2015年4月23日木曜日

第11回「参火会」4月例会 (通算375回) 2015年4月21日(火) 実施

「昭和史を考える集い」8回目 昭和19年「敗色日々に濃し」

進行役・谷内秀夫氏

「NHKの映像をもとにしたDVDの視聴」






(おもな内容)

マーシャル諸島の日本守備軍全滅、連合艦隊司令長官古賀峯一殉死、米軍ニューギニア島上陸、インパール作戦開始、京漢打通作戦(陸軍50万人投入による中国2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦)開始、日本軍長沙占領、B29北九州を空爆、米軍サイパン島上陸、マリアナ沖海戦、サイパン島日本軍4万の守備隊玉砕、東条内閣総辞職し小磯国昭内閣成立、テニヤン島日本軍守備隊玉砕、連合軍ノルマンディー上陸、パリ入城、緊急国民勤労動員方策要項、初の女性運転手登場、国民学校高等科・中学低学年も学徒動員に決定、料理店・バーなど閉鎖、たばこ配給、歌舞伎座・帝劇など閉鎖、夕刊廃止「改造」「中央公論」廃刊、毎日新聞差押さえ、一億国民総武装決定、学童集団疎開、「対馬丸」米の魚雷で沈没、台湾沖航空戦、米軍レイテ島上陸、神風特攻隊突撃開始、B29東京に初空襲……など。


「この時代の概要」

太平洋戦争開戦後、約半年間は快進撃をつづけたものの、17年6月にミッドウェー海戦でアメリカ機動部隊に大敗したのを機にアメリカの反撃が本格化。ソロモン諸島ガダルカナル島での半年間の攻防の末、日本軍は18年2月初めに撤退、死者2万人(内15000人は餓死)の大敗北をきっしました。

守勢に転じた日本軍は、18年9月に「絶対国防圏」を設定し、戦線を縮小してアメリカ軍の侵攻を食い止めようとするものの、19年2月には、その最前線のトラック島の海軍基地を奪われ、最後の砦ともいうべきサイパン島が7月に陥落(日本軍兵士3万人玉砕、市民1万人自殺)。サイパン島におかれた米軍航空基地から何百機というB29が飛び立ち、日本本土空襲が本格化し、この時点で勝敗は決したといえます。

ところが、軍部は「1億玉砕」「聖戦完遂」を叫び、学童集団疎開、一億国民総武装、女性や少年少女も工場へ勤労動員として駆り出すなど、国民を総武装させ、竹槍訓練をさせたり、無謀ともいえる神風特攻隊まで繰り出してまで戦おうとさせたのはなぜなのか、資料による補足説明後に話し合いをしました。





「こんな国になったきっかけは?」

その要因として、3つの事件があげられました。
1つ目は、「国際連盟」からの脱退したこと。
昭和6年9月に「満州事変」がおこり、翌7年3月に、日本は「満州建国宣言」をしました。これに対し国際連盟は、リットン調査団を派遣し、「日本の満州支配は不当であるが、過渡的措置として日本を含む列強各国は、中国の主権を認め、満州開拓、管理に当たるべき」という満州報告書をまとめ、国連総会にはかりました。これを認めるわけにはいかないとした日本が反対するものの、42対1(日本)で可決されました。
すぐに松岡洋介代表は、国際連盟からの脱退演説を行い、団員たちを引き連れて議場を引き上げ、3日後に日本は正式に脱退しました。これに対し当時の新聞(12社)は、共同で松岡の行為を讃え、松岡が横浜港へ帰国した時は、2千人もの人が迎えて歓声をあげたといわれています。しかしこのことは、国際的な孤立を生み、政治的な発言力を失っただけでなく、文化面では学術書を入手するにもドイツなどを通じて入手せざるをえず、鎖国状態に陥ってしまったのでした。

2つ目は、憲法学者美濃部達吉の「天皇機関説」を衆議院で否認したこと。
昭和10年2月、貴族院の菊池武夫が、「天皇機関説は不敬に当たる」と発言し、従来は近代社会の当たり前の認識といわれてきた説を否定したのがきっかけでした。岡田啓介首相も、松田源治文相も、そういう問題は、学者にまかせるべきと回答したものの、菊池説を陸軍が支援して同年3月に国家は天皇のものとする「天皇神権説」を可決しました。この問題にも、マスコミ各社は異議をとなえませんでした。

3つ目は、「国定教科書」を全面改訂したこと。
昭和8年、文部省は教科書を全面的に改訂し、小学1年の教科書では「すすめ。すすめ、へいたいすすめ」となり、2年では「天皇へいかは、わが大日本帝国をおさめている尊いおかたであらせられます。わたしたちが、大日本帝国の臣民としてうまれて、かように有難いお方をいただいていることは、この上もない幸せでございます……」などとなり、こんな考え方が、「1億玉砕」「聖戦完遂」といった、軍部の無謀といえる論理を育てた原点になっているのではないか。

そのほか、官憲の陰謀による「中央公論」「改造」という良心的ジャーナリズム雑誌が廃刊に追いやられた「横浜事件」。また、毎日新聞の1記者が東条英機の「一億玉砕、本土決戦」を批判し、「敵が飛行機で攻めてくるのに、竹槍をもっては戦い得ないのだ…」と批判したところ、東条は、「竹槍では勝てぬとは反戦思想だ」と激怒し、陸軍報道部長は、毎日の編集局長を呼び、執筆者の処罰、社内責任者の処分、掲載紙の発禁を申し渡したことにもふれられました。
このように、一部ジャーナリストは存在していたものの、ほとんどが軍部の宣伝機関「マスコミ屋」になっていたのは事実──といったようなさまざまな意見が交わされ、充実した時間をすごすことができました。





なお、メンバーの植田康夫氏が、ごく最近「『週刊読書人』と戦後知識人」という本を刊行されました。
1962年に『週刊読書人』編集部に入社し1989年に退社後、2008年まで上智大学新聞学科教授を務め、退任後は『週刊読書人』に復帰して、現在同社の社長となっています。これまでの50年以上も出版界に携わってきた体験を、小田光雄がインタビューしまとめた著書です。植田氏から、「参火会」へ2冊献本くださいましたので、5月例会までにルールをこしらえ、メンバー間で回し読みができる仕組みにしようと構想しています。


「参火会」4月例会参加者 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 小林宏之 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原  勉  文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 鴇澤武彦  文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