2018年12月19日水曜日

第49回「参火会」12月例会 (通算413回) 2018年12月18日(火) 実施


「世界遺産を考える集い」第11回目   南北アメリカ篇② コスタリカ・ブラジル・アルゼンチン・パラグアイ・チリ・エクアドル・コロンビア

今回は、下記資料「10-1~10-11」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した下記10-1~10-11の映像約42分を視聴しました。




10-1 タラマンカ地方=ラ・アミスター保護区群/ラ・アミスター国立公園
自然遺産 コスタリカ/パナマ 1983年登録1990年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 中央アメリカ最大の熱帯雨林
コスタリカとパナマの国境沿いにあり、両国をまたいで広がる自然保護地域。1983年にコスタリカの世界遺産として、7つの国立公園や自然保護区がまとめて「タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群」として登録された後、1990年にパナマのラ・アミスター国立公園が加えられた。北アメリカと南アメリカが出会う場所にあり、3000m級の山々が連なり、南米最高峰で氷河湖のあるチリポ山(3820m)がそびえ、高低差のある地形と気候が、多様な生態系を作り出している。雲霧林、熱帯低地多雨林など8つの植生があり、ピューマ、ジャガー、ノドジロオマキザル、リンナマケモノなど哺乳類215種、幻の鳥ケツァールなど鳥類600種、爬虫類・両生類250種、淡水魚115種など、多くの絶滅危惧種や固有種を含む生物が生息している。また、原住民の4部族が居住し、自然の恵みの下で暮らしている。

10-2 ブラジリア
文化遺産 1987年登録 登録基準①④
● 未開の地に建設されたブラジルの首都
ブラジリアは、1960年にブラジル中西部、標高約1000mのブラジル高原の未開の大地に建設された計画都市。1956年に大統領に当選したジュセリーノ・クビチェックは、大西洋側のリオ・デ・ジャネイロに代わる新しい首都を経済的に立ち遅れていた内陸部に作ろうと、「新都ブラジリア計画」を発表すると、当選直後から実行に移され、3年10か月という短期間で完成させた。設計の中心となったのは、近代建築の巨匠ル・コルビュジエの弟子でブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤー。彼の発案で都市計画案を募った結果、ルシオ・コスタの「パイロット案」が採用され、ニーマイヤーによって都市の主要な建築物が設計された。ブラジリアの全体像は、十字架型の平面からなり、「飛行機」「弓と矢」などと形容される。「飛行機」の機首にあたる部分は、国会議事堂や最高裁判所、大統領府、行政庁舎が集まる「三権広場」が配置され、胴体部分は一直線の緑地帯と商業や文化の中心となる建物が並び、翼の部分には高層住宅、各国の大使館、ホテルがある。居住区は一辺240mの正方形をしており、その中に学校や商店街、公園、教会など、生活に不可欠な施設が配置されている。街の建築物はどれも斬新なデザインをした近代建築で、道路網は立体交差により信号はほとんどなく、交通手段はバスをはじめ、自動車のみの徹底ぶりで、2016年7月現在約298万人がここに住んでいる。都市の中心部にある代表的な建築物をあげると、1950~60年代の前衛主義的建築がほとんどで、4000人の信徒を収容でき円形広間を持つ「ブラジリア大聖堂」は、キリストのいばらの冠をイメージさせる独創的な形状となっている。「三権広場」もユニークで、28階建てのツインビルの国会議事堂と、お椀を伏せたような形のドームと、反対に空に向いたドームには、上院と下院の議場がある。「アルボラーダ宮殿」(大統領官邸)は黎明の宮殿という意味で、市の機軸部分の建設に先立ち、パラノア湖畔に建設された。「メトロポリタン・カテドラル」は、外観は円形の建物で、屋根は円錐形をしており、16本の曲線を描く支柱(祈りの手)が天に向かって伸びている。「ドン・ボスコ聖堂」は、イタリアの聖人ドン・ボスコが見た夢の記憶を元に建設されたとか、見所に枚挙のいとまがない。

10-3 パンタナル自然保護区
自然遺産 ブラジル 2000年登録 登録基準⑦⑨⑩
● 南アメリカ中央に広がる野生動物の聖域
南アメリカ大陸のほぼ中央部に位置するパンタナル自然保護区は、ブラジル、ボリビア、パラグアイ3国にまたがる世界最大の淡水湿地パンタナル湿原(総面積19万5000㎢)のうちの一部1878㎢。ここには主要河川のクヤバ川とパラグアイ川の源流があり、雨季の氾濫・浸水によって養分が行きわたって肥沃な大地が培われることで、コウノトリ・トキ類など水鳥の繁殖地となり、約650種の鳥類が生息する。湿原や川には、300~400種の魚類、約80種の哺乳類、50種の爬虫類が確認されている。

10-4・5 イグアス国立公園
自然遺産 アルゼンチン/ブラジル 1984年アルゼンチン/1986年ブラジル登録 登録基準⑦⑩
● 大瀑布が生み出す動物たちの楽園
ブラジルとアルゼンチンにまたがるイグアスの滝は、北米のナイアガラの滝、アフリカのヴィクトリアの滝と並び、世界三大瀑布に数えられている。しかし、スケールの大きさ、ダイナミックな滝の迫力は他の滝とはケタ違いの規模。イグアスの滝は大小275の滝があり、最大落差約80m、滝幅はなんと約4kmにもわたる。先住民の言葉で「巨大な水」を意味するイグアスはその名の通り、雨季には毎秒6万5千トンという大量の水を放出している。中でも馬蹄型のイグアスの滝最奥部にある最大の滝は、すさまじい落下音から「悪魔ののど笛」といわれており、この滝だけでも毎秒7千トンの水量がある。かつてこの滝を見たアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領夫人が「かわいそうな私のナイヤガラ」と嘆いたほどの雄大さと迫力を兼ね備えている。この滝の滝つぼからあがる水しぶきは、周辺の植物の生長を助け、一帯の熱帯雨林にはシダ類をはじめ2000種以上の珍しい植物が繁茂する。また、ヤマキチョウなど約500種のチョウ、オオカワウソ、ジャガーなどの哺乳類のほか、メガルカイマンなどの爬虫類、オニオオハシなどの鳥類ほか多様な生物が生育している。

10-6 ロス・グラシアレス国立公園
自然遺産 アルゼンチン 1981年登録 登録基準⑦⑧
● 青い輝きを放つ大氷河
南米大陸の南緯40度以南の地でアルゼンチンとチリとの国境にあるパタゴニア地方にあるスペイン語で「氷河」を意味するロス・グラシアレスは、南極大陸、グリーンランドに次ぐ世界第3位の規模を誇る氷河地帯で、その南部に「ロス・グラシアレス国立公園」がある。公園内は標高約1800m、アルヘンティーノ湖周辺の総面積1169㎢がその範囲で、太平洋の湿気を含んだ風がアンデスの山々にぶつかり、大量の雪を降らせ、積もった雪が圧力で氷結し氷河を形成した。冬の最低気温が比較的高いため氷が溶けやすく、再氷結を繰り返しながら、速い速度で移動するロス・グラシアレスの47に及ぶ氷河群のうち、最も大きい氷河の「ウプサラ氷河」は、面積600㎢。アルヘンティーノ湖に流れ込む「ペリト・モレノ氷河」は、中央部で1日に約2mも移動し、[生きている氷河] と呼ばれるほど非常に活発な氷河で、氷は気泡が少なく透明度が高いため、青い光だけを反射し神秘的なブルーの輝きを放っている。12月から3月の夏の間は、展望台から、乾いた音とともに氷柱に亀裂が走り、静まり返った湖面に地響きを立てて氷塊が崩落するところを目のあたりにすることができる。国立公園の東側には、森林地帯や乾燥した大草原(パンパ)が広がり小型シカのプーズーなどの希少種、パンパにはアルマジロなども生息している。

10-7 パラナ川北岸のイエズス会伝道施設
文化遺産 パラグアイ 1993年登録 登録基準④
● イエズス会修道士たちが築いたレドゥクシオン
パラグアイ南部、パラナ川北岸に残るレドゥクシオン(大規模な村落)は、イエズス会修道士たちのミッションとして先住民のグアラナ人とともに暮らした跡。レドゥクシオンの農業と工芸は、大きな利益をあげ、一帯は「パラグアイのイエズス会国家」と呼ばれた。最古の歴史を持つサン・コスメ・イ・ダミアンには、学校や墓地、住居、日時計などが残り、当時の暮らしを想像させる。タバランゲには、広場を中心に建設された教化集落特有の建物が建ち並ぶ市街地がある。約4000人が暮らしたとされるトリニダードは、保存状態が良く、赤いレンガ造りの遺構、精巧な彫刻が施された教会の石壁が残る。
 
10-8 ラパ・ニュイ国立公園
文化遺産 チリ 1995年登録 登録基準①③⑤
● モアイ像が海を背に立ち並ぶパスクワ島
チリの海岸から西に3700kmの南太平洋に浮かぶパスクア島(イースター島ともいわれるが、スペイン語でパスクア島、現地先住民の言葉でラパ・ニュイ)。この島にあるラパ・ニュイ国立公園は、絶海の孤島に生まれた謎の文明を伝える。島の面積119㎢がすべて国立公園で、世界遺産になっている。この島に文明がもたらされたのは、ポリネシアに起源を持つ長耳族が4~5世紀頃にカヌーに乗って移住してきてからで、有名なモアイ像が造られ始めたのは6世紀頃といわれる。モアイ像の石は島の東のラノ・ラナク火山周辺で採れる軟らかくて削りやすい凝灰岩で、火山付近の石切り場には、今も放棄されたモアイ像が400体も残されている。6~11世紀に造られたモアイ像は5~7mだったのが、12世紀に短耳族が移住してくると、高さ10mもの巨大なものが造られるようになり、最大のものは20mを超えるものもある。巨大モアイ像を共同で造った長耳族と短耳族は、初めのうちは共存していたのが、16世紀ころに人口増加による食糧難で争いが起こると、互いに相手のモアイ像を倒しあう「フリ・モアイ」という行為によって多くの像が損壊された。18世紀になって、モアイ像を信仰する貴族階級に代わって鳥人カルトを信仰する戦士階級が島の権力を握ると、モアイ像は造られなくなった。最大で20mにもなる巨大なモアイ像887体を、なぜ、どのように造ったのか、どのようにして最長十数kmもの距離を運んだのか、なぜモアイはみんな海を背にしているのかなど、多く説はあるものの、未だに定説はない。

10-9 ガラパゴス諸島
自然遺産 エクアドル 1978年登録/2001年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 独自の進化を遂げた動物たちの宝庫
ガラパゴス諸島は、南米エクアドルの西へ約1000km、赤道直下の太平洋上に浮かぶ大小19の島と周辺の岩礁からなる火山群島(総面積は約880㎢)で、1978年に世界遺産の第1号12件の1つとして登録され、2001年には周辺海域のガラパゴス海洋保護区(13万8千㎢)も含めて拡張登録された。一度も大陸と地続きになったことがなく、風や潮流、あるいは鳥に運ばれてここに辿り着いた生物は、隔離された状況で環境に適応し、島ごとに独自の進化を遂げた。イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが測量船ビーグル号に乗船し、進化論の着想を得て『種の起源』を著したことはよく知られている。ここでしか見られない固有の自然こそが、ガラパゴス最大の魅力で、海に潜って餌を捕るウミイグアナ、飛ぶことをやめたガラパゴスコバネウなど、5500~6000種ともいわれる希少な動植物を間近で観察することができる。ガラパゴスペンギンは熱帯域に分布する唯一のペンギン。環境によってくちばしや習性が異なる鳥類、ダーウィンフィンチ(アトリ科の小鳥)は、ダーウィンに進化論の着想を与えたことでも有名だが、人を恐れない無邪気な様子に魅了されても、動物に触れることは固く禁じられている。進化の不思議を物語るガラパゴスの動物たちだが、2007年には危機遺産リスト入りする事態になった。野生生物の調査・研究を行うダーウィン研究所では、島の子どもたちによるゾウガメ保護活動を支援するなど、個体数の回復に努めてきたことで2010年に危機遺産リストから削除され、ガラパゴスは本来の姿を少しずつ取りもどしつつある。

10-10 キトの市街
文化遺産 エクアドル 1978年登録 登録基準②④
● 先住民文化とヨーロッパの様式が融合した宗教都市
アンデス山脈の標高2850mという高地に築かれたエクアドルの首都キトの旧市街は、1978年に登録された初の世界遺産12件の1つ。もともとこの地には、先住民のキトス族が築いた街があり、15世紀末にインカ帝国の支配下に入り、クスコに次ぐインカ第2の都市として繁栄した。1533年にスペイン人による侵略がはじまるとインカ族は自ら街を焼き払い、16世紀半ばにスペイン人が廃墟と化した街の跡地に、都市計画に沿った植民都市キトを建設した。その後18世紀ころまでの間に、フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会などが修道院、教会堂、宗教建築をつくり、ここを拠点として南米でのキリスト教を伝道を進めた。そのためキトは、「アメリカ大陸の修道院」ともいわれるほどだった。現在も、16~18世紀に建てられた教会堂や修道院は30以上残っている。主な宗教建築をあげると、「大聖堂」は、1572年に建造され独立広場に面して立ち、大祭壇にはインディオの彫刻家カスピカラの代表作「ラ・サバナ・サンタ」が飾られている。「サン・フランシスコ修道院」は1535年創建の南米最古の修道院で、付属するインディオのための教育機関は神学と美術を教え、「キト派」という様式と集団を生み出した。「ラ・コンパニーア教会堂」は、1766年に完成するまでに160年以上かかったイエズス会の聖堂で、エクアドルに残るバロック様式建造物の中では最高傑作と評されている。

10-11 カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群
文化遺産 コロンビア 1984年登録 登録基準④⑥
● 堅牢な要塞に守られた美しい港湾都市
コロンビア北部のカリブ海に面したカルタヘナは、1533年にペドロ・デ・エレディアによって建設されると、細長い湾を持ち、多くの船が停泊できる良港として発展した。1542年にアメリカ先住民の奴隷化が禁止されてからは、南米のプランテーションや鉱山の労働力としてアフリカから連れてこられた黒人奴隷の受け入れ港として機能したばかりか、アメリカ大陸の金、銀、タバコ、カカオなどをスペインへ運ぶ窓口となったために、たびたび海賊に狙われた。その対策として1657年に、長さ4km、高さ12m、幅17mの城壁が築かれた。この城壁には、海賊の襲撃に備えて無数の銃眼を設けた。さらに17世紀には、「サンフェリペ要塞」という、内部に侵入者を混乱させる迷路が設けられる構造の要塞を完成させた。こうした防衛施設群は、1741年、2か月にわたるイギリス軍による攻囲戦にもよく耐え、撃退に成功した。城壁や要塞のほか、バロック様式のファサード(正面部分)をもつ「旧宗教裁判所」、堅牢な「大聖堂」、「サント・ドミンゴ教会」などが知られている。


会の後半は、酒井義夫より次のような提案がなされました。
2018年1月よりスタートした本田技研系列「ピーエスジー」制作によるDVDは、ただいま視聴した10巻目の映像で、世界中に点在している代表的な「世界遺産」150か所を視聴したことになります。それでもまだ、「世界遺産」全体の1/7にすぎません。来年1月と2月は、日本の代表的な世界遺産(次の14か所)を視聴いたします。
2019年1月 日本の世界遺産① 古都京都の文化財/古都奈良の文化財/法隆寺地域の仏教建造物群/紀伊山地の霊場と参詣道/姫路城/日光の社寺/石見銀山遺跡とその文化的景観
2019年2月 日本の世界遺産② 白川郷と五箇山の合掌造り集落/原爆ドーム/琉球王国のグスク及び関連遺産群/厳島神社/白神山地/知床/屋久島
3月以降の会では、以下のような内容の「DVD10巻」を毎月1巻ずつ視聴することを提案いたします。このDVDは、2003年から4年間にわたってNHKがユネスコと共同しながら制作・放送してきたものを、小学館が地域別に再編集し「NHK世界遺産100」(1~5) および「NHK世界遺産100」(6~10) として刊行したもので、計200か所を収録しています。「ピーエスジー」制作によるDVDと重複するものは約半分ほどありますが、重複するものは、特に重要な世界遺産と考えてよいかと思います。

小学館DVDブック 「NHK世界遺産 全10巻」   *印は初登場
ヨーロッパ Ⅰ
1-1   ベネチアとその潟(イタリア)
1-2 モデナ大聖堂とグランデ広場(イタリア)  *
1-3 コルドバ歴史地区(スペイン)  *
1-4   古都トレド(スペイン)
1-5 サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼道(スペイン)   *
1-6   ヴェゼール渓谷の装飾洞窟群(フランス) ラスコー洞窟ほか   *
1-7 ランメルスベルク鉱山とゴスラー(ドイツ)   *
1-8 トリーアのローマ遺跡(ドイツ)    *
1-9 ブリュールのアウグストゥスブルク宮殿と別邸(ドイツ)   *
1-10 アーヘン大聖堂(ドイツ)   *
1-11 キュー王立植物園(イギリス)   *
1-12 ブリュージュ歴史地区(ベルギー)
1-13 ドロットニングホルムの王領地(スウェーデン)   *
1-14 ハルシュタットの文化的景観(オーストリア)
1-15 チェスキー・クルムロフ(チェコ)   * 
1-16 トカイ・ワイン生産地(ハンガリー)   *
1-17 ドブロブニク旧市街(クロアチア)
1-18 ドナウ・デルタ(ルーマニア)   *
1-19 イヴァノヴォの岩窟聖堂群(ブルガリア)   *
1-20 リラ修道院(ブルガリア)   *

ヨーロッパ Ⅱ
2-1   ポンペイ遺跡(イタリア)
2-2 サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院(イタリア) *  
2-3 サヴォイア家の王宮(イタリア)    *
2-4 セゴビア旧市街と水道橋(スペイン)
2-5 セビリア大聖堂(スペイン)
2-6   オビエドとアストゥリアス王国の建造物(スペイン)   *
2-7 ベルサイユ宮殿と庭園(フランス)   *
2-8 シャンボール城(フランス)
2-9 シャルトル大聖堂(フランス) 
2-10 アミアン大聖堂(フランス)
2-11 ヴェズレーの聖堂と丘(フランス)    *
2-12 ハドリアヌスの長城(イギリス)   *
2-13 フランドル地方の鐘楼(ベルギー)   *
2-14 シェーンブルン宮殿と庭園(オーストリア)
2-15 プラハ歴史地区(チェコ)
2-16 ハンザ同盟都市リューベック(ドイツ)   *
2-17 ケルン大聖堂(ドイツ)
2-18 中部ライン渓谷(ドイツ)
2-19 モルドバ地方の教会群(ルーマニア)   *
2-20 マラムレシュの木造教会群(ルーマニア)   *

アジア・オセアニア Ⅰ
3-1   白神山地(日本)
3-2   白川郷・五箇山(日本)
3-3   知床(日本)
3-4   高句麗古墳群(北朝鮮)   *
3-5   九寨溝(中国)
3-6   武陵源(中国)   *
3-7   アユタヤと周辺の歴史地区(タイ)
3-8   アンコール遺跡群(カンボジア)
3-9   古都ホイアン(ベトナム)
3-10 ミーソン聖域(ベトナム)
3-11 グヌン・ムル国立公園(マレーシア)
3-12 ビガン歴史地区(フィリピン)   *
3-13 コルディエラの棚田(フィリピン)   *
3-14 タージ・マハル(インド)
3-15 モヘンジョダロ(パキスタン)   *
3-16 聖地キャンディー(スリランカ)
3-17 ペトラ(ヨルダン)
3-18 バム遺跡(イラン)   *
3-19 カッパドキア(トルコ)
3-20 ニュージーランド亜南極諸島(ニュージーランド)   *

アジア・オセアニア Ⅱ
4-1   屋久島(日本・鹿児島県)
4-2   日光の寺社(日本・栃木県)
4-3   姫路城(日本・兵庫県)
4-4   厳島神社(日本)
4-5   秦の始皇帝陵(中国)
4-6   蘇州の古典庭園(中国)
4-7   黄龍(中国)
4-8   麗江(中国)   *
4-9   雲南・三江併流(中国)   *
4-10 ボロブドゥール寺院(インドネシア)
4-11 フエの建造物群(ベトナム)
4-12 ハロン湾(ベトナム)
4-13 ルアン・プラバン(ラオス)   *
4-14 チャンパサックのワット・プー(ラオス)   *
4-15 スコタイと周辺の歴史地区(タイ)
4-16 バン・チェン遺跡(タイ)   *
4-17 ダージリン・ヒマラヤ鉄道(インド)   *
4-18 ペルセポリス(イラン)   *
4-19 エルサレム旧市街地と城壁(イスラエル)   *
4-20 タスマニア原生地帯(オーストラリア)   *

アフリカ・南北アメリカ Ⅰ
5-1   大ピラミッド群(エジプト)
5-2 ティムガッド(アルジェリア)   *
5-3 フェズ旧市街(モロッコ)
5-4 ジェンネ旧市街(マリ)   *
5-5 ラリベラの岩窟教会群(エチオピア)   *
5-6 ケニア山国立公園(ケニア)   *
5-7 セレンゲティ国立公園(タンザニア)
5-8 マラウイ湖国立公園(マラウイ)   *
5-9 ビクトリアの滝(ザンビア/ジンバブエ)   *
5-10 ツィンギ・ド・ベマラハ(マダガスカル)
5-11 イエローストーン(アメリカ)    *
5-12 カナディアン・ロッキー山脈(カナダ)
5-13 シアン・カアン(メキシコ)   *
5-14 ココ島国立公園(コスタリカ)   *
5-15 ガラパゴス諸島(エクアドル)
5-16 カナイマ国立公園(ベネズエラ)    *
5-17 バルデス半島(アルゼンチン)   *
5-18 ロス・グラシアレス(アルゼンチン)
5-19 イグアス国立公園(アルゼンチン/ブラジル)
5-20 セラード自然保護地域(ブラジル)   *

ヨーロッパ Ⅲ
6-1   ナポリ歴史地区(イタリア)
6-2 ポルトヴェーネレとチンクエ・テッレ(イタリア)   *
6-3 パリのセーヌ河岸(フランス)
6-4 アルク・エ・スナン王立製塩所(フランス)    *
6-5   オランジュのローマ劇場と凱旋門(フランス)   *
6-6 リヨンの歴史地区(フランス)
6-7 ポン・デュ・ガール(フランス)   *
6-8 海事都市グリニッジ(イギリス)   *
6-9 ウエストミンスター宮殿と修道院(イギリス)
6-10 ライヒェナウ(ドイツ)   *
6-11 ヒルデスハイムの大聖堂(ドイツ)   *
6-12 シュパイヤー大聖堂(ドイツ)   *
6-13 バンベルクの町(ドイツ)   *
6-14 古典主義の都ワイマール(ドイツ)   *
6-15 ベルン旧市街(スイス)
6-16 ザンクト・ガレン修道院(スイス)    *
6-17 キンデルダイクの風車群(オランダ)
6-18 イェリングの墳墓と石碑と聖堂(デンマーク)   *
6-19 クロンボー城(デンマーク)
6-20 サンクトペテルブルク歴史地区(ロシア)

アジア・オセアニア Ⅲ
7-1   古都奈良の文化財(日本・奈良県)
7-2   法隆寺(日本・奈良県)
7-3   広島・原爆ドーム(日本・広島県)
7-4   慶州歴史地区(韓国)   *
7-5   石窟庵と仏国寺(韓国)   *
7-6   万里の長城(中国)
7-7   黄山(中国)   *
7-8   マカオ歴史地区(中国) 
7-9   フィリピンのバロック様式教会(フィリピン)   *
7-10 カトマンズ盆地(ネパール)
7-11 サーンチーの仏教建造物(インド)   *
7-12 エレファンタ石窟群(インド)   *
7-13 ゴアの聖堂と修道院(インド)   *
7-14 クトゥブ・ミナールと建造物群(インド)
7-15 パッダタカルの建造物群(インド)   *
7-16 ゴール旧市街(スリランカ)    *
7-17 イスファハンのイマーム広場(イラン)   *
7-18 パルミラ(シリア)
7-19 イスタンブール歴史地区(トルコ)
7-20 ウルル、カタ・ジュタ国立公園(オーストラリア)

アフリカ・南北アメリカ Ⅱ
8-1   イスラム都市カイロ(エジプト)
8-2 古代都市テーベと墓地遺跡(エジプト)
8-3 タッシリ・ナジェール(アルジェリア)   *
8-4 ルウェンゾリ山地国立公園(ウガンダ)   *
8-5 アラスカ・カナダの自然公園群(カナダ/アメリカ)   *
8-6 グランドキャニオン国立公園(アメリカ)
8-7 エバーグレーズ国立公園(アメリカ)   *
8-8 ハバナ旧市街と要塞(キューバ)   *
8-9 トリニダーとロス・インヘニオス盆地(キューバ)   *
8-10 メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(メキシコ)
8-11 プエブラ歴史地区(メキシコ)   *
8-12 古代都市テオティワカン(メキシコ)
8-13 歴史的要塞都市カンペチェ(メキシコ)   *
8-14 モレリア歴史地区(メキシコ)   *
8-15 ポポカトペテル山麓の16世紀の修道院群(メキシコ)    *
8-16 オアハカ歴史地区とモンテ・アルバン遺跡(メキシコ)   *
8-17 古都グアナファトと近隣の鉱山群(メキシコ)    *
8-18 古代都市パレンケと国立公園(メキシコ)
8-19 クスコ市街(ペルー)
8-20 マチュピチュ(ペルー)

