2018年11月21日水曜日

第48回「参火会」11月例会 (通算412回) 2018年11月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第10回目   南北アメリカ篇① カナダ・アメリカ・メキシコ・グアテマラ・ペルー

今回は、下記資料「9-1~9-15」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した9-1~9-15 の映像約42分を視聴しました。




9-1  カナディアン・ロッキーの山岳公園群
自然遺産 カナダ 1984年登録1990年範囲拡大 登録基準⑦⑧
● 氷河がつくりあげた雄大な山岳地帯
カナディアン・ロッキー山脈自然公園群は、バンフ・ジャスパー・ヨーホー・クート二ーの4つの国立公園、3つの州立公園で構成されている。北米大陸西部を南北に貫くロッキー山脈が、造山活動によって地上に姿を現したのは、6000万年前のこと。連なる山々は4500kmにも及び、このうちカナダ国内に延びる2200kmの連峰が、カナデイアン・ロッキーと呼ばれ、世界遺産に登録された総面積は2万3000㎢もある。標高1000mの低山から森林限界を超える高山帯まで、多種多様な植物が自生していて、山麓には針葉樹の森が広がる。こうした森にはハイイログマやアメリカグマ、アメリカライオンなどが生息し、山岳地帯には氷の斜面や岩山の歩行を得意とするシロイワヤギなどが生息する。100万年前の氷期に、この一帯は氷河に覆われた。氷河は山々を激しく削り、解けては多くの川や滝、湖となった。カナディアンロッキーには、1万年前に終わった氷河期からの氷河が数多く残っている。また、ロッキーの宝石と言われるルイーズ湖や氷河湖のベイトリー湖など美しい湖も多くある。他にコロンビア大氷原、タカッカウ滝、ヨーホー渓谷などカナディアンロッキーは自然の宝庫だけではなく、それまで知られていなかった三葉虫など古代生物の化石が約10万個も見つかったことで、「化石の宝庫」としても知られている。特に人気があるのは、1887年にカナダ初の国立公園となった「バンフ国立公園」で、温泉の発見と鉄道ルートの完成によりカナディアン・ロッキーは、未開の土地から観光地へと大きな変貌を遂げ、カナダが誇る世界有数の景勝地・一大リゾートとなっている。

9-2  ケベック旧市街の歴史地区
文化遺産 カナダ 1985年登録 登録基準④⑥
● フランス文化が色濃く残る北米唯一の城塞都市
カナダ東部にありケベック州のケベック旧市街の歴史地区は、フランスの植民地の拠点として1608年、探検家サミュエル・ド・シャンプランが丸太づくりの砦を築いたことに始まる。当時、イギリスとフランスは北米の植民地建設をめぐって長期間小競り合いを続けていたが、この植民地獲得争いでイギリスの勝利を決定づけたのが、1759年の戦い。この年の9月、イギリスは闇夜に乗じてセント・ローレンス川からケベック郊外のアブラハム平原に軍隊を上陸させた。フランスはその陣容を見て驚き、急いで軍勢を繰り出すものの、統率がとれずに敗北。わずか15分で決着がついたこの戦いの後、ケベックは陥落した。4年後のパリ和平条約で、イギリスの植民地になったが、ケベックは約150年のフランス植民地の間に、フランス文化が色濃く残った。1774年、イギリスはケベック法をを制定し、フランス民法の効力・信仰の自由、フランス語の使用を認めた。登録された物件は、ロウワータウンにある北米最古といわれる繁華街「プチ・シャンプラン」「ロワイヤル広場」「勝利のノートルダム教会」など。アッパータウンにある旧市街のシンボルとなっている高級ホテル「シャトー・フロンテナック」「ダルム広場」「トレゾール小路」「ノートルダム聖堂」などがある。

