2015年7月22日水曜日

第14回「参火会」7月例会 (通算378回) 2015年7月21日(火) 実施

「昭和史を考える集い」11回目 昭和21・22年「占領と民主化への歩み」

今回は、6月19日に急逝されたメンバーの小林宏之氏を追悼し、会のはじめに黙祷(30秒)を捧げました。(向井様からの花束・お香の用意に感謝)  引き続き、NHK制作DVD11巻目の映像(約50分)を視聴しました──





(おもな内容)

天皇の「人間宣言」、金融緊急措置令による新円切り替え、物価統制令公布施行、板橋事件、野坂参三中国から帰国、第22回衆議院選挙で女性代議士39名誕生、第1次吉田茂内閣成立、食糧メーデー、電産争議、読売新聞社争議、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、平川唯一「英語会話」(♪カムカムエブリボディ…)放送開始、初ののど自慢素人音楽会、パーマネント・レコード生産・ダンスホール再開、雑誌の復刊・創刊続く、初の婦人警官登場、住友財閥の長女誘拐、片岡仁左衛門一家惨殺、暴行魔小平義雄逮捕、南海道大地震死者1330名、日本国憲法公布、吉田首相「不逞の輩」発言、全官公共闘労ゼネスト宣言、GHQゼネスト中止命令・伊井共闘議長涙の放送、衆議院解散片山哲内閣成立、臨時石炭鉱業管理法公布、秩父・高松・三笠の3直宮家を除く11宮家皇籍離脱、東京裁判所山口判事配給食糧だけで生活し栄養失調死、八高線脱線転覆事故、関東にキャスリーン台風来襲死者不明1930人、制限付き民間貿易許可、熊沢天皇が名古屋に出現、学校給食実施、児童福祉法公布…など。


「この時代の概要」

敗戦後初となる新年の昭和21年1月は、天皇の人間宣言とマッカーサーのGHQによる軍国主義者への第1次公職追放指令からスタートしました。対象は数千人にたっし、幣原内閣の閣僚5名をはじめ、与党進歩党260人の大半が含まれていました。4月に行われる戦後初の総選挙前に、旧支配勢力が権勢をふるうことのない体制をつくることを意図したものでした。しかし、当時の国民生活は戦争による破壊と荒廃のなかで、すさまじい食糧難とインフレに苦しみ、日々の暮らしをどうするかに悩みぬいていました。

そんな苦難に耐えながらも、初めて手にした自由の中で民主主義の実現を求め、労働運動、農民運動、文化運動、婦人運動が大きな高まりを見せました。そして、それらの総決算として、同年11月3日に日本国憲法が公布され、翌昭和22年5月3日から施行されたのでした。

政治体制も、旧体制を温存しようとした幣原内閣が21年4月10日の総選挙後に総辞職し、1か月の空白後に登場した第1次吉田茂内閣が新憲法を制定し、新憲法体制を築きあげるために行われた22年4月の総選挙では、社会党が第1党となり、社会・民主・国民の3党に緑風会が連立する片山哲内閣が成立しました。この政権は、経済再建への道を開くために石炭や鉄鋼など基幹産業を重点的に復興をめざすものの、物価や賃金を据え置こうとする傾斜生産方式を進めたことから、勤労大衆に大きな不満を残し、党内左右対立の調整にも失敗して、末期状態に陥りました。





映像視聴後、今回のもっとも大きなテーマである「日本国憲法」はどのようにできあがったのか。GHQがわずか9日間でつくりあげ、日本政府に押し付けたとする声が高まっているのに対し、ほんとうにそうだったのかを検証しました。憲法成立までを、時系列的に見ると、次のようになります。

20年9月9日 GHQ(連合国総司令部) 最高司令官のマッカーサーは「日本管理方針」を発表、日本の軍国的国家主義の根絶と自由主義傾向を奨励することを目的とするとしました。

20年10月11日 GHQは、東久邇宮稔彦に代って首相となった幣原喜重郎に、明治憲法を改正し自由主義化を指示。幣原は、松本烝治国務大臣を責任者とする「憲法問題調査委員会」を発足させました。

20年12月4日 「憲法問題調査委員会」は、憲法改正の原則を公表 ①天皇の統治権維持 ②議会権限拡充 ③国務大臣は国務全般の責任者 ④国民の自由と権利を保護 以上が4原則。

このころから、政府とは別に、共産党は「新憲法の骨子」を発表し、天皇制廃止、国民主権を主張。高野岩三郎は「日本共和国憲法私案要綱」を発表し、天皇制の廃止、大統領を元首とする共和制採用を主張。