ヨーロッパ Ⅳ
9-1   ローマ歴史地区(イタリア)
9-2 マテーラの洞窟住居(イタリア)   *
9-3 アマルフィ海岸(イタリア)   *
9-4 サン・ジミニャーノ(イタリア)   *
9-5 ヴァラッロのサクロ・モンテ(イタリア)    *
9-6 シエナ歴史地区(イタリア)   *  
9-7 アルハンブラ宮殿(スペイン)
9-8 サンテミリオン(フランス)   *
9-9 ストラスブールの旧市街(フランス) 
9-10 アビニョン歴史地区(フランス)
9-11 アルルのローマ遺跡とロマネスク建築(フランス) *
9-12 クヴェトリンブルクの旧市街(ドイツ)   *
9-13 マウルブロン修道院群(ドイツ)   *
9-14 クラクフ歴史地区(ポーランド)
9-15 アウシュビッツ強制収容所(ポーランド)
9-16 ヴィエリチカの岩塩抗(ポーランド)
9-17 カルヴァリア・セブジドフスカ(ポーランド)   *
9-18 ホルトバージ国立公園(ハンガリー)   *
9-19 ロスキレ大聖堂(デンマーク)   *
9-20 アテネのアクロポリス(ギリシャ)

アジア・オセアニア Ⅳ
10-1   古都京都の文化財(日本・京都府)
10-2   紀伊山地の霊場と参詣道(日本・奈良県 三重県 和歌山県)
10-3   琉球王国のグスクと関連遺跡群(日本・沖縄県)
10-4   故宮(中国)
10-5   敦煌の莫高窟(中国)   *
10-6   峨眉山と楽山大仏(中国)   *
10-7   アジャンタ石窟群(インド)
10-8   エローラ石窟群(インド)
10-9   ブッダガヤのマハーボーディ寺院(インド)   *
10-10 コナーラクの太陽神寺院(インド)   *
10-11 アグラ城(インド)
10-12 ファテープル・シークリー(インド)   *
10-13 カジュラーホの建造物群(インド)
10-14 ハンピの建造物群(インド)   *
10-15 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(インド)   *
10-16 バーミヤン(アフガニスタン)   *
10-17 ハトラ(イラク)   *
10-18 アッシュール(イラク)   *
10-19 城壁都市シバーム(イエメン)   *
10-20 テ・ワヒポウナム(ニュージーランド)

小学館DVDブック「NHK世界遺産」の1枚目のDVD (ヨーロッパ Ⅰ) 1-1~1-20の映像の一部を全員で視聴した後、提案通り2019年3月例会から「世界遺産を考える集い」は、再スタートすることに決まりました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」12月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年11月21日水曜日

第48回「参火会」11月例会 (通算412回) 2018年11月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第10回目   南北アメリカ篇① カナダ・アメリカ・メキシコ・グアテマラ・ペルー

今回は、下記資料「9-1~9-15」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した9-1~9-15 の映像約42分を視聴しました。




9-1  カナディアン・ロッキーの山岳公園群
自然遺産 カナダ 1984年登録1990年範囲拡大 登録基準⑦⑧
● 氷河がつくりあげた雄大な山岳地帯
カナディアン・ロッキー山脈自然公園群は、バンフ・ジャスパー・ヨーホー・クート二ーの4つの国立公園、3つの州立公園で構成されている。北米大陸西部を南北に貫くロッキー山脈が、造山活動によって地上に姿を現したのは、6000万年前のこと。連なる山々は4500kmにも及び、このうちカナダ国内に延びる2200kmの連峰が、カナデイアン・ロッキーと呼ばれ、世界遺産に登録された総面積は2万3000㎢もある。標高1000mの低山から森林限界を超える高山帯まで、多種多様な植物が自生していて、山麓には針葉樹の森が広がる。こうした森にはハイイログマやアメリカグマ、アメリカライオンなどが生息し、山岳地帯には氷の斜面や岩山の歩行を得意とするシロイワヤギなどが生息する。100万年前の氷期に、この一帯は氷河に覆われた。氷河は山々を激しく削り、解けては多くの川や滝、湖となった。カナディアンロッキーには、1万年前に終わった氷河期からの氷河が数多く残っている。また、ロッキーの宝石と言われるルイーズ湖や氷河湖のベイトリー湖など美しい湖も多くある。他にコロンビア大氷原、タカッカウ滝、ヨーホー渓谷などカナディアンロッキーは自然の宝庫だけではなく、それまで知られていなかった三葉虫など古代生物の化石が約10万個も見つかったことで、「化石の宝庫」としても知られている。特に人気があるのは、1887年にカナダ初の国立公園となった「バンフ国立公園」で、温泉の発見と鉄道ルートの完成によりカナディアン・ロッキーは、未開の土地から観光地へと大きな変貌を遂げ、カナダが誇る世界有数の景勝地・一大リゾートとなっている。

9-2  ケベック旧市街の歴史地区
文化遺産 カナダ 1985年登録 登録基準④⑥
● フランス文化が色濃く残る北米唯一の城塞都市
カナダ東部にありケベック州のケベック旧市街の歴史地区は、フランスの植民地の拠点として1608年、探検家サミュエル・ド・シャンプランが丸太づくりの砦を築いたことに始まる。当時、イギリスとフランスは北米の植民地建設をめぐって長期間小競り合いを続けていたが、この植民地獲得争いでイギリスの勝利を決定づけたのが、1759年の戦い。この年の9月、イギリスは闇夜に乗じてセント・ローレンス川からケベック郊外のアブラハム平原に軍隊を上陸させた。フランスはその陣容を見て驚き、急いで軍勢を繰り出すものの、統率がとれずに敗北。わずか15分で決着がついたこの戦いの後、ケベックは陥落した。4年後のパリ和平条約で、イギリスの植民地になったが、ケベックは約150年のフランス植民地の間に、フランス文化が色濃く残った。1774年、イギリスはケベック法をを制定し、フランス民法の効力・信仰の自由、フランス語の使用を認めた。登録された物件は、ロウワータウンにある北米最古といわれる繁華街「プチ・シャンプラン」「ロワイヤル広場」「勝利のノートルダム教会」など。アッパータウンにある旧市街のシンボルとなっている高級ホテル「シャトー・フロンテナック」「ダルム広場」「トレゾール小路」「ノートルダム聖堂」などがある。

9-3  ナハニ国立公園
自然遺産 カナダ 1978年登録 登録基準⑦⑧
● サウスナハニ川一帯に広がる壮大な自然
カナディアン・ロッキーの北、イエローナイフより約500km西方に位置するナハニ国立公園は、サウス・ナハニ川沿いに広がる。サウスナハニ川は、上流はゆったり流れるが、落差90~100m(ナイアガラの滝の2倍)もあるヴァージニア滝を過ぎると岩も削る急流となり、峡谷が連続する地帯を蛇行する圧倒的な峡谷美、標高2972mのマッキンジー山など、大スケールの大自然を具現する。公園内は、高緯度のツンドラ地帯でありながら気候は穏やかで、野性のハッカやシオンなどが自生し、硫黄分を多く含む温泉もある。車道が敷設されていないため、唯一の交通手段はカヌー(他に飛行船かヘリコプター)。人間がほとんど入れないため、ハイイログマやシロイワヤギなど野生動物の生息地になっている。また、この国立公園は、タイガ山系・タイガ平原など、カナディアン・エコゾーンに3か所が指定されている。1978年、世界自然遺産に最初に登録された12件のうちのひとつでもある。

9-4  ウッド・バッファロー国立公園
自然遺産 カナダ 1983年登録 登録基準⑦⑨⑩
● バッファローなど野生動物の保護区
カナダ北西部アルバータ州にあるウッド・バッファロー国立公園は、絶滅の危機にあったウッド・バッファローを保護する目的で設立された。1922年にグレート・スレーヴ湖の南一帯が国立公園に指定され、4年後にその面積の倍(4万4800㎢、九州よりも広い)に拡張されたことで、やはり絶滅の危機にあったアメリカシロヅルなどの動物や植物が保護されることになった。そのほか、多種多様な野生動物が生息しており、ヘラジカやアメリカグマ、オオカミ、オオヤマネコ、ヒグマ、野ウサギ、カナダヅル、シンリンバイソン、ライチョウ、大蛇などがいる。公園内は車での移動が可能、自然散策ルートを歩くこともできる。

9-5  グランド・キャニオン国立公園
自然遺産 アメリカ合衆国 1979年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 20億年もの地球の歴史が刻まれた大渓谷
アメリカ西部アリゾナ州の北部、コロラド川沿いに横たわるグランド・キャニオンは、コロラド高原がコロラド川の浸食作用と風化によってつくりだされた世界最大規模の峡谷。この一帯の土地は、今から6500万年前に発生したカイバブ・アップリフトとよばれる造山活動で隆起。約1000万年前からコロラド川の浸食により削られたり、風化がくりかえされ、約120万年前に現在の形になったと考えられている。グランド・キャニオン最大の特徴は、時代の異なる地層が幾層にも折り重なっているところで、大きく11層に分けられ、最下層は地球最古20億年前の先カンブリア紀のもので、最上部の最も新しいものでも2億5千万年前(古生代)のもの。それらの層から、植物、昆虫、陸生動物、海生動物の化石がたくさん発見されたことで、この一帯の地質形成の歴史と生物進化の過程を知ることが出来る。そんな地球の歴史を秘めている価値と、雄大な景観から1919年に、合衆国初の国立公園に指定された。いっぽう赤茶けた不毛の大地のように見えるグランド・キャニオンだが、東西450km、総面積5000㎢の登録範囲のうち、標高の高い北側では森林が広がり雪も降る。南側は標高が低く降雨量が少ない。そのため、寒帯・亜寒帯・乾燥帯など異なる気候帯の動植物が見られる。植物は1500種、鳥類が355種、哺乳類が88種、爬虫類は47種、両生類が9種、魚類が17種生育が確認されている。

9-6  メキシコ・シティ歴史地区とソチミルコ
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準②③④⑤
● アステカ帝都の上に築かれた植民都市
メキシコの首都で人口2200万を越えるアメリカ大陸最大の都市メキシコシティと、メキシコシティの行政区の一つであるソチミルコは、メキシコシティの地下に眠る古代文明の遺跡だった。南アメリカにはかつてアステカ帝国が栄えていたが、16世紀にこの地を征服したスペイン人によりその文化、建築物は全て破壊されてしまった。ところが、1978年になってアメリカ大陸最大のキリスト教建築である大聖堂の地下から偶然アステカ帝国時代に作られた石積みが見つかり、メキシコシティはアステカ帝国の遺構の上に建設された都市であることが判明した。その後の発掘で、アステカの神ケツァルコアトルの大神殿が姿を現し、失われたアステカ帝国の文化が地上に復活することとなった。謎多きアステカ帝国の首都テノチティトランは、テスココ湖内の島の上に建設されたのだが、メキシコシティの南約30kmに位置するソチミルコはその湖の一部であり、今も残るアステカ時代の農業(アシなどで作ったいかだの上に湖底の泥をのせた浮き畑)の名残りが、アステカ帝国繁栄の当時をしのばせる。国立宮殿は、アステカ帝国を征服したスペインのコルテスが自身の宮殿として建設したもので、宮殿の正面階段周辺を覆い尽くす「メキシコの歴史」と題された壁画は、現代メキシコ芸術の巨匠ディエゴ・リベラの最高傑作と称される。ベジャス・アルテス宮殿(国立芸術院)は、大聖堂と並び壮麗な建造物の筆頭に挙げられるほど美しい建造物で、外観はアールヌーボー様式、内装はアール・デコ様式に統一されており、幾何学的なデザインが目を引く。そのほか植民地時代の建物として、サントドミンゴ教会堂、支倉常長が宿泊した旧オリサバ公爵邸(タイルの家)などが残る。

9-7  テオティワカンの古代都市
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 謎に包まれた巨大建築物群
メキシコシティ北東約50kmにあるテオティワカンは、2~8世紀中ごろまで、この場所に栄えた古代都市遺跡。「メソアメリカ」というメキシコ中央・南東、中央アメリカの一部にあった高度文明を遺した先住民が建造した、世界で3番目に大きいピラミッドといわれる「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」など約600基のピラミッドや宮殿、神殿などが整然と建設されている。その民族はいまだに不明だが、紀元前2世紀前後から小集落を統合し始め、350~650年ころに最盛期を迎え、人口15万もの大都市となった。遺跡から400以上もの黒曜石の加工所が見つかっていることから、黒曜石の交易で繁栄したと推測される。そんなテオティワカンだが、8世紀の中ごろに突然文明が滅びて放棄された。この都市を14世紀に発見したアステカの人々は、あまりのスケールの大きさに人の手による建造物だとは信じられず、「神が集う場所」という意味を持つテオティワカンという名をつけ、聖地として利用した。16世紀にアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人は、この遺跡の意味を理解できずに放置したが、メキシコ独立後の1884年から発掘調査が開始されているものの、現在でも広大な都市部の大半はいまだに地中に眠っている。テオティワカンは極めて計画的に設計された都市であり、遺跡からは多数の殉教者や生け贄を捧げる風習が存在した痕跡は発見されている。古代メソアメリカにおいて死ぬことは終わりではなく、常に生と死がつながりあって回転しているという古代人の祈りや宇宙観、宗教観を伝えている。

9-8  パレンケの古代都市と国立公園
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準①②③④
● 定説をくつがえした古代マヤ文明都市
メキシコ南東部の熱帯雨林が囲む盆地に残るパレンケの遺跡は、1952年に見つかったマヤ文明の古代都市遺跡。7世紀に最盛期を迎えたマヤ文明の古代都市パレンケは、宮殿を中心とする「マヤ遺跡の典型」ともいうべき建物群だが、18世紀にスペインの宣教師により発見されるまで、その姿は密林のなかに埋もれていた。建造物の本格的な調査が始まったのは、1940年代になってからで、8㎢に及ぶパレンケの遺跡には約500もの建築物が現存している。その中で最も有名なのが「碑文の神殿」と呼ばれるピラミッドで、1949年に発見されたこの神殿の小部屋から、パレンケ王家の歴史が記されたマヤ文字の碑文が発見された。そして、1952年の調査で、神殿の地下墓室に石棺を発見した。この石棺の中に、翡翠をモザイク状につなぎあわせた仮面で顔が覆われ、首、胸、腕などもビーズ玉や翡翠の宝飾で飾られた人骨が横たわっていた。後の調査でこの人物こそ、7世紀に君臨したバカル王であることが判明した。この王墓の発見は、それまで中央アメリカで発見されたピラミッドは神殿の土台に過ぎないものと長い間考えられてきた定説をくつがえし、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こした。パレンケの発掘は今も進められているが、そのほとんどは密林の中に眠っている。それでも、遺跡や階段に刻まれた碑文が良好な状態にあることから、この都市の歴史や文化、大きな出来事などが解明されつつある。

9-9  ウシュマルの古代都市
文化遺産 メキシコ 1996年登録 登録基準①②③
● 精緻なモザイク文様に彩られた建築群
メキシコのユカタン半島北部のジャングルに囲まれた「ウシュマルの古代都市」は、マヤ文明を代表する都市遺跡の一つ。東西約600m、南北1㎞の都市で、7~10世紀ごろに繁栄し、周辺における政治・経済の中心となって、最盛期には人口が2万5000人にも達したという。マヤ文明の他の都市には見られないプウク様式による建築群の特徴は、建物は横長で平らな屋根を持ち、壁にはコンクリートが使用され、上部に精巧なモザイク装飾が見られる。約2万個の切石を用いたプウク様式の最高傑作といわれる「総督の館」、ひと晩で完成したとされる「魔法使いのピラミッド」など、15あまりの建造物が残っている。

9-10 チチェン・イツァの古代都市
文化遺産 メキシコ 1988年登録 登録基準①②③
● マヤ・トルテカ文明の重要な遺跡
メキシコのユカタン半島北部にあるチチェン・イツァは、マヤとトルテカという2つの文明が融合した遺跡。マヤ語でチチェンは「泉のほとり」、イツァは「魔法使い」を意味する。その名の通り、この古代都市はセノーテ(地下泉)の上に築かれていた。都市を形成したマヤ族のイツァ人は7世紀ころからこの地から姿を消し、10世紀初頭に、テオティワカン文明の後継ともいえるトルテカ文明の影響を受けたイツァ人の末裔が再移住して、この都市を再建した。10世紀以前の遺構が多く残る「旧チチェン」と、10世紀以後の遺構が多く残る地域は「新チチェン」と呼ばれる。その後チチェン・イツァは、13世紀ごろ別のマヤ人の都市国家マヤバンから攻撃されてイツァ人が逃亡したため、建造物ののほとんどが廃墟となった。1885年、アメリカ合衆国の領事でアマチュアの考古学者だったエドワード・トンプソンが遺構のある土地を購入。1904~11年にかけて遺跡北端にあるセノーテを調査して、数々の宝物を発見して母国へ持ち出した。第2次世界大戦後、遺跡はメキシコ政府の管轄下となり、現在はメキシコ国立人類学研究所のスタッフが学術調査をつづけている。広大なジャングルの中に戦士の神殿、天文台など、数多くの遺跡群が点在するが、なかでも中央に聳える「カスティージョ」(スペイン語で城砦)は、高さ約24m、9層からなる壮大なピラミッド。4面に配された各91の階段に最上部の神殿を加えると階段の総数は「365」となり、全体が1年を表すマヤの暦となる。カスティージョは、春分と秋分の日に起こるククルカンの降臨現象で知られる。ククルカンとは羽を持つ蛇の姿をした農耕の神。太陽が西に傾くと、階段の側壁にピラミッドの影が蛇の胴体となって浮かび上がり、階段下部のククルカンの頭像と合体し、巨大な蛇が姿を現す。さらに夏至と冬至には、ピラミッドの一面が太陽の光と影の部分に、ちょうど半々に分かれる現象も確認されている。これらの現象は、天文学の驚異的な発達を示すもので、世界標準とされる太陽暦(365.2422日)と、マヤ暦(365.2420日)を比較してもほとんど誤差がない。こうしたマヤ人の高度な天文学知識と建築技術は驚嘆に値するもので、2007年にスイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」が選定した「新・世界の七不思議」にチチェン・イツァが選ばれたのも納得できる。この遺跡には、まだまだ解明されていない現象が多くありそうだ。

9-11 ティカル国立公園
複合遺産 グアテマラ 1979年登録 登録基準①③④⑨⑩
● マヤ文明最大級の都市遺跡
グアテマラ北部、ジャングル地帯にあるティカル国立公園には、熱帯雨林地帯で栄えたマヤ文明最大の神殿遺跡が多く残されている。この地に人が定住を始めたのは紀元前11世紀ごろとされ、マヤ文明の特色が現れるのは紀元前30年ころのこと。3~6世紀にはメキシコ中央高原の大都市テオティワカンに一時征服されるなど大きな影響を受けたが、7~9世紀には、宗教・芸術・科学などに独自の発展を見せ、マヤ各都市国家と翡翠やケツァールの羽根、黒曜石などの交易を行うなど、6万人もの人々が暮すほどだった。現在までに残る約3000もの建築物の多くが、この時期に建設された。9世紀にはいるとマヤの各都市は衰退し、ティカルもその例外ではなく、50年から100年かけてゆっくりと崩壊していき、やがて廃墟になってしまった。1699年、スペイン人神父が布教から帰る途中、密林の中に迷い込んで偶然見つけたが、本格的な調査は1939年に始まり、1955年5月にグアテマラ政府はティカルを国立公園に指定したことをきっかけに、エドウィン・シュック率いるペンシルベニア大学による大規模発掘が開始された。今もグアテマラ考古研究所による発掘が継続されているが、発掘されたのは全体のごく一部分にすぎない。ティカルの中央部にある1号神殿は高さ47mのピラミッド状の建築物で、古典期マヤを代表する建築物。最上部の神殿入口でジャガーの彫刻が発見されたために「大ジャガーの神殿」とも呼ばれ、ア・カカウ王の墓や埋葬品が発見された。その向かいの2号神殿との間の南北に中央アクロポリスと北アクロポリスがあり、多数の建築物がひしめきあっている。西には高さ65mの4号神殿、南東の6号神殿があり、東西に2つ並んだツイン・ピラミッド7つ複合体は、マヤ文明を解明する上で、重要な遺跡と考えられている。また、周囲の森林や生態系も重要で、保護の必要性が認められ、自然遺産の価値を含む複合遺産とされた。

9-12 クスコの市街
文化遺産 ペルー 1983年登録 登録基準③④
● インカ文明とキリスト教文化が交錯する都市
ペルー南部、アンデス山脈の東山脈と中央山脈の谷間標高3400mにあるクスコの市街は、インカ帝国の首都として栄えた歴史のある都市。クスコが建設されたのは、11~12世紀で、インカ人は、13世紀ごろから周辺部族の征服を進め、15世紀の9代皇帝パチャクテク時代に絶頂期を迎えると、16世紀初頭に現在のコロンビアからチリ北部までを支配下に治めた。同時期にインカ人にとって神聖な動物だったピューマを模してクスコの市街地整備が進めれたという。インカとはケチュア語(インカの公用語)で「太陽の子」、クスコは「へそ」を意味し、クスコは宇宙の中心で、インカの皇帝は太陽神の御子とされていた。黄金に彩られた宮殿や神殿が立ち並ぶクスコの街は人口1200万、南北5000kmに及ぶ大帝国の首都として栄華を極めた。しかし、1533年、スペインのフランシスコ・ピサロがこの地を占領し、インカ帝国は破滅する。征服者たちはインカの神々に捧げられた黄金を略奪し、宮殿や神殿を破壊した。しかし、インカの建造物はあまりにも精巧で堅牢だったため、土台部分は破壊できず、その上に数多くの教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区などを建設した。インカ帝国古来の建築方法に、スペインの影響が融合した建造物となった。クスコはアンデス地域において、スペイン植民地とキリスト教布教の中心であり、農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげでクスコは繁栄し、40万人を超える大都市として今日に至っている。「アルマス広場」は、インカ時代に戦士の広場として知られ、ピサロのクスコ征圧宣言など、重要な事件の舞台となってきた。スペイン人は、広場の周囲に今日まで残るアーケードを建設し、「大聖堂」とイエズス会の教会を意味する「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」は、どちらもこの広場に面している。

9-13 マチュ・ピチュ歴史保護区
複合遺産 ペルー 1983年登録 登録基準①③⑦⑨
● インカ帝国の面影を残す謎の空中都市
クスコの北西約70kmに位置するマチュ・ピチュは、15世紀半ばに誕生したとされるインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根にある。インカ帝国は1533年にスペイン人による征服で滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係や役割分担など、その理由はまだ明確にわかっていない。麓からは仰ぎ見ることのできない標高約2280mにあるため、スペイン人はその存在についに気づくことはなく、放棄された。1911年にアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見され、このインカの都市はようやく400年もの長い眠りから目覚めたと言われている。ウルバンバ川流域には貴重な生態系を有する密林が広がり、世界でも珍しい複合遺産の一つに数えられている。マチュピチュの都市部の総面積は約5㎢。その約半分が山の斜面を利用した段々畑で、トウモロコシやジャガイモなどの畑も開墾され、山頂近くにもかかわらず、高度な利水システムが完備されていることも注目に値する。西側の平坦な市街地には、神殿をはじめとする公共建築物や住居など200戸の石積みの建物が並び、インカ独特の精巧な石積み技術は見ごたえがある。遺跡最高点からの眺望には誰もが感嘆のため息をもらすほどの美しさ。多くの謎に包まれ、旅人のロマンをかき立てるマチュピチュ。通常の都市ではなく、王族の離宮であったという説が有力だが、確たる証拠はない。堅牢な神殿や住居をどのように建設したのか、そもそも材料となる巨石をどこから調達し、ここまでどうやって運んだのかも、未だ解明されていない。総面積326㎢におよぶ遺跡一帯は、絶滅の危機にあるアンデスイワドリやオセロット、珍獣とされるメガネグマの生息地となっている。

9-14 リマ歴史地区
文化遺産 ペルー 1988年登録1991年範囲拡大 登録基準④
● スペインによる南米支配の中心都市
ペルー中央部、リマック川南岸にあるペルーの首都リマは、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人のフランシスコ・ピサロによって1535年に築かれた。ピサロの母国マドリードがモデルになっており、アルマス広場を中心に碁盤の目状に道路が配されている。ピサロが太平洋沿岸のこの地を選んだのは、南米各地で収集した財宝を母国に運ぶのに便利だったからだったが、1541年に支配地をめぐる争いの末、この地で暗殺された。リマは、1544年にスペイン王が植民地支配を王に代わって支配する「ペルー副王領」の首都となると、南米諸国が独立するまで、スペインの南米支配の中心地として多くの重要な建築物が作られた。アルマス広場前にある大聖堂は、1535年の起工時はピサロ自身が礎石を据えたという。完成したのは1624年だが、礼拝堂は過剰なまでの装飾を施したチュリゲラ様式でつくられ、ピサロの遺骨を納める石棺が安置されている。また、南米の建築史上最高傑作といわれる美しいセビリアンタイルが貼られたサン・フランシスコ教会・修道院は、1574年に完成したものの、後に地震で損傷したため、バロック様式やキリスト教とイスラムの融合したムデハル様式で改築された。そのほか、コロニアル様式のトーレ・ダグレ邸、ペルー副王領時代の栄華を伝えるサント・ドミンゴ教会堂やラ・インキシシオン、ペルー軍の守り神で聖女メルセーが祀られたラ・メルセー教会などが見どころとなっている。この街の特徴は、数々の歴史的建造物が日常風景に渾然一体となっているところだといわれる。いくつもの教会や建物などがあるすぐ側にファーストフード店が並ぶといった不思議な光景がみられるが、その外観や看板の色は落ち着いた配色で、街の景観を壊さないような配慮がされている。

