2015年12月16日水曜日

第19回「参火会」12月例会 (通算383回) 2015年12月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」15回目  昭和29・30年 「政界再編と神武景気」




今回は、NHK制作DVD15巻目の映像──
造船疑獄容疑で有田二郎議員逮捕、犬養法相指揮権発動し佐藤栄作の逮捕阻止、衆院本会議大乱闘、日本民主党結成・総裁に鳩山一郎、吉田内閣総辞職、第1次鳩山一郎内閣成立、自衛隊発足、ビキニの水爆実験で「第5福竜丸」被災、ビキニ被災者の久保山愛吉氏死亡、近江絹糸スト、皇居参賀二重橋惨事16人死亡、洞爺丸転覆死者・不明1155人、法隆寺金堂修理完成、ルーブル美術展開催、マリリンモンロー来日、ヘップバーンスタイル流行、シャープ兄弟と力道山・木村の初タッグマッチ、「お富さん」大ヒット、第27回衆議院総選挙、第2次鳩山内閣成立、日ソ交渉開始、共産党第6回全国協議会、社会党統一大会、自由民主党結成、米軍・北富士演習場で射撃演習強行、砂川闘争開始、広島の原爆乙女渡米、初の原水爆禁止世界大会、養老院「聖母の園」全焼、宇高連絡船「紫雲丸」沈没、森永ヒ素ミルク事件、トニー谷の長男誘拐事件、神武景気…など約50分を視聴後、その後の「日本のかたち」となる再軍備(自衛隊スタート)、旧政治家の復帰による吉田・鳩山の対立後に成立した「55年体制」を中心に話し合いを行いました。




「この時代の概要」

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本はGHQによる占領状態を脱し、主権国家として新たな歩みを始めました。しかし、独立は回復するものの、日米安保条約により、米軍基地はそのまま残り、アメリカ側は日本の防衛力の漸増推進を求めました。昭和25年の朝鮮戦争勃発直後に、陸軍ともいえる75000人の「警察予備隊」に続き、講和条約が発効してわずか3か月後、警察予備隊は11万人に増員されただけでなく、海上警備隊が新設されて、定員12万の陸・海軍による「保安隊」が設置されました。さらに、「日米相互防衛協定」(MSA協定)が昭和29年3月に調印されて5月に発効、日本の再軍備は努力から義務となり、同年6月の防衛庁設置法と自衛隊法公布により、保安隊を「陸上自衛隊」、海上警備隊を「海上自衛隊」に改組、新たに「航空自衛隊」を組織し、15万を越える定員(現在は定員26万人)の陸・海・空軍の本格的軍隊を設置しました。そのため政府は、「近代戦遂行能力を持たない軍事力は戦力でない」という憲法解釈から「自衛のための軍隊は違憲ではない」という解釈に変えて、戦闘能力を高めていきました。





いっぽう、政界もまた「国のかたち」をどうするかという論争が長く続きました。そのきっかけとなったのが、昭和26年6月に旧政治家たちが「公職追放解除」により政界に復帰したことからでした。その多くは戦前の政友会・民政党など政党出身者だったため、「党人派」といわれ、その代表格が鳩山一郎でした。彼らは、昭和27年10月の衆議院総選挙で139人が当選をはたし、吉田政権に対する反支流派となり、論争を繰り広げます。吉田が「日本には本格的な軍備は不要、アメリカにまかせておけばよい」(これは当時のアメリカのアジア政策と一致する方針)に対し、鳩山は「日米関係は不平等、米軍におんぶにだっこなどせず、憲法を変えて再軍備する堂々たる国家にすべき」と主張して、真っ向から対立しました。その後、末期状態に陥った吉田内閣の居座りに政治腐敗事件「造船疑惑」がおこり、昭和29年4月、吉田の側近ともいえる佐藤栄作幹事長の逮捕と、捜査線上に池田勇人政調会長の名があがりました。政権崩壊の危機を恐れた吉田内閣は、指揮権発動によって事件のもみ消しをはかりました。これにより、国民の批判が高まり、鳩山は、もうひとつの党人派政党「改進党」と手を組んで「日本民主党」を結成し、鳩山が総裁(岸信介幹事長)となりました。




昭和29年12月、ついに6年2か月(通算7年2か月)続いた吉田ワンマン内閣が退陣すると、「鳩山ブーム」がまきおこり、昭和30年2月選挙では、鳩山の「日本民主党」が第1党となりました。これに危機感をおぼえた「右派」と「左派」に分かれた社会党は、昭和30年10月に4年ぶりに再統一をはかると、財界に危機感を与えたことから、同年11月15日「自由党」と「日本民主党」が保守合同して「自由民主党」(自民党)が結党されました。こうして、社会党統一と保守合同は、戦後の日本政治の大枠を決定づけました。これはのちに「55年体制」とよばれ、この「自由民主党」と「社会党」2党体制は、1993年まで38年も続く政治システムを形成しました。




この時代になると、小・中学時代を過ごした人たちも多く、「政治を官僚たちが牛耳る現状を正さなくてはならない」「米国や英国のような本当の意味の2大政党にしなくては……」といった活発な声があがり、大いに盛り上がりました。


「参火会」12月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年11月18日水曜日

第18回「参火会」11月例会 (通算382回) 2015年11月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」14回目  昭和27・28年 「独立はしたけれど」





今回は、NHK制作DVD14巻目の映像──

対日講和・安保条約発効、日米行政協定調印、血のメーデー事件、破壊活動防止法(破防法)公布、白鳥・菅生・吹田事件など警察めぐる事件頻発、警察予備隊から保安隊へ、第4次吉田内閣成立、日航「もく星号」三原山に墜落、明神礁爆発、鳥取市大火、卓球世界選手権初参加、白井義男初のフライ級世界チャンピオン、ヘルシンキオリンピックでレスリング石井金メダル、国内自動車生産に活気、美空ひばり人気、皇太子立太子礼、吉田首相「バカヤロー」と暴言し衆議院解散、第5次吉田内閣成立、日米交換文書発表、内灘闘争、全駐労・全日駐48時間スト、朝鮮戦争休戦協定調印、李承晩ラインで漁船拿捕あいつぐ、在華日本人引揚げ開始、比大統領日本人戦犯の特赦を発表、北九州に豪雨、NHKテレビ放送開始、皇太子外遊に出発、伊藤絹子ミスユニバース3位入賞・八頭身が話題に、山田敬蔵ボストンマラソンで優勝、「君の名は」ブーム、奄美群島日本に復帰…など約50分を視聴後、内灘を契機にいっきに国民の関心が集まった「米軍基地と反対闘争」、メーデー事件に端を発した「破防法」の成立、「安保条約」の裏側を中心に話し合いを行いました。





「この時代の概要」

昭和26年9月8日、アメリカ西海岸にあるサンフランシスコで、48か国と対日講和条約が調印されるとともに、日米間だけで「日米安全保障条約」(安保条約)が調印され、両条約は、昭和27年4月28日に発効しました。こうして日本は、昭和8年(1933年)に国際連盟を脱退して以来、世界との外交を閉ざしてから19年目、6年8か月の連合国の占領を終えて、独立を果たしたのでした。

しかし、防衛はすべてアメリカにまかせ、重装備を持たない「通商国家」としての再スタートに対し、「主権を回復したのに、防衛のすべてをアメリカにまかせてよいのか。そんなことで独立国家といえるのか」といった安保に対する反発の声があがっていました。そして、独立間もない5月1日に「血のメーデー」事件がおこりました。5コースに分かれて行進するデモ隊と警官隊が衝突、2名刺殺、1500人負傷、1300人以上の逮捕者を出しました。同様の事件が大阪や名古屋など全国的に頻発し、治安の空白を恐れた政府は、これらを理由に、7月21日に「破防法」(破壊暴力防止法)を制定し、共産党や労働者・学生の集会やデモ行為などを取り締まる条例を公布しました。





また、安保条約によって、独立後も全国630か所の残る米軍基地をそのまま認めるばかりか、米軍は日本全国どこでも無償で基地を要求する権利があるのに対し、米国には日本を防衛する義務のない「不平等条約」であること。またこの条約が、両国議会の承認を必要としない行政協定であること。米軍は「独立日本」を拠点に、極東で一方的に行動する権利も与えられていること。さらにアメリカの軍人・軍属とその家族は出入国自由、日本の裁判権の及ばない治外法権であることなど、その実態がわかるにつれ、米軍基地に対する反対闘争が高まりはじめました。その口火を切ったのが「内灘闘争」でした。





昭和27年9月、政府は石川県内灘村にあった砂丘にある試射場で、米軍が砲弾を撃つことを承認しました。これは、朝鮮戦争下の特需として製造されたアメリカ軍の砲弾の性能を試験するもので、砂丘から海へ撃ち込むため、漁業に大打撃を与えるものでした。すぐさま、村や県議会は反対を表明して座り込みなどをするものの、翌昭和28年3月には試射を開始しました。県労組や北陸鉄道労組などを中心に反対運動がまきおこり、政府は1700名もの警官を投入してこれを弾圧、村は漁業収益の何十倍もの土地使用料が入ることで政府と妥協し、1年間にわたる闘争は終結しました。この間、評論家の清水幾太郎は雑誌「世界」に論文「内灘」で「基地を日本が全面的に認めているのは、独立国とはいえない」と発表するなど、闘争は全国的に拡大しました。「内灘闘争」は敗北するものの、のちの妙義、浅間、北富士、新島、砂川(立川)などの基地闘争に大きな影響を与え、そのスローガン「金は1年・土地は万年」は、長く引き継がれていきました。