9-3  ナハニ国立公園
自然遺産 カナダ 1978年登録 登録基準⑦⑧
● サウスナハニ川一帯に広がる壮大な自然
カナディアン・ロッキーの北、イエローナイフより約500km西方に位置するナハニ国立公園は、サウス・ナハニ川沿いに広がる。サウスナハニ川は、上流はゆったり流れるが、落差90~100m(ナイアガラの滝の2倍)もあるヴァージニア滝を過ぎると岩も削る急流となり、峡谷が連続する地帯を蛇行する圧倒的な峡谷美、標高2972mのマッキンジー山など、大スケールの大自然を具現する。公園内は、高緯度のツンドラ地帯でありながら気候は穏やかで、野性のハッカやシオンなどが自生し、硫黄分を多く含む温泉もある。車道が敷設されていないため、唯一の交通手段はカヌー(他に飛行船かヘリコプター)。人間がほとんど入れないため、ハイイログマやシロイワヤギなど野生動物の生息地になっている。また、この国立公園は、タイガ山系・タイガ平原など、カナディアン・エコゾーンに3か所が指定されている。1978年、世界自然遺産に最初に登録された12件のうちのひとつでもある。

9-4  ウッド・バッファロー国立公園
自然遺産 カナダ 1983年登録 登録基準⑦⑨⑩
● バッファローなど野生動物の保護区
カナダ北西部アルバータ州にあるウッド・バッファロー国立公園は、絶滅の危機にあったウッド・バッファローを保護する目的で設立された。1922年にグレート・スレーヴ湖の南一帯が国立公園に指定され、4年後にその面積の倍(4万4800㎢、九州よりも広い)に拡張されたことで、やはり絶滅の危機にあったアメリカシロヅルなどの動物や植物が保護されることになった。そのほか、多種多様な野生動物が生息しており、ヘラジカやアメリカグマ、オオカミ、オオヤマネコ、ヒグマ、野ウサギ、カナダヅル、シンリンバイソン、ライチョウ、大蛇などがいる。公園内は車での移動が可能、自然散策ルートを歩くこともできる。

9-5  グランド・キャニオン国立公園
自然遺産 アメリカ合衆国 1979年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 20億年もの地球の歴史が刻まれた大渓谷
アメリカ西部アリゾナ州の北部、コロラド川沿いに横たわるグランド・キャニオンは、コロラド高原がコロラド川の浸食作用と風化によってつくりだされた世界最大規模の峡谷。この一帯の土地は、今から6500万年前に発生したカイバブ・アップリフトとよばれる造山活動で隆起。約1000万年前からコロラド川の浸食により削られたり、風化がくりかえされ、約120万年前に現在の形になったと考えられている。グランド・キャニオン最大の特徴は、時代の異なる地層が幾層にも折り重なっているところで、大きく11層に分けられ、最下層は地球最古20億年前の先カンブリア紀のもので、最上部の最も新しいものでも2億5千万年前(古生代)のもの。それらの層から、植物、昆虫、陸生動物、海生動物の化石がたくさん発見されたことで、この一帯の地質形成の歴史と生物進化の過程を知ることが出来る。そんな地球の歴史を秘めている価値と、雄大な景観から1919年に、合衆国初の国立公園に指定された。いっぽう赤茶けた不毛の大地のように見えるグランド・キャニオンだが、東西450km、総面積5000㎢の登録範囲のうち、標高の高い北側では森林が広がり雪も降る。南側は標高が低く降雨量が少ない。そのため、寒帯・亜寒帯・乾燥帯など異なる気候帯の動植物が見られる。植物は1500種、鳥類が355種、哺乳類が88種、爬虫類は47種、両生類が9種、魚類が17種生育が確認されている。

9-6  メキシコ・シティ歴史地区とソチミルコ
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準②③④⑤
● アステカ帝都の上に築かれた植民都市
メキシコの首都で人口2200万を越えるアメリカ大陸最大の都市メキシコシティと、メキシコシティの行政区の一つであるソチミルコは、メキシコシティの地下に眠る古代文明の遺跡だった。南アメリカにはかつてアステカ帝国が栄えていたが、16世紀にこの地を征服したスペイン人によりその文化、建築物は全て破壊されてしまった。ところが、1978年になってアメリカ大陸最大のキリスト教建築である大聖堂の地下から偶然アステカ帝国時代に作られた石積みが見つかり、メキシコシティはアステカ帝国の遺構の上に建設された都市であることが判明した。その後の発掘で、アステカの神ケツァルコアトルの大神殿が姿を現し、失われたアステカ帝国の文化が地上に復活することとなった。謎多きアステカ帝国の首都テノチティトランは、テスココ湖内の島の上に建設されたのだが、メキシコシティの南約30kmに位置するソチミルコはその湖の一部であり、今も残るアステカ時代の農業(アシなどで作ったいかだの上に湖底の泥をのせた浮き畑)の名残りが、アステカ帝国繁栄の当時をしのばせる。国立宮殿は、アステカ帝国を征服したスペインのコルテスが自身の宮殿として建設したもので、宮殿の正面階段周辺を覆い尽くす「メキシコの歴史」と題された壁画は、現代メキシコ芸術の巨匠ディエゴ・リベラの最高傑作と称される。ベジャス・アルテス宮殿(国立芸術院)は、大聖堂と並び壮麗な建造物の筆頭に挙げられるほど美しい建造物で、外観はアールヌーボー様式、内装はアール・デコ様式に統一されており、幾何学的なデザインが目を引く。そのほか植民地時代の建物として、サントドミンゴ教会堂、支倉常長が宿泊した旧オリサバ公爵邸(タイルの家)などが残る。