9-15 ナスカの地上絵
文化遺産 ペルー 1994年登録2016年名称変更 登録基準①③④
● 平原に描かれた巨大な地上絵
ペルー南部のナスカ川とインヘニオ川に囲まれた、乾燥した盆地状の高原や平原の地表面に描かれた巨大な幾何学図形・動植物の絵は、数々の研究にもかかわらず、考古学界にいまだに大きな謎を投げかけている。この地域は、年間降水量が10mm以下の乾燥地帯で、酸化により赤黒く変色した石の破片で表面が覆われている。地上絵は、このような石の破片を特定の場所だけ幅1m~2m、深さ20~30cm程度取り除くと、深層の酸化していない明るい黄色の岩石(沖積層)を露出させることによって「描かれて」いる。規模によってはもっと広く深い「線」で構成されている。制作年代は、およそ紀元前190~紀元後660年で、2~9世紀にこの地域で発展したナスカ文化と深い関係があったと推測されている。1939年6月のこと、ペルー政府から先インカ遺跡の依頼を受けていたアメリカの考古学者ポール・コソックが、調査に先駆けて行った空から現地視察の際、偶然にも動植物の地上絵を発見した。コソックの仕事を引き継いだドイツの女流数学者マリア・ライヘ(1903-98年)は、太平洋からアンデス山脈の約450㎢にもわたる広範囲に、約70の動植物の絵をはじめ、三角形、台形、渦巻など700本を超える幾何学的な線や図があることを発見した。さらにライヘは、小さな絵を縮尺図として比例拡大を利用して地上に描いたという仮説を掲げた。地上絵のそばから木の杭やロープが発掘されたためで、1980年代にはこの方法で地上絵を描く実験にも成功。現在この方法が、最も有力な説とされている。制作の目的については諸説あるが、「滑走路」とも呼ばれる直線図が地下水脈のありかを示し、地上絵が農耕と関連することから、農耕儀礼やこの地方の特産品である織物の制作作業団の儀礼との関係が重要視されている。世界遺産登録される十数年前、建設されたパン・アメリカン・ハイウェイが遺跡を分断したり、送電線の敷設や自動車による描線の破壊などがおこったため、ペルー政府は1977年、この地を保護地区に指定した。


会の後半は、メンバーの酒井猛夫がメキシコ・シティに7年半(1975~82年) 三菱電機の駐在員として赴任した際、フランスの牙城といわれきたメキシコ地下鉄に食い込んで1000台もの車両の売り込みに成功した話、観光ガイドにも力を入れて来訪者にソチミルコやテオティワカン他に数十回も案内して好評だったこと、日本人には好意的なメキシコ人の気質など、メキシコの魅力を語ってもらいました。
引き続き、ごく最近アフリカ南部を訪問されたメンバーの菅原勉氏に、100枚を越える写真を投射しながら、世界遺産となっているナミブ砂漠 (8000万年前に形成された世界最古の砂漠といわれ、高さ100~300mもの巨大な赤い砂丘が延々と連なる美しさは圧巻)、ケープタウン(ケープ植物区保護地域群・バスコダガマが発見した喜望峰など)、ビクトリア滝(南米のイグアス、北米のナイアガラと並ぶ世界三大瀑布の一つで、氏は三大瀑布のすべて踏破)など、その体験を語っていただきました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年10月22日月曜日

第47回「参火会」10月例会 (通算411回) 2018年10月16日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第9回目   アフリカ・オセアニア・中近東篇② タンザニア・オーストラリア・ニュージーランド・シリア・レバノン

今回は、下記資料「8-①~⑮」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した8-①~⑮ の映像約40分を視聴しました。




8-① ンゴロンゴロ自然保護区
複合遺産 タンザニア 1979年登録2010年範囲拡大 登録基準④⑦⑧⑨⑩
● マサイ族と動物が共存する自然保護区
タンザニア北部にあるンゴロンゴロ自然保護区は、現地の言葉で「巨大な穴」を意味し、数百万年前の大噴火とその後の地殻変動によってできた山の手線の内側ほど(約300㎢)の巨大なクレーターの草原は、乾季になっても水が絶えることがないため、絶滅危惧種のクロサイ、ゾウ、ライオン、ヒョウ、バッファローなど約2万5000頭の野生動物、オオフラミンゴなど約400種の鳥類が生息する。その多くは、人間を恐れる様子を見せないことから、保護区は動物の生態研究・調査に適した場所となっている。登録当初は自然遺産だったが、区域内のオルドワイ渓谷からは、アウストラロピテクスをはじめとする先史人類の化石や足跡などが発見されたことで、2010年に文化遺産としても評価されて複合遺産となった。ンゴロンゴロの一帯は、古くからマサイ族が住む地域だった。彼らは「動物たちはすべて神からの贈り物」という考えを持っており、放牧生活を営みながら動物と共存してきた。しかし、1951年、タンザニアを統治していたイギリス政府は、ンゴロンゴロ地区と隣接するセレンゲティ平原をひとつの国立公園に指定した。この政策にマサイ族は放牧権を奪われたと抗議したことで、ンゴロンゴロ地区は自然保護区として国立公園から分離されることになった。1975年、クレーターを放牧目的で使用することは禁止されたが、マサイ族はクレーター外で放牧を行う一方、密猟者の監視を行って動物との共存を続けている。しかし、少しずつ自然保護区の環境変化がおこっており、危惧するタンザニア政府は現在、町に住んで生計を立てるというマサイ族の定住化政策を進めている。

8-② セレンゲティ国立公園
自然遺産 タンザニア 1981年登録 登録基準⑦⑩
● 多くの哺乳類が暮らす「果てしない草原」
タンザニア北部、キリマンジャロ山の裾野に広がる大サバンナ地帯にあるセレンゲティ国立公園は、地球上で最も多くの哺乳類が暮らす場所として知られる。セレンゲティとはスワヒリ語で「果てしない草原」を意味し、その広さは1万4736㎢(四国の約8割)もあり、生息する野性動物は300万頭以上と推定されている。雨季の平原は植物に覆われるが、乾季を迎えると水は干上がり、灼熱の砂漠と化すことから、雨季と乾季の移り変わりに合わせ、水と食糧を求めて動物たちの大移動がみられる。なかでも野生動物の約3割、100万頭ものヌーの大群の大移動はセレンゲティ最大の見もので、雨季が終わり乾季が始まろうとする5~6月ころ、出産と子育てを終えたヌーたちは、草を求めて一斉にケニア側のマサイマラ国立保護区へ移動を開始する。雨季が始まる12~1月頃には再びセレンゲティへ大挙して戻ってくる。ケニアとの国境に近いマラ川周辺ではライオン、ハイエナ、チーター、ヒョウなどの肉食獣が待ち受け、水かさを増した川にはワニがひそみ、群れからはぐれたり、激流に溺れるヌーが犠牲になるまさに弱肉強食の世界。ときには、国境を越えて1500km(東京~沖縄間ほど)の大移動をくりかえすヌーの大群だけでなく、ヌーとともに移動するシマウマの群れ、ゾウやキリン、バッファローなどの大型哺乳類、500種もの鳥類など、多種多様な生き物たちが生息するセレンゲティは地球上でもまれな場所で、本能にしたがって生きる動物たちの、壮絶な野生の営みを垣間見ることができる。この地の豊かな生態系を世に知らせ、保護したのはドイツ人獣医のベルンハルト・クジメックとその息子のミヒャエルと言われる。彼らの著書『セレンゲティは滅びず』や記録映画『死ぬな、セレンゲティ』などをきっかけに研究所も建てられ、今では世界中から寄付金が集まって動物の研究に役立てられている。

8-③ グレート・バリア・リーフ
自然遺産 オーストラリア 1981年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 海洋生物に富む世界最大のサンゴ礁
オーストラリア北東の海岸に沿うように全長2000kmにわたって広がるグレート・バリア・リーフは、世界最大のサンゴ礁地帯。誕生は約1800万年前までさかのぼり、約200万年前から石灰岩が堆積し、その上にサンゴが生息し始めたと推測されている。その後氷河期を経て、現在みられるサンゴ礁は、8000~6000年前といわれ、グレート・バリア・リーフは地球の歴史を知る上でも貴重な存在。面積は日本列島ほどの35万㎢もある。サンゴが生育するには、18~30℃の水温で、光が届く浅い場所であることが必要だが、この場所は年間を通じて水温が高く、遠浅の海であったことで、このような大サンゴ礁の形成が可能だった。グレート・バリア・リーフには400種以上のサンゴが生息し、1500種の魚類、約4000種の軟体動物・海綿動物・甲殻類などの海生動物も確認されている。また、それらを餌にするクジラやイルカ、ジュゴン、ウミガメ類なども見られ、カクレクマノミもここに生息している。サンゴは死に絶えると石灰質の体のため海に沈殿する。それが岩の周辺などに固まり、海面に達すると、215種以上もいるという鳥類の休息所になり、その後、鳥のふんにまみれて植物が芽を出すと地面が安定し、小島が形成される。こうした行程を踏んで生まれた、大小さまざまなサンゴ島が、グレート・バリア・リーフ海域には900近くもあるという。「グリーン島」は、ケアンズの宝石とも呼ばれ、約6000年前にサンゴ礁が隆起して出来た島で、多くの植物・鳥類・海洋生物が生息し、マリンアクティビティが楽しめる。「ウィットサンデー諸島」には74の島々があり、白い砂浜と青い海の美しさに魅了される人たちは少なくない。ハート形のサンゴ礁で有名な「ハミルトン島」、高級リゾートの「ヘイマン島」などが有名。「ミコマスケイ」は、ケアンズの北東約40㎞の場所にあるサンゴ礁の中州で、2万羽以上の海鳥が生息している。

8-④ クイーンズランドの湿潤熱帯地域
自然遺産 オーストラリア 1988年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 貿易風によって多量の雨が降る熱帯雨林
オーストラリア北東部、グレート・ディヴァイディング山脈に沿って広がるクイーンズランドの湿潤熱帯地域は、貿易風の影響を受け、年間1200~9000mmという多量の雨が降り注ぐ1億3000年前の白亜紀に形成された世界最古の熱帯雨林地帯で、南北に長い。その範囲はデーンツリー国立公園など10の国立公園、700以上の私有地を含めた保護区からなる。木登りカンガルー、ニオイネズミカンガルーをはじめ多数の希少動物が生息する他、寄生する「しめころしのイチジク」など約3000種の植物が生い茂る。また、1億2000万年前のシダ植物から、裸子植物・被子植物へと進化した過程が見られることで、植物学における重要な地とされている。19世紀に錫鉱山へ食料を運ぶ目的で建設された約34kmの鉄道が、原始の森を縫ってケアンズと熱帯雨林に囲まれたキュランダ村とを結び、車窓から世界遺産観光ができる。

8-⑤ カカドゥ国立公園
複合遺産 オーストラリア 1981年登録1987・1992年範囲拡大 登録基準①⑥⑦⑨⑩
● 先史時代の岩絵が残る豊かな自然公園
オーストラリア北部中央ダーウィンの東方にあるカカドゥ国立公園は、オーストラリア最大の国立公園で、四国とほぼ同じ2万㎢もの面積がある。公園内には、マングローブが群生する干潟、雨季には沼地と化す氾濫原、熱帯雨林、サバンナなど、さまざまな自然環境が広がる。植物は1600種以上、動物は人食いワニとして知られるイリエワニなど123種の爬虫類、ワラビーなど60種以上の哺乳類、5000種以上の昆虫が生息している。とくに野鳥が270種以上(全土の約34%)もいることで重要野鳥生息地に指定され、バードウォッチングの名所となっている。この一帯には5~4万年前からオーストラリア先住民(「アボリジニ」といわれてきたが差別的表現とされ、以下「豪先住民」と表現)の居住地域で、公園の土地も彼らのものとして正式に認められ、オーストラリア政府が所有権を借りて協議しながら運営する形がとられている。人類最古の石器といわれる4万年前の斧、1000か所以上で発見された岩画面によって証明されている。この地の先住民(ビニン族)の生活や宗教、伝説などが描かれた岩画面は、彼らの文化を伝える貴重な史料とされる。とくに動物や人間の絵に骨格と内臓を描きこんだ『X線描法』は、ビニン族独自のもので、ウルビやノーランジー・ロックにあるものは保存状態が良好。

8-⑥ ウルル・カタ・ジュタ国立公園
複合遺産 オーストラリア 1987年登録1994年範囲拡大 登録基準⑤⑥⑦⑧
● 偉大な祖先が眠る豪先住民の聖地
オーストラリアのほぼ中心に位置するウルル・カタ・ジュタ国立公園は、巨大な1枚岩で知られるウルル山(高さ340m・周囲9.4㎞)と、カタ・ジュタと呼ばれる大小36個の巨石群を中心とする国立公園。ウルル山は、1873年この地を訪れたウィリアム・ゴスが、当時の南オーストラリア総督ヘンリー・エアーズの名を取ってつけた「エアーズ・ロック」の名でも知られている。今もこの地一帯で暮らしている豪先住民アナング族が、5~4万年以上も前からここに住み、重要な聖地の1つとして崇めてきた。そして、先住民の痕跡を随所に残す文化的な場所であることが判明したため、カカドゥ国立公園と同様、オーストラリア政府がアナング族と土地の借受契約を結び、協議しながら運営する形がとられている。この地の一帯には、アカカンガルーやフクロモグラなどの有袋類を含む40種類の哺乳類、クルマサカオウムなど140種の鳥類、モロクトカゲなど70種類の爬虫類、アノイラアカシアなど480種類の植物が確認されている。

8-⑦ オーストラリアのゴンドワナ雨林
自然遺産 オーストラリア 1986年登録1994年範囲拡大 登録基準⑧⑨⑩
● ナンキョクブナなど太古の森林が残る多雨林
オーストラリア中東部のクイーンズランド州とニューサウスウェールズ州の一部に広がるゴンドワナ雨林には、34の自然保護地域からなる3700㎢もの多雨林地帯。希少な植物は200種以上、動物もコアラやカンガルーをはじめ、パルマヤブワラビーやヒメウォンバット、アルバートココドリなどの非常に珍しい動物も多く生息する。また、ナンキョクブナなどオーストラリア大陸が他の大陸から分離する前の痕跡なども残す貴重な遺産でもある。亜熱帯、乾燥帯、温帯、寒帯という4種類の多雨林が植生しており、ゴンドワナ南方古大陸の分裂期にまでさかのぼる古い系統に由来する脊椎動物、無脊椎動物の残存種も見ることができる。ビジターセンターや難易度別のウォーキング・トレイルもあり、多雨林やどこまでも続くきれいな浜辺、滝、澄み切った川など、旅行者は保護区内の多種多様な場所を訪れることができる。

8-⑧ フレーザー島
自然遺産 オーストラリア 1992年登録 登録基準⑦⑧⑨
● 鳥のふんと豊富な雨量によって形成された砂丘島
オーストラリア・クイーンズランド州のブリスベンから北に約300kmの所にあるフレーザー島は、世界でもっとも大きな砂島で、南北に123km・幅25kmの島のほぼ全域がグレート・サンディ国立公園となっている。約80万年前、オーストラリア大陸の東部にあるグレート・ディヴァイディング山脈で風化によって削られた砂が、堆積して誕生した。砂丘が鳥たちの安息所になると、鳥のふんから種子が芽を出し、安定した大地が形成されていった。この島に人間が住みついたのは、約1万9000年前で、先住民のパジャラ族が定住した。ヨーロッパ人がこの島の存在を知ったのは、1836年にエリザ・フレーザーという女性が、この島の体験を話したのがきっかけだった。エリザの乗るスターリング・キャッスル号が難破してこの島に流れ着き、夫の船長と船員たちはバジャラ族に捕まり、一人逃れたエリザが救済を求めたという。一説によると、この島の名も彼女の姓から来ているという。1842年、冒険家のアンドルー・ピートリがこの島を探検し、この島がマングローブやユーカリ、ナンヨウスギなど木材の資源が生い茂る自然豊かな島であることを発表すると、樹木伐採を目的とする集団が大挙して押しかけた。20世紀に入ると、西洋人がバジャラ族ら600~1000人の先住民を追い出し、製材所や鉄道などを建設したことで、島は荒廃していった。1972年に環境保護団体がこの島の北部1/3を保護下におき、伐採を止めるために企業と交渉を続け、その努力が実って1992年に世界遺産に登録された。今では、絶滅が危惧されていた両生類12種が生息する。また、島の地下には約2000万立方メートルもの淡水がたまっており、最も人気のある観光スポットで水深5mのマッケンジー湖など、島には40以上の淡水湖があり、どの湖も世界で最も透明度の高い湖といわれる。エリー川も人気があり、ハイキングや水泳を楽しむ人で一年じゅう絶えることがない。野鳥は350種以上確認されており、特に渡り鳥の中継地点として重要な島でもある。また、ハービー湾は繁殖と子育てのために訪れるザトウクジラの観察スポットとして有名。

8-⑨ ブルー・マウンテンズ地域
自然遺産 オーストラリア 2000年登録 登録基準⑨⑩
● ユーカリが繁茂する砂岩の連峰
オーストラリアの南東部、シドニーから西へ約60~108㎞の場所に位置するブルー・マウンテンズ地域は、標高1300m級の砂岩の峰々が連なる山岳地帯にある。ブルーマウンテン国立公園を含む7つの国立公園と、ジェノラン・ケイブス・カルスト保護区で構成されている。この地域一帯、乾燥地から湿原、草原などあらゆる場所に全部で91種類(世界の13%)のユーカリが自生しており、オーストラリア特有のユーカリの森が広がっている。地層がはっきりと現れた断崖が延々と続く渓谷や、滝、洞窟などその景観は変化に富んでいて、生態系においても絶滅危惧種、稀少種が多く生息している。「ブルーマウンテン」の名前は、気温の上昇でユーカリに含まれる油が気化し空気中に放出され、光の反射でその霧が青みがかり、山々が青く見えたことに由来する。多くの人が訪れる3つの巨大な奇岩が並ぶ「スリー・シスターズ」は、魔法で石に姿を変えられた3人姉妹の伝説が言い伝えられている。ウォーキング・トレイルも充実しているのでユーカリの森林、断崖の絶景が間近で見られるのも魅力。

8-⑩ トンガリロ国立公園
複合遺産 ニュージーランド 1990年登録1993年範囲拡大 登録基準⑥⑦⑧
● 原住民の祈りが届いた聖なる火山帯
ニュージーランド北島の中央に位置するトンガリロ国立公園は、東半球における環太平洋火山帯の最南端に位置づけられる火山帯にある。この山岳国立公園内にはルアペフ山(2797m)、ナウルホエ山(2291m)、トンガリロ山(1968m)の3つの活火山がそびえる。この地は、先住民マオリの人々にとって文化的に重要な意味を持つ聖地だったが、1840年にニュージーランドがイギリスの植民地になると入植者が増大し、神聖な土地は放牧地に変えられていった。1887年、マオリの首長テ・へウヘウ・ツキノ4世は、このままでは神聖な土地を将来にわたって守り続けることは困難であると判断し、3つの活火山とその周囲を取り巻く地域を、誰もが楽しめる固有の自然保護区とすることを条件に国にその権利を譲渡する提言をした。これが受け入れられ、1894年にニュージーランド初の国立公園として保護されることになった。当初は、3つの火山とその周辺だけだったがその範囲は少しずつ拡大され、今では約795㎢が指定範囲となっている。美しいエメラルドブルー色の火口湖、山間に広がる草原、北島最大の活火山の周辺に湧く温泉など、多様な自然環境にも恵まれている。3つの火山は現在も火山活動が続いており、トンガリロ山は2012年8月に噴火したばかりだが、スキー場での滑走や火口湖を巡るトレッキングまで、人々はそのままに楽しんでいる。これも、噴火を早期に予知する警告システムのおかげ。山々の低い斜面には、高山植物や低草木、亜麻などが生い茂り、植生も多様。鳥類も多く、ニュージーランド固有のキウイをはじめ、オウムの一種カカなど約60種が確認されており、天敵が少ないためか公園内はまるで「鳥の楽園」となっている。ニュージーランド固有動物としては唯一の哺乳類、短尾コウモリや長尾コウモリが公園内に生息している。

8-⑪ テ・ワヒポーナム
自然遺産 ニュージーランド 1990年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 氷河作用と地殻変動が生んだ豊かな景観
ニュージーランドの南島の南西部にあるテ・ワヒポウナムは、氷河作用と地殻変動によって生まれた、多彩な姿を見せる景観を特長とする総面積は2万6000㎢の地域。フィヨードランド、マウント・クック、ウェストランド、マウント・アスパイアリングの4つの国立公園を含む広大な自然保護区で、外界と隔てられた特異な地形と気候が育んだ、この地ならではの生態系を見ることができる。世界で最も雨量の多い地域に数えられるテ・ワヒポウナムには、温帯の南限にジャングル(冷温帯雨林)が形成され、各種の植物が自生している。なかでも高さ60mになるマキ科の巨木「カヒカテア」は、この木1本にシダやランなど101種類以上の植物が共生し、1000年を越える時を生き続けてきた。また、テアナウ湖西岸の「テアナウ洞窟」には土ボタルが生息。洞窟内に流れる川をボートに乗って奥へ進むと、無数の土ボタルが青白い光を放ち、満天の星を地底に再現したような神秘的な光景が広がる。他にもキウィ、ニュージーランド・オットセイなど固有種の生物も多く、絶滅の危機を防ぐため、保護活動が進められている。タスマン海に面し、フィヨードランド国立公園内にある「ミルフォード・サウンド」は、観光船によるフィヨルドクルーズで、約1時間半かけて大型船でフィヨルドを周遊するクルーズや、約3時間かけて小型船で自然と野生動物を観察するネイチャークルーズなど、人気の観光スポット。長い年月をかけて誕生した壮大な自然の景観と、多様性に富んだ生き物たちの営みが凝縮されたテ・ワヒポウナムは、世界でここだけの大自然の神秘を体感できる。

8-⑫ パルミラの遺跡
文化遺産 シリア 1980年登録 危機遺産/2013年登録 登録基準①②④
● 交易で栄えたオアシス都市の廃墟
シリアの首都ダマスカスの北東約230km、シリア砂漠の中央にあるパルミラは、メソポタミアと地中海を最短で結ぶ交易路にあったことで、紀元前1~後3世紀まで、シルクロードを行き交う隊商都市として繁栄した。かつては、ナツメヤシが茂る地下水に恵まれたオアシスだった。特に2世紀には、隊商都市ペトラから通商権を受け継ぎ、ローマ帝国の庇護のもとで黄金期を迎えた。ところが3世紀末、クレオパトラの末裔を自称するゼノビア女王が、ローマ帝国から独立を試みて失敗し、街は破壊され、廃墟となった。その後要塞として使用されることもあったが、交易路の変化によってさびれていった。城壁に囲まれた約10㎢には、街の南東奥にある最大の建造物ベル神殿など、保存状態の良いローマ建築の遺構が点在していたが、2015年8月、バールシャミン神殿に続きベル神殿もイスラム過激派組織ISによって爆破された。シリア騒乱による保全状況の悪化で、他のシリアの世界遺産とともに再度危機遺産リスト入りしている。

8-⑬ ダマスカスの旧市街
文化遺産 シリア 1979年登録 危機遺産/2013年登録 登録基準①②③④⑥
● 聖書に記された世界最古の都市
シリア南東部にあるダマスカスは、イスラム世界初の王朝ウマイヤ朝の首都として繁栄した古代都市。古代より「オリエントの真珠」と称えられてきた世界最古の都市の一つで、メソポタミアと地中海を結ぶ東西交易の交差点として発展してきた。『旧約聖書』には、アブラハムが旅の途中でこの地を訪れたと記されており、『新約聖書』には、キリストと聖母マリアの避難場所とある。ダマスカスは、アラビア半島、メソポタミア、地中海を結ぶ交易の十字路にあったことで、イスラム勢力の支配下に収まるまでは、エジプトをはじめアラム王国、ペルシア、ギリシア、ローマ帝国などが支配者として君臨した。ダマスカスに黄金時代が訪れるのは、 7世紀半ばにイスラム初の王朝であるウマイヤ朝が成立し、この街を首都と定めてからで、かつてキリスト教の聖堂があった場所に大規模なモスクが建設され、政治・経済の中心地として多くの学者や詩人、商人たちが集まり、世界最高水準の文化が花開いた。その後もダマスカスは、十字軍の襲来やモンゴル帝国の侵略、オスマン帝国の支配などを受けるが、その歴史を物語るのが城壁に囲まれた旧市街で、125の歴史的建造物が登録されている。旧市街の西側には、現存する世界最古のモスクといわれるウマイヤ・モスクをはじめスーク(市場)やマドラサ(イスラムの高等教育施設)などイスラム色が濃く、オスマン帝国時代の美しい宮殿も残っている。一方東側では、聖パウロゆかりの聖堂など、キリスト教の聖堂が多く見られる。なお、ダマスカスの旧市街もシリア騒乱による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに再度危機遺産リスト入りしている。