講和とともに、旧政治家の多くが追放解除によって復帰してきました。特に占領期を代表する吉田首相に対し、旧政治家たちは鳩山一郎を立てて政権の返還を求め、新憲法を守りぬくか、憲法を改正して戦前体制にもどるかるなどを中心に政界は混乱しだしました。しかし、国民の多くは、戦後初めて手にした基本的人権の保障、自由と民主主義理念、新憲法の感覚が次第に定着しだしていて、なんとなく明るい気分になっていました。そのため、政治問題や闘争問題など本気に考えることもなく、自分たちの生活を維持することが大切と、懸命に働き、少し余裕が出はじめたのが実情でした。

昭和28年はテレビ放送が始まり、スーパーマーケット、有料道路など、後の時代の主役となるさまざまな事柄がいっせいにスタートしだした年でもありました。7月には朝鮮戦争も休戦となり、世界的にも平和への新しい動きが始まっていて、国民生活はまだ戦前の水準には達していなかったものの、戦後の混乱からようやく脱し、新時代の期待が生まれはじめていました。





会の後半は、上の資料をもとに、「吉田茂外交の頂点」といわれた安保条約は、実はこの調印は吉田が執拗に固辞したもので、昭和天皇の働きかけで実現したものであること。アメリカ政府内にも対立があり、国務相側は、すでに5年以上にわたる占領を早期に終わらせないと日本国内で共産主義勢力が伸びることを懸念したのに対し、軍部は勃発した朝鮮戦争によって日本の基地の重要性が増大したため占領の継続を主張していました。特使のダレスは「妥協の産物」として、形式上は講和条約で占領を終え「独立」させ、実質的には占領期と変わらない「基地の自由使用」という特権を維持できる講和条約・安保条約の締結をはかったことを確認しました。
このように、いつの時代も、アメリカ政府内には対立する考え方があり、今問題化している沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移設に関しても、政府は安全保障上、唯一の選択といっているのに対し、アメリカでは「中国の弾道ミサイルの発達で、沖縄の米軍基地はそれほど重要なものでない」という声をあげる人もいるし、南シナ海の中国海洋進出への対策を重視するなら、フィリピンなどに代替施設をつくったほうが得策という人もいる。日本国土のわずか0.6%の沖縄に、日本全土の3/4の米軍専用施設を押しつけている現状に、政府も国民一人ひとりが目をむける必要があるのではないか、といった活発な議論がおこり、会は大いに盛り上がりました。


「参火会」11月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年10月22日木曜日

第17回「参火会」10月例会 (通算381回) 2015年10月20日(火) 実施

「現代史を考える集い」13回目  昭和25・26年 「講和条約調印」





今回は、NHK制作DVD13巻目の映像──

満年令の法律施行、米3軍首脳来日、聖徳太子の1000円札発行、荒川で一家10人心中、池田蔵相「中小企業の倒産やむなし」「貧乏人は麦を食え」発言、日本共産党批判、マッカーサー共産党非難声明、報道部門からレッドパージ開始、軍人初の追放解除、ダレス米国務省顧問来日、朝鮮戦争勃発、警察予備隊公布施行、川崎競輪で八百長騒ぎ、公団「つまみ食い」事件、「オー・ミステイク」事件、金閣寺全焼、「チャタレー夫人の恋人」発禁、ストリップショー流行、テレビ実験放送、初の日本シリーズ、ダレス・吉田会談開始、北朝鮮軍・中国軍南下、マッカーサー罷免、朝鮮停戦交渉を提案、対日講和条件・日米安全保障条約調印、社会党臨時大会、銀座に街灯復活、ローゼンストック来日、メニューヒン独奏会、日航「もく星号」就航、第1回アジア大会、世界スピード選手権で内藤選手優勝、六大学野球・早慶戦、桜木町駅国電火災、ルース台風襲来、全国各地干ばつ…など約50分を視聴後、わが国の政治や経済に大きな影響を与えた「朝鮮戦争」、世界戦略の中で米国が急いだ「講和条約への道すじ」を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

アメリカとソ連との「冷戦」が決定的となり、「日本を共産圏の防波堤にせよ」と、ケナン特別使節を訪日させてマッカーサーに伝えたトルーマン大統領は、さらに昭和25年初頭、日本国内の共産党とその支援者を追放する指示を出しました。そして、同年6月、マッカーサーは吉田茂首相あてに「徳田球一・野坂参三・志賀義雄・宮本顕治ら共産党幹部24名の公職追放」を命じ、7月には地下にもぐって出頭しない24名に逮捕状を出すとともに、機関誌「赤旗」の無期限停止、新聞協会代表に共産党員と同調者への追放を勧告しました。9月には公務員にも適用、「レッドパージ」を本格化させたことで、年末までに、民間人10972人、公務員1196人を追放しました。

いっぽう、同年6月25日に「朝鮮戦争」が勃発し、日本もまた戦争体制に組み込まれました。7月には75000人体制の警察予備隊と8000人体制の海上保安庁の創設を命じられ、平和憲法施行後わずか3年で、再軍備の第一歩を踏み出すことになりました。朝鮮戦争当初は、米軍の準備不足から、韓国軍は北朝鮮軍に圧倒され、開戦4日後にソウルを占領され、9月14日までに南端の釜山付近まで追い詰められました。

日本に駐留していた75000人の準備が整った米軍を中心とする国連軍(マッカーサー国連軍最高司令官)は、9月15日にソウルに近い仁川に上陸すると、この作戦は成功して、9月26日にはソウルを奪還、10月20日には平壌を占領したばかりか、11月25日には鴨緑江に到達し、北朝鮮軍を旧満州(中国東北部)へ追いやる勢いとなりました。これに対し1年前に新生した中国は、北朝鮮軍を支援するために、人民義勇軍を参戦させ、ソ連は武器・弾薬を支給して裏から援助しました。そのため、北朝鮮軍と人民義勇軍の合同軍は、12月5日には平壌を奪還、翌年1月26日にはソウルを奪還した上、韓国の北1/3余を占領しました。その後は国連軍と合同軍は北緯38度線をはさんで膠着状態となり、昭和28年7月27日に板門店で休戦協定を結ぶまで、3年1か月にわたる戦争を続けるのでした。

日本にとっての朝鮮戦争は「特需」を生みだし、経済的な安定をもたらしました。そして、国連軍の前線補給基地・空軍の発進基地・兵站(へいたん=戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給・整備・連絡などをする機関)基地として、大きな役割をはたしました。

しかし、アメリカによる日本の基地化、反共の防波堤の道を開くことになり、アメリカは、日本をいつまでも軍事同盟国としてつなぎとめるために、対日講和条約・日米安全保障条約(安保)の締結を急ぐことになり、ダレス米国務省顧問を来日させて、吉田首相と会談を重ねました。このことは、日本の国論を二分させることになり、共産主義の東側陣営を無視し西側諸国とだけ講和する派と、ソ連や中国を含めた全面講和派と激しい議論が高まり、社会党はこれにより、左派社会党と右派社会党に分裂するほどでした。

こうして昭和26年9月8日、アメリカ西海岸にあるサンフランシスコで、対日講和条約が調印されました。連合国55か国のうちインド、ビルマ、ユーゴスラビアは出席を拒否、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは出席するものの調印を拒否、中国は代表政権を中華人民共和国とするか中華民国(台湾)とするかをめぐり、米英が対立したため招聘されず、けっきょく日本と48か国が調印しました。また別の場所では、日米間だけで、日米安全保障条約が調印されました。両条約は、昭和27年4月28日に発効し、不完全ながらも日本は、独立を回復したのでした。




なお、昭和26年4月11日、アメリカは突如マッカーサーの解任を発表し、日本国民ばかりか世界を驚かせました。北緯38度線をはさんで膠着状態の朝鮮戦争にしびれをきらしたマッカーサーが、中国東北部にある北朝鮮軍と人民義勇軍への補給物資をつぶすため「原爆投下すべし」と主張。これにに対し、局地戦にとどめようとするアメリカ政府と対立したとされていますが、詳細は不明です。こうして、4月16日、惜しまれながらのマッカーサーの離日に、20万人もの日本人が歩道で見送り、銅像の建設や記念館・神社建立案も持ちあがるほどでした。ところが、翌月5月の米議会に呼ばれたマッカーサーが、「あらゆる面を総合すると、英米は45歳の壮年、ドイツも同様、日本人はまだ無邪気な12歳」との発言に、マッカーサー人気はいっきにしぼんでしまったのは、皮肉なことでした。



「参火会」10月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年9月16日水曜日

第16回 「参火会」 9月例会 (通算380回) 2015年9月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」 12回目  昭和23・24年 「再建の道けわし」