9-7  テオティワカンの古代都市
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 謎に包まれた巨大建築物群
メキシコシティ北東約50kmにあるテオティワカンは、2~8世紀中ごろまで、この場所に栄えた古代都市遺跡。「メソアメリカ」というメキシコ中央・南東、中央アメリカの一部にあった高度文明を遺した先住民が建造した、世界で3番目に大きいピラミッドといわれる「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」など約600基のピラミッドや宮殿、神殿などが整然と建設されている。その民族はいまだに不明だが、紀元前2世紀前後から小集落を統合し始め、350~650年ころに最盛期を迎え、人口15万もの大都市となった。遺跡から400以上もの黒曜石の加工所が見つかっていることから、黒曜石の交易で繁栄したと推測される。そんなテオティワカンだが、8世紀の中ごろに突然文明が滅びて放棄された。この都市を14世紀に発見したアステカの人々は、あまりのスケールの大きさに人の手による建造物だとは信じられず、「神が集う場所」という意味を持つテオティワカンという名をつけ、聖地として利用した。16世紀にアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人は、この遺跡の意味を理解できずに放置したが、メキシコ独立後の1884年から発掘調査が開始されているものの、現在でも広大な都市部の大半はいまだに地中に眠っている。テオティワカンは極めて計画的に設計された都市であり、遺跡からは多数の殉教者や生け贄を捧げる風習が存在した痕跡は発見されている。古代メソアメリカにおいて死ぬことは終わりではなく、常に生と死がつながりあって回転しているという古代人の祈りや宇宙観、宗教観を伝えている。

9-8  パレンケの古代都市と国立公園
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準①②③④
● 定説をくつがえした古代マヤ文明都市
メキシコ南東部の熱帯雨林が囲む盆地に残るパレンケの遺跡は、1952年に見つかったマヤ文明の古代都市遺跡。7世紀に最盛期を迎えたマヤ文明の古代都市パレンケは、宮殿を中心とする「マヤ遺跡の典型」ともいうべき建物群だが、18世紀にスペインの宣教師により発見されるまで、その姿は密林のなかに埋もれていた。建造物の本格的な調査が始まったのは、1940年代になってからで、8㎢に及ぶパレンケの遺跡には約500もの建築物が現存している。その中で最も有名なのが「碑文の神殿」と呼ばれるピラミッドで、1949年に発見されたこの神殿の小部屋から、パレンケ王家の歴史が記されたマヤ文字の碑文が発見された。そして、1952年の調査で、神殿の地下墓室に石棺を発見した。この石棺の中に、翡翠をモザイク状につなぎあわせた仮面で顔が覆われ、首、胸、腕などもビーズ玉や翡翠の宝飾で飾られた人骨が横たわっていた。後の調査でこの人物こそ、7世紀に君臨したバカル王であることが判明した。この王墓の発見は、それまで中央アメリカで発見されたピラミッドは神殿の土台に過ぎないものと長い間考えられてきた定説をくつがえし、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こした。パレンケの発掘は今も進められているが、そのほとんどは密林の中に眠っている。それでも、遺跡や階段に刻まれた碑文が良好な状態にあることから、この都市の歴史や文化、大きな出来事などが解明されつつある。