8-⑭ 隊商都市ボスラ
文化遺産 シリア 1980年登録 危機遺産/2013年登録 登録基準①③⑥
● ローマ道路の要衝として発展した古都
首都ダマスカスの南約110km、ヨルダン国境近くにあるボスラは、ローマ時代の遺跡が数多く残る古都。紀元前1世紀、ナバタイ王国の最初の都市となったが、106年、トラヤヌス帝時代のローマ帝国に征服されアラビア属州の州都となった。ローマ円形劇場、市場、浴場、水利施設、列柱道路など、紀元前から12世紀ころまでのローマ帝国、東ローマ(ビザンチン)帝国、イスラム時代の遺構が数多く残されている。これらの建造物は玄武岩で造られているため、遺跡全体が黒色をしているのが特徴。ローマ時代には穀倉地帯として、また地中海とアラビア海を結ぶ交易の拠点として栄えた。土砂に埋もれた遺跡の上に現在の街があるため、発掘されているのは一部分に過ぎない。しかし約100mの地下道や、ほぼ完全な姿を残しているローマ劇場の遺構などから往時をしのぶことができる。なお、シリア騒乱による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに再度危機遺産リスト入りしている。

8-⑮ アンジャル
文化遺産 レバノン 1984年登録 登録基準③④
● ウマイヤ朝の栄華を今に伝える貴重な都市遺産
レバノン東部ベカー高原にあるレバノン唯一の城塞都市遺跡のアンジャルは、首都ベイルートの東約50km、レバノン山脈の麓にある。8世紀初頭、初のイスラム王朝ウマイヤ朝のワリード1世が保養地として建設した都市で、レバノン唯一の城塞都市遺跡。この一帯に残されていたローマ帝国やビザンツ帝国の遺構を転用して造られている。この遺跡の中心に王宮が設けられ、その周辺にモスク、公共浴場、従者の住居や多数の商店が置かれた。現在は、ビザンツ帝国時代の聖堂建築様式による2層アーチを持つ王宮の一部が復元され、優美な姿を見せている。

8-⑯ 聖地バアルベック
文化遺産 レバノン 1984年登録 登録基準①④
● 天空の神ユピテルをまつるローマの聖域
レバノンの首都ベイルートの北東約80km、ベカー高原中央にある聖地バアルベックは、ローマ帝国時代の古代遺跡。この地域には、紀元前2000年ころから人が住みはじめ、フェニキア人によって最初の都市が作られた。バアルベックとは、フェニキア人の言葉で「平原の主神」という意味の名を与えられたバアルベックは、東西交易の交通路として発展したが、紀元前64年にローマ人に征服され、ローマの神々をまつる神殿が築かれた。神殿の中で最大のものは紀元後60年ころ、皇帝ネロの時代に完成したローマの天空ユピテル(ジュピター)をまつる「ユピテル神殿」で、屋根以外はほぼ原形をとどめており、直径約2mの柱の柱頭はアカンサスの葉をモチーフにしたコリント式。基壇の幅は約54m、奥行90mは、アテネのパルテノン神殿を上回る。2世紀ころには酒の神のバッカスをまつる神殿、3世紀初めには菜園の守護神ヴィーナスをまつる神殿も完成し、ローマ帝国領土内では最大規模の聖域となった。しかし4世紀末、コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた後は神殿の増築が中断し、イスラム教徒が流入した7世紀には神殿は要塞として使用され、1516年オスマン帝国が支配したころには、完全に忘れられてしまった。現在残る遺跡からも、ローマ帝国建築の威容やこの地の土着宗教などの影響を受けた特有の装飾を見ることができる。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


会の後半は、メンバーの酒井猛夫がオーストラリアのシドニーに現地企業の社長として11年間滞在したとき、来訪者へ最優先で案内する観光地にシドニー地区に酸素を供給する世界遺産の「ブルーマウンテンズ」(8-⑨) がありました。2001年2月、弟の私酒井義夫が訪れた際、猛夫さん運転の車に乗せてもらい、ユーカリやシダが豊かな森林地帯のベストコースを案内してもらいました。そのとき撮った写真を回覧しながら、大きな3つの岩山「スリー・シスターズ」など、その素晴らしさの一端を披露しました。
引き続き、メンバーの小田靖忠氏が最近、フィンランドのヘルシンキからエストニアのタリンを経て鉄道でロシアのサンクトベルグに入り、その後モスクワを訪問したレポートをしてもらいました。かつて音楽評論家としてサンクトベルグやモスクワを数回訪れたことのある反畑誠一氏、竹内光氏らの体験談も興味深いものでしたが、その印象は全体的にいまいちのようでした。未だ訪問していない私は、2、3年のうちに旅行し、この眼で評価したいものと思っています。
さらに、メンバーの山本明夫氏が先月の9月17日から1週間、松蔭大学教授として旧満州・中国黒竜江省の黒河(ヘイホー)と哈爾浜(ハルビン)を学術訪問した際の体験を、多くの写真を交えてレポートしてもらいました。黒河学院(日本の大学に相当)で開かれたシンポジュームに参加した際、「私と中国」と題した30分ほどの発表を行い、近代日本の光と影を題材に、福沢諭吉を筆頭とする富国強兵を念頭にした [西欧中心主義路線]と、勝海舟が主張した [中国と朝鮮半島からの文化・文明移入の成果を忘れてはならないという考え方] を比較しての論考でした。この発表により、黒河学院院長から客員教授に当たる「認定証」が手渡されたことは、嬉しいハプニングだったそうです。黒河市や哈爾浜市内の博物館・記念館などの視察も感銘深いもので、これを機に毎年旧満州を訪れることになるようです。
(文責・酒井義夫)


「参火会」10月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年9月20日木曜日

第46回「参火会」9月例会 (通算410回) 2018年9月18日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第8回目 アフリカ・オセアニア・中近東篇① エジプト・モロッコ・マダガスカル・ヨルダン

今回は、下記資料「7-①~⑬」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した7-①~⑬ の映像約40分を視聴した。




7-①  カイロ歴史地区
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①⑤⑥
● 豪華なモスク群を擁するイスラム都市 
エジプトの首都カイロは、7世紀にイスラム帝国がこの地に侵攻し、エジプト支配の拠点としてフスタートという都市を建設した。フスタートは、現在の市街地の南にあるオールド・カイロ地区にあった。以後、フスタートは首府や州治所としての役割を果たすようになる。10世紀の中ごろ、ファーティマ朝がフスタートを征服し、ミスル・アル=カーヒラ(勝利の町)を建設した。カーヒラ=カイロで、ここからカイロという名前が歴史上に出てくるようになり、宮殿やアズハル・モスクなどが造られた。12世紀から、アイユービ朝のサラーフ・アッディーンにより、エジプトの政府機能がすべてカイロに集約され、多くの歴史的建造物を抱えた。13世紀中ごろから16世紀初頭までのマムルーク朝時代に入るとカイロは黄金期をむかえ、十字軍やモンゴルの侵入を退け、世界最大規模のイスラム都市として繁栄した。14世紀には、600ものモスクがあるうえ、1000以上のミナレット(塔)を擁するため「千の塔の都」と称されるようになったという。1518年、イスタンブールを首都とするオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすと、エジプト全体が帝国の属州となり、カイロの世界における政治的地位は低下していった。イスラム建築の模範となっていたカイロ独特の建築も、イスタンブール風のモスクにおされ、独自性は失われていった。現在のカイロは、1200万人も住む大都市だが、地盤がゆるく、歴史的建造物が徐々に崩壊するなど、諸問題をかかえている。なお、1979年に「イスラーム都市カイロ」として世界遺産に登録された後、2007年に「カイロ歴史地区」と名称が変更された。その範囲は、カイロ東南部にある約8㎞×4㎞で、イスラム地区である旧市街と、カイロ発祥の地であるオールド・カイロが含まれる。主な建築物は、イスラム最古の大学「アズハル大学」、モカッタムの丘にある城塞「シタデル」、オスマン帝国のエジプト総督が建設した「ムハンマド・アリーモスク」、カイロで最も高い約80mのミナレット持つ「スルタン・ハサン・モスク」などがある。

7-②  メンフィスのピラミッド地帯
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 古代エジプト文明の象徴的存在
エジプトの首都カイロの近郊、ナイル川西岸にある「メンフィスのピラミッド地帯」は、古代エジプトの古王国時代(紀元前2650~前2120年ころ)の首都メンフィスと、王たちが作った巨大墓地遺跡で、メンフィス周辺のギザから、サッカラ、ダハシュールにかけて、約30のピラミッドや建造物が点在する遺跡群が含まれている。この遺跡群の多くは、エジプト古王国時代の第3王朝期から第6王朝期にかけて建設された。この世界遺産の見どころはやはり「ギザの3大ピラミッド」だろう。第1は「クフ王のピラミッド」……紀元前2550年ころに建造されたエジプト最大のピラミッドで、基底部の1辺の長さ約230m・高さ137m。第2は「カフラー王のピラミッド」……クフ王のすぐ南西にあり紀元前2500年ころ建造、基底部の1辺の長さ約214m・高さ136.5m、参道の途中にスフィンクスが横たわる。第3は「メンカウラー王のピラミッド」……カフラー王のすぐ南西にあり紀元前2450年ころに建造、基底部の1辺の長さ約105m・高さ66.5m。その他の主なピラミッドを3つあげると、「階段ピラミッド」……サッカラにあり、紀元前2650年ころジェセル王により建造された最古のピラミッド。「屈折ピラミッド」……ダハシュールにある紀元前2600年ころに建造されたピラミッドで、下部に比べ上部が緩やかになっているのは建設中に地盤がゆるんだためといわれる、基底部の1辺の長さ約190m。「赤のピラミッド」……ダハシュールにあり、スネフェル王により紀元前2600年ごろに建造された赤い石材が使用された現存最古の正四角錘ピラミッドで、基底部の1辺の長さ約220m。さて、あの巨大建造物のピラミッドは、どのように作られたのかは、さまざまな説が唱えられてきた。もっとも信憑性のある説として、農閑期の国家事業として農民たちによって作られたというもの。ナイル川は毎年7~10月にかけて氾濫し、農閑期に入ってしまうため、失業状態の農民達に仕事を与える意味もあった。切り出した石をどうやって運んでどうやって積み上げていったかだが、使われた石は堆積岩で、砂が集まってできた石なので、切り出すのも容易。石切場から離れたピラミッド建造現場までは、氾濫して水かさが増えたナイル川を船で運び、コロを使って現場まで運ぶ。クフ王のピラミッドは平均2.5tの石が230万個使用され、完成までに22~23年の年月がかかっている。石を積む作業は、ピラミッドの横に傾斜のついた坂を築いて、石を引いてあげたとされ、上に行くほどに傾斜を高くしていった。粗く形成された石は、角を直角にして水平にならして積んでいき、積み上げるたびに水平を測っていったという説が有力。

7-③  古代都市テーベとその墓地遺跡
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● ツタンカーメン王の墓がある新王国時代の遺跡
エジプトの首都カイロの南約670㎞、ナイル川中流にある「古代都市テーベとその墓地遺跡」は、ルクソール近郊にあり、地中海からおよそ800㎞南方に位置している。テーベは約1000年もエジプトの首都として栄華を誇り、現在ではルクソールと呼ばれている。この地は、紀元前4000年頃から紀元前3000年頃にかけて、セペトという都市国家があった。その後、エジプト中王国(紀元前2000年~前1800年ころ)の第11王朝の時にエジプトの首都となり、新王国(紀元前1570年~前1069年ころ)の第18~20王朝までの約1000年間にわたって王国の中心として繁栄した。元来ここではアメン神が信仰されていたが、エジプト王国の太陽神ラー信仰と合わさり、アメン・ラーとなり、「カルナク神殿」はアメン・ラー信仰の総本山となって、約5000㎡の大列柱広間は、第19王朝期のラメセス2世の時に完成した。その他、テーベの主な遺跡には、カルナク神殿の副神殿にあたる「ルクソール神殿」があり、カルナク神殿と参道でむすばれている。ラムセス2世の建てた高さ25mのオベリスクや中庭、第18王朝第9代ファラオのアメンヘテプ3世の中庭などがある。ナイル西岸の墓地遺跡群には、「王家の谷」があり、第18王朝トトメス1世から第20王朝ラムセス11世までが眠っているが、特に有名なのは、1922年に発見された第18王朝12代目ファラオのツタンカーメンの墓。王家の墓の南西にある「王妃の谷」には、第17王朝から20王朝までの王子や王女が眠る。ナイル西岸の葬祭殿群には、8tもの巨大胸像のある「ラメセス2世葬祭殿」や第18王朝5代目ファラオの「ハトシェプト女王葬祭殿」がある。この地は、考古学的価値が非常に高い一大遺跡地区として名高い。

7-④  (アブ・シンベルからフィラエまでの)ヌビア遺跡群
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 危機を免れた新王国期・プトレマイオス期の遺跡群
ヌビア遺跡群は、エジプトのナイル川上流にある古代エジプト文明の遺跡で、新王国時代とプトレマイオス朝時代(紀元前304~前30年)に建てられた建造物群。1960年代、エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったが、このダムが完成すると、ヌビア遺跡が水没する危機が懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始すると、世界60ヶ国が名乗りをあげ、約20か国の調査団が技術支援、考古学調査支援などを行った。その後、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立したため、ヌビア遺跡群は、世界遺産が出来るきっかけとなった物件といえる。ヌビア遺跡群を代表するのは、古代エジプト神殿建築の最高傑作といわれる「アブ・シンベル大神殿」。新王国時代第19王朝のファラオで「建築王」と呼ばれたラムセス2世が建てたもので、1964年から1968年の間に正確に分割され、ナイル川にせり出した岩山を掘削して造られた岩窟に移築された。神殿正面には高さ約22mもあるラムセス2世の座像が4体並び、足元には王の母や王妃、息子、娘などの小さな立像がある。「アブ・シンベル小神殿」は、大神殿の北100mほどの場所にあり、ラムセス2世が王妃ネフェルタリのために建造した神殿。「カラブシャ神殿」は、ヌビアの太陽神マンドゥリスが祀られ、ヌビアの神々に捧げられた神殿で、新王国時代に建設されアメンホテプ2世やトトメス3世が関わっていたといわれており、その後、プトレマイオス朝、ローマ帝国支配時代に再建されてアスワンの南約50キロのナイル川西岸にあったが、1970年にアスワン・ハイ・ダムの近くに移築された。ナイル川上流の中州にあるフィラエ島の「イシス神殿」は、古代エジプトの神オシリスの妹であり妻でもある女神イシスに捧げられた神殿で、紀元前3~4世紀のプトレマイオス朝時代に建てられた。神殿の壁面には、神々の姿を描いたレリーフが残っている。

7-⑤  フェズ旧市街
文化遺産 モロッコ 1981年登録 登録基準②⑤
● モロッコ最古のイスラム都市
モロッコの首都ラバトの東170km、セブ川中流のフェズ旧市街は、2.2㎞×1.2㎞の城壁に囲まれており、複雑な街並みから「世界一の迷宮都市」とも呼ばれている。789年、ベルベル人でイドリース朝のイドリース1世により建設され、フェズはモロッコ最古のイスラム王都となった。マリーン朝などの以後のイスラム王朝でも王都とされ、13世紀頃からモスクやマドラサ(イスラム教における高等教育施設)が造られたことで、アラブ諸国から多くの留学生を迎え入れ、芸術や学問の中心として繁栄した。特に、旧市街の中心に位置するカラウィーン・モスクは、859年ころに建てられた礼拝堂が元になって、増改築がくりかえされ、北アフリカ最大の2万人収容のモスクとなったが、非ムスリムは入ることができない。このモスクに付随する世界最古のマドラサは、10世紀に大学の機能を持ち、カイロのアズハル大学と並ぶイスラム最古の大学のカラウィーン大学の前身となった。歴史家のイブン・ハルドゥーンら偉大な学者が教鞭を執ったことで、遠くヨーロッパにまで名を馳せ「アフリカのアテネ」と呼ばれている。街並みが複雑になったのは、外敵の侵入を防ぐためで、坂や路地、階段が入り組んで、車が入ることができない場所がほとんど。そのため、今でも物流の手段としてロバやラバが使われている。手工業が盛んで、最も有名なものはタンネリという一画があり、皮をなめして染める産業は、モロッコでも最大規模を誇る。また、フェズブルーという青一色で彩色した陶器も生産されている。旧市街には約30万人が暮らすが、住宅環境や水利環境が充分でないのが、大きな課題となっている。

7-⑥  古都メクネス
文化遺産 モロッコ 1996年登録 登録基準④
● 北アフリカのヴェルサイユ
モロッコの首都ラバトの東130km、フェズの西60kmの平野に位置するメクネス(ミクナース)は、総延長約40kmの城壁に囲まれた旧市街が世界遺産に登録された地域。9世紀に軍事拠点として建設されたメクネスは、17世紀にイスラム教のアラウィー朝の首都となった。スルタン(王)のムーレイ・イスマイルはヨーロッパとの交流に力を入れ、特にルイ14世に傾倒したため、メクネスをヴェルサイユのような街にしたいと考え、大規模な改修を始めた。古い街並みを壊し、ヨーロッパの文化を取り入れた建物を造ったことで、イスラム+ヨーロッパ風の建物はマグレブ(ヒスパノ・モレスク)様式と呼ばれ、街の至る所に見られるようになった。しかし、街が完成する前にイスマイルは亡くなり、後を継いだ王の息子は他に都を移してしまったことで、メクネスはわずか50年ほどで衰退の一途をたどることになったがために、歴史的建造物が残されることになった。旧市街の南半分を占める王宮地区には、1732年に完成したマンスール門をはじめ、クベット・エル・キャティン、20年分の兵食を蓄えられる巨大穀物倉庫、キリスト教徒の地下牢、スルタンの眠るムーレイ・イスマイル廟などが林立しており、どれもモザイク・スタイル装飾が見もの。

7-⑦  ヴォルビリス遺跡
文化遺産 モロッコ 1996年登録2008年範囲拡大 登録基準②③④⑥
● モロッコ最大のローマ都市遺跡
モロッコの首都ラバトとフェズの間にあるヴォルビリスは、北アフリカにおける古代ローマ都市の最も保存状態のよい遺跡のひとつで、総面積40万㎡もあり、西暦40年ころに発展した。作物が豊かに育つため、小麦やオリーブなどが大量に生産される農業都市となって3世紀ころまで繁栄は続いた。2万人もの人々がこの地にすんでいたといわれ、217年には「カラカラ帝の凱旋門」が建造されたり、全長2300mの城壁や8つの城門、40以上の塔、公共浴場など壮麗なローマ建築が建造された。しかし、3世紀末にローマ帝国が撤退すると、ベルベル人の侵入を許し衰退していった。7世紀にはイスラムが席巻し、681年にはアッバース朝の支配下に入った。やがて、イドリース2世によってフェズの都市が建設されると、ヴォルビリスの重要性は失われた。遺跡群は、1755年のリスボン大地震の際に被害を受け、さらに前後する時期には、メクネスでの建築資材として大理石が一部持ち去られなど、廃墟状態となっていった。1915年、フランス人の調査団によって発掘が開始され、広範囲にわたるローマ都市遺跡群が出土した。大通りにある邸宅群の床にある美しいモザイクは見もの。オリーブの圧搾施設や穀物倉庫など農業都市ならではの遺跡も見つかっている。

7-⑧  マラケシュ旧市街
文化遺産 モロッコ 1985年登録 登録基準①②④⑤
● 南方の真珠とうたわれた赤レンガの古都
モロッコ中央部、サハラ砂漠西方に位置し、アトラス山脈のふもとに位置するマラケシュ旧市街は、1071年、ムラービト朝の君主ユースフ・ブン・ターシュフィンが築き、首都として整備されてきた都市。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」を意味し、モロッコではフェズに次ぐ歴史を持つ。ムラービト朝は、西サハラからイベリア半島南部に至る広大な地域を占領したため、イベリア半島や大西洋沿岸、東のサハラ砂漠を越えた地域をつなぐ通商路の要衝となった。その後、1147年にムワッヒド朝により、ムラービト朝時代の建物は大半が壊されてしまった。前王朝の建造物を破壊して新たなものを造り直すのが、当時のイスラム王朝のやり方だった。マラケシュは、1147年、ムラービト朝を滅ぼしたムワッヒド朝の時代でも首都で、政治・経済・文化の中心都市として発展した。全長20kmの城壁の中で、赤土色のレンガでできた民家が美しく映える光景は、ヨーロッパの詩人から「アトラス山脈に投げられた南方の真珠」と称賛されている。現在残っている建物は、ムワッヒド朝が建てた12世紀のものがほとんどで、クトゥビーヤ・モスクは、この街の中心的な建造物。12世紀半ばに建設されたこのモスクの特徴は、69mのミナレット(小塔)が併設されていることで、旧市街のシンボルでもある。このミナレットは、スペイン・セビリアのヒラルダの塔、首都ラバトのハサンの塔と並び、三大ミナレットのひとつに数えられ、今日でもミナレット建築の手本とされている。ムワッヒド朝時代につくられた著名な建物としては、馬蹄形のアーチ周辺の装飾の美しさと赤い砂岩が特徴的なアグノー門があげられる。旧市街の城壁に設置された巨大な門で、マラケシュで最も美しい門と絶賛されている。1269年にムワッヒド朝を滅ぼしたマリーン朝は、マラケシュを首都としなかったが、この時代にも大規模なマドラサ(イスラム世界の高等教育機関)が建造されている。ベン・ユーセフ・マドラサは、16世紀に再び首都としたサアド朝時代に手が加えられ、さらに大規模なイスラム神学校になって現存している。「バイーヤ宮殿」は、白い壁とタイル張りの床や天井が美しい宮殿で、中庭を囲むように女性たちの部屋が配置されているアラブ・アンダルシア建築の傑作といわれている。「ジャマエルフナ広場」は、旧市街の中心にあり、アラビア語で「死人の集会所」という意味の名を持つ広場は、昔は公開処刑が行われた場所だった。400m四方の広場には多くの屋台がひしめき合い、大道芸人がこぞって芸を披露している。人々は活気にあふれ、この空間は「ジャマエルフナ広場の文化空間」として、2001年に無形文化遺産に登録されている。

7-⑨  要塞村アイット・ベン・ハドゥ
文化遺産 モロッコ 1987年登録 登録基準④⑤
● イスラムから逃れた人々が築いた要塞村
モロッコ中部にありアトラス山脈南麓に位置するアイット・ベン・ハドゥは、7世紀に北アフリカの先住民ベルベル人が造った要塞型の村。一帯にはイスラム勢力から逃れてきた人たちが、部族間抗争や盗賊などの略奪から自分たちを守る「クサール」と呼ばれる要塞化した村がいくつかあるが、そのなかでもアイット・ベン・ハドゥの集落は最も保存状態が良いもののひとつ。村は城壁に囲まれ、単純な造りの家屋から、複数階建ての「カスバ」(砦・城砦の意)とよばれる建物までが立ち並ぶ。カスバは1階が馬小屋、2階が食糧倉庫、3階以上が居住空間になっている。建物は赤茶色の日干し煉瓦を使用して造られ、壁は非常に厚く、夏季に40度を超える気候にあっても、室内を涼しく保てるようにできている。外敵の侵入に備えて入口は1つしかなく、道は細く入り組んで、まるで迷路のよう。住居は侵入してきた敵の視界をさえぎるために室内は暗く、飾り窓に見せかけた銃眼から敵を銃撃することができる仕組みなど、侵入者を防ぐたるの工夫がいくつも施されている。村の丘の上には、アガディールと呼ばれる見張り台を兼ねた穀物倉庫、羊の群れを監視する共同小屋、会議を行う会堂などもある。また、8世紀にイスラム化したこともあり、学校やモスクも遺されている。これらの土やレンガでできた建物はは耐久性に乏しく、2世紀以上の歴史をもつものはひとつもなく、周辺のクサールの中には風化したものもある。家々も傷みが進み、近年、復旧作業が続けられているが、今も居住している住人が数家族いるものの、ほとんどの住民は対岸の住居に移住している。なお、この地は、映画『ソドムとゴモラ』『アラビアのロレンス』などのロケ地としても有名な場所で、年間を通して多くの観光客が訪れる地となっている。

7-⑩  テトゥアン旧市街
文化遺産 モロッコ 1997年登録 登録基準②④⑤
● イスラムとスペインが混じった白亜の街並み
モロッコ北端の街テトゥアン旧市街は、古くからモロッコとイベリア半島をつなぐ拠点として栄えていたが、14世紀末、8世紀から行われてきたキリスト教徒のによるイベリア半島の解放運動「レコンキスタ」の一環として、スペインによって破壊されてしまった。再建したのは、15世紀ごろに「レコンキスタ」(特に1492年のグラナダ陥落で)難民となり土地を追われてきたイスラム教徒とユダヤ教徒の手で、テトゥアンは城塞都市として建設された。20世紀、モロッコの大半はフランス領となったが、テトゥアンの街は1956年までスペイン領だったため、南スペイン・アンダルシア地方の影響を受け、イスラム文化と融合した白亜の街並が広がっており、これらはスペイン・ムーア文化と呼ばれている。旧市街中央に立つ17世紀の王宮はその典型。

7-⑪  ツィンギ・ド・ベマラハ厳正自然保護区
自然遺産 マダガスカル 1990年登録 登録基準⑦⑩
● 奇岩が連なるキツネザルの避難所
マダガスカル島西部にあるツィンギ・デ・ベマラ厳正自然保護区は、自然保護、景観保護を目的とした約1520万㎢の保護地域。ツィンギとは、マダガスカル語で「先の尖った」という意味で、ナイフのように尖った高さ100mもの岩が多数そそり立つ特異な景観が広がっている。この岩山は、石灰岩のカルスト台地が1億6千万年もかけて侵食され、形成したものと考えられている。この奇岩地帯は、降水があっても尖った岩と岩との隙間に吸収されてしまうため、植物はこの地を原産とするアロエやサボテンの仲間などの乾燥に強い珍しい種類のものが多数自生して、保護区内には原生林やマングローブの沼地も広がっている。これらの樹木は岩肌に根を張り、石灰岩台地の地下にまで根を伸ばして水をくみ上げることから、動物たちが暮らせる環境を作り出す。森や沼地には、多くの種類の鳥や世界でも珍しい動物が生息し、黒い顔に真っ白な毛を持つベローシファカというマダガスカル固有種のサルをはじめ、童謡でおなじみの絶滅危惧種アイアイなどのキツネザルの仲間、体長が60~70cmにもなる世界最大のカメレオンのウスタレカメレオンなどがよく知られている。