今回は、NHK制作DVD12巻目の映像視聴(約50分)から始まりました──

皇居一般参賀始まる、帝銀事件、芦田均内閣成立、昭電疑獄、第2次吉田茂内閣成立、改正国家公務員法成立、東宝争議開始、本庄事件、ソ連引揚げ再開第1船帰国、「異国の丘」大流行、復興のきざし(両国花火大会、国産自動車ダットサン・C62機関車登場、集団見合いなど)、主婦連合結成、泉山蔵相国会で酔態、踊る宗教の北村サヨ上京、作家太宰治情死、福井大地震、極東国際軍事裁判(東京裁判)判決、第24回衆議院総選挙、第3次吉田内閣成立、ドッジ公使経済安定政策、国鉄人員整理、下山事件、三鷹事件、松川事件、湯川秀樹ノーベル賞、古橋・橋爪全米水上選手権で世界記録、「青い山脈」ヒット、プロ野球・プロボクシング・上野動物園人気、国立新制大学69校設置、「光クラブ」山崎自殺、法隆寺金堂の壁画焼失…など。




「この時代の概要」

前年(昭和22年)、新憲法体制を築き上げるために行われた4月の総選挙では、民主・国民共同との連立内閣ながら、社会党首班の片山哲内閣が成立しました。

当時の世界情勢は、中国では延安に押し込まれていた毛沢東率いる共産党が優勢になり、アメリカが支持してきた蒋介石の「国民党」が広東など南方に退却。朝鮮半島では、38度線をはさんで、ソ連の支持をえた金日成が北朝鮮を牛耳る勢い。ドイツにおいては、米・英・仏による西ドイツを共同占領統治、ソ連は東ドイツを占領統治をしますが、ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニアを衛星国にしつつあり、さらに4国が共同統治していたベルリンを東西に分割し、封鎖(S23.6)。核兵器を含む原子力を国連管理下にしようとするアメリカのもくろみも、まもなく原爆を製造するとつっぱねるなど、「冷戦」は決定的になっていました。

アメリカ本国政府(トルーマン大統領)としては、マッカーサー率いるGHQの日本統治に疑問が生まれ、このままでは、日本も共産主義国になりかねないと、昭和23年初頭にマッカーサーへ「日本を共産主義進出の防波堤にせよ」と命じました。アメリカ政府としては、マッカーサーは、大統領→陸軍長官→統合参謀本部→参謀総長の下の「アメリカ太平洋陸軍総司令官」でしかありません。しかし、マッカーサーには「連合国軍最高司令官」という意識があって、独立してやりたいことがやれるという自負心から、ワシントン政府の指示を素直に受け入れません。

しびれをきらしたアメリカ政府は、昭和23年3月、ケナン特別使節を送り、次の命令を伝えました。① 改革、追放をこれ以上進めない ② 東京裁判の早期終結 ③ 貿易など経済復興をめざせ ④ 日本の独立に向けGHQの権限を日本政府に委譲せよ──というものでした。




(東京裁判)

これに対し、マッカーサーはしぶしぶ受け入れながらも、できるところから片づけると、「東京裁判」を昭和23年11月12日に判決を下し、A級戦犯被告28人のうち、、判決前に死去した松岡洋右と永野修身、精神異常とされた大川周明を除く25被告には全員有罪、東条英機ら7人が絞首刑、木戸幸一ら16名が終身禁固刑、東郷茂徳が禁固20年、重光葵が禁固7年になりました。同年12月23日に東条ら7名を処刑、翌日、岸信介・笹川良一・児玉誉志夫らA級戦犯容疑者19名釈放することで、東京裁判を終結させました。終身禁固・禁固者もS58年までに全員出獄)

アメリカのキーナン主席検察官のもとで連合国11か国のおこなった「東京裁判」のねらいは、① アメリカの原爆投下やソ連の満州侵攻など、連合国側の正義を確認するもので、日本の侵略性をもつ戦争の否定するもの ② 連合国でも、多数の国民の死があり、その死が無駄でなかったことを自国民に納得させる儀式的なもの ③ 戦争中の言論封鎖により、具体的なことを知らされなかった日本人に、南京事件、無通告の真珠湾攻撃、シンガポール虐殺事件、バターン死の行進など、日本軍国主義の罪状を明らかにし、犯罪的軍閥だけを処罰。日本人を啓蒙し、よき日本人民主主義国家の人民となることを導くもの──という側面があったことを確認しました。

いっぽう日本が、戦争総括を自分たちでは何も行わず、この「東京裁判」にゆだねてしまったことが、同じ敗戦国のドイツと大きく違い、開戦計画の実態、戦場での残虐行為、それに対する徹底した償いをしなかったことが、いまだにアジア諸国との本当の意味の融和がはかれないといった意見が出され、多くの賛同をえました。




(ドッジの施策 [ドッジライン] とその影響)

日本の経済力強化を求めるアメリカ政府は、昭和23年12月に「経済安定9原則」を、GHQを通じ日本へ指示しました。固定為替レートの早期導入、金融機関の融資抑制、徴税強化、賃金安定などで、インフレを終わらせ、デフレ状態化させることが目的でした。GHQ内部の改革も進め、マッカーサーの腹心で「日本国憲法制定」に大きな貢献をしたホイットニー民生局長とケーディス民生局次長らを解任し、「経済科学局」のウィロビーを中心に経済改革へと大転換をします。

そして昭和24年2月、デトロイト銀行頭取でドイツの経済改革に実績を残したドッジ公使が、アメリカ政府から派遣されると、大蔵省に詳細な指示を行い、一般会計・特別会計ともに黒字という「超均衡財政」を組ませました。4月には1ドル360円の為替レートを決定し、5月末には公務員を28万5千人を整理の対象とする「行政機関職員定員法」を公布させました。

国鉄(今のJR)を独立採算制の公社とし、6月1日に下山定則が国鉄総裁となり、7月4日に3万7千名の人員整理を発表すると、翌々日に総裁が常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見される「下山事件」がおこり、7月15日には中央線三鷹駅で無人電車が民家に突っ込み6人が即死する「三鷹事件」、8月17日には東北本線松川駅付近で列車が脱線転覆して乗員3名する「松川事件」が相次いで発生しました。いずれの事件も真相がわからず、迷宮入りとなりますが、労働組合に大きな打撃を与え、年末までに国鉄だけで9万5千人が解雇されたほか、企業倒産も続出しました。ドッジのもくろみ通り、インフレの元となっていいヤミ値は急速に下落し、庶民の生活は苦しいながらも安定につながったのでした。



「参火会」9月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒

2015年8月19日水曜日

第15回「参火会」8月臨時会 (通算379回) 2015年8月18日(火) 実施

「ヒット曲を歌う集い」第1回目

今回は、8月が「ソフィアンズクラブ」が休業のため、場所を地下鉄「赤坂見附」駅近くの「カラオケ館赤坂店」に移し、明治から大正期に生まれてヒットし、戦後まで歌われていた次の14曲を、「歌声喫茶風」に画面の歌詞をもとに、みんなでうたいあう会としました。




①「花」(明治33年 ♪春のうららの隅田川~)  ②「箱根八里」(明治34年 ♪箱根の山は天下の険~) ③「戦友」(明治38年 ♪ここはお国の何百里~) ④「美しき天然」(明治38年 ♪空にさえずる鳥の声~) ⑤「青葉の笛」(明治39年 ♪一の谷の戦破れ~) ⑥「七里ヶ浜の哀歌」(明治43年 ♪真白き富士の嶺 緑の江の島~) ⑦「広瀬中佐」(大正元年 ♪轟く砲音 飛び来る弾丸~) ⑧「城ヶ島の雨」(大正2年 ♪雨はふるふる城ヶ島の磯に~) ⑨「カチューシャの唄」(大正3年 ♪カチューシャかわいや~) ⑩「ゴンドラの歌」(大正5年 ♪いのち短し 恋せよ乙女~) ⑪「宵待草」(大正7年 ♪待てどくらせど来ぬひとを~) ⑫「船頭小唄」(大正10年 ♪おれは河原の枯れすすき~) ⑫「籠の鳥」(大正12年 ♪逢いたさ見たさに恐さを忘れ~) ⑭「洒落男」(大正13年 ♪俺は村中で一番~)

ところが、用意してもらった業界シェアトップ13万5000曲収録という通信カラオケ「DAM」に、上記14曲のうち半分以上が未収録ということがわかりました。10年ほど前までは、当たり前のように入っていた名曲が、時代の流れの中で消えてしまうのはショックですが、これもしかたのないことなのかも知れません。

そのため後半は、みんなの十八番や、軍歌、懐かしのメロディなどを歌いあい、和気あいあいの時間を過ごすことができました。





「参火会」8月臨時会出席者

(50音順・敬称略)

  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2015年7月22日水曜日

第14回「参火会」7月例会 (通算378回) 2015年7月21日(火) 実施

「昭和史を考える集い」11回目 昭和21・22年「占領と民主化への歩み」

今回は、6月19日に急逝されたメンバーの小林宏之氏を追悼し、会のはじめに黙祷(30秒)を捧げました。(向井様からの花束・お香の用意に感謝)  引き続き、NHK制作DVD11巻目の映像(約50分)を視聴しました──





(おもな内容)