9-9  ウシュマルの古代都市
文化遺産 メキシコ 1996年登録 登録基準①②③
● 精緻なモザイク文様に彩られた建築群
メキシコのユカタン半島北部のジャングルに囲まれた「ウシュマルの古代都市」は、マヤ文明を代表する都市遺跡の一つ。東西約600m、南北1㎞の都市で、7~10世紀ごろに繁栄し、周辺における政治・経済の中心となって、最盛期には人口が2万5000人にも達したという。マヤ文明の他の都市には見られないプウク様式による建築群の特徴は、建物は横長で平らな屋根を持ち、壁にはコンクリートが使用され、上部に精巧なモザイク装飾が見られる。約2万個の切石を用いたプウク様式の最高傑作といわれる「総督の館」、ひと晩で完成したとされる「魔法使いのピラミッド」など、15あまりの建造物が残っている。

9-10 チチェン・イツァの古代都市
文化遺産 メキシコ 1988年登録 登録基準①②③
● マヤ・トルテカ文明の重要な遺跡
メキシコのユカタン半島北部にあるチチェン・イツァは、マヤとトルテカという2つの文明が融合した遺跡。マヤ語でチチェンは「泉のほとり」、イツァは「魔法使い」を意味する。その名の通り、この古代都市はセノーテ(地下泉)の上に築かれていた。都市を形成したマヤ族のイツァ人は7世紀ころからこの地から姿を消し、10世紀初頭に、テオティワカン文明の後継ともいえるトルテカ文明の影響を受けたイツァ人の末裔が再移住して、この都市を再建した。10世紀以前の遺構が多く残る「旧チチェン」と、10世紀以後の遺構が多く残る地域は「新チチェン」と呼ばれる。その後チチェン・イツァは、13世紀ごろ別のマヤ人の都市国家マヤバンから攻撃されてイツァ人が逃亡したため、建造物ののほとんどが廃墟となった。1885年、アメリカ合衆国の領事でアマチュアの考古学者だったエドワード・トンプソンが遺構のある土地を購入。1904~11年にかけて遺跡北端にあるセノーテを調査して、数々の宝物を発見して母国へ持ち出した。第2次世界大戦後、遺跡はメキシコ政府の管轄下となり、現在はメキシコ国立人類学研究所のスタッフが学術調査をつづけている。広大なジャングルの中に戦士の神殿、天文台など、数多くの遺跡群が点在するが、なかでも中央に聳える「カスティージョ」(スペイン語で城砦)は、高さ約24m、9層からなる壮大なピラミッド。4面に配された各91の階段に最上部の神殿を加えると階段の総数は「365」となり、全体が1年を表すマヤの暦となる。カスティージョは、春分と秋分の日に起こるククルカンの降臨現象で知られる。ククルカンとは羽を持つ蛇の姿をした農耕の神。太陽が西に傾くと、階段の側壁にピラミッドの影が蛇の胴体となって浮かび上がり、階段下部のククルカンの頭像と合体し、巨大な蛇が姿を現す。さらに夏至と冬至には、ピラミッドの一面が太陽の光と影の部分に、ちょうど半々に分かれる現象も確認されている。これらの現象は、天文学の驚異的な発達を示すもので、世界標準とされる太陽暦(365.2422日)と、マヤ暦(365.2420日)を比較してもほとんど誤差がない。こうしたマヤ人の高度な天文学知識と建築技術は驚嘆に値するもので、2007年にスイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」が選定した「新・世界の七不思議」にチチェン・イツァが選ばれたのも納得できる。この遺跡には、まだまだ解明されていない現象が多くありそうだ。