7-⑫  隊商都市ペトラ
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● 砂漠に浮かぶナバテア王国の古代都市
ヨルダン南部のテトラは、紀元前2世紀ころ北アラビアを起源とする砂漠の遊牧民族ナバテア人によって栄えた隊商都市。もともと隊商の略奪や保護料の徴収などを行っていたナバテア人だったが、やがて自分たちで交易を始めるようになり、ペトラを首都にナバテア王国を興した。ペトラは砂漠の交易路を支配することで大いに繁栄したが、やがて交易ルートから外れ、衰退していった。4、5世紀にはキリスト教の教会が作られ、7世紀にはイスラム教徒の支配に入り、12世紀に十字軍の城塞が築かれたのを最後に、廃墟となって砂に埋もれてしまった。1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトによって再発見され、20世紀初頭から発掘調査が始まったが、2014年時点でもわずか15%しか発掘が進まず、85%が未発掘とされている。ペトラの都市遺跡は、総面積900㎢の山岳地帯に点在し、岩山に刻まれた壮大な建物や用水路などで構成されている。最も有名な遺跡は、砂岩の断崖に刻まれた「カズネ・ファルウン」(エル・カズネ)で、宝物殿として知られる。2003年の調査で、1世紀初頭にナバテア人の王の墳墓として造られたものと推測され、切り立った岩の壁を削って造られた正面は、幅30m、高さ43mにもおよぶ。この遺跡をはじめ、ペトラの遺跡の多くは岩壁を彫刻のように彫りぬいて造られている。ナバテア人は、平らに削った岩壁に設計図を書き、その輪郭にそって彫りぬく方法で、大半の遺跡を築いたとされる。そうした優れた建築技術で多くの防水施設や用水路を建設しており、ほとんど雨の降らない砂漠地帯でありながら、充分な飲料水を確保したと考えられている。2世紀初頭に、ローマ帝国の支配下に入ったこともあるペトラには、円形劇場や、列柱を備えた大通り、王家の墓と呼ばれる岩窟墳墓群が建ち並び、800段もの石段を上り詰めた先には、ペトラ最大の遺跡エド・ディルがある。山と一体となった荘厳な神殿の周囲には、修道僧が住んでいたと思われるおびただしい数の洞穴住居もある。スイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」は、2007年にペトラ遺跡を「世界の七不思議」の一つに選定した。

7-⑬  砂漠の城クサイラ・アムラ城 119
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● フレスコ画で彩られたカリフの隠れ家
ヨルダンの首都アンマンの東方、シリア砂漠の西側にあるクサイラ・アムラは、8世紀初頭、初のイスラム世襲王朝のウマイヤ朝第6代カリフ・ワリード1世が築いた離宮。近くには30もの宮殿跡があるが、クサイラ・アムラは保存状態が特に優れている。隊商宿を増改築した石造建築物は、謁見の間と浴場に分かれる。謁見の間の壁や天井は踊り子や神話の場面、狩猟のようすなどを描いたフレスコ画で彩られ、床はモザイクタイルでおおわれている。一方、温水・冷水浴室、サウナ、脱衣場が設けられた浴場も、イスラム社会には珍しい裸婦などのフレスコ画におおわれている。厳格なイスラム教徒の目を逃れ、ここで王族らが酒宴や入浴を楽しんだ場所だったようだ。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後は、ユネスコで「世界遺産」がどのように誕生し、何をめざすか、世界遺産はどのように決まるかなどを「ヌビア遺跡群」(7-④)を例に確認しました。
古代エジプトの新王国時代(紀元1500年頃から約500年間)に建造され、アブシンベル神殿をはじめとする「ヌビア遺跡群」が、1960年代に危機的な状況に陥りました。エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がり、このダムが完成すると、ナイル川周辺に無数に存在する神殿や墓が、ダムの湖底に沈んでしまいます。ユネスコが「ヌビア水没遺跡救済キャンペーン」を開始すると、世界60か国が支援を表明し、そのうち20ヶ国が調査・技術支援などを行いました。特に古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオで「建築王・大王」と呼ばれたラムセス2世が建てた神殿建築の最高傑作とされる「アブシンベル神殿」をいかに救うか、画期的なアイデアが世界多数から集まりました。最終的に、アブシンベル神殿他を1000個以上のブロックに分けて移築するスウェーデン案が採用され、約4年をかけ、およそ60m上方の高台にある岩山を削って作られた幅38m高さ33mもある岩窟に移築されました。この壮大な移築を記録する約15分の映像 (ユニバーサルミュージック発行・ディアコスティーニ発売)は感動的なもので、よくぞそこまでやったかと歓声があがるほどでした。このキャンペーンにより、世界じゅうから募金や協力の手が差し伸べられ、救うことができた遺跡は、神殿18・墓2・聖堂3・教会1となりましたが、千数百もの遺跡がダムの湖底に消えてしまったのも事実です。
このキャンペーンの成功により、これまでの「宝を持つその国が管理・保護するもの」という考えから、「地球の宝は、国を超え、世界じゅうの人々の協力により、守られべき」という考えが主流となっていきます。こうして、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が満場一致で成立しました。
まず、世界遺産をつくりたい国は、国としてこの条約に加盟しなくてはなりません。遺産を守る一員となる宣言で、2018年7月現在193ヵ国が加盟しています。加盟国は、自国にはこんな素晴しい自然や文化があるので世界遺産に登録してくれませんかと立候補します。
各国から提出された世界遺産の候補地は、その可否が毎年6月下旬から7月上旬に開かれる「世界遺産委員会」で決定されます。委員国は21か国で、任期は6年となっています。これまでに登録された世界遺産の総数は1092件で、文化遺産845件・自然遺産209件・複合遺産38件・危機遺産54件・登録抹消の世界遺産2件がその内訳です。
国別上位12位までは、次の通り。①イタリア 54件 ②中国 53件 ③スペイン 47件 ④ドイツ・フランス 各44件 ⑥インド 37件 ⑦メキシコ 31件 ⑧イギリス 31件 ⑨ロシア 28件 ⑩アメリカ・イラン 各23件 ⑫日本 22件
こうして誕生した世界遺産リストは、世界じゅうのみんなで守るべき「地球の宝」なので、世界遺産を未来に残すことは平和を守ることと同意語であることであり、ユネスコが守るべは緊急性の高いリストは内戦が行われているシリアの6つの世界遺産やエルサレムなど「危機にさらされている世界遺産(危機遺産)」54件であることも知っておく必要がありそうです。
(文責・酒井義夫)


「参火会」9月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年7月18日水曜日

第45回「参火会」7月例会 (通算409回) 2018年7月17日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第7回目 アジア篇② ベトナム・中国・韓国・ネパール・マレーシア

今回は、下記資料「6-①~⑱」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した6-①~⑱ の映像約48分を視聴した。



6-1  ミーソン聖域
文化遺産 ベトナム 1980年登録 登録基準④
● チャンパー王国に花開いたヒンドゥー教の聖地
ベトナム中部にあるミーソンは、2世紀末から1835年まで中部ベトナムに存在した国家チャンパーにおけるヒンドゥー教のシヴァ神崇拝の中心となった聖地。4世紀末に国王バードラヴァルマン1世がシヴァ神の神殿を建設したのをはじめ、多くの祠堂(位牌堂)が作られた。6世紀に木造祠堂群が火災で焼失したため、7世紀に耐久性のある焼成レンガを建材に用いるようになり、現存する祠堂はレンガ製のもののみ。遺構の大半がベトナム戦争により破壊されてしまったが、ヒンドゥー建築の東南アジアへの広がりや、チャンパー文化を今に伝える貴重な遺産として、現在も修復作業が続いている。

6-2  古都ホイアン
文化遺産 ベトナム 1999年登録 登録基準②⑤
● 多様な文化を取り込んだ古い街並みが残る港町
ベトナム中部、ダナンの南方30kmトゥボン川河口に位置するホイアンは、16~19世紀に国際貿易港として繁栄した港町。中国、インド、アラブを結ぶ中継貿易の拠点で、ベトナム最大の交易港として、東アジア諸国との交易を求めるヨーロッパ諸国の船も多数寄港した。17世紀には、朱印船貿易の中継地点として多くの日本人が移住し、日本人街が形成され、最盛期には1000人以上がくらしていたといわれる。ところが、江戸幕府が鎖国政策を進めたことで、やむなく帰国。日本人の足跡として、日本の職人が建築したとされる「日本橋」と呼ばれるカウライヴィエン橋(来遠橋)や、ホイアン郊外に日本人墓地などが残されたという。その後、華僑を中心に茶や絹、コーヒーなどの東西貿易で発展するものの、18世紀後半に「西山の乱」という大反乱で潰滅的被害に遭い、そのため現在ホイアンに残る古い建物の大半は18~19世紀に建造されたもの。19世紀に入ると、土砂の堆積のためトゥボン川の水深が浅くなり、船舶の大型化に対応できなくなったため、ホイアンは貿易港との役目を北方のダナンに奪われ、衰退していった。しかし、このことから後世の都市開発や戦争から独特の街並みが守られることになったのは幸いだった。ホイアンの街並みは、建築史的にも文化的にも貴重な存在で、日本、中国ベトナムの建築様式が混在した「タンキーの家」などの伝統的な家屋が公開され、「日本橋」もライトアップされ、観光スポットになっている。

6-3  フエの建造物群
文化遺産 ベトナム 1993年登録 登録基準③④
● 中華風と西洋風が融合したグエン朝の都
ベトナム中部にあるフエは、19世紀初頭から20世紀半ばまで約150年にわたりベトナム最後の王朝であるグエン朝の都で、グエン朝ゆかりの建築物が多く残る。緩やかに流れるフォン川の河畔に王宮や歴代皇帝の帝陵を残すこの古都は、「ベトナムの京都」とも呼ばれている。旧市街の中心に広がる王宮は、中国北京の紫禁城(故宮)の3/4の縮尺で作られたといわれ、ザーロン帝が建設に着手し、2代ミンマン帝の世に完成した。王宮内の建物は、ベトナム戦争時の1968年にほとんど破壊されたが、皇帝の即位式が行われ、政務を執った「太和殿」や王宮の正門は補修が加えられ、現在も豪華な姿を保っている。また王宮内やフエの城壁外には、グエン朝の菩提寺である顕臨閣や歴代皇帝を祀った世祖廟などが点在し、ベトナム伝統の建築様式も見られる。

6-4  ハ・ロン湾
自然遺産 ベトナム 1994年登録2000年範囲拡大 登録基準⑦⑧
● 奇岩、奇形の島々が点在するベトナム随一の景勝地
ベトナム北東部、中国との国境からほど近い約1500㎢の広大な湾内に、大小3000もの島が点在しその大半が奇岩。壮大なスケールで広がる山水画のような世界は、中国の世界遺産「桂林」に似ていることから、「海の桂林」とも称される。ハ・ロンとは「空飛ぶ龍が降り立った場所」という意味で、昔むかし、この地に龍の親子が降り立ち、口から宝玉を吐き出して敵を蹴散らした際、それらが岩となって海面に突き刺さったという伝説による。実際には、ハ・ロン湾は約11万5千年前の氷河期に、中国南西部の石灰岩台地が沈み、長い歳月のうちに海水や風雨に浸食されてできたもの。まるで彫刻作品のようなシャモ、ゾウ、魔法使い、幽霊、カメといった変わった名前がつけられた島、鍾乳石や石筍がみられる洞窟の島もある。人が住むには不向きだが、動植物にとって格好の住み処となっていて、貴重なサルであるフランソワリーモンキーやファイールルトンの世界でも数少ない生息地としても知られる。海中にはサンゴ礁や、アワビ、ロブスターなど暖流を好む多くの生き物が生息している。世界遺産に登録されてから、国内外から年間約200万人が訪れるにぎわいを見せ、ハ・ロン湾観光の拠点となるバイチャイやホンガイには、見晴らしのよいベイビューホテルやアミューズメントパーク、マーケットも続々とオープンしているが、生態系の破壊が問題化している。

6-5  万里の長城
文化遺産 中国 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 中国の歴史を物語る世界最大級の城壁
中国北部に、東西約3000kmにわたって連なる万里の長城は、春秋時代(紀元前770~前403年)に始まった。これは西方から異民族が侵入してくるのを恐れたためだといわれ、戦国時代(紀元前403~前220年)に楚、斉、魏、趙、燕などが互いに争い、どんどん防護壁が増えていった。そして、紀元前221年、初めて中国を統一した秦の始皇帝は、各国が築いた長城をつなぐ形で整備・補修、現在の万里の長城の原型といえるものにし、北方民族の「匈奴」の侵略から領土を守るための城壁とした。その後、前漢(紀元前206年~紀元8年)の時代に入ると城壁は現在の敦煌あたりまで伸び、その後も歴代の王朝により拡大と延長を繰り返して、約2000年後の明朝の時代に完成した。しかし、その後に中国を支配した清は北方民族の女真族の王朝だったため、長城を整備することなく放置した。そのため長城は、清代にその大部分が荒廃することになったが、1949年に中国が成立すると、整備・保護が始められた。万里の長城は、明の時代に、西は甘粛省の「嘉峪(かよく)関」から東は河北省の「山海関」に至る3000kmに残る遺跡で、名前の由来は、司馬遷が『史記』にその長さを「万余里」としたことによる。当時の「万里」は現在の約4000km。長城の総延長は約8900kmで、明以前につくられた遺構も含めると約5万kmに達するという説もある。その建設には、原則として山岳地帯は切り出した石が、平地では土や砂などが使われ、明代では焼成レンガや石灰が大量に使われるようになって、より強固なものとなった。高さ平均8m、幅平均4.5mある城壁は、その上を兵士や馬が移動できるようになっていて、敵監視台、のろし台などが均等に分布して芸術性も高く、明代の建築技術の高さがうかがわれる。現在、観光地として公開されている長城は、 八達嶺、慕田峪、司馬台、金山嶺、居庸関、黄崖関、山海関、嘉峪関などで、その中でも「八達嶺」は北京の北西70kmに位置し、比較的気軽に行けるため最も人気が高い。人工衛星から見える唯一の世界遺産というのも有名。 

6-6  秦の始皇帝陵と兵馬俑坑
文化遺産 中国 1987年登録 登録基準①③④⑥
● 中国初代皇帝の権力を示す壮大な地下帝国
中国中央部、陝西省西安の郊外に残る秦始皇帝の陵は、紀元前221年に初めて中国を統一した秦の始皇帝の墓で、国王に即位した前246年から建設を開始し、1日70万人の囚人や職人を動員し、工事年数は40年にもおよんだ。完成したのは、始皇帝の死から2年が経過した前208年のことだった。この陵は、内外二重の城壁に囲まれており、内城は東西580m・南北1355m、外城は東西940m・南北2165mで、総面積は200万㎢という途方もない規模だったという。現在は、文化財保護などの理由から陵の発掘は行われていないため、その全貌は謎のままだが、地下にはまだ巨大な宮殿が存在するといわれている。司馬遷の書いた『史記』には、始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」との詳細な記述があるが、この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていた。しかし、1981年に行われた調査によるとこの周囲から、不老不死の効果があると信じられていた水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。いっぽう、1974年、この始皇帝陵から1kmほど離れた場所で偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることがわかった。これが「兵馬俑」で、始皇帝陵から伸びる道に沿って配置されており、巨大な陵の一部を成していた。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なもの。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されているだけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査は進められていない。

6-7  蘇州園林
文化遺産 中国 1997年登録2000年範囲拡大 登録基準①②③④⑤
● 豊かな水をたたえた名園の数々
蘇州園林は、中国の江蘇省東部、長江下流の蘇州にある歴史的な庭園の総称で、16~18世紀に街の有力者によってつくられた古典庭園群。1997年に4か所(拙政園・留園・網師園・環秀山荘)の庭園が登録され、2000年に5か所(滄浪亭・獅子林・芸圃・耦園・退思園)が追加登録された。蘇州は、市街の中を多くのクリーク(運河)が走り、「東洋のベネチア」と称されている。蘇州の庭園は市街の豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさが特徴で、明・清時代には、200もあったという。これらの多くは個人の趣味として地元の名士によって造られ、皇帝所有の皇家園林に対し、私家園林と呼ばれている。なかでも、滄浪亭・獅子林・拙政園・留園は、蘇州四大園林と呼ばれ、蘇州最大で5万㎡の拙政園と巨岩(冠雲峰)など築山の見事さで知られる留園は、北京の頤和園、承徳の避暑山荘とともに、中国四大名園といわれている。

6-8  北京と瀋陽の故宮
文化遺産 中国 1987年登録2004年範囲拡大 登録基準①②③④
● 調和美を極めた中国皇帝の居城
中国の首都北京の中心部にある故宮は、明と清の24代(1368~1912年)にわたる皇帝の宮城で、高さおよそ10mの城壁に囲まれ、東西750m、南北960m、総面積は72万㎡もあり、宮城としては世界最大。明代には9千人の女官、10万人の宦官(かんがん=宮廷に仕えた去勢された男子)がいたという。「古い宮殿、昔の宮殿」という意味を持つ故宮は、現在は故宮博物院になっている。以前は一般の人が入れないため「紫禁城」と呼ばれており、その城門の一つが有名な天安門。2004年追加登録された瀋陽の故宮は清の前身である後金の皇帝で女真族を統一したヌルハチによって建造された宮殿。清が都を北京に移してからは清王朝の離宮として使用されていた。敷地面積は6万㎡で、北京の故宮に比べると規模は小さいものの、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並んでいる。遊牧民族の住居パオを起源とする八角形の建物や、女真族の文化や宗教などが反映されており、現在はこちらも博物館になっている。

6-9  天壇
文化遺産 中国 1998年登録 登録基準①②③
● 明・清の歴代皇帝が五穀豊穣を祈った祭殿
北京にある天壇は、1420年に明の第3代皇帝の永楽帝が造営した中国最大の祭祀施設。敷地面積は273万㎡と広大で、北京・故宮(紫禁城)の4倍以上もある。その中心となるのは「祈年殿」で、大理石の基壇上に青瑠璃瓦で葺かれた三層の丸屋根が映える建造物は、東アジアの建築に大きな影響を与えるとともに、故宮と並ぶ北京のシンボルとされている。

6-10  頤和園
文化遺産 中国 1998年登録 登録基準①②③
● 西太后が莫大な予算を投じた優美な大庭園
北京の中心部の北西約15kmにある頤和園は、敷地面積が297万㎡と、皇居の2倍以上もある庭園。12世紀半ばに建造された小規模な離宮だったのを、清朝第6代皇帝の乾隆帝が、広大な庭園に整備した。しかし、第2次アヘン戦争・アロー戦争(1856~60年)で、英米軍により破壊されてしまった。その30年後の1891年、西太后が海軍の予算を流用して復元し、頤和園と命名した。広大な庭園の約4分の3を占める人造湖の「昆明湖」と、その周囲に点在する色鮮やかな中国風建築の数々が、頤和園の風光明媚な景観を作り上げている。特に、高さ約60mの人造山である万寿山の中腹に建つ、八角三層の壮大な塔「仏香閣」は、頤和園のシンボル。

6-11  マカオ歴史地区
文化遺産 中国 2005年登録 登録基準②③④⑥
● 西洋と中国の文化が交錯する貿易港
中国南部のマカオは、16世紀にポルトガルがアジア貿易の中継地として、またキリスト宣教のアジア拠点とした港町。19世紀末に清から割譲されるなど、約450年にわたってポルトガルの影響下にあったが、1999年、中国に返還され特別行政区となった。広東省珠海市と隣り合う半島部分には、8つの広場と22の歴史的建造物が密集し、東洋と西洋が融合した独特の魅力を放っている。とくに、日本人も建設にかかわった巨大なファサードのみを残す聖ポール天主堂跡や、中国最古の西洋建築であるギア要塞、日本にキリスト教を伝えたザビエルの遺骨の一部が安置された聖ヨセフ修道院などが見所。

6-12  九寨溝渓谷
自然遺産 中国 1992年登録 登録基準⑦
● 中国最後の神秘的な秘境
中国中央部四川省・成都の北約400kmのところにある九寨(さい)溝渓谷は、鬱蒼とした原生林の中に3つの渓谷・大小100以上の湖沼、瀑布が50kmにもわたって連なる別天地。渓谷(溝)にチベット族の暮す村(寨)が9つあることからこの名がついた。チベット族の間には、昔、山の女神が天界から落とした鏡が 108つに砕け散って湖になったという伝説が残されている。伝説に彩られた湖面は、雪を頂き白く輝く峰や色鮮やかな樹林、澄み渡る青空など周囲の風景を鏡のように映し出し、まるで一枚の絵画のよう。紺、碧、藍、蒼……。「青」だけでは表現しきれない湖水の色彩美と相まって、息を呑むほどの美しい景観をつくり出している。この景観は、石灰岩の地層に含まれる炭酸カルシウムの働きによるもので、湖底から湧き出す地下水を浄化し、水中のチリをも湖底に沈めるといわれている。とくに美しいとされる五花海は、「九寨溝の一絶」と評されている。以前は成都からバスで移動しなくてはならなかったが、近くにある黄龍が世界遺産になったことから、2003年に九寨黄龍空港が開港した。この地に住むチベット族らが宿泊施設を設けるなど、観光地として整備されている。

6-13  黄龍
自然遺産 中国 1992年登録 登録基準⑦
● 自然が描く色彩鮮やかな奇観
九寨溝に近い黄龍は、雪宝山(5588m)を臨む玉翠(ぎょくすい)山麓にある棚田のような池と青い水が美しい観光地。地表に露出した石灰岩層が侵食され、溶けた石灰が堆積して形成された大小の池が棚田状に約3400、約7kmにもわたって連なる。それぞれの池は、水深や光線、見る角度などの違いによって微妙に色合いが異なり、神秘的な美しさを見せる。ここでは、黄金に輝く龍の鱗のような艶やかな岩肌を眺めながらハイキングを楽しむことができる。ジャイアント・パンダなど多種多様な希少動植物が生息していて、2000年にはユネスコの生物圏保存地域に指定された。

6-14  昌徳宮
文化遺産 韓国 1997年登録 登録基準②③④
● 東アジアにおける宮廷建築の代表作
昌徳宮(チャンドックン)は、韓国の首都ソウルにある李氏朝鮮の宮殿で、1405年に李氏朝鮮の第3代王太宗の時代に、正室の景福宮(キョンボックン)の離宮として建設された。文禄・慶長の役(1592~98年)の際、豊臣秀吉が派遣した日本軍により、景福宮や庭園とともに焼失したが、1615年に昌徳宮だけが再建され、以降約270年間、朝鮮王朝で王が最も長く居住した宮殿となった。現存する韓国最古の木造二層式門といわれる昌徳宮の正門「敦化門(トンファムン)」のほかに、重層入母屋造りの正殿「仁政殿」など、13の木造建築が現存している。

6-15  カトマンズの谷
文化遺産 ネパール 1979年登録2006年範囲変更 登録基準③④⑥
● 宗教と芸術が織りなすヒマラヤの万華鏡
ネパール中央部、ヒマラヤ山脈のふもと平均標高1300mにある盆地状になっているカトマンズの谷は、直径20kmほどの範囲に、およそ900もの歴史的建造物が密集する世界でもまれな地域。1769年にシャハ王朝が誕生して以来、ネパールの首都となったカトマンズと、バドガオン(バクタプル)、パタン(ラリトプル)の3古都にまたがる。この3古都がひとつの都市だった13世紀ころにマッラ族がが台頭し、14世紀にはマッラ朝が確立した。仏教とヒンドゥー教の融合が進み、チベットとインドを結ぶ中継都市として栄えた。15世紀後半、マッラ朝はカトマンズ、パタン、パドガオンの3王朝に分裂して栄華を競いあい、それぞれの国で王宮や寺院、広場など芸術性の高い建築物が築かれていった。現在も3つの古都として存在する。街のあちらこちらに見られるヒンドゥー教のコミカルな、あるいは恐ろしい神々たち。半神半獣の神もいれば、病苦を背負って苦しむ神や、ドクロや剣を身につけて猛り狂う神もいる。寺院によってはカラフルにおどろおどろしく彩られた男女交合像でうめつくされているところ、クマリと呼ばれて崇められている少女の生き神様もいる。いっぽう、仏教のストゥーパが立っていて、ブッダの目らしい巨大な目玉が睨みつけてきたりする。マニ車と呼ばれる仏具を手で回している人々が、このストゥーパの周りをみな同じ方向に歩くなど、異世界の光景があちこちでみられる。世界に類を見ない神々が存在するカトマンズの谷は、ヒンドゥー教や仏教、土着のアニミズムの神々が一堂に会する場所という意味で「人より神が多い街」と呼ばれた。近年では、3つの古都へ農村から人々が流れ込み、かつての稲田がコンクリートとレンガの家々で埋め尽くされて街の景観が損なわれたことから、2003年に危機遺産リストに登録された。しかし、保存状況の改善計画が提出され、2007年に危機遺産リストから脱した。