天皇の「人間宣言」、金融緊急措置令による新円切り替え、物価統制令公布施行、板橋事件、野坂参三中国から帰国、第22回衆議院選挙で女性代議士39名誕生、第1次吉田茂内閣成立、食糧メーデー、電産争議、読売新聞社争議、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、平川唯一「英語会話」(♪カムカムエブリボディ…)放送開始、初ののど自慢素人音楽会、パーマネント・レコード生産・ダンスホール再開、雑誌の復刊・創刊続く、初の婦人警官登場、住友財閥の長女誘拐、片岡仁左衛門一家惨殺、暴行魔小平義雄逮捕、南海道大地震死者1330名、日本国憲法公布、吉田首相「不逞の輩」発言、全官公共闘労ゼネスト宣言、GHQゼネスト中止命令・伊井共闘議長涙の放送、衆議院解散片山哲内閣成立、臨時石炭鉱業管理法公布、秩父・高松・三笠の3直宮家を除く11宮家皇籍離脱、東京裁判所山口判事配給食糧だけで生活し栄養失調死、八高線脱線転覆事故、関東にキャスリーン台風来襲死者不明1930人、制限付き民間貿易許可、熊沢天皇が名古屋に出現、学校給食実施、児童福祉法公布…など。


「この時代の概要」

敗戦後初となる新年の昭和21年1月は、天皇の人間宣言とマッカーサーのGHQによる軍国主義者への第1次公職追放指令からスタートしました。対象は数千人にたっし、幣原内閣の閣僚5名をはじめ、与党進歩党260人の大半が含まれていました。4月に行われる戦後初の総選挙前に、旧支配勢力が権勢をふるうことのない体制をつくることを意図したものでした。しかし、当時の国民生活は戦争による破壊と荒廃のなかで、すさまじい食糧難とインフレに苦しみ、日々の暮らしをどうするかに悩みぬいていました。

そんな苦難に耐えながらも、初めて手にした自由の中で民主主義の実現を求め、労働運動、農民運動、文化運動、婦人運動が大きな高まりを見せました。そして、それらの総決算として、同年11月3日に日本国憲法が公布され、翌昭和22年5月3日から施行されたのでした。

政治体制も、旧体制を温存しようとした幣原内閣が21年4月10日の総選挙後に総辞職し、1か月の空白後に登場した第1次吉田茂内閣が新憲法を制定し、新憲法体制を築きあげるために行われた22年4月の総選挙では、社会党が第1党となり、社会・民主・国民の3党に緑風会が連立する片山哲内閣が成立しました。この政権は、経済再建への道を開くために石炭や鉄鋼など基幹産業を重点的に復興をめざすものの、物価や賃金を据え置こうとする傾斜生産方式を進めたことから、勤労大衆に大きな不満を残し、党内左右対立の調整にも失敗して、末期状態に陥りました。





映像視聴後、今回のもっとも大きなテーマである「日本国憲法」はどのようにできあがったのか。GHQがわずか9日間でつくりあげ、日本政府に押し付けたとする声が高まっているのに対し、ほんとうにそうだったのかを検証しました。憲法成立までを、時系列的に見ると、次のようになります。

20年9月9日 GHQ(連合国総司令部) 最高司令官のマッカーサーは「日本管理方針」を発表、日本の軍国的国家主義の根絶と自由主義傾向を奨励することを目的とするとしました。

20年10月11日 GHQは、東久邇宮稔彦に代って首相となった幣原喜重郎に、明治憲法を改正し自由主義化を指示。幣原は、松本烝治国務大臣を責任者とする「憲法問題調査委員会」を発足させました。

20年12月4日 「憲法問題調査委員会」は、憲法改正の原則を公表 ①天皇の統治権維持 ②議会権限拡充 ③国務大臣は国務全般の責任者 ④国民の自由と権利を保護 以上が4原則。

このころから、政府とは別に、共産党は「新憲法の骨子」を発表し、天皇制廃止、国民主権を主張。高野岩三郎は「日本共和国憲法私案要綱」を発表し、天皇制の廃止、大統領を元首とする共和制採用を主張。

いっぽう高野は、森戸辰男、岩淵辰雄、杉森孝次郎、鈴木安蔵、馬場恒吾、室伏高信の7人からなる学者グループと「憲法研究会」を立ち上げ、20年12月27日に改正案を発表しました。

21年1月 マッカーサーは、以上の3案に興味を示して翻訳を指示。とくに学者グループの「憲法研究会案」には高い評価を与え、GHQ幹部たちに配布したと推定されます。この案は、①統治権は日本国民より発す ②天皇は政治にタッチせず、専ら国家的儀礼を司る ③国政の最高責任者は内閣 ④国民は平等、差別は許されない ⑤国民は健康にして文化的生活をする権利を有する などに特徴があるものでした。

21年2月1日 毎日新聞が政府「憲法問題調査委員会」の改正案をスクープして発表。

21年2月3日 マッカーサーは、日本政府の改正案には「国民主権」「基本的人権」「平和主義」が入っていないと激怒してホイットニー民政局長に説明。ホイットニーはケーディス民政局次長に、2月12日に予定している吉田茂外相、松本国務大臣らから日本側の憲法改正試案の説明を聞く前に、GHQ案を提示することを指示。ケーディスは、ただちに民生局のメンバー25名を集め、①天皇は国のヘッド ②日本は戦争を放棄 ③封建制度を廃止 という3原則を満たすことを基本に、今から9日間で、日本国憲法の草案を作ることを全員へ指示。民生局のメンバーたちは、7つの小委員会に分かれ、日本の7人の学者グループの案を中心に、「国連憲章」「フランス人権宣言」「アメリカ憲法」「ワイマール憲法」「フィンランド憲法」「ソビエト憲法」を参考に一気にこしらえあげ、2月10日の夜マッカーサーに届けられ、2月12日に最終案を完成させました。

21年2月13日 GHQと日本政府との会合は1日伸ばされ、この日GHQ側はホイットニー、ケーディス、草案づくりの責任者ハッシー・ラウレル両大佐の4名、日本側は吉田外相、松本国務相、白洲次郎事務局次長と長谷川元吉通訳の4名が出席して会合を開き、GHQは日本政府案を拒否、GHQ案に基づく修正案作成を要求しました。

21年3月4日 GHQの修正案をもとに日本政府は手直ししてこの日の「日米合同委委員」に提出。GHQは、「これを基にすぐに具体化しよう」とそのまま審議に入り、徹夜で活発な討議がなされ翌日にようやく正式な憲法草案ができあがり、3月6日5時に発表されました。その後「憲法草案」は、作家の山本有三や国際法学者の横田喜三郎らにより、口語体に書きかえられました。しかし、政府が新かなづかいを告示したのは11月16日だったため、旧かなづかいのままでした。

21年4月17日 口語体に書きかえた政府の改正案を発表

 その後、新しく選ばれた議員による帝国議会で激論を交わしながら、幣原内閣に代わって首相となった吉田首相のもとで検討を続けました。とくに芦田均を委員長とする「憲法改正案特別委員会」は大きな機能をはたし、多くの修正・追加・削除を行いました。特に有名なのは、戦争放棄をのべた9条の加筆(芦田修正)です。( )内が修正した部分

第9条 (日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、) 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(第二項 前項の目的を達するため) 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

のちの1957年に芦田は、次のように発言しています。「2か所の修正により、日本は無条件に武力を捨てるのではないことを明白にした。自国を守るための戦力(個別的自衛権)だったら持ってもよいと解釈できる」と。

21年10月7日 憲法改正案が、議会で全項目を絶対多数で可決。

21年11月3日 明治節(明治天皇の誕生日)を選び、日本国憲法を公布

22年5月5日 日本国憲法施行

こうしてみると、日本の7人の学者グループによる改正案が土台になっていること、日米間に激しい議論が行われ、日本側の意見が通った分も多くあること、その後の国会審議で、修正・追加・削除が行われたこと、国民の代表である国会議員によって承認されたことなどを総合的に判断すれば、「わずか9日間で作られたGHQの押しつけ」という安倍首相らの発言は、的を得たものではないことがわかります。

その後メンバーから、憲法を改正したいのなら、憲法解釈をこねくり回すより、正々堂々とやるべきだ。世の中の動きが当時とは大きくさま変わりしている。世界の警察官を自認してきたアメリカの力の衰え、憲法より共産党の力を優先する中国のような国がのし上がって、南シナ海の岩礁埋め立てなど、勝手なふるまいにどう対処すべきか、このあたりのことをしっかり踏まえながら政府を見守っていかなくてはならない、といった意見があがったことを付け加えておきます。

何といっても、憲法は、「政治家や公務員ら国の権力者の行動を規制するもの」だからです。


「参火会」7月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1973年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2015年6月17日水曜日

第13回「参火会」6月例会 (通算377回) 2015年6月16日(火) 実施

「昭和史を考える集い」10回目 昭和20年8~12月「焦土の中から」

今回は、NHK制作DVD10巻目の映像を視聴しました──




(おもな内容)

