技術で多くの防水施設や用水路を建設しており、ほとんど雨の降らない砂漠地帯でありながら、充分な飲料水を確保したと考えられている。2世紀初頭に、ローマ帝国の支配下に入ったこともあるペトラには、円形劇場や、列柱を備えた大通り、王家の墓と呼ばれる岩窟墳墓群が建ち並び、800段もの石段を上り詰めた先には、ペトラ最大の遺跡エド・ディルがある。山と一体となった荘厳な神殿の周囲には、修道僧が住んでいたと思われるおびただしい数の洞穴住居もある。スイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」は、2007年にペトラ遺跡を「世界の七不思議」の一つに選定した。
7-⑬ 砂漠の城クサイラ・アムラ城 119
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● フレスコ画で彩られたカリフの隠れ家
ヨルダンの首都アンマンの東方、シリア砂漠の西側にあるクサイラ・アムラは、8世紀初頭、初のイスラム世襲王朝のウマイヤ朝第6代カリフ・ワリード1世が築いた離宮。近くには30もの宮殿跡があるが、クサイラ・アムラは保存状態が特に優れている。隊商宿を増改築した石造建築物は、謁見の間と浴場に分かれる。謁見の間の壁や天井は踊り子や神話の場面、狩猟のようすなどを描いたフレスコ画で彩られ、床はモザイクタイルでおおわれている。一方、温水・冷水浴室、サウナ、脱衣場が設けられた浴場も、イスラム社会には珍しい裸婦などのフレスコ画におおわれている。厳格なイスラム教徒の目を逃れ、ここで王族らが酒宴や入浴を楽しんだ場所だったようだ。
世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性
以上の映像を視聴後は、ユネスコで「世界遺産」がどのように誕生し、何をめざすか、世界遺産はどのように決まるかなどを「ヌビア遺跡群」(7-④)を例に確認しました。
古代エジプトの新王国時代(紀元1500年頃から約500年間)に建造され、アブシンベル神殿をはじめとする「ヌビア遺跡群」が、1960年代に危機的な状況に陥りました。エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がり、このダムが完成すると、ナイル川周辺に無数に存在する神殿や墓が、ダムの湖底に沈んでしまいます。ユネスコが「ヌビア水没遺跡救済キャンペーン」を開始すると、世界60か国が支援を表明し、そのうち20ヶ国が調査・技術支援などを行いました。特に古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオで「建築王・大王」と呼ばれたラムセス2世が建てた神殿建築の最高傑作とされる「アブシンベル神殿」をいかに救うか、画期的なアイデアが世界多数から集まりました。最終的に、アブシンベル神殿他を1000個以上のブロックに分けて移築するスウェーデン案が採用され、約4年をかけ、およそ60m上方の高台にある岩山を削って作られた幅38m高さ33mもある岩窟に移築されました。この壮大な移築を記録する約15分の映像 (ユニバーサルミュージック発行・ディアコスティーニ発売)は感動的なもので、よくぞそこまでやったかと歓声があがるほどでした。このキャンペーンにより、世界じゅうから募金や協力の手が差し伸べられ、救うことができた遺跡は、神殿18・墓2・聖堂3・教会1となりましたが、千数百もの遺跡がダムの湖底に消えてしまったのも事実です。
このキャンペーンの成功により、これまでの「宝を持つその国が管理・保護するもの」という考えから、「地球の宝は、国を超え、世界じゅうの人々の協力により、守られべき」という考えが主流となっていきます。こうして、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が満場一致で成立しました。
まず、世界遺産をつくりたい国は、国としてこの条約に加盟しなくてはなりません。遺産を守る一員となる宣言で、2018年7月現在193ヵ国が加盟しています。加盟国は、自国にはこんな素晴しい自然や文化があるので世界遺産に登録してくれませんかと立候補します。
各国から提出された世界遺産の候補地は、その可否が毎年6月下旬から7月上旬に開かれる「世界遺産委員会」で決定されます。委員国は21か国で、任期は6年となっています。これまでに登録された世界遺産の総数は1092件で、文化遺産845件・自然遺産209件・複合遺産38件・危機遺産54件・登録抹消の世界遺産2件がその内訳です。
国別上位12位までは、次の通り。①イタリア 54件 ②中国 53件 ③スペイン 47件 ④ドイツ・フランス 各44件 ⑥インド 37件 ⑦メキシコ 31件 ⑧イギリス 31件 ⑨ロシア 28件 ⑩アメリカ・イラン 各23件 ⑫日本 22件
こうして誕生した世界遺産リストは、世界じゅうのみんなで守るべき「地球の宝」なので、世界遺産を未来に残すことは平和を守ることと同意語であることであり、ユネスコが守るべは緊急性の高いリストは内戦が行われているシリアの6つの世界遺産やエルサレムなど「危機にさらされている世界遺産(危機遺産)」54件であることも知っておく必要がありそうです。
(文責・酒井義夫)
「参火会」9月例会 参加者
(50音順・敬称略)
- 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
- 酒井猛夫 外西1962年卒
- 酒井義夫 文新1966年卒
- 菅原 勉 文英1966年卒
- 竹内 光 文新1962年卒
- 谷内秀夫 文新1966年卒
- 反畑誠一 文新1960年卒
- 深澤雅子 文独1977年卒
- 向井昌子 文英1966年卒
- 蕨南暢雄 文新1959年卒