6-16  仏陀の生誕地ルンビニー
文化遺産 ネパール 1997年登録 登録基準③⑥
● ブッダ生誕の地とされる仏教4大聖地のひとつ
ルンビニーは、ネパール南部、ヒマラヤ山脈南麓にある小村。紀元前6世紀、インドとの国境沿いの地を支配していた釈迦族の王妃マーヤーは、白い象が胎内に入る夢をみて懐妊したという。出産のため故郷にむかう途中、ルンビニーで無憂樹の枝に手をかけると、夫人の右脇から赤子、後の仏陀が誕生した。この仏陀誕生の物語にちなみ、6世紀頃、マーヤーデビ寺院が造営され、一時期は仏教徒の巡礼地として栄えたが、14世紀の記録を最後に忘れさられた。1896年、マウリヤ朝のアショーカ王が紀元前3世紀にこの地を訪れて建立した仏陀の生誕地を示す石柱がドイツの考古学者により発掘されると、ルンビニ―聖地として整備され、ふたたび巡礼地に返りざいた。なお、仏教4大聖地は、この地以外に、ブッダガヤ……成道(悟り)所、サールナート……初転法輪(初説法)、クシーナガラ……涅槃(入滅)所がある。

6-17  チトワン国立公園
自然遺産 ネパール 1984年登録 登録基準⑦⑨⑩
● 国に守られた希少動物たちの楽園
ネパール南部、インドとの国境地帯にあるタライ平原の「チトワン国立公園」は、ジャングルと草原が広がる自然保護区。非常に広大で東西80km、南北23km、総面積932㎢を誇る。もとと自然が豊かな場所だったが、不法な移住、森林伐採、動物の乱獲が行われた上、マラリアの撲滅のために1950年代から大量の農薬がまかれたために、自然破壊が進み、森林や野生動物が激減した。1973年、自然破壊を止めるため、ネパール初の国立公園に指定されると、軍隊による密猟者の取り締まりが実施され、保護が徹底された。今では、インドサイ、ベンガルトラなど絶滅種を含む哺乳類は約40種や、コウノトリ、サギ、インコなどの野鳥が生息していて、野鳥の種類は500種類ほど(世界の鳥類の5%)で、世界一といわれている。ゾウの背中に乗って見るジャングルサファリや、カヌー、バードウォッチングなどのアクティビティを楽しむこともできる。

6-18  グヌン・ムル国立公園
自然遺産 マレーシア 2000年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 多くの洞窟があるカルスト地帯
ボルネオ島北部の熱帯地帯にある「グヌン・ムル国立公園」は、標高2371mのムル山が中心。ここに、約3500種もの維管束植物が生息しヤシは100種類を越える他、81種の哺乳類、272種の鳥類が生息する。また、ムル山はもっとも洞窟が多い山といわれ、総延長295kmの洞窟群がつらなる。現在4つの洞窟が公開されているが、1960年代以降調査が進められているにも関わらず、いまだ60%近くが前人未踏といわれる。世界最大の貫通型の洞窟「ディア洞窟」から出てくるコウモリ(ドラゴンダンス)など見所は多い。


世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性

以上の映像を視聴後は、マレーシアの「世界遺産」として特筆される「マラッカとジョージタウン」が紹介された。

(番外) マラッカとジョージタウン
文化遺産 マレーシア 2008年登録 登録基準②③④
● ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易の中継点として繁栄
マレーシアの南西部に位置するマラッカとペナン島のジョージタウンはマラッカ海峡に面し、「海のシルクロード」の中継地として、500年以上前から東西の交易品や文化が盛んに行きかって発展した都市。14世紀末に興ったマラッカ王国の古都マラッカは、16世紀にポルトガルとオランダに支配された時代の政府庁舎や教会、要塞などがみられる。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたきっかけは、マラッカで知り合ったヤジローの勧めと、先導によるもの。その後イギリスの支配が続き、ヨーロッパ風の砦や広場、教会などが紆余曲折の歴史を物語る。いっぽう、ジョージタウンは、マラッカ海峡の入口に浮かぶペナン島北東部の港町。ペナン島は18世紀末にイギリス東インド会社に譲渡され、総督フランシス・ライトがイギリス国王にちなみジョージタウンと名づけられた。1818年に建てられた東南アジアでもっとも古い英国教会セント・ジョージ教会がイギリスの香りを漂わせ、ペナン島随一と称えられる中国寺院クーコンシーが極彩色の輝きを放つ。シティホールなどコロニアル様式の建物と、中国、アラブ、インドなどの商人が建てた寺院やモスクが狭いエリアに同居し、どこの国にいるのか分からないほど。両都市とも、トライショー(自転車タクシー)に乗って、異空間をさまよってみるのも楽しい。

メンバーの酒井猛夫は、避寒と避暑を兼ね、今年も含め夫妻で10年以上も毎年1月下旬から40日間・7月下旬から40日間の「マレーシア・ロングステイ」を続けています。マレーシアについての話をしてもらいましたので、そのポイントを以下に記します。
「マレーシアを選んだ理由」(治安のよさ・物価の安さ・日本人への対応のよさほか)、「フレイザーズ・ヒルの魅力」(首都のクアラルンプールが赤道直下で1年中真夏なのに対し標高1500mの高原リゾートは1年中20度前後、ホテル前には18ホールのゴルフコースがあり使用料は1か月1万円程度、NHKの衛星テレビが見られる中国人経営のホテル代は1部屋1日4500円で朝晩の豪華食事つき、舗装された5つ以上の散歩コースは景色抜群ほか)、「マラッカ旅行の勧め」(ポルトガル・オランダ・イギリス・日本の支配を受け東西交易の中継地として栄えたマレーシア最古の街で「独立宣言記念館」「セント・ジョンズ砦」「スタダイス」「フランシスコ・ザビエル教会」など見所多数) など等……。

引き続き、ごく最近「世界遺産」に登録された『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』につき、7月8日に「TBS世界遺産」で放送した映像を視聴しました。17~19世紀にかけてキリスト教が禁じられた間、密かに信仰を続けていた潜伏キリシタンが育んだ独特の「宗教的伝統」を描いたもので、彼らが崇拝した聖地や暮した集落跡、禁教が解けた後に建てられたカトリック教会、また、当時の信仰を続ける「かくれキリシタン」の儀式を通して、潜伏キリシタンの生きた痕跡がよくわかりました。なお酒井義夫は、昨年9月24日に放送された『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』以降、毎週日曜日の6時から30分間放送されている「TBS世界遺産」をDVD化(すでに37週分)しています。今後、当日のテーマに合うときは、視聴することを了承していただきました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒

2018年6月20日水曜日

第44回「参火会」6月例会 (通算408回) 2018年6月19日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第6回目 アジア篇① インド・インドネシア・タイ・カンボジア・スリランカ

今回は、下記資料「5-①~⑯」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した5-①~⑯ の映像約42分を視聴した。



5-① アジャンター石窟寺院群
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①②③⑥
● 1000年の眠りから覚めた森林の仏教石窟寺院群
ムンバイ(ポンペイ)の北東約300kmに位置する断崖にあるアジャンター石窟寺院群は、インド最古の仏教壁画が残る仏教窟。湾曲して流れるワゴーラ川河岸にあるこの石窟群は、全長600mの間に点在する大小30を数える石窟の造営年代は、紀元前2~紀元2世紀に最初の開窟が行われ(前期窟)いったん終了した。北インドの統一王朝のグプタ朝最盛期の5世紀に再開し、7世紀までつづいた(後期窟)と考えられている。この石窟群は、仏教の衰退とともに忘れ去られていたが、1819年、この地で虎狩りをしていたイギリス駐留軍の士官ジョン・スミスが、巨大な虎に襲われてワゴーラー渓谷に逃げ込んだ際、偶然見つけたことが発見の契機となった。仏教石窟には2種類あって、平地に木造か煉瓦造で建てられていた僧院(ヴィハーラ)を石窟におきかえた「ヴィハーラ窟」と、ブッダを象徴する「聖なるもの」(チャイティヤ)として仏塔などが据えられた「チャイティヤ窟」がある。アジャンターでは、9・10・19・26・29窟の5つがチャイティヤ窟で、残りはすべてヴィハーラ窟。壁画の制作には、粘土と牛糞を塗り、石灰を重ねた下地に顔料で描くテンペラ技法の一種が使われている。アジャンター石窟寺院の美術的価値は、後期窟に集中していて、第1・2・16・17窟は、入口柱や天井にミトゥナ(男女一対)像や飛天(諸仏の周囲を飛行遊泳し礼賛する天人)、蓮華や鳥獣の画像が描かれたり、レリーフ(浮彫り彫刻)として刻まれたりしている。特に第1窟に描かれた「蓮華手菩薩像」は、奈良の法隆寺にある「勢至菩薩」を連想させるもので、この石窟の仏教美術の数々は、のちに中国、中央アジア、日本にまで大きな影響を及ぼした。

5-② エローラ石窟群
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①③⑥
● 3つの宗教が共存する聖地
インド中西部、アジャンターの南西100kmの山地にあるエローラ石窟(寺院)群は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の34の石窟寺院が、南北2kmにわたって立ち並んでいる。南端の第1~12窟が7~8世紀に造営された仏経窟、その北の13~29窟が9世紀ごろまでにつくられたヒンドゥー教窟、一番北の30~34窟が9~10世紀ころにつくられたジャイナ教窟。エローラの仏教窟は、インドにある仏教窟としては最後にできたもので、「チャイティヤ窟」の第10窟の天井の高いホールに入ると、奥にあるストゥーパ(卒塔婆=釈迦の遺体・遺骨または代替物)を安置した仏教建築が目に入る。ストゥーパを背にして、仏陀座像が設置されている。ヒンドゥー教窟を代表するのは第16窟の「カイラーサ寺院」で、幅46m奥行き80m高さ34mの寺院は、ひとつの岩からできていて、鑿(のみ)と槌だけで、古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマヤナ」の世界を描いていたエローラを代表する石窟。エローラで最後の開窟を行ったのは9世紀にこの地にやってきたジャイナ教徒で、「カイラーサ寺院」に刺激されて石窟寺院をつくったが、その努力にもかかわらず未完に終わった。しかし、32窟と33窟の完成度は高い。エローラは、アジャンターと違って忘れ去られることなく、今日に至るまで常に巡礼者が集う聖地とされている。3宗教が共存する石窟群は、古代インド社会の「寛容の精神」を表す遺産といえる。

5-③ カジュラーホの寺院群
文化遺産 インド 1986年登録 登録基準①③
● 官能的な浮彫彫刻の寺院群
インド中部、首都ニューデリーから南東約500kmにある小村カジュラーホに残る寺院群は、中世インド宗教建築の粋をなす。この寺院群のほとんどは、この地を都としたチャンデーラ朝が最盛期をむかえた10~11世紀に建立されたと思われる。13世紀初頭にイスラム教徒が北インドに侵入するものの、彼らはこのころすでに辺境の地と化していたカジュラーホに興味を示さず、大寺院群はいつしか植物に覆われ、19世紀にイギリス人に再発見されるまで、忘れ去られていた。かつては85もの寺院があったといわれるが現存するのは25で、これらは西群、東群、南群に分けられる。最も多く寺院がある西群は、すべてヒンドゥー教寺院で、東群にはジャイナ教寺院が多い。カジュラーホの寺院群の中で最大のなのは、西群に建つカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院で、高さ31mにも達するシカラ(砲弾形の尖塔)と、84もの小シカラが積み重なるように上に伸びている。寺院を覆うように刻まれた緻密な彫刻群が特徴で、なかでもミトゥナ(男女1対の意)と呼ばれる性的な情景を奔放に表現した彫刻が有名。人生の神聖な一面としてその魅力をたたえるヒンドゥー教の宗教観を反映している。これらの彫刻群は、古代インドの性愛論書「カーマスートラ」の教えに基づくものと考えられる。ヒンドゥー教寺院とジャイナ教寺院による建築・彫刻による差異はほとんどみられず、豊穣祈願が込められているという説もある。



ここまで視聴したところで映像を一時停止し、上のカラー資料(「図解世界史」成美堂出版刊)により、紀元前5世紀、釈迦がインド東北部のブッダガヤで悟りを開いた「仏教」は、紀元前3世紀にマウリヤ朝第3代アショカ王により保護されてインド各地に広まった。しかし、インドには定着せず「ヒンドゥー教」に吸収されたこと。仏教は、保守派(個々の修行を重視)の「上座部仏教」(以前は「小乗仏教」といわれたが、大乗仏教側からの蔑称だったため、現在は使用されない)と、進歩派(民衆の救済を求める)の「大乗仏教」に分裂した。その後「上座部仏教」はセイロン島(スリランカ)のシンハラ王国により2000年以上も定着し、ビルマ・タイ・カンボジア・マレーシアなど東南アジアに広がっていった。「大乗仏教」は紀元1世紀ころ、シルクロードを通じ中国や朝鮮半島など東アジアに広がり、日本へは6世紀に朝鮮半島経由で伝来、中国との国交でさらに発展したことなどが解説された。

5-④ デリーのクトゥプ・ミナールとその関連施設
文化遺産 インド 1993年登録 登録基準④
● イスラムの力を誇示したモスクと塔
ニューデリーの南にある、インド初のモスクとされるクトゥプ・ミナールは、12世紀後半にデリーを征服した奴隷王朝(1206~1290年)を開いたアイバクがつくった建造物。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていて、ヒンドゥー教の寺院を破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されている。クトゥプ・ミナールは、高さ72.5m、石造5層のミナレット(モスクに付随する塔)で、今でもインドで最も高い石造建築物。その関連施設には、クトゥブ・ミナールから北に150mほど離れた場所に、未完ミナレットのアライ・ミナールがある。財政難で工事が中断し、現在は直径25mの巨大な基底部を見ることができる。完成していればクトゥブ・ミナールを超え、100mを大きく超える塔になっていたといわれる。

5-⑤ デリーのフマユーン廟
文化遺産 インド 1993年登録 登録基準②④
● ペルシア様式を導入したインド初のイスラム廟建築
デリーにあるフマユーン廟は、亡くなったムガル帝国2代皇帝フマユーンのために、王妃ハージ・ベグムが命じ、9年の歳月をかけて1570年に完成した墓廟で、王妃や王子、宮廷人ら約150人が埋葬された。このムガル帝国初期の傑作とされる建築は、後に帝国の終焉の場ともなった。1857年、イギリスの植民地支配に対しておこった「セポイの反乱」で、反乱軍側についた最後の皇帝がこの廟の中で捕えられ、インドはイギリスの支配下に置かれた。ファサード(正面)の赤砂岩の壁面に白・黒・黄の大理石がはめ込まれた中央廟が伝統的なインド様式に対し、白大理石造りの大ドームはペルシア様式で、インドとペルシアの見事な融合がみられる。周囲に広がる広大な庭園は、水路で田の字に区切られたペルシア式四分庭園(チャハル・バーグ)となっている。4つの正方形にはそれぞれ木々が植えられ、水と緑の楽園が表されている。中央にドームがある左右対称の建物は、四面どこから見ても同じ外観をしているイスラーム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルは100年後のタージ・マハルに大きな影響を与えた貴重な建築。

5-⑥ アーグラ城
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準③
● ムガル帝国の栄華を伝える赤い城
首都ニューデリーの南約200kmにあるアーグラ城は、ムガル帝国を強大な国家に発展させたムガル帝国3代皇帝アクバルが、1565年から1573年にかけて首都アーグラに建設した城塞。赤砂岩の城壁に囲まれていることから、デリーの城と同様「赤い城」とも称される。アクバル帝時代は要塞機能に重点が置かれたが、5代皇帝シャー・ジャハーン、6代皇帝アウラングゼーブによる大幅な改築がなされ、広大な敷地内に、市場、居住区といった都市機能も備える都城となった。アウラングゼーブ帝が1707年に亡くなってからは、他国の占領を受けたり、内乱の舞台になったりしたことで多くの建物が破壊されたが、20世紀に入ってからは修復が進み、現在は過去の姿をとりもどしつつある。アーグラ城は、二重の堀、二重の城壁に囲まれているが、その堅固な外部と対照的に内部は豪華。白大理石の列柱が立ち並ぶ「公的謁見の間」「私的謁見の間」、美しい「四分庭園」(チャハル・バーグ)、「真珠モスク」など3つあるモスクはすべて総大理石で、インド・イスラム建築の絢爛たる魅力を伝える。城内に現存するアクバル帝時代の唯一の建物はジャハーンギール宮殿で、ペルシア建築の特徴とヒンドゥー教の建築様式が混在している。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融合をはかるために尽力したアクバル帝の政治的意図を象徴しているといわれる。

5-⑦ タージ・マハル
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①
● インド・イスラム建築を代表する霊廟建築
インド北部アーグラにあるタージ・マハルは、17世紀、ムガル帝国の最盛期を迎えた第5代皇帝シャー・ジャハーンにより、約20年もの歳月をかけ、1631年に37歳の若さで死去した愛妃ムムターズ・マハルのために建設された総白大理石づくりの霊廟。愛する王妃を失った皇帝の悲しみは深く、国民に2年間喪に服すことを命じ、喪が明けるころ、ヤムナー川のほとりに霊廟の建設を開始した。総面積17万㎡におよぶタージ・マハルの敷地は塀で囲まれ、霊廟本体、南門、四分庭園、モスク、迎賓館などで構成されている。1辺約95m、高さ7mの基盤の上に建つ霊廟は、ドームを冠する変形八角形の建物で、幅65m高さ58mある。建物の前後左右4面にはイーワーンと呼ばれるホールが設けられている。また基盤の4隅には高さ42mのミナレット(尖塔)がそびえる。デリーのフマユーン廟をモデルにし、ムガル朝の伝統的な建築様式を踏襲したタージ・マハルだが、職人のなかにはフランスの金細工師やイタリアの宝石工もいたため、トルコ石やサファイアといった宝石が象嵌にはめこまれ、ヨーロッパのバロック様式の影響もみられる。

5-⑧ ボロブドゥール寺院遺跡群
文化遺産 インドネシア 1991年登録 登録基準①②⑥
● 密林に埋もれていた世界最大規模の仏教遺跡
ジャワ島中部、ジャカルタの北西40kmに位置するボロブドゥールの仏教寺院群は、770年ごろから820年ごろにかけて、仏教を信仰するシャイレンドラ朝によってつくられた総面積1.5万㎡世界最大規模を誇る仏教遺跡。この王朝は、100年前後しか続かず、滅亡とともにこの寺院も荒廃していったが、1814年トーマス・ラッフルズに発見されて注目を浴びることになった。1907年になって基礎的な調査や修復が行われたが、切石の劣化や風化がひどく、1973年から10年間、国際的な援助を受けて大規模な調査や修復が行われ、今日のような姿に回復した。自然の丘を利用して盛り土をし、土を覆うように切石を積み上げて建造されたボロブドゥール寺院は、最も下に一辺約120mの基壇があり、その上に5層の方形壇(方壇)、さらにその上に3層の円形壇(円壇)があり、全体で9層の階段ピラミッド状の構造となっていて、頂上には釣り鐘型のストゥーパがそびえたつ、まさに「立体曼荼羅」ともいえる寺院。この構造は、大乗仏教の宇宙観「三界」を表しており、基壇は「欲界」、方壇は「色界」、円壇は「無色界」を示すとされている。方壇にある4つの回廊を上階へと上っていき、円壇まで登ることで、仏教への真理へ到達するという。総延長5kmにおよぶ方壇の回廊には、仏教説話にもとづいた1460面におよぶレリーフ(浮彫り彫刻)が時計回りにつづいている。仏像は、回廊の壁くぼみに432体、3段の円壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、合計で504体ある。レリーフは、その構図の巧みさ、洗練された浮彫り技法、細部表現の優雅さで知られ、仏像とともにインドのグプタ様式の影響が強く認められるとされる。ボロブドゥール寺院から東3㎞の位置にあって、堂内に安置された3体の石造仏(中央の如来倚座像は美しさで有名)で知られる「ムンドゥッ寺院」、ボロブドゥールとムンドゥッ寺院の中間地点に「パオン寺院」があり、この3つの寺院が世界遺産に登録されている。一直線に並ぶその位置から、この一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったのかと推測される。

5-⑨ アユタヤと周辺の歴史地区群 
文化遺産 タイ 1991年登録 登録基準③
● インドシナ半島を支配した国際都市の遺跡
タイの首都バンコクの北に位置し「平和な都」を意味するアユタヤは、14世紀半ばに開かれたアユタヤ朝の都として約400年の間繁栄した都市。チャオプラヤー川とその支流であるパサック川、ロップリー川の合流地点にあるアユタヤは、古くから交易で栄えていたが、アユタヤ朝は、神格化された王の絶大な権力のもと、1431年にクメール人のアンコール朝を滅ぼし、その後スコータイを併合すると、インドシナ半島中部までその勢力を伸ばした。17世紀には、アジア諸国ばかりでなくヨーロッパ諸国とも活発な交易を行って最盛期を迎えた。当時アユタヤには3つの王宮、29の要塞、375の寺院を擁し、推定人口19万人の国際都市だったという。外国人の居留区も設けられ、朱印船貿易の相手だった日本人街には、1500人以上が居住していたとされる。日本人街のリーダー、アユタヤ朝の傭兵、貿易商として活躍していたのが山田長政で、アユタヤ朝支配下のリゴール国王にまでなっている。仏教を厚く信仰した歴代の王たちは、多くの仏像や寺院を築いたが、黄金や宝石をふんだんに用いた豪華なものだったため、1767年、ビルマ軍の侵攻によってアユタヤ朝は滅び、ビルマ軍の徹底した破壊や略奪により、王宮はわずか土台を残すのみとなって、都は廃墟になってしまった。現在、世界遺産に登録されている史跡公園とその周辺には、中心寺院であり木の根に取り囲まれた仏頭が印象的な「ワット・プラ・マハータート」、アユタヤ最大規模で3基の大仏塔が美しくそびえる「ワット・プラ・シー・サンペット」、王朝時代の貴重な壁画や禁制品などの財宝が奇跡的に発見された「ワットラー・ジャブーラ」など、独特で印象的な建造物を含め、その繁栄ぶりを遺跡に知ることができる。

5-⑩ スコータイと周辺の歴史地区
文化遺産 タイ 1991年登録 登録基準①③
● タイ族初の統一国家の都
タイの首都バンコクから北へ約450kmの位置にあるスコータイ(幸福の夜明け)は、スコータイ朝の古都で、13世紀前半、クメール族に代わって台頭したタイ族が初めて統一王朝を樹立した。13世紀後半、スコータイ朝3代目ラームカムヘーン王のときに最盛期を迎え、上座部仏教が伝わると、多くの寺院が建てられ、仏教国として繁栄を見せたが、1438年に南方のアユタヤ朝に併合され、その歴史の幕を閉じた。現在、スコータイの都は、約70㎢ののスコータイ公園として保存されていて、遺跡の中心となるのは、3重の城壁に囲まれた都城。その中には初代王インタラティットが建造したスコータイ最大の寺院「ワット・マハータート」、クメール風の仏塔が並ぶ「ワット・シー・サワイ」、遺跡中最古の建造物とされる「ター・パー・デーン堂」などの仏教寺院が並んでいる。ワット・プラ・バーイ・ルアンにある、かつてタイを支配したアンコール王朝最盛期の王ジャヤヴァルマン7世を模した仏像やワット・シーチャムにある高さ14.7mにも及ぶ仏陀座像「アチャナ仏」は有名で、仏陀の歩く姿をかたどった「遊行仏」は、スコータイ美術を代表する。城壁外にも多くの寺院の遺構があり、ぼう大な数の仏像が見つかっている。また、スコータイ郊外にある、古い陶磁器(日本にも伝わった宋胡録焼)発祥の地シー・サッチャーナライ、5.8mの城壁に囲まれた軍事都市カンペーン・ペットの都市遺跡などとともに、世界遺産に登録されている。

5-⑪ アンコールの遺跡群
文化遺産 カンボジア 1992年登録 登録基準①②③④
● アンコール朝の栄華を伝える聖なる遺構
カンボジア北西部に広がる熱帯雨林に囲まれた「アンコールの遺跡群」は、12世紀前半にアンコール朝のスールヤヴァルマン2世が建築を開始したアンコール・ワットや、1181年に王位についたジャヤヴァルマン7世が着工したアンコール・トムに代表される都市遺跡。802年ころクメール人が興して以来、アンコール朝の王は代々即位のたびに都城と寺院を造営し、自らを神格化した。9世紀後半にヤショヴァルマン1世がヤショダラプラと呼ばれた地を王都としてから、何世紀にもわたり、王の絶対的権力が反映された芸術性に富む都城や寺院などが建造されたが、1431年ころ西隣りにあったタイのアユタヤ朝に攻められアンコール朝は滅亡し、その建造物群もジャングルに打ち捨てられた。1860年に博物学者アンリ・ムオに発見されると世界の注目を集めたものの、1970年代にカンボジアの内戦が始まるとアンコールの遺跡群も破壊や崩壊の危機にさらされた。1991年に停戦し、翌年に世界遺産に登録されたものの同時に危機遺産リストにも登録された。その後、日本(上智大の石澤良昭教授がアンコール遺跡国際調査団長)などによる修復支援や保存作業が行われ、2004年に危機遺産リストから脱した。アンコール遺跡最大の寺院は、幅190mの外堀に囲まれた約2㎢の「アンコール・ワット」で、古代インドの宇宙観を表しており、中央にある高さ65mの尖塔と四方の塔の計5基は、地球の中心に位置し神々が住むとされる須弥山(しゅみせん=メール山)を具現している。アンコール・ワットの北約1.5kmにある「アンコール・トム」は、13世紀に完成した。1177年に隣国チャンバーから攻撃を受けたジャヤヴァルマン7世は、都城を幅113mの外堀で囲み、5つの門を設置するなど、アンコール・ワットより防衛力を強化しただけでなく、敷地を9㎢の王朝史上最大規模の都城とした。王が仏教を厚く信仰したことから、仏教的要素の色濃い建造物が多く、中心となる仏教寺院バイヨンには、54基の巨大な四面仏顔塔が立ち並ぶ。