連合軍先遣隊厚木に到着、マッカーサー元帥厚木到着、横浜に連合軍総司令部設置、東京湾海上ミズーリ―号で降伏文書調印、東久邇宮稔彦内閣成立、米兵ギャング事件発生、女学校休校、進駐軍向け慰安施設開設、各地で国粋主義者自決、天皇マッカーサー訪問、GHQ次々と指令─治安維持法廃止・政治犯釈放・特高警察廃止、幣原喜重郎内閣成立、徳田球一ら政治犯釈放、GHQ東条英機ら戦犯容疑者逮捕命令(東条英機自殺未遂)、近衛文麿服毒自殺、横浜でBC級戦犯裁判、マニラ軍事裁判で山下奉文に死刑判決、日本社会党結成、衆議院議員選挙改正公布により婦人に参政権、財閥解体指令、農地解放指令、労働組合法公布、各地の中学・高校で同盟休校頻発、修身・日本歴史・地理の授業停止、東大の大内兵衛ら復職、国家と神道の分離、樺太からの引き上げ船撃沈、飢餓対策国民大会開催、中央線笹子駅で列車脱線など列車事故頻発、仇討物・心中物・剣劇物など上演禁止、スピードくじ・宝くじ人気、早慶戦復活、「リンゴの唄」大流行、「日米会話手帳」ベストセラーなど……。

「この時代の概要」

原爆投下とソ連の参戦により、日本はポツダム宣言を8月14日の夜に受諾して降伏しました。8月28日、日本占領のため米軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、2日後には連合国最高司令官マッカーサーも到着し、以後、連合国軍最高司令官司令部(GHQ)の管理下におかれることになりました。敗戦直後、鈴木貫太郎内閣から代った東久邇宮稔彦内閣は、支配秩序の危機を皇族の権威で乗り越えようと、「国体維持」「一億総懺悔」を唱えて、旧体制維持を貫こうとしました。しかし、10月4日マッカーサーによる自由・民主化の指令に抗しきれずに総辞職、幣原喜重郎内閣に代るものの、矢継ぎ早やともいえる占領軍の民主化指令にとまどいました。いっぽう国民は飢えに苦しみながらも、初めて手にする自由の中で、焼け跡にバラックを建て、闇市などへ買い出しに明け暮れながら、懸命に生き抜く努力をするのでした……。





約50分の映像を視聴後、配布資料の補足説明が行われ、特に「敗戦・占領期の人びとの動き」の資料が好評でした。平凡社地図出版が制作したもので、①占領地からの復員・引き揚げ ②日本国内からの帰還・送還 ③日本人捕虜のシベリア抑留の3つが色分けされた労作です。たとえば①では、中国本土161万、満州127万、東南アジア71万、台湾48万など ③では、ソ連が8月7日に参戦し1週間後に戦争が終ったにもかかわらず、9月2日の降伏文書調印の前日まで戦闘行為を続け、57万5千人もの日本人捕虜をシベリアへ抑留して強制労働に従事させ、6万人も死亡させた行為には、あきれるとともに、こんな国に終戦のあっせんをしていた日本政府のなさけなさに憤る声もあがりました。
また、GHQの民主化「5大改革」 ①婦人解放 ②圧政的諸制度の撤廃 ③労働組合の助長 ④経済の民主化 ⑤自由主義教育 のうち「農地改革」「財閥解体」が、とくに話題になりました。また、この時代になると、参加者の中には、当時をはっきり記憶している方も多く、小林・草ヶ谷・反畑・郡山・岩崎・竹内・植田各氏らから、貴重なお話を聞くことができました。


「参火会」6月例会参加者 (50音順・敬称略)


  • 岩崎  学 文新1962年卒 
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 小林宏之 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原  勉  文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1973年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2015年5月20日水曜日

第12回「参火会」5月例会 (通算376回) 2015年5月19日(火) 実施

「昭和史を考える集い」9回目 昭和20年1~8月「戦争終結」

進行役・谷内秀夫氏

「NHKの映像をもとにしたDVDの視聴」





(おもな内容)

米軍ルソン島上陸、米軍ルソン島バキオに侵入、米機動部隊関東各地を初空襲、米軍硫黄島上陸、硫黄島の日本軍玉砕、東京夜間大空襲、東京5新聞「共同新聞」に、日本製風船爆弾、緑十字船「阿波丸」沈没、花岡鉱山で中国人蜂起、国民学校初等科以外の授業1年間停止、ラジオ放送の時間短縮、戦局悪化、1等10万円の「勝札」発行、米軍ラングーンを占拠、小磯首相日中和平案を提議、米軍沖縄本島上陸、鈴木貫太郎内閣成立、ヤルタ会議、ソ連軍戦車隊ベルリンに突入、エルベの誓い、ヒトラー自殺、独無条件降伏、ルーズベルト死去、天皇臨席の最高戦争指導会議、国民義勇戦闘隊、戦艦「大和」沈没、日本軍沖縄守備隊全滅、最高戦争指導会議、東北・北海道空襲、米最初の原爆実験成功、ポツダム宣言、鈴木首相ポツダム宣言黙殺を声明、広島に原爆投下、ソ連対日宣戦布告、長崎に原爆投下、御前会議、「国体維持・断固抗戦」、ポツダム宣言無条件受諾、「終戦の詔書」を放送……など。


「この時代の概要」

昭和20年に入ると、戦争は絶望的な段階に入りました。1月に米軍はルソン島に上陸するものの、日本軍にはすでに反撃する力はなく、小磯内閣と大本営は本土決戦を叫び、最後まで戦い抜く体制を固めました。これまでの米軍の本土空襲は軍需工場が中心だったのが、3月10日の東京大空襲以降は全国の人口密集地へ終戦の前日まで焼夷弾攻撃を行いました。また米軍は、3月に硫黄島の守備隊2万3千人を玉砕させた後、沖縄の慶良間列島を潰滅させて4月1日に沖縄本島へ上陸、6月23日までに20万人もの県民が犠牲になり、本土の決戦を暗示させました。

この間、ヨーロッパ戦線は最終段階に入り、5月にドイツが無条件降伏して戦争が終わりました。6月には連合国の代表がサンフランシスコで「国際連合憲章」に調印して戦後世界の秩序をつくり、7月には米英ソの首脳がベルリン郊外のポツダムで会談、日本に対する降伏勧告ともいえる「ポツダム宣言」を発表しました。しかし鈴木内閣の黙殺声明を理由に、8月6日と9日に広島と長崎へ原爆を投下、8月8日にはソ連の対日参戦となりました。

原爆投下とソ連の参戦により、日本はポツダム宣言を8月14日の夜に受諾して降伏しました。しかし、事後処理のまずさから、その後もソ連は攻撃をしつづけ、わずか1週間で満州の日本軍8万人を戦死させ、57万5000人もの捕虜をシベリヤに連れて何年も労働させ、10万人以上が亡くなったといわれています。こうして、長かった戦争は終わりましたが、310万人以上もが犠牲になったうえ、廃墟と化した国内に、引揚者や復員者が帰り、8000万人以上が飢えに苦しみながら生活せざるをえませんでした。

8月28日、日本占領のため米軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、2日後には連合国最高司令官マッカーサーも到着し、以後40万人の軍隊が日本に進駐することになりました。





約50分の映像を視聴後、配布資料の補足説明が行われ、特に20万人もの島民が犠牲になった「沖縄戦」の悲劇が注目されました。4月1日にアメリカ軍は軍艦1317隻、航空母艦に載る飛行機1727機、上陸部隊18万人で沖縄本島中部に上陸し、読谷(よみたん)・嘉手納飛行場をただちに占拠し、20日間で中北部を完全に制圧しました。日本軍はほとんど抵抗せず、守備隊は南部の首里方面に米軍を誘いこんで、県民を守ることより、1日でも本土決戦を遅らせる持久戦の方針を遂行しました。その結果、20万人という島民の1/4が犠牲になりながらも、6月末まで持ちこたえました。アメリカが終結宣言をしたのが7月2日ですから、まさに、沖縄人々の頑張りが本土上陸を阻止したことは、日本人は決して忘れてはいけないという声があがりました。

いっぽうアメリカ軍は、ヨーロッパ宣戦でドイツ空襲で成果をあげて潰滅させたルメイ中将を赴任させると、「日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾が有効」という作戦を立て、300機以上のB29を3月10日に東京の下町に無差別爆撃をかけ(東京大空襲)、1夜にして焼け野原にしました。これをきっかけに、全国の大中都市に無差別焼夷弾が襲い、敗戦までに約30万人を殺害しました。そのいいわけに「日本の民家はどこも、機械で軍需品を作っているので軍需工場と同じ。だから無差別攻撃に当たらない」というのは、非難される行為であることに間違いはありません。

特攻隊も問題視されました。1944年10月のフィリピンのレイテ沖海戦ではじめて編成され、爆弾をかかえ、飛行機もろとも敵艦に体当たりする決死の攻撃「神風特別攻撃隊」は、大きな成果をあげました。特に沖縄戦では大規模な特攻が行われ、九州各地から約2000機が出撃しましたが、制海権は米軍にあったため、沖縄につく前に9割が撃墜され、運よく到着した機も米軍の対空砲火を受けて、ほとんどが無駄死でした。

広島、長崎に原爆を落とされ、ソ連が参戦する状況になっても、7月27日に発表された「無条件降伏」条件をめぐって「最高指導会議」は、結論を出せません。まさに、なさけない日々を送ったことに、天皇への批判もあるなど、熱の入った議論が続きました。