いっぽう高野は、森戸辰男、岩淵辰雄、杉森孝次郎、鈴木安蔵、馬場恒吾、室伏高信の7人からなる学者グループと「憲法研究会」を立ち上げ、20年12月27日に改正案を発表しました。

21年1月 マッカーサーは、以上の3案に興味を示して翻訳を指示。とくに学者グループの「憲法研究会案」には高い評価を与え、GHQ幹部たちに配布したと推定されます。この案は、①統治権は日本国民より発す ②天皇は政治にタッチせず、専ら国家的儀礼を司る ③国政の最高責任者は内閣 ④国民は平等、差別は許されない ⑤国民は健康にして文化的生活をする権利を有する などに特徴があるものでした。

21年2月1日 毎日新聞が政府「憲法問題調査委員会」の改正案をスクープして発表。

21年2月3日 マッカーサーは、日本政府の改正案には「国民主権」「基本的人権」「平和主義」が入っていないと激怒してホイットニー民政局長に説明。ホイットニーはケーディス民政局次長に、2月12日に予定している吉田茂外相、松本国務大臣らから日本側の憲法改正試案の説明を聞く前に、GHQ案を提示することを指示。ケーディスは、ただちに民生局のメンバー25名を集め、①天皇は国のヘッド ②日本は戦争を放棄 ③封建制度を廃止 という3原則を満たすことを基本に、今から9日間で、日本国憲法の草案を作ることを全員へ指示。民生局のメンバーたちは、7つの小委員会に分かれ、日本の7人の学者グループの案を中心に、「国連憲章」「フランス人権宣言」「アメリカ憲法」「ワイマール憲法」「フィンランド憲法」「ソビエト憲法」を参考に一気にこしらえあげ、2月10日の夜マッカーサーに届けられ、2月12日に最終案を完成させました。

21年2月13日 GHQと日本政府との会合は1日伸ばされ、この日GHQ側はホイットニー、ケーディス、草案づくりの責任者ハッシー・ラウレル両大佐の4名、日本側は吉田外相、松本国務相、白洲次郎事務局次長と長谷川元吉通訳の4名が出席して会合を開き、GHQは日本政府案を拒否、GHQ案に基づく修正案作成を要求しました。

21年3月4日 GHQの修正案をもとに日本政府は手直ししてこの日の「日米合同委委員」に提出。GHQは、「これを基にすぐに具体化しよう」とそのまま審議に入り、徹夜で活発な討議がなされ翌日にようやく正式な憲法草案ができあがり、3月6日5時に発表されました。その後「憲法草案」は、作家の山本有三や国際法学者の横田喜三郎らにより、口語体に書きかえられました。しかし、政府が新かなづかいを告示したのは11月16日だったため、旧かなづかいのままでした。

21年4月17日 口語体に書きかえた政府の改正案を発表

 その後、新しく選ばれた議員による帝国議会で激論を交わしながら、幣原内閣に代わって首相となった吉田首相のもとで検討を続けました。とくに芦田均を委員長とする「憲法改正案特別委員会」は大きな機能をはたし、多くの修正・追加・削除を行いました。特に有名なのは、戦争放棄をのべた9条の加筆(芦田修正)です。( )内が修正した部分

第9条 (日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、) 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(第二項 前項の目的を達するため) 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

のちの1957年に芦田は、次のように発言しています。「2か所の修正により、日本は無条件に武力を捨てるのではないことを明白にした。自国を守るための戦力(個別的自衛権)だったら持ってもよいと解釈できる」と。

21年10月7日 憲法改正案が、議会で全項目を絶対多数で可決。

21年11月3日 明治節(明治天皇の誕生日)を選び、日本国憲法を公布

22年5月5日 日本国憲法施行

こうしてみると、日本の7人の学者グループによる改正案が土台になっていること、日米間に激しい議論が行われ、日本側の意見が通った分も多くあること、その後の国会審議で、修正・追加・削除が行われたこと、国民の代表である国会議員によって承認されたことなどを総合的に判断すれば、「わずか9日間で作られたGHQの押しつけ」という安倍首相らの発言は、的を得たものではないことがわかります。

その後メンバーから、憲法を改正したいのなら、憲法解釈をこねくり回すより、正々堂々とやるべきだ。世の中の動きが当時とは大きくさま変わりしている。世界の警察官を自認してきたアメリカの力の衰え、憲法より共産党の力を優先する中国のような国がのし上がって、南シナ海の岩礁埋め立てなど、勝手なふるまいにどう対処すべきか、このあたりのことをしっかり踏まえながら政府を見守っていかなくてはならない、といった意見があがったことを付け加えておきます。

何といっても、憲法は、「政治家や公務員ら国の権力者の行動を規制するもの」だからです。


「参火会」7月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1973年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