5-⑫  聖地アヌラーダプラ
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準②③⑥
● スリランカ仏教発祥の聖地
スリランカ北中部のアヌラーダプラは、紀元前5世紀にシンハラ王国の最初の首都で、まさにスリランカ仏教発祥の聖地。スリランカ仏教の総本山マハーヴィハーラ寺院や、国内最古の仏塔であるトゥーパーラーマ仏塔を擁する。これらの建造物は、アショーカ王の王子マヒンダの説法で仏教に帰依したシンハラ王国7代王デナーワンピヤによって建立された。王の死後も55~75mの高さを誇るルワンウェリセーヤ仏塔、アバヤギリ仏塔、ジェタワナ仏塔の3大仏塔などが建てられた。10世紀末のチョーラ朝の侵略により衰退したが、今日では多くの巡礼者が訪れる。

5-⑬ シーギリヤの古代都市
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準②③④
● そびえる岩山に建設された天空の要塞都市
スリランカ中部のシーギリアは、480年にシンハラ王国のカッサバ1世が、およそ南北180m、東西100m、高さ200mの岩山(シーギリヤ・ロック)に建設した要塞を中心とした古代都市。弟のモッガラーナを追放し、父のダーツーセナ王を殺して王に即位したカッサバ1世は、父が計画し未完になっていたシーギリヤの城塞を完成させて移り住んだ。自らを神と称し、岩山を天上界に見立てた。岩山西側の壁には、「ジーギリア・レディ」と呼ばれる華やかな装身具を身を飾った雲の上を舞う天女たちを描いたテンペラ壁画がある。当時は500体もの天女が描かれていたといわれるが、ほとんどは雨や陽にさらされて風化し、今では岩の窪みに残る18体のみとなった。「獅子の山」を意味する岩山の頂には、王妃たちの宮殿や庭園、貯水池などを含む空中都市が造営され、北側には、高さ10mの獅子をかたどった巨大な城門が作られ、今も残る獅子の足が往時の姿を物語る。さらに麓の市街地には、当時の造園技術を結集したアジア最古といわれる「水の庭園」がある。ところが、11年後の491年、カッサバ1世は弟モッガラーナに敗れて自害した。わずか11年でシーギリアは放棄されてしまうが、その後寺院として人々の信仰を集める場所となった。そのころ訪れた参拝客が残した「落書き」は、カッサバ1世の盛衰を表現した詩ともいえるもので、685編もあり、スリランカ最古の文学作品といわれる貴重な記録となっている。こうして狂気の王の物語は、今も語り継がれている。

5-⑭ 古代都市ポロンナルワ
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準①③⑥
● スリランカ仏教芸術の傑作が集まる仏教都市
スリランカ北中部にある中世の古都ポロンナルワは、シンハラ王国2番目の都で11~13世紀に栄えた。ポロンナルワは、12世紀後半にパラークラマバーフ1世によって大改修され、交易と農業が栄えて黄金時代を迎えた。特に、灌漑設備の充実に努め、国の東部地域で乾季でも農耕可能にし、農耕と防衛の両方の目的で、首都の周囲にパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)と呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設した。また、街に城壁をめぐらせ、1000もの部屋がある7階建てのウェジャンタパーサーダ宮殿を王宮としたほか、全長13mの釈迦涅槃像・立像・座像の3体があるガル・ヴィハーラ寺院など、スリランカ仏教芸術の秀作がたくさん作られた。

5-⑮ ダンブッラの黄金寺院
文化遺産 スリランカ 1991年登録 登録基準①⑥
● 極彩色の壁画で飾られたスリランカ最大の石窟寺院
ダンブッラの黄金寺院は、スリランカ最大の都市コロンボから北東148kmにある。高さ約180mの岩山の中腹にある天然の洞窟を利用し、5つの石窟が作られた。紀元前3世紀頃から始まったと言われ、その内部は極彩色で描かれた天井画や壁画で埋め尽くされている。「黄金寺院」の名は、金箔で覆われた仏像に由来し、全長約14mの涅槃仏を含む160体以上の仏像が安置されている。またこの地域は南アジアで最大の紅水晶の鉱山や、セイロンテツボクの森林があることでも知られている。

5-⑯ 聖地キャンディ
文化遺産 スリランカ 1988年登録 登録基準④⑥
● 仏歯をまつるシンハラ朝最後の都
セイロン島の中央に位置するキャンディは、人口の7割を仏教徒が占めるスリランカ仏教の聖地であり、またシンハラ人による最後の王朝の都。キャンディには、仏陀の歯があるとされるダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)がある。伝承によれば、仏歯は4世紀にインドのカリンガ国からもたらされたとされ、シンハラ王国は、仏歯を王家の所有物として扱い、王宮内に仏歯をまつるための寺を作った。仏教を国教とするシンハラ王国だったが、11世紀以降、国内外のヒンドゥー教徒の攻撃を受けて遷都を繰り返していたが、16世紀に香辛料を求めるポルトガル人が侵入するとキャンディへ遷都し、17世紀にヴィマラ・ダルマ・スーリヤ1世により、ダラダー・マーリガーワ寺院が建立された。19世紀、スリランカがイギリスの植民地となってシンハラ王国が滅亡すると、王家が所有していた寺院と仏歯は、仏教僧団が管理することになった。現在仏歯は、1日3回、1回につき10分開帳される。毎年7~9月のエサラ月には、「ペラヘラ祭」が行われ、黄金の舎利容器に収めた仏歯が、約100頭の象の背中に乗せられて、神々の象徴である武器と共に町中を練り歩き、仏教徒だけでなく、観光客の人気を集めている。仏歯は雨を呼ぶともいわれ、作物の豊作をもたらす祈願の対象でもある。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性



後半は、元上智大学学長で、アンコール遺跡国際調査団長として活躍されている石澤良昭教授が、メジャーとなるきっかけとなったというべきNHKの人気番組だった「プロジェクトX(挑戦者たち)」の『アンコールワットに誓う師弟の絆』の感動的映像を視聴しました。また、石澤良昭氏が中心となって、2009年8月から2011年1月まで全国を巡回した「世界遺産アンコールワット展」のガイドブックにある、アンコールのさまざまな仏像等を見ながら、日本の仏像とは全く違うカンボジア人(クメール人)独自の世界に感銘しました。なお、石澤良昭氏は、2017年アジアのノーベル賞ともいわれる「マグサイサイ賞」を受章しています。
(文責・酒井義夫)


「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 蕨南暢雄 文新1959年卒

2018年5月16日水曜日

第43回「参火会」5月例会 (通算407回) 2018年5月15日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第5回目 ヨーロッパ篇④ ハンガリー・チェコ・ロシア・ノルウェー・デンマーク・トルコ・ポーランド

今回は、下記資料「4-①~⑭」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した 4-①~⑭ の映像約42分を視聴した。



4-①  ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り
文化遺産 ハンガリー 1987年登録・2002年範囲拡大 登録基準②④
● ハンガリーの苦難と栄光の歴史を刻む街
ハンガリーの首都ブダペストはその美しさに定評があり、「ドナウの真珠」「ドナウのバラ」「ドナウの女王」など、それを称える異名をいくつも持っている。ドナウ川西岸のブダ地区と東岸のペスト地区からなり、もともとはブダとオーブダ、ペストの3地区の街だった。1848年にドナウ川に架けられた「くさり橋」(鋼鉄のチェーンが375mの橋を釣り下げて支えている)によって合併の機運が高まり、1873年に合併した。ブダ地区は、9世紀にこの地区に入ったマジャル人が建国したハンガリー王国の都として繁栄した。丘に建てられたブダ城は、時代とともに増改築がくりかえされた。さまざまな他民族に支配され翻弄され続けた歴史を象徴する建造物で、16世紀半ばにオスマン帝国に征服されてからは、ブダ城の一部は火薬保管庫とされ、その後火薬の爆発で潰滅的被害を受けた。17世紀後半にハプスブルク家がオスマン帝国から街を奪還すると、廃墟になっていたブダ城は、バロック様式で再建、さらに18世紀にマリア・テレジアの命で大増改築が行われた。第2次世界大戦でドイツ軍とソ連軍の戦闘で大きな被害を受けたが、戦後に修復され、今の姿になっている。ペスト地区は、国会議事堂(皇妃エリザベートの努力で自治国家となった象徴として建築がはじまり、20年後の1904年に完成)や官公庁が立ち並ぶ。1872年にはアンドラーシ通りが敷設され、ハンガリー建国千年祭が開かれた1896年には、この通りの下にヨーロッパ大陸初の地下鉄が開通した。

4-② プラハ歴史地区
文化遺産 チェコ 1992年登録 登録基準②④⑥
● 「黄金のプラハ」と呼ばれた東欧・中欧のモデル都市
チェコの首都プラハは、たくさんの歴史的建造物により、「黄金の街」「魔法の都市」「建築博物館」などと称えられ、世界でもっとも美しい街の一つに数えられている。1000年以上の歴史を誇る街並みにはロマネスク、ゴシック、ルネサンスからロココ、アール・ヌーヴォーまで、あらゆる建築様式が混在し、カフカ、リルケ、ドヴォルザーク、スメタナらを輩出し、モーツァルト、シューベルト、ミュシャらが愛した街だけに、ゆかりの文化財も数多い。6世紀後半、スラブ民族がモルダウ川の岸辺に集落をつくり、7世紀に丘の上に砦を築いたのが起源で、880年ころモルダウ川左岸にプラハ城の前身となる城塞が築かれ、900年にこの川の右岸にヴィシェフラト城が建造されると、2つの城にはさまれた区域に人口が集中。973年に司教座がプラハに設置されると、市域は広がって人口も増加し続けた。14世紀半ば、ボヘミヤ王のカレル1世が神聖ローマ帝国カール4世として即位すると、プラハは帝国の首都となった。カール4世は、帝都にふさわしい都市とするためにイタリアやドイツから高名な芸術家を招へいしたり、1348年からプラハ旧市街の隣に新市街の建設をはじめると、プラハは人口5万人面積7.6㎢におよぶ中央ヨーロッパ随一の都市へと成長した。しかし、15世紀初頭、教会の規律の乱れを危惧するプラハ大学教授のヤン・フスが教皇を批判して火刑に処されると、この処置に抗議するフス派と、神聖ローマ皇帝やカトリック教会との間に「フス戦争」がおこり、プラハは戦乱の舞台となって、戦争終結後も混乱がつづいた。16世紀からハプスブルク家が国王になると、少しずつカトリック化が進み、ルネサンス風の建物も登場した。17世紀前半にはプロテスタントが反乱をおこして三十年戦争のきっかけをつくったが、皇帝軍の前に敗退し、本格的にカトリック化が進んだ。現在プラハには3670もの建造物があるが、そのうちの1500余りが、歴史的・文化的価値があると認められている。なかでも『プラハ城(聖ヴィート大聖堂)(聖イジー聖堂)』『カレル橋』『ストラホフ修道院』『ティーン聖堂』『旧市庁舎(オルロイ天文時計)』は人気が高く、特に日本になじみのあるザビエルら30体もの聖人像のある全長560m・幅10m・車両通行禁止のカレル橋は、いつも大きなにぎわいをみせている。

4-③ モスクワのクレムリンと赤の広場 
文化遺産 ロシア 1990年登録 登録基準①②④⑥
● ロシアの歴史の主人公になった建造物群
ロシアの首都モスクワにある27.5万㎢の「クレムリン」(ロシア語でクレムリ「城塞」を意味する)と、クレムリンの外側に設けられた7万3千㎢の「赤の広場」は、ピョートル大帝以前のロシア帝国の宮廷や、ソビエト連邦(ソ連)から現在のロシア連邦までの動乱の歴史を刻んだシンボルともいうべき場所で、タマネギ型のドームで知られるロシア正教会の大聖堂「聖ワシリー聖堂」も赤の広場にある。
モスクワの歴史は、1147年にユーリー・ドルゴルキーがモスクワ川左岸に木造の砦を築いたのが起源とされる。1480年、過去240年間にわたるモンゴルの支配から脱却し、自らをツァーリ(皇帝)と称したイワン3世が、14世紀半ばにつくられた城壁をいっそう強固にしようと壁と塔をレンガ造りに変えた。さらに、全長2235m、高さ最大19m、厚さ3.5~6mの城壁内に、皇帝の戴冠式が行われてきた「ウスペンスキー大聖堂」をはじめ、グラノヴィータヤ宮殿などを建て、現在みられるクレムリンの原型をこしらえた。クレムリンには、20の城門があり、城壁内には多くの塔(最大の塔は80m)など、何世紀にもわたって築かれたさまざまな建築物のある複合建築群となっている。三角形の城壁内の中心には周囲に聖堂が立ち並ぶサボールナヤ広場が広がり、建造物だけでなく、14~15世紀のフレスコ画、イコン、高価な写本、礼拝用具など芸術レベルの高い作品や、数々の宝物を収めたダイヤモンド庫などの見どころがある。

4-④ サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群 
文化遺産 ロシア 1990年登録 登録基準①②④⑥
● 西洋文化を採り入れたロシアの水の都
サンクト・ペテルブルクは、バロックや古典主義様式など、ヨーロッパの文化や芸術を採り入れた帝政ロシア時代の都。ロマノフ朝のピョートル大帝は、1697年3月から18か月にわたってヨーロッパ諸国を歴訪し、帰国後にロシアの西欧化を推進すると、1701年にスウェーデンとの間の北方戦争の最中にフィンランド湾奥の湿地帯に新都を建設すると発表、1703年、大帝はバルト海に開かれた港と要塞を建設した。湿地帯に都を建てることは困難をきわめたが、何万人ものトルコ人やスウェーデンとの戦争捕虜を動員して道路や水路を整備して主要な建築物の建設を進め、1712年、新都を大帝とその守護聖人ペテロにちなんで「サンクトペテルブルク(聖ペテロの町)」と名づけ、モスクワに代わる首都とした。街並は、当時のヨーロッパを模して建てられているために中世ヨーロッパの姿が今も残っている。ピョートル大帝以降では、代々の皇帝がくらした1762年に「冬宮」が完成した。現在は「エルミタージュ美術館」となって、レオナルド・ダ・ビンチの聖母子をはじめ、ラファエロ、ミケランジェロ、ルーベンス、レンブラント、ゴヤらの古典作品から、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソ、マティスら近代美術のコレクションも豊富な美術館は必見。18世紀後半にエカチェリーナ2世が即位すると、バロックに代わって古典主義様式の建物が多く作られた。

4-⑤ バイカル湖
自然遺産 ロシア 1996年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 「シベリアの真珠」と呼ばれる世界一透明度の高い湖
ロシアのシベリア南東部に位置し、三日月型の湖のバイカル湖は、2500万年の歴史と1700mの水深を持つ世界最古で最深の湖。湖底での地震で発生する化学物質や鉱物が湖水を浄化することから、世界一透明度が高く、セレンガ川、バルグジン川、上アンガラ川など336本の河川が流入するが、流出する河川は南西端に近いアンガラ川のみであるため水量が常に豊富で、世界最大の貯水量を誇る。こうした特異な環境は、豊かな生物相を育み、水生生物だけでも1500種類以上も生息し、そのうちの80%はこの湖の固有種。淡水にすむ唯一のアザラシ「バイカルアザラシ」が代表的。本格的な調査は1980年代後半に始まったばかりであり、未確認の固有種も少なくないと予想される。

4-⑥ ベルゲンのブリッゲン地区
文化遺産 ノルウェー 1979年登録 登録基準③
● ハンザ同盟で繁栄した美しい家々が立ち並ぶ港町
スカンジナビア半島の南西沿岸部にあるベルゲンは、1070年にノルウェー王オーラヴによって開かれ、海上交易で栄えた。その後ドイツの商人たちが経済の実権を握り、13世紀には、バルト海の交易を独占していたハンザ同盟の拠点の一つとなり、ブリッゲン地区は、ヨーロッパで需要の高かった干ダラ(乾燥ダラ)の取引の中心地となり、ハンザ商人の事務所・商館・宿泊地として使用されるようになった。やがて商人だけでなく職人も移り住むようになって、ノルウェー最大の港湾都市に発展していき、約400年にわたってハンザ商人たちによる支配は続いた。現在、ブリッゲン地区に立ち並ぶ奥行きのある三角屋根のカラフルな木造家屋は、1950年代に発生した火災の後に再建されたもの。1761年建造のハンザ同盟会議場のショートスチューエネや、12世紀創建のドイツ人のための聖母マリア聖堂も残っている。

4-⑦ クロンボー城
文化遺産 デンマーク 2000年登録 登録基準④
● ハムレットの舞台として名高い海峡の城
デンマークの首都コペンハーゲンから北に約30kmの、バルト海に面した海岸線にあるクロンボ―城は、デンマーク国王フレゼリク2世が16世紀に完成させた城で、海峡を渡る船から税金を徴収するために建てられた城を改修した。スウェーデンと対するエアスン海峡の幅は4kmしかなく、城には多くの大砲が備えられている。兵舎や牢屋、現在は商業海事博物館も設けられている。1629年の火災で焼失したが、再建されて現在の姿となった。しかし、1785年から1924年までは、デンマーク軍の基地司令部として利用されていたため、城内は創建当時の面影を残していない。なお、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の舞台「エルシノア城」として有名な城だが、シェイクスピア自身はこの城を訪れたことはない。城内には、シェイクスピアを記念した石版が掲げられており、毎年夏には城の中庭を使って演劇公演が行われている。

4-⑧ イスタンブール歴史地区
文化遺産 トルコ 1985年登録 登録基準①②③④
● 東西文明を結ぶアジアとヨーロッパの架け橋
トルコ北西部にある、トルコ最大の都市イスタンブールは、シルクロードの要衝という特異な立地から、ヨーロッパとオリエント両文明の交流点として世界の富が集まり、「この地を制覇するものは世界を制する」と言われるほどだった。また、キリスト教国のビザンツ帝国、イスラム教国のオスマン帝国という2大宗教の覇権争いの舞台となって1500年も大国の首都となった歴史を持つ。
このイスタンブール旧市街地区に最初の都市をつくったのは紀元前7世紀ころ、ギリシャの都市国家メガラのビザスが建設した都市と伝えられる。この植民都市は、現在トプカプ宮殿がある丘につくられ、ビザスにちなんで、ビザンティオンと命名された。この地は、三方を海に囲まれ、交易に適し軍事的価値も高かったことからその領有権をめぐって、幾度となく抗争がくりかえされた。スパルタ、アテネ、アレクサンドロス率いるマケドニア王国、ペルガモン王国、ローマ帝国と次々に支配者が代わり、2世紀末に「ビザンチウム」に改名された。さらに330年には、ローマ帝国皇帝でネロ皇帝以来禁止されてきたキリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌス1世(大帝)は、腐敗したローマに代わる首都として自身の名にちなんで「コンスタンティノポリス」(コンスタンティノープル)と改名し、従来の城壁の2km西に城壁を築き、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。395年、ローマ帝国が東西に分裂すると、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都となり、476年に西ローマ帝国が滅亡した後も繁栄。1054年にキリスト教会が東西に分裂すると、西のローマがカトリック教会の中心になったのに対し、コンスタンティノープルは、ギリシャ正教会の本拠地となった。やがて栄華をきわめたビザンツ帝国もしだいに衰退し、13世紀初頭にはローマ教皇が派遣した十字軍によりコンスタンティノープルが占領されて滅亡の危機に陥る。ビザンツ帝国の亡命政権ハイル8世が奪回するものの、かつての栄光は戻らなかった。
1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国との激しい攻防戦の末にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。コンスタンティノープルは、オスマン帝国の新首都となり、「イスタンブール」という呼称がしだいに定着していった。メフメト2世は、帝国各地からの移民を受け入れて市街の再開発を推進し、イスタンブールは首都として再び繁栄の時を迎えた。16世紀、スレイマン1世(在位1520~66年)が統治する時代に最盛期を迎え、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域まで勢力を拡大させた。後続の君主(スルタン)も17世紀末までこれを維持して隆盛を誇った。1922年に、トルコ共和国の成立に伴い、アンカラが新しい首都になったが、今でも、トルコ最大で、活気に満ちた都市であることは変わらない。世界遺産に登録されたイスタンブール旧市街があるのは、ボスポラス海峡の西岸のヨーロッパ側の地区で、無数のモスクや教会など多くの歴史的建造物が残され、東西文明の交差点だった歴史を伝えている。
必見の建築物としてはまず、メフメト2世によって15世紀半ばに建造された「トプカプ宮殿」があげられる。15世紀から19世紀半ばまで37代にわたりオスマン帝国の君主が改築を加えながら居住し執務にあたった宮殿。国の執政を裏側から操っていたのがトプカプ宮殿の中にある「ハレム」で、スルタンの寵愛を受けた妃とスルタンの母、女官や宦官が生活していた。スルタンが側近や家族、親交の深い友人と宴を開いた「スルタンの大広間」もハレム内にある。現在、宮殿は博物館として公開され、オスマン帝国の繁栄ぶりをうかがわせる貴重な品々を多数展示している。
イスタンブールの歴史的変遷を象徴する「アヤソフィア(聖なる叡智の意)」は、360年にコンスタンティヌス1世が、ローマ帝国の新首都建設の一環として建設したキリスト教の聖堂だった。しかし、2度にわたって焼失したため、現在のアヤソフィアは、537年にユスティニアス1世が南北70m・東西75m・高さ56m・中央ドーム直径31mという大聖堂に再建したもの。15世紀末にコンスタンティノープルがオスマン帝国の手に落ちると、メフメト2世はこの大聖堂をジャミイ(モスク)に改修するように命じ、聖壇にはミフラーブ(説教台)を取りつけさせ、ビザンチン文化の最高傑作といわれその象徴ともいえるキリスト・聖母マリア・ヨハネらのモザイク画を漆喰で塗り固めさせ、4本のミナレット(尖塔)を新たに建設させた。1932年、トルコ共和国初代大統領となったケマル・アタチュルクはモザイク画の復元作業を命じ、1934年アヤソフィアは、無宗教の博物館に変わった。
「地下宮殿」と呼ばれる地下空間にも注目したい。ここはビザンチン帝国時代、アヤソフィアをはじめ街に水を送るために造られた貯水池で、奥行140m・幅70mのうす暗い空間にヘレニズム時代の遺跡の柱を流用したとされる無数の大理石の柱が立ち、その足元にきれいな水をたたえた幻想的な雰囲気がただよう。水の上に歩行通路が設けられ、ぐるっと一周できるようになっているが、いちばん奥にあるギリシャ神話の怪女メデューサの首をかたどった2本の柱には驚かされる。神話によると、メデューサは巻毛の美しい娘だったが美貌を自慢して女神アテナと争ったため、巻毛はヘビに顔は怪物に変えられ、メデューサを見た者は石に変えられてしまう。ゼウスの息子ペルセウスは、アテナの盾にメデューサの顔を写し、眠るメデューサの首を切り落としたと神話は伝えている。

4-⑨ ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石群
複合遺産 トルコ 1985年登録 登録基準①③⑤⑦
● 自然が生み出した奇観とキリスト教徒を支えた岩窟聖堂
首都アンカラの南東約280km、標高1000mを超える高原地帯にあるカッパドキアは、キノコ形や尖塔形などの奇岩が林立するなかに、洞窟聖堂や洞窟修道院が点在する地域。
およそ300万年前に火山の大噴火がおこり、大量の溶岩と火山灰が一帯をおおった。これらが堆積して凝灰岩や玄武岩の層になり、長い経過のうちに軟らかい凝灰岩の部分が風雨に浸食されて奇岩の群れに姿を変えていった。紀元前4000年ころになると、削りやすい凝灰岩を利用し、一帯に洞窟住宅が作られていった。紀元前15~12世紀ごろ、古代オリエントの王国ヒッタイトの中心地として栄えた。やがて3世紀半ばにローマによるキリスト教の弾圧が始まると、キリスト教徒たちが隠れ住んで信仰を続ける地下都市となっていく。ギョレメ渓谷には約30の岩窟教会があり、36の地下都市が存在するが、現在公開されているのは4か所のみ。多くの旅行者が訪れるのは、大規模なことで知られる「カイマクル地下都市」で、20層にも積み重なった床が狭い階段でつながっており、多いときは5000人以上が暮らしていたという。台所や食糧庫、教会やワイナリーなど、長期間生活するための施設が整って都市の機能を果たしていたといわれるが、人々の困難な暮しぶりが想像できるだけに胸を打たれる。現在、カッパドキアで人気のアクティビティは、気球(バルーン)による空中散歩。年間のフライト日数と参加者は世界でも断トツに多く、世界有数の気球フライトのポイントになっている。この地特有の植物は100種を超え、動物ではオオカミや赤ギツネなどが生息し、貴重な自然遺産と文化遺産の共存が課題となっている。

4-⑩ ヒエラポリスとパムッカレ
複合遺産 トルコ 1988年登録 登録基準③④⑦
● 石灰棚の奇観と繁栄を築いていた古代都市
トルコの西部にあるパムッカレ(トルコ語で「綿の城」の意)は、幾世紀もの時を経て出来た石灰棚で、二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となり、その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の景観を作り出した。レストランやカフェを併設した「パムッカレ・テルマル」は、天然温泉(水着を着て入るのがルール)を楽しむ人たちでにぎわっている。パムッカレの近くの台地の中腹に広がるヒエラポリスは、紀元前2世紀ペルガモン王国が築き、ローマ時代に温泉保養地として栄えた古代ローマの都市。ローマ帝国時代に地震で破壊されるが、その後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。かつて1万5千人を収容したローマ劇場や、マルティリウムと呼ばれる八角形の聖堂、浴場などがヒエラポリス遺跡に残る。