なお、終了間際に、メンバーの植田康夫氏が、5月5日のBSフジ「プライムニュース」(午後8時~9時55分)2時間の生放送に出演された件で、ご本人から、その感想を伺いました。この番組は、5月4日から8日までのシリーズ企画『昭和を創った人たち』の2回目として「大宅壮一」がとりあげられ、1967年に始まった「大宅壮一マスコミ塾」の第1期生として参加された植田氏が、評論家の大宅映子氏らとに生出演されたものです。大宅の功績をたどりながら、戦後ジャーナリズムの変遷、「一億総白痴化」といわれたテレビのありかたなど、キャスターの反町理らと、幅広い議論が行われましたが、大宅の発した「駅弁大学」など、番組内では聞けなかったさまざまな話を聞くことができました。


また、会長の酒井が、5月16日(土)に行われた「ソフィア会春季全国代議員会」に「参火会代表」として初めて参加したことを報告しました。同時にメンバーの向井昌子さんが「さいたまソフィア会」の交代代表になられたことも同時に発表されたこと、従来の代議員の竹内光氏、菅原勉氏とともに、みんなで終了後の「懇親会」に参加させてもらいました。私たちの時代には見ることができなかった現役学生チアガールを交えた応援風景の実演も見ることができ、写真に撮りましたので参考にしてください。





最後に、「参火会」に寄贈されたメンバーの著書に関するルール案が発表され、承認されたことを記します。現在までに、『うたのチカラ』『週刊読書人と戦後知識人』『英語で発する広島メッセージ』『めざせ! 海外ビジネス』があり、読みたい書籍があった方へ例会の席で渡し、例会出席簿の左ページにサインし、次回の例会で返却すること。もし、次回の例会に欠席の場合は、「レターラックミニ」(郵便局・360円)で、酒井義夫自宅あてへ郵送すること──以上。



「参火会」5月例会参加者 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒 
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 小林宏之 文新1960年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原  勉  文英1966年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一 文新1960年卒
  • 鴇澤武彦  文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1973年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2015年4月23日木曜日

第11回「参火会」4月例会 (通算375回) 2015年4月21日(火) 実施

「昭和史を考える集い」8回目 昭和19年「敗色日々に濃し」

進行役・谷内秀夫氏

「NHKの映像をもとにしたDVDの視聴」






(おもな内容)

マーシャル諸島の日本守備軍全滅、連合艦隊司令長官古賀峯一殉死、米軍ニューギニア島上陸、インパール作戦開始、京漢打通作戦(陸軍50万人投入による中国2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦)開始、日本軍長沙占領、B29北九州を空爆、米軍サイパン島上陸、マリアナ沖海戦、サイパン島日本軍4万の守備隊玉砕、東条内閣総辞職し小磯国昭内閣成立、テニヤン島日本軍守備隊玉砕、連合軍ノルマンディー上陸、パリ入城、緊急国民勤労動員方策要項、初の女性運転手登場、国民学校高等科・中学低学年も学徒動員に決定、料理店・バーなど閉鎖、たばこ配給、歌舞伎座・帝劇など閉鎖、夕刊廃止「改造」「中央公論」廃刊、毎日新聞差押さえ、一億国民総武装決定、学童集団疎開、「対馬丸」米の魚雷で沈没、台湾沖航空戦、米軍レイテ島上陸、神風特攻隊突撃開始、B29東京に初空襲……など。


「この時代の概要」

太平洋戦争開戦後、約半年間は快進撃をつづけたものの、17年6月にミッドウェー海戦でアメリカ機動部隊に大敗したのを機にアメリカの反撃が本格化。ソロモン諸島ガダルカナル島での半年間の攻防の末、日本軍は18年2月初めに撤退、死者2万人(内15000人は餓死)の大敗北をきっしました。

守勢に転じた日本軍は、18年9月に「絶対国防圏」を設定し、戦線を縮小してアメリカ軍の侵攻を食い止めようとするものの、19年2月には、その最前線のトラック島の海軍基地を奪われ、最後の砦ともいうべきサイパン島が7月に陥落(日本軍兵士3万人玉砕、市民1万人自殺)。サイパン島におかれた米軍航空基地から何百機というB29が飛び立ち、日本本土空襲が本格化し、この時点で勝敗は決したといえます。

ところが、軍部は「1億玉砕」「聖戦完遂」を叫び、学童集団疎開、一億国民総武装、女性や少年少女も工場へ勤労動員として駆り出すなど、国民を総武装させ、竹槍訓練をさせたり、無謀ともいえる神風特攻隊まで繰り出してまで戦おうとさせたのはなぜなのか、資料による補足説明後に話し合いをしました。





「こんな国になったきっかけは?」

その要因として、3つの事件があげられました。
1つ目は、「国際連盟」からの脱退したこと。
昭和6年9月に「満州事変」がおこり、翌7年3月に、日本は「満州建国宣言」をしました。これに対し国際連盟は、リットン調査団を派遣し、「日本の満州支配は不当であるが、過渡的措置として日本を含む列強各国は、中国の主権を認め、満州開拓、管理に当たるべき」という満州報告書をまとめ、国連総会にはかりました。これを認めるわけにはいかないとした日本が反対するものの、42対1(日本)で可決されました。
すぐに松岡洋介代表は、国際連盟からの脱退演説を行い、団員たちを引き連れて議場を引き上げ、3日後に日本は正式に脱退しました。これに対し当時の新聞(12社)は、共同で松岡の行為を讃え、松岡が横浜港へ帰国した時は、2千人もの人が迎えて歓声をあげたといわれています。しかしこのことは、国際的な孤立を生み、政治的な発言力を失っただけでなく、文化面では学術書を入手するにもドイツなどを通じて入手せざるをえず、鎖国状態に陥ってしまったのでした。

2つ目は、憲法学者美濃部達吉の「天皇機関説」を衆議院で否認したこと。
昭和10年2月、貴族院の菊池武夫が、「天皇機関説は不敬に当たる」と発言し、従来は近代社会の当たり前の認識といわれてきた説を否定したのがきっかけでした。岡田啓介首相も、松田源治文相も、そういう問題は、学者にまかせるべきと回答したものの、菊池説を陸軍が支援して同年3月に国家は天皇のものとする「天皇神権説」を可決しました。この問題にも、マスコミ各社は異議をとなえませんでした。

3つ目は、「国定教科書」を全面改訂したこと。
昭和8年、文部省は教科書を全面的に改訂し、小学1年の教科書では「すすめ。すすめ、へいたいすすめ」となり、2年では「天皇へいかは、わが大日本帝国をおさめている尊いおかたであらせられます。わたしたちが、大日本帝国の臣民としてうまれて、かように有難いお方をいただいていることは、この上もない幸せでございます……」などとなり、こんな考え方が、「1億玉砕」「聖戦完遂」といった、軍部の無謀といえる論理を育てた原点になっているのではないか。

そのほか、官憲の陰謀による「中央公論」「改造」という良心的ジャーナリズム雑誌が廃刊に追いやられた「横浜事件」。また、毎日新聞の1記者が東条英機の「一億玉砕、本土決戦」を批判し、「敵が飛行機で攻めてくるのに、竹槍をもっては戦い得ないのだ…」と批判したところ、東条は、「竹槍では勝てぬとは反戦思想だ」と激怒し、陸軍報道部長は、毎日の編集局長を呼び、執筆者の処罰、社内責任者の処分、掲載紙の発禁を申し渡したことにもふれられました。
このように、一部ジャーナリストは存在していたものの、ほとんどが軍部の宣伝機関「マスコミ屋」になっていたのは事実──といったようなさまざまな意見が交わされ、充実した時間をすごすことができました。





なお、メンバーの植田康夫氏が、ごく最近「『週刊読書人』と戦後知識人」という本を刊行されました。
1962年に『週刊読書人』編集部に入社し1989年に退社後、2008年まで上智大学新聞学科教授を務め、退任後は『週刊読書人』に復帰して、現在同社の社長となっています。これまでの50年以上も出版界に携わってきた体験を、小田光雄がインタビューしまとめた著書です。植田氏から、「参火会」へ2冊献本くださいましたので、5月例会までにルールをこしらえ、メンバー間で回し読みができる仕組みにしようと構想しています。


「参火会」4月例会参加者 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 小林宏之 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原  勉  文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 鴇澤武彦  文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2015年3月18日水曜日

第10回 「参火会」3月例会 (通算374回) 2015年3月17日(火) 実施

番外編 「イスラムを考える集い」

進行役・岩崎学氏

日本人人質の湯川遙菜氏と後藤健二氏を拘束し殺害するなど、その残虐行為によってにわかに注目されるようになった過激派組織「イスラム国」(ISイスラミック・ステート)」。なぜ、このような過激派組織が生まれたのか? その最新版ともいえる番組が、NHKBSで3月15日午後10時~11時50分に放送されました。会は、BS1スペシャル「追跡 過激派組織ISの闇」の、後半の映像を視聴することから、スタートしました。



この番組は、2014年6月に「カリフ(ムハンマドの後継者)制国家」を樹立し、自身が新たなカリフとなったことを宣言した謎の指導者アブバクル・バグダディが、どんな人物かに焦点があてられました。彼のことを知る、ISの元戦闘員、アメリカ政府元高官ら100人を取材したことで浮かび上がってきたのは、バグダディがアメリカのイラク中東政策の隙をついて、過激派のネットワークを築き、豊富な資金源を獲得していった詳細な手口と、世界中に影響を及ぼす巧妙なメディア戦略の舞台裏など、最前線の現場への取材から、国際秩序を揺るがすISの知られざる実態に迫るというものでした。

バグダディは20代のころ、バクダッドの「イラン大学」で神学生として博士号をとります。2004年、ブッシュアメリカ大統領が、イラクにある大量破壊兵器を探し出すという名目でしかけた「イラン戦争」に敵対したことで捕まり、10か月間収容所(キャンプ・ブッカ)に入り、さらに、2006年から3年間もここで過ごしました。この収容所は、巨大な過激派養成所のようなところで、サダム・フセイン元イラク首相 (2006年12月30日に処刑) の指導を受けた高度な戦術を身につけた人物が大勢いて、バグダディは彼らから過激思想を感化されます。特に、ザルカウィ(2006年のアメリカ空爆で死亡)が、2020年を最終勝利年とする7段階の「世界規模のカリフ制の再興目標を2005年に公表) からテロの指南を受け、シーア派と対立させてスンニ派とのジハードを徹底させる「恐怖支配」を洗脳されたといいいます。ところが、米国防情報局の元長官の証言によると、2009年9月、アメリカはバグラディをイラン政府に引き渡したところ、イラン政府はバグラディを釈放。「これは最大の誤算」と証言していました。

さらにアメリカの誤算は、2006年、アメリカがスンニ派の過激派を抑えるため「スンニ自警団」を設置して10万人もの雇用を確保したものの、2011年アメリカ軍がイラク撤退後、イラクのマリキ首相(シーア派)は、スンニ派を抑圧して迫害政策をとります。フセインの支持団体「バース党復活」を恐れた行動だったようですが、結果的にスンニ派の実力者たちがマリキの恐怖政治に耐えられなくなり、「イラクのアルカイダ」と合流したのがISの母体だというのが主な主旨でした。

結論的にいえることは、IS誕生の背景には、アメリカのイラク攻撃があり、アメリカの一方的な攻撃によってフセイン体制が崩壊し、その混乱の中でバース党の残党とイスラム過激派が結びついてできあがった組織といえそうです。バグダディも元バース党員で、あのときブッシュ政権が「大量破壊兵器を所有している」というデマに基づいてイラク攻撃をしなかったら、ISは存在しなかったし、ブッシュ政権のイラク戦争を全面支持した日本も同等に責任を負っているといえるようです。



その後、メンバーの山本明夫氏の独自の取材による補足説明が行われ、現在の中東の国々は、第1次世界大戦末期の1916年、イギリス人のサイクスとフランス人のピコが「サイクス・ピコ協定」を結び、人工的な国境線を引いたことに基づいていること、そのためにシリア東部はスンニ派、イランの西部もスンニ派の地域にもかかわらず国境線が引かれているため、両方の国でスンニ派が抑圧される中でISが生まれたことなど、説得力ある話が印象的でした。

いっぽう、第2次世界大戦後、労働力が不足したことで、欧州諸国は旧植民地などからムスリムの移民をたくさん受け入れたことが、イスラムとの対立の原因という意見がありました。フランスはアルジェリアから、イギリスはインド・パキスタン・バングラディシュから、ドイツはゲストワーカーの名目でトルコから。各国とも、一定期間働いたあと国にもどるのが前提だったのに、実際には多くが定住して今では外国人ではなく、自国民になったものの、疎外されつづけているところに問題の根がある。フランスの「シャルリー・エプト」のムハンマド諷刺画をめぐって、事件をひき起こしたクアシ兄弟も、アルジェリア人でなくフランス人だった。アメリカもまた、2001年9.11同時多発事件以来、ムスリムは白い目で見られている。日本は、「サイクス・ピコ」のような形でイスラムにかかわったことがないばかりか、中東の国々とかかわったことがほとんどない。あくまで「中東にかかわるのは人々を助けるため」を貫くべきという意見。



また、メンバーの竹内光氏から、Q&A形式の「イスラムの基礎知識」、ムスリムが信じなければならないアッラー(神)など「六信」、暮らしの中での実践・1日5回の礼拝や断食など「五行」、「ユダヤ教」「キリスト教」との違いを図解表示した資料を提供くださいました。とてもよくできた資料で、「イスラム」の理解が不足している日本人は、少なくともこの程度の基本を理解しておくべきでしょう。

そうすれば、日韓ワールドカップのころ、九州のある都市で国際スポーツ大会があったとき、土地の名物の「とんこつラーメン」をムスリムに食べさせたり(ムスリムは豚肉を食べない)、首都圏のある自治体が、自殺したイラン人ムスリムを火葬にしたりすること(「ムスリムは土葬」)もなかったでしょう。

その他、「イスラム」というのは意外にアバウトで、飲酒は厳しく禁じられているものでもないこと、「イスラム」は「ユダヤ教」や「キリスト教」を先行宗教として位置づけられ、「コーラン」(正しくはクルアーン)には、25人の預言者が登場し、6人の重要な預言者は、① アーダム(アダム) ② ヌーク(ノア) ③ イブラーヒム(アブラハム) ④ ムーサ―(モーセ) ⑤ イーサー(イエス) ⑥ ムハンマド があり、 
アッラーの啓示は、クルアーン以外に、次の3つがあり
① ムーサ―に与えた律法の書(旧約聖書の5書)
② ダーウード(ダビデ)に与えた詩編(旧約聖書)
③ イーサー(イエス)に与えた福音書(新約聖書にあるイエスの生涯と言行)

最後の預言者ムハンマドの「スンナ」(生前に発した言行) に従うムスリムだけが、アッラーの「真の使徒」とみなすこと。「スンナ」は、「ハディース」といい、クルアーンに次ぐ聖典で、クルアーンを読んだだけでは現実の多様な問題を処理できないことが多い。「ハディース」は、そんな問題を解決するための補助として用いられたり、ムスリムの規範を示す。クルアーンとハディースの主なよりどころとして「シャリーア」という規範があり、「イスラム法」と呼ばれたりするが、法律ではなく、アッラーがムスリムに与えた命令といえるもの。

その他、「イスラム」には、特有な音楽や踊りがあり、こういうものに親しむのも、イスラム理解につながるのではないかといった話など、充実した2時間を過ごすことができました。


「参火会」3月例会参加者

(50音順・敬称略)


  • 岩崎 学  文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 小林宏之 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原  勉  文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇澤武彦  文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1973年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2015年2月18日水曜日

第9回 「参火会」2月例会 (通算373回) 2015年2月17日(火) 実施

「昭和史研究の集い」第7回目「連合軍総反攻」昭和18年

進行役・谷内秀夫氏

「NHKの映像をもとにしたDVDの視聴」



(おもな内容)

ガナルカナル島撤退、ニューギニアで日本軍玉砕、山本五十六戦死、米軍アッツ島上陸、カサブランカ会談、ドイツ軍スターリングラードで大敗北、北アフリカ戦線終了、米軍レンドバ島上陸、コロンバンガラ島から日本軍撤退、ジャワ島の日本化、東条英樹「撃ちてし止まむ」演説、衣生活簡素化(男子国民服・筒袖-女子標準服・元禄袖)、男子の就業制限廃止・未婚女子動員、バケツリレー防火訓練、学徒出陣壮行会、ジャズなど演奏禁止、谷崎潤一郎「細雪」の連載中止、中野正剛自殺、上野動物園で供養会、日華共同宣言・日華協定調印、ビルマと同盟条約調印、自由インド仮政府樹立を宣言、大東亜会議、米軍ソロモン諸島ブーゲンビル島上陸、第1次カイロ会談、テヘラン会談……など。


「この時代の概要」

昭和17年8月初旬、アメリカ軍は反攻の第一歩として6万人を投入し、ソロモン諸島のガダルカナル島とツラギ島に上陸を開始した。この両島は、日本軍がハワイとオーストラリアの輸送路を絶つため、約3万人の日本兵を投入していたところだった。この攻防は、昭和18年1月末まで激しく行われたものの、日本軍は死者2万人(内15000人は餓死)の大敗北をきっし、2月初めに撤退した。

ガナルカナルの死闘がつづいている同時期、ヨーロッパの独ソ戦線では、スターリングラード(現ボルゴグラード)で攻防戦がおこなわれ、18年1月下旬にドイツが降伏したことにより、ヨーロッパ戦局の転換点になった。その後ドイツは、北アフリカ戦線でも後退をつづけた。

太平洋戦局も、攻守が完全に逆転。米軍はニミッツ率いる太平洋艦隊が中部太平洋の島づたいに攻勢をかけ、フィリピンからオーストラリアに撤退していたマッカーサー率いる西南太平洋軍は、ニューギニアの北岸づたいに前進をつづけた。制海・制空権を失った日本軍は、これに反撃することもできず、攻撃を受けた部隊は玉砕、受けなかった部隊は敵の背後に孤立していった。

18年5月には、カムチャッカに近いアリューシャン列島で、日本軍の占領下にあったアッツ・キスカ両島で米軍が奪取作戦を展開、アッツ守備軍は全滅した。11月にはギルバート諸島のマキン・タラワ両島に米軍2万5千が上陸し、日本守備隊は3日間で全滅する敗北を喫した。