4-⑪ ワルシャワ歴史地区 
文化遺産 ポーランド 1980年登録 登録基準②⑥
● 国民の熱い思いでよみがえったボーランドの首都
ポーランドの中部、ヴィワス川に面したワルシャワは、破壊と再建の歴史を歩んできた都市。統一国家ポーランドが成立したのは、10世紀後半のことで、首都がワルシャワに定められたのは1611年。ポーランドは、国土の大半が平地で天然の防壁がないため、幾度となく周辺国や他民族の侵略を受けてきた。1772年と1793年のロシア、プロイセン、オーストリア3国による「ポーランド分割」でポーランド王国は滅亡し、第1次世界大戦後に独立が認められたものの、ナチスによりドイツに併合された。抵抗組織をつくったワルシャワ市民は、1944年に蜂起するが、ナチス・ドイツの反撃により敗北。ワルシャワの85%が灰燼と化し、市民66%の85万人が犠牲となった。第2次世界大戦後に再独立すると、遷都案も出たが、国民はワルシャワ復興と完全な復元を希望し「すべてを未来のために」を合言葉に、古い図面や写真、18世紀後半の国王に仕えていたベルナルド・ペレットが描いた風景画を参考に、中世のゴシック様式から19世紀新古典主義に至る多様な様式の建築物が連なる姿に復元させた。

4-⑫ クラクフ歴史地区
文化遺産 ポーランド 1978年登録・2010年範囲変更 登録基準④
● ポーランド王国最盛期の面影を残す古都
ポーランド南部にあるクラクフは、11世紀から17世紀のワルシャワ遷都までの約600年間首都として栄えた街で、ポーランド王国の最も繁栄した時代を今に伝える。1978年、世界遺産第1号の12件の1つになったクラクフ歴史地区は、約10㎢の旧市街で、国の歴史を語る上で欠かせない歴史的建造物が点在している。かつての国王の居城だったヴァヴェル城が築かれたのは、10世紀の中頃と伝えられているが、歴代の国王によって増改築が行われた。中央ヨーロッパで第2の古い歴史を持つ教育機関ヤギェウォ大学や、中央広場にある全長100mの織物会館、聖マリア教会も残っている。

4-⑬ アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所
文化遺産 ポーランド 1979年登録 登録基準⑥
● ナチスによる虐殺の歴史を語る負の遺産
第2次世界大戦中の1940年にナチス・ドイツによってつくられたポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所は、ドイツ軍が接収したポーランド軍兵舎を改築・増築したもの。この場所が選ばれたのは、鉄道での輸送・運搬が容易で、周囲からの隔離が簡単にできるためだった。海外向けには、「善意によってユダヤ人を保護収容する」「幸福世界」などと喧伝されていたが、実際には収容者に強制的な重労働を課し、処刑する場所だった。1942年にはアウシュヴィッツの近隣に第2収容所としてビルケナウ強制収容所を完成させた。殺害された人の数は約150万人と推測されており、90%がユダヤ人だった。以前は400万人ともいわれたが、正確な数は定かではない。ユダヤ人以外には政治犯、犯罪者、精神・身体障碍者、ロマなど少数民族も28種族にもおよび、多くの人命が毒ガスによって奪われた。銃殺刑や絞首刑、過労死、栄養失調死、自殺した者もいたという。終戦間近、ドイツは大量虐殺の実態を隠すため、強制収容所の破壊を始めたが、ソ連が予想より早くポーランド国内に侵攻したため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの建物の一部は残された。終戦後の1947年、ポーランド政府は、「死の収容所」を、ナチス・ドイツの凶行を証明するモニュメントとして保存することを決定。犠牲者を悼む慰霊碑も建設された。

4-⑭ ヴィエリチカ岩塩抗 
文化遺産 ポーランド 1978年登録・2008年範囲変更 登録基準④
● 岩塩で築いた礼拝堂がある岩塩抗
ポーランドの古都クラクフ南東に位置するヴィエリチカ岩塩抗は、13世紀から本格的な採掘がはじまった岩塩採掘所。2千万年前には海だったこのあたり一帯は、地殻変動により陸地に囲まれた塩湖となり、長い年月のうちに水分が蒸発して広大な岩塩層が誕生した。10世紀末にはその存在が知られ、12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、ヴィエリチカの採掘権を独占した。14~16世紀に採掘された岩塩は、ポーランド王国の財源の1/3を占めるほどだったという。18世紀にこの地がハプスブルク家領になった後、フランツ2世が坑道内を視察するために鉄道が敷かれた。こうしてヴィエリチカは9つの層に分かれる大規模なものとなり、700年間で深さ700m以上、総延長300kmに及んだ。坑道内には、頑丈な岩塩に守られた空間が広がり、特に観光客向けの3.5kmの坑道には、歴史上や神話上のさまざまなモチーフをかたどった彫像が並んでいる。屈曲した部屋や礼拝堂が岩塩で形成され、岩塩採掘史の展示までがなされている。さながら岩塩製の地下大聖堂のごとき景観を呈している。ここも、クラクフ歴史地区と同様、世界遺産第1号の12件の1つになったが、1989年に危機遺産リストに加えられた。原因は、換気装置に問題があったためで、坑内の湿度が適切に保たれるようにしたことで、1998年に危機遺産リストから除外された。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


DVD視聴後は、半月前に中欧旅行から帰ったばかりの菅原勉氏から、チェコが一人当たりのビール消費量世界一で、この国ほどビールが安くて旨い国はないといった興味深い話や、過去にチェコの首都プラハを訪れた反畑誠一氏と深澤雅子さんが音楽との関わりを語ってくれました。後半は、「5つの世界遺産をめぐるトルコ10日間の旅」を体験して4月5日に帰国した酒井義夫が、映像にあったイスタンブール・カッパドキア・パムッカレ以外に、「トロイヤ遺跡」と「エフェソス」を番外として紹介しましたので、参考にしてください。

「番外1」トロイヤ遺跡
文化遺産 トルコ 1998年登録 登録基準②③④
● 歴史が幾重にも重なる謎多き古代都市
トルコ北西部に位置し、ヒサルルクの丘に広がるトロイヤ遺跡は、紀元前3000年から紀元500年ごろに至るまで、9つの時代(第1市~第9市)が、古い年代順に折り重なるように層をなす古代都市遺跡。
「トロイヤ」が有名なのは、紀元前8世紀に書かれたホメロスの叙事詩『イリアス』で、トロイヤ戦争の舞台として登場するためだ。この物語は、トロイヤの王子パリスが、スパルタ王妃のヘレネを奪ったところから始まる。激怒したスパルタ王メネラーオスは、兄のミケナイ王アガメムノンと組み、ギリシャ中から兵を集めてトロイヤを攻めるものの、大きな城壁に囲まれたトロイヤは、10年経っても打ち破れない。ギリシャ連合軍将軍オデュッセウスが策略をめぐらせ、攻略をあきらめたふりをして、巨大な木馬を残し撤退したとみせかける。勝利を確信したトロイヤの戦士たちは、木馬を城内に引き入れ、祝宴に酔いしれてしまう。すると木馬の中に潜んでいた50人の勇士と、引き揚げたはずのギリシャ兵がもどって急襲し、トロイヤの町は一夜のうちに全滅したというもの。
この物語は神話上の架空の話といわれていたが、ドイツの実業家シュリーマンは史実に基づくものであると確信し、私財を投じて古代都市トロイヤの発掘に執念を燃やし、1873年に「プリアモス王の宝」と呼ばれる装飾品の杯や矢じりなどを発見する。その発掘で、この遺跡が一時代のものではなく、興亡を繰り返した数時代の遺跡が折り重なるように層をなしていることが判明。遺跡の調査は今も続いているが、その後の調査で、ミケーネ文明とトロイヤ文明が同時期であること、第6市と第7市がプリマオス王のトロイヤと推定された。また、第1市から第7市までは青銅器時代、第8市はギリシャ人、第9市はローマ人が建設したとされている。

「番外2」エフェソス
文化遺産 トルコ 2015年登録 登録基準③④⑥
● 悠久の歴史を物語る世界最大級の都市遺跡
トルコ西部の港湾都市エフェソス(エフェス)は、紀元前10世紀ころから人々が定住しはじめ、やがてギリシャからイオニア人がエフェスを中心にエーゲ海沿岸に都市国家をつくり、地中海貿易の集積港として栄えた。紀元前133年にはローマ帝国の支配下に入るとアジア州の州都として最盛期を迎えた。この遺跡には、紀元後2世紀ころまでの建造物が保存状態良く立ち並んでいる。必見遺跡のいくつかをあげると、まず、群を抜く美しさを誇るのが「セルスス図書館」の遺構で、壁には知識などを象徴する4体の像が立ち、柱、梁は細部にまで精緻な装飾が施され、かつては1万冊以上もの蔵書を誇り、アレキサンドリア、ペルガモンと肩を並べる図書館だったという。2万4000人を収容した半円形の「大劇場」は、丘を背にしたすり鉢状の構造は音響効果に優れ、今もオペラやコンサートなどが催されるそうだ。「ハドリアヌス神殿」には、みごとな女神ティケとメドゥーサの彫刻が残っている。三角屋根のある水道水として利用されていた「トラヤヌスの泉」のほか、商店や売春宿まで残るメインストリートを歩くと、活気に満ちたかつての大都市の様子や人々の暮しぶりが容易に想像できる。
紀元前3世紀には、アテネのパルテノン神殿をしのぐ「アルテミス神殿」(古代の世界七不思議の1つ)がエフェスに建っており、120本のイオニア式円柱に支えられた内部には、黄金や宝石で飾られた高さ15mのエフェソスの主神で豊穣の女神「アルテミス像」が祀られていたという。(2世紀に造られた2対のアルテミス像は「エフェス考古学博物館」に所蔵されている)
なお、キリストの昇天後聖母マリアと使徒たちは、エルサレムに教会を建てて布教をはじめたものの迫害にあい、ヨハネの弟ら命を落とす者も出てきた。エルサレムから逃れる決意をしたヨハネは紀元42年頃、聖母マリアとともにエフェスに移り住み、ヨハネはこの地で福音書を記して没した「聖ヨハネ教会(墓所)」がある。また、聖母が暮していたとされる東西全長260mもの「聖母マリア教会」も残されていたが真相は不明だった。18世紀になって、あるドイツの修道女が「聖母マリアの家はエフェスの丘にある」という夢を見たということがきっかけになって、本格的な調査が行われた結果、事実であることが証明され、1961年にローマ教皇ヨハネ23世は「エフェスは聖地」という宣言をしている。
(文責・酒井義夫)


「参火会」5月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 深澤雅子   文独1977年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 蕨南暢雄 文新1959年卒

2018年4月18日水曜日

第42回「参火会」4月例会 (通算406回) 2018年4月17日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第4回目『イタリア特集』

フィレンツェの歴史地区・ローマの歴史地区・ヴァティカン市国・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と食堂にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

前月の「参火会ブログ」に記した通り、今回は、ルネサンスの先駆けとなり、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロ、ミケランジェロらの優れた才能が残した芸術作品にあふれる「花の都フィレンツェ」、フォロロマーノ・コロッセウム・パンテオン・コンスタンチヌスの凱旋門など、単独でも世界遺産に登録してもよさそうな名所旧跡の宝庫ともいえる「ローマ」、ローマ市内にあってカトリックの総本山でもある「ヴァチカン」、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と隣接する食堂に描かれたレオナルド・ダ・ビンチの最高傑作のひとつ「最後の晩餐」に焦点をあてた会とすることになった。



まずはじめに、2004年にディアゴスティーニ・ジャパンから発売された「世界遺産DVDコレクション」の第1巻「フィレンツェ・ローマ・最後の晩餐」約47分の映像を視聴したあと、酒井義夫(弟)が中心となってメンバーとの対話を行った。酒井弟は、1987年に初めてローマを訪れてヴァチカン美術館やローマの数々の遺跡に感嘆して以来、1998年と2001年の「イタリア旅行」でヴァチカンを含むローマを3度訪ねたほか、フィレンツェとミラノの「最後の晩餐」には2度対面している。先に配布した資料の該当部分を加筆し、「最後の晩餐」(番外)を書き下ろしたので、参考にして下さい。

3-② フィレンツェの歴史地区
文化遺産 イタリア 1982年登録 登録基準①②③④⑥
● ルネサンスが咲き誇った「花の都」
イタリア中部に位置するトスカーナ地方のアルノ河畔に広がるフィレンツェは、14世紀末から17世紀にかけてルネサンスの中心となった商業都市。12世紀に自治都市(コムーネ)宣言をし、中世に毛織物業や金融業で栄え、14世紀初頭には13万人を擁する大都市に成長した。その中で台頭したメディチ家は、メディチ銀行を拡大させ、莫大な財を蓄えた。15世紀半ばには [コジモ・メディチ] が実質的に市政の支配権を握り、以後300年にわたってフィレンツェを支配した。市民の信望をえて、のちに「祖国の父」という称号を与えられたコジモは、市の税収の半分を負担し、図書館などの公共施設を建設、プラトン・アカデミーを設立して古典研究を奨励するとともに、ルネサンス芸術家を庇護した。フィレンツェの街でひときわ目を引く「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は、コジモの援助によって建設されたルネサンス様式の建物である。ほかにコジモはヨーロッパ初の孤児院やメディチ・リッカルディ宮なども建設した。つづくコジモの孫の [ロレンツォ・メディチ] は、他都市と巧みに均衡をはかって外交を安定させ、「春(プリマベーラ)」「ビーナスの誕生」で知られる画家のボッティチェリ、「モナリザ」の作者で学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家を支援した。若きミケランジェロを見出して彫刻を学ばせたのもロレンツォで、1501年に26歳のミケランジェロは、巨大な大理石から像を掘り出すという難行に挑んだ「ダビデ像」(アカデミア美術館所蔵) は、ローマ帝国以来の傑作とたたえられた。



16世紀に入ると、[コジモ1世] がトスカーナ大公となって領土を拡大し、数々の建物を改築するなどしてフィレンツェをさらなる華やかさに高めた。16世紀半ば、コジモ1世は、14世紀初めに建設されたゴシック様式の政庁舎ヴェッキオ宮を住居とし、大改築を施した。この宮殿の「五百人広間」壁面にはメディチ家を賞賛する絵で埋め尽くされている。また、メディチ家の財産はフィレンツェのものとされ、「ウフィツィ美術館」には、ボッティチェリの「春(プリマベーラ)」ほか代表作の数々、ダ・ヴィンチ「受胎告知」、ミケランジェロ「聖家族」など、世界最大級ともいえるメディチ家が収集した美術品が時代順、様式順に公開されており、「ルネサンス発祥の地・フィレンツェ」を代表する大美術館といえる。



その他、アルノ河左岸にある「ビッテ宮殿」には、ラファエロの「椅子の聖母」「ラ・ベラタ」やティツィアーノの「マグダラのマリア」などの名品がある「パラティナ画廊」のほか、磁器・銀器・馬車博物館、衣装美術館などルネサンス美術を概観できる宮殿も必見。

3-⑦ ローマの歴史地区
文化遺産 イタリア 1980年登録・1990年範囲拡大 登録基準①②③④⑥
● 長い歴史を伝える「永遠の都」
イタリア半島の中部にある首都ローマは、古代ローマ帝国の首都やキリスト教世界の中心地となった。ルネサンス以降は、芸術・文化の発信地などと地位を変えながらも、約2600年にもわたって、ヨーロッパの歴史の中で、重要な役割を果たしてきた。伝説によると、牝オオカミに育てられた双子のロムルスとレムスのうち、兄ロムルスが紀元前753年にパラティーノの丘にローマを築いたとされる。ローマの名はロムルスに因んでいる。紀元前10世紀ごろからこの地に人が住み始めると、都市国家となり紀元前509年に共和制となって、紀元前270年ころには半島全土を征圧して地中海の覇権を握った。その後政治的混乱に陥ったが、これを救ったのがカエサル(シーザー)で、紀元前46年に事実上ローマ皇帝の地位に登りつめたものの前44年に暗殺された。神格化されたシーザーの威光を利用した養子のオクタビアヌスが権力を掌握すると、紀元前27年にアウグストゥスを名のって初代皇帝となり、帝政が始まった。歴代の皇帝は、首都ローマに凱旋門、劇場、浴場、神殿、円形闘技場などを次々に建築し、現代も残る建築物群が立ち並ぶようになった。313年にはコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認すると、キリスト教文化が繁栄し、教皇の住むカトリック教会の中心地として聖堂群が建てられている。「ローマ歴史地区の主な建築物や場所」を掲げると、① フォロ・ロマーノ……「ローマ市民の広場」を意味する古代ローマの中心であり、最も重要な施設が集まっていた場所。廃墟に等しい状態とはいえ、政治的な演説や集会、祭り、皇帝たちの凱旋行進が行われた当時の道路や建物群を忠実に追うことができる。② コロッセウム……80年に完成した世界最大の円形闘技場。ヴェスバシアヌス帝が市民のための娯楽場とし、剣闘士同士の戦いや剣闘士と猛獣との格闘などの見世物が行われた。一層目がドーリア式、2層目がイオニア式、3層目がコリント式。③ パンテオン……ローマ人が信仰する「万神殿」。紀元前27年にアグリッパが建て、ハドリアネス帝が改築。ミケランジェロが「天使の設計」と絶賛する古代ローマ時代の建築当時の姿をほぼ伝える唯一ともいえる建造物。④ コンスタンチヌスの凱旋門……315年に、キリスト教を公認するきっかけとなったマクセンティウスとの戦いに勝利したことを記念して建てられたローマ最大の凱旋門で、のちのパリの凱旋門の手本となった。



⑤ スペイン広場……映画『ローマの休日』で有名になった広場。135段の階段を一番上まで登ると、ローマを一望できる。「フランス教会」(リニタ・デイ・モンティ教会)前にある18世紀の「オベリスク」も人気スポット。階段下には、低い水圧を利用したベルニーニの父ピエトロの「パルカッチャ(老いぼれ舟)の噴水」があり、飲料水としておいしいと評判。⑥ ボルゲーゼ美術館……名門貴族ボルゲーゼ家歴代のコレクションが堪能できる邸宅美術館で、バロック期の偉大な彫刻家ベルニーニの最高傑作の数々、ラファエロ「一角獣を持つ若い女性の肖像」カラヴァッジョ「果物かごをもつ少年」、ティツィアーノ「性愛と俗愛」、クラーナハ「ヴィーナスとキューピッド」などを所蔵。



⑦ トレビの泉……ローマで最も大きな噴水。肩ごしにコインを投げ入れると、またローマに戻って来られるという伝説がある。1700年代半ばにコンテストで優勝したニコラ・サルヴィの設計によるもので、想像以上の大きさのバロック様式の泉に圧倒される。⑧ カラカラ浴場……1600人が同時に入浴できるほか、劇場・運動場・庭園を含む16万㎡もの総合娯楽施設跡。そのほか、ローマには単独でも「世界遺産」登録の価値あるものが多数存在する。

3-⑧ ヴァティカン市国
文化遺産 ヴァティカン 1984年登録 登録基準①②④⑥
● 教皇庁の置かれるキリスト教世界の最重要都市



ローマ教皇を国家元首とする「ヴァティカン市国」は、面積0.44㎢、人口800人の世界最小の独立国で、カトリック教会の中枢として、国全体が世界遺産に登録された唯一の場所。サン・ピエトロ寺院の立つヴァティカンの丘は、イエス・キリストの最初の弟子といわれる聖ペテロの墓所があったとされる場所。そこに、ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教を保護したコンスタンチヌス1世の命により、バシリカ式の教会堂が建てられた。それから1000年ほど経った15世紀中頃になると、教会堂が老朽化したため、時の教皇ニコラウス5世によってより大きな聖堂への改築工事が始められた。ブラマンテを主任建築家に迎えて建築が始まるものの、技術的・資金的理由で工事は長い年月がかかり、ブラマンテの死後、ミケランジェロらに引き継がれて世界最大の「サン・ピエトロ大聖堂」が完成したのは1626年、着工から完成までに約120年後のことだった。大聖堂以外の「ヴァティカン市国の主な建築物」は次のとおり。① ヴァティカン宮殿……サン・ピエトロ大聖堂の北部に広がるこの宮殿は、1378年以降ローマ教皇の住居となっている。宮殿内部には美術館、図書館、礼拝堂など多数あり、それらを総称して「ヴァティカン美術館」といわれている。美術館として開放されている部分だけでも1400部屋にもおよび、歴代教皇のコレクションで飾られている。



② システィーナ礼拝堂……ヴァティカン美術館内の礼拝堂のひとつで、ミケランジェロの描いた天井画「創世記」や壁画「最後の審判」が特に有名。

③ ラファエロの間……ラファエロが手掛けた壁画がある4室。特に「署名の間」にあるギリシャの哲学者を描いた「アテナイの学堂」はラファエロの最高傑作とされる。



④ サン・ピエトロ広場……ベルニーニが設計した284本の円柱が広場を囲む。列柱廊の上部にある140体の聖人像もベルニーニとその弟子たちによる彫刻。⑤ オベリスク……サン・ピエトロ広場の中央に立つモニュメント。古代ローマの皇帝カリグラがエジプトから運ばせたとされる。

「番外」
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と食堂の「最後の晩餐」
文化遺産 イタリア 1980年登録 登録基準①②
● レオナルド・ダ・ヴィンチの不朽の名作が残された修道院
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院は、15世紀半ばにドメニコ会の修道院としてゴシック様式でつつましく建てられていた。これを1492年、ミラノ公ルドヴィコは、一族の霊廟にするため、ルネサンス建築の先駆者で当世一の建築家ブラマンテ(のちにヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の設計を手がけた)に命じ、ルネサンス様式による改築と拡張を図ることを決めた。ブラマンテは聖堂の北側に、修道院の景観を見渡すルネサンス様式の回廊を造り、 聖堂には、スフォルツァ家の霊廟となる 巨大な円蓋を載く内陣を新たに建設した。さらにミラノ公は1494年、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに、修道院に隣接する食堂の壁画に『最後の晩餐』の制作を依頼した。



2年後に完成した作品は、「この中に裏切り者がいる」と、イエス・キリストとその言葉に驚愕して動揺する使徒たちを描いたもので、磔刑前夜の劇的瞬間を描いた芸術史に新しい時代を開いた名作として讃えられている。当時の壁画は、漆喰を塗った壁に水で溶いた顔料で描くフレスコ画が主流で、漆喰が乾く前に一気に仕上げねばならず、作業の中断や描き直しは不可能だった。気が乗らないとすぐに仕事を中断し、熱中すれば何度でも描き直したダ・ヴィンチは、中断や描き直しができるテンペラ画法(乾いた壁に、顔料を卵などの溶剤で練った絵の具で描く)を選択した。ところが、テンペラは絵の具が壁に染み込まず、やがて湿気で剥落する運命にあった。完成してまもなく、絵には細かい亀裂が生じていたため、ダ・ヴィンチは、それを一度は塗り直したものの、ミラノを去り、以後、この絵に執着することはなかった。剥落は次第に激しくなり、50年後には絵の多くが傷んでいた。18世紀の修復家は、油彩で筆を入れ、原画を描き変えるなど強引な修復が行われ、これは美術ファンの期待を裏切るものだった。1977年に、本格的な修復活動が始まった。修復家のピニン・ブランビッラが中心になり20年以上の歳月をかけたもので、表面に付着した汚れなどの除去、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が進められたことで、後世の修復家の加筆は取り除かれ、「キリストの口が開いていた」「背景の左右の壁にある黒い部分には花模様のタペストリがかけられていた」などが 新たに判明するなど 、この執念の修復で、500年ぶりにダ・ビンチの原画が復活したといえそうだ。

会の後半は、インターカルチャークラブが制作した「世界の美術館」の『ヴァティカン美術館』を観賞した。特に、システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画『創世記』を詳しく解説した部分はとてもわかりやすく、改めてそのすばらしさに感嘆したという声や、「聖母の画家」といわれるラファエロが描いたヴァティカーノ宮・署名の間にある『アテネの学堂』の見事さを改めて知ったという声もあがった。

なお、植田康夫氏が4月8日に転移性肺がんでお亡くなりになり、11日に家族葬をされたことを、16日に「参火会」メンバー全員に次のようにメールした。

植田氏は、上智大学新聞学科を卒業後すぐに、出版界の情報紙の一つ「週刊読書人」に入社して同紙の編集に携わり、1982年から編集長を務めました。1989年に同社退社後、新聞学科の助教授、1992年から2008年まで同教授として新聞学科長を務めながら、日本出版学会会長、日本マスコミ学会理事などを歴任されました。2008年からは名誉教授のかたわら「週刊読書人」取締役編集主幹、2013年からは同社社長となって活動するかたわら、『本は世につれ。』『出版の冒険者たち。』『雑誌は見ていた。』という氏の遺書ともいうべき出版3部作を発表され、敬服しておりました。まさに植田氏は、「出版論」を学問として確立した現代日本を代表する編集者の一人として称えられる存在でしょう。そういう経歴の方が、私たち「参火会」のメンバーとして身近に接してくれたことに感謝するとともに、氏のご冥福をお祈り申し上げます。



そこで今回は会の始めに、向井昌子さんや増田道子さんが用意してくれた花束やお香、竹内光氏が用意してくれた元気なころの写真を前に、植田康夫氏の霊へ献杯させてもらった。また、植田氏が「大宅壮一東京マスコミ塾」の第1期生で、大宅壮一文庫の監事をやられていたことから、後日「大宅壮一文庫」が中心となってお別れの会が開かれる予定という最新情報を伝えた。
(文責・酒井義夫)


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