9月に、3国同盟の一角だったイタリアが無条件降伏。11月には、米(ルーズベルト)英(チャーチル)中(蒋介石)がカイロで対日方針を協議する首脳会談を行い、「カイロ宣言」を発表。日本軍の占領する太平洋諸島のはく奪、満州・台湾を中国に返還、朝鮮を独立させる、日本の無条件降伏まで戦闘継続といった内容に署名した。


DVDの視聴後に、補足説明や話し合いがもたれました。さらに、メンバーの岩崎学氏から「イスラム国に殺された後藤健二氏のこと、フリーのジャーナリストの役割と問題点、大手のメディアが抱える問題、今回の政府対応、ネット上の反応などは、是非一度、議論のテーマにしていただきたい」という提案につき、みんなの意見を聞きました。

結論として、次回(3月17日例会)は「昭和史研究の集い」の番外として、イスラム国問題にしぼることなく、「イスラムを考える集い」とすること。問題が散漫にならないよう、初めに「基調」を山本明夫氏に話してもらい、進行役を岩崎学氏にお願いすることになりました。また、各自が多少の勉強して会に臨むことを確認しあいました。

~ ※ ~ ※ ~ ※ ~

後半は、「鎌倉ユネスコ協会」の理事で、次回で100号となる会報『鎌倉ユネスコ』の編集長をされている鴇沢武彦氏に、そのご苦労話を伺いました。同協会は、故平山郁夫氏が初代会長となって1988年10月に設立され、13号から鴇沢氏が編集長を務め、重要人物へのインタビュー「ハーイこんにちは」、公開講座「ユネスコサロン」「わたしの町の絵画展」を開催し優秀作を会報にカラー掲載、などが人気だそうです。




鎌倉が「世界遺産」の候補になったものの、その後どうなったかをたずねたところ、次のような回答でした。

イコモスは、「武家に古都・鎌倉」の歴史・遺跡は認めたものの、武家政権を示す物証が不足として不記載を勧告されたが、これを覆すための作業をしており、再度登録申請の準備をしているとのことでした。


「参加者」(五十音順・敬称略)


  • 岩崎学
  • 植田康夫
  • 草ヶ谷陽司
  • 小林宏之
  • 近藤修平
  • 酒井義夫
  • 菅原勉
  • 谷内秀夫
  • 反畑誠一
  • 鴇澤武彦
  • 増田一也
  • 向井昌子
  • 山本明夫


2015年1月21日水曜日

第8回 「参火会」1月例会 (通算372回) 2015年1月20日(火) 実施

「昭和史研究の集い」第6回目「緒戦の勝利」昭和17年

進行役・谷内秀夫氏

「NHKの映像をもとにしたDVDの視聴」



(おもな内容)

マニラ占領、セレベス島上陸、ラバウル上陸開始、シンガポール占領、戦勝祝賀第1次国民大会、ジャワの蘭印(オランダ領インドネシア)軍と米・英連合軍が無条件降伏、バターン半島占領、コレヒドール島占領、海軍省が戦死した特別攻撃隊を「軍神」として発表、セイロン沖海戦、ビルマのラングーン占領、マンダレー占領、翼賛政治会結成、尾崎行雄不敬罪で起訴される、大日本翼賛壮年団結成、食塩などの配給制実施、大日本婦人会結成、日本文学報告会が「愛国百人一首」の選定発表、米陸軍B25が東京・神奈川・名古屋・神戸を初空襲、防衛総司令部が本土空襲後に中国へ着陸して拘束した米機搭乗員の処分を発表、ミッドウェー海戦で日本軍大敗北により戦局転換、米軍ガダルカナル島とツラギ島に上陸、第2次ソロモン海戦、ガダルカナルの争奪をめぐる南太平洋海戦、開戦1周年国民大会挙行……など。


「この時代の概要」

昭和16年12月8日、日本陸軍はイギリス領のマレー半島に上陸、海軍はハワイ真珠湾にあったアメリカ太平洋艦隊の戦艦群を潰滅させ、「太平洋戦争」が始まった。相手が準備不足だったこともあり、日本軍の作戦は計画通りに進み、怒涛の快進撃で南下をすすめ、半年後の昭和17年5月までに、ビルマ、マレー、インドネシア、フィリピンなどの南方諸地域を占領したばかりか、ニューギニアから南太平洋にいたるまで戦線を拡大し、「大東亜共栄圏」をつくりあげることに成功した。

しかし、これは一時的なものにすぎず、同年6月6日の「ミッドウェー海戦」で、アメリカ機動部隊の反撃にあい、連合艦隊の主力航空母艦(空母)4隻を失うなど、大敗北をきっした。これををきっかけに太平洋戦線の主導権が逆転することになる。

さらに8月7日、アメリカ軍は、反抗の第一歩として6万人を投入し、ソロモン諸島のガダルカナル島とツラギ島に上陸。この両島には、日本軍がハワイとオーストラリア間の輸送路を絶つため、約3万人の日本兵を投入していたところだった。この攻防は、翌昭和18年1月末まで激しく行われた。当初は互角の戦いだったものの、しだいに日本海軍は制空権と制海権を奪われ、陸軍も次々と送りこんだ兵に対する食糧などの補給方法がなくなり、最終的に兵力3万4000人のうち戦死者8200人以上、餓死者11000人以上、計2万人。これに対し、アメリカ兵の戦死はわずか1600人以下で、日本軍は同年2月初めに撤退した……。


DVDの視聴後に、熱心な話し合いがもたれた。

米ルーズベルト大統領が、日本が宣戦布告なく、真珠湾奇襲を行ったことを非難し、「このような卑怯な『ならず者国家』は潰滅しなくてはならない」と議会で演説し、上院・下院議員約500名のうち、1名が反対しただけで「宣戦布告」がなされ、世界中に報道された。さらに、日系人約12万人の財産を没収し、人里離れた内陸部や砂漠地帯に設けた12か所の「強制収容所」に閉じ込め、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔離したこと。のちに米政府は謝罪と賠償をしたものの、日本が「とんでもない国家」としてのイメージをアメリカ国民に植えつけ、愛国心を鼓舞したことは、日本にとって悔いが残される。

しかし、わずかの事務手続きが遅れたことで真珠湾奇襲後に、対米英蘭へ宣戦布告されたが、ルーズベルトにとっては、待ち望んでいたことだった。「暗号解読」によって、日本の宣戦布告を数時間前に知っており、ヨーロッパ戦線で戦うイギリスを助け、ヒトラーを倒したいと考えていたものの、その名目がなかったのが、「これで戦える」と決断したのだ。

このことから、「暗号解読」についてが話題となった。太平洋戦争がアメリカの圧倒的な物量によって敗れたといわれるが、日本が用いていた暗号は、戦前から戦争の全期間を通じて、ほとんど米国に解読されていたのが、最大の敗因ではないか。その中でも、攻防が逆転するきっかけになった「ミッドウェー海戦」が特筆される。アメリカ軍は、日本軍の作戦計画の全容を事前に知り尽くして待ち伏せをし、攻撃を加えた。猪突猛進する日本軍は、航空母艦4隻、重巡洋艦1隻が撃沈され、320機以上の航空機を失い、 とくに、熟練したパイロットや整備員など3500人もの兵を失って惨敗したことは、「暗号解読」に、決定的な差があったからではないかなど、興味深い話し合いが行われた。

~ ※ ~ ※ ~ ※ ~

後半の約20分間は、前回中途で終ってしまった、メンバーの反畑誠一氏に「著作権とユーチューブ」の話をしてもらった。著作権を侵害する映像は、禁止されているものの、世界中から発信されている数は、年間40億レビューにものぼる。そのため、よほど悪質なものでない限り、裁判ざたになることは、ほとんどない。ごく最近19歳の若者が、コンビニで売っているアンパンなどに楊枝をさした映像を次々にアップして逃げ回り、なんとか逮捕されたことが話題になったが、スマ―トフォンを持っていれば、だれもが簡単な操作で投稿できる時代であるといった話をうかがった。

また、年末の12月28日に、BS民放5局が共同で制作する年末年始恒例の特別番組『久米宏・未来への伝言~ニッポン100年物語』の第1夜「ベストセラー」が BS日テレで21:00~22:59に行われたが、「参火会」メンバーの植田康夫氏(元・新聞学科長)が社長をされている「週刊読書人」 で行われたこと。氏がベストセラー関連の著書(↓写真)を多く出版されていること、参考資料が豊富にあることで、事務所をスタジオ代わりに使用してくれないかとの要請に応えたとのことだった。氏も2度登場し、コメントを求められていた。



なお、JASRAC創立75周年記念として刊行された『うたのチカラ』(集英社刊)を、編著者の反畑誠一氏が4冊、「参火会」に寄贈してくださった。3冊を定価の80%でメンバー3名に購入してもらい、1冊は会員間で輪読することに決まり、購入資金は、参火会の今後の活動のための資金とさせてもらうことになった。(感謝)


「参加者」(五十音順・敬称略)

  • 岩崎学
  • 植田康夫
  • 草ヶ谷陽司
  • 郡山千里
  • 小林宏之
  • 酒井猛夫
  • 酒井義夫
  • 菅原勉
  • 竹内光
  • 谷内秀夫
  • 反畑誠一
  • 鴇澤武彦
  • 深澤雅子
  • 増田一也
  • 山本明夫