9-11 ティカル国立公園
複合遺産 グアテマラ 1979年登録 登録基準①③④⑨⑩
● マヤ文明最大級の都市遺跡
グアテマラ北部、ジャングル地帯にあるティカル国立公園には、熱帯雨林地帯で栄えたマヤ文明最大の神殿遺跡が多く残されている。この地に人が定住を始めたのは紀元前11世紀ごろとされ、マヤ文明の特色が現れるのは紀元前30年ころのこと。3~6世紀にはメキシコ中央高原の大都市テオティワカンに一時征服されるなど大きな影響を受けたが、7~9世紀には、宗教・芸術・科学などに独自の発展を見せ、マヤ各都市国家と翡翠やケツァールの羽根、黒曜石などの交易を行うなど、6万人もの人々が暮すほどだった。現在までに残る約3000もの建築物の多くが、この時期に建設された。9世紀にはいるとマヤの各都市は衰退し、ティカルもその例外ではなく、50年から100年かけてゆっくりと崩壊していき、やがて廃墟になってしまった。1699年、スペイン人神父が布教から帰る途中、密林の中に迷い込んで偶然見つけたが、本格的な調査は1939年に始まり、1955年5月にグアテマラ政府はティカルを国立公園に指定したことをきっかけに、エドウィン・シュック率いるペンシルベニア大学による大規模発掘が開始された。今もグアテマラ考古研究所による発掘が継続されているが、発掘されたのは全体のごく一部分にすぎない。ティカルの中央部にある1号神殿は高さ47mのピラミッド状の建築物で、古典期マヤを代表する建築物。最上部の神殿入口でジャガーの彫刻が発見されたために「大ジャガーの神殿」とも呼ばれ、ア・カカウ王の墓や埋葬品が発見された。その向かいの2号神殿との間の南北に中央アクロポリスと北アクロポリスがあり、多数の建築物がひしめきあっている。西には高さ65mの4号神殿、南東の6号神殿があり、東西に2つ並んだツイン・ピラミッド7つ複合体は、マヤ文明を解明する上で、重要な遺跡と考えられている。また、周囲の森林や生態系も重要で、保護の必要性が認められ、自然遺産の価値を含む複合遺産とされた。

9-12 クスコの市街
文化遺産 ペルー 1983年登録 登録基準③④
● インカ文明とキリスト教文化が交錯する都市
ペルー南部、アンデス山脈の東山脈と中央山脈の谷間標高3400mにあるクスコの市街は、インカ帝国の首都として栄えた歴史のある都市。クスコが建設されたのは、11~12世紀で、インカ人は、13世紀ごろから周辺部族の征服を進め、15世紀の9代皇帝パチャクテク時代に絶頂期を迎えると、16世紀初頭に現在のコロンビアからチリ北部までを支配下に治めた。同時期にインカ人にとって神聖な動物だったピューマを模してクスコの市街地整備が進めれたという。インカとはケチュア語(インカの公用語)で「太陽の子」、クスコは「へそ」を意味し、クスコは宇宙の中心で、インカの皇帝は太陽神の御子とされていた。黄金に彩られた宮殿や神殿が立ち並ぶクスコの街は人口1200万、南北5000kmに及ぶ大帝国の首都として栄華を極めた。しかし、1533年、スペインのフランシスコ・ピサロがこの地を占領し、インカ帝国は破滅する。征服者たちはインカの神々に捧げられた黄金を略奪し、宮殿や神殿を破壊した。しかし、インカの建造物はあまりにも精巧で堅牢だったため、土台部分は破壊できず、その上に数多くの教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区などを建設した。インカ帝国古来の建築方法に、スペインの影響が融合した建造物となった。クスコはアンデス地域において、スペイン植民地とキリスト教布教の中心であり、農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげでクスコは繁栄し、40万人を超える大都市として今日に至っている。「アルマス広場」は、インカ時代に戦士の広場として知られ、ピサロのクスコ征圧宣言など、重要な事件の舞台となってきた。スペイン人は、広場の周囲に今日まで残るアーケードを建設し、「大聖堂」とイエズス会の教会を意味する「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」は、どちらもこの広場に面している。

9-13 マチュ・ピチュ歴史保護区
複合遺産 ペルー 1983年登録 登録基準①③⑦⑨
● インカ帝国の面影を残す謎の空中都市
クスコの北西約70kmに位置するマチュ・ピチュは、15世紀半ばに誕生したとされるインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根にある。インカ帝国は1533年にスペイン人による征服で滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係や役割分担など、その理由はまだ明確にわかっていない。麓からは仰ぎ見ることのできない標高約2280mにあるため、スペイン人はその存在についに気づくことはなく、放棄された。1911年にアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見され、このインカの都市はようやく400年もの長い眠りから目覚めたと言われている。ウルバンバ川流域には貴重な生態系を有する密林が広がり、世界でも珍しい複合遺産の一つに数えられている。マチュピチュの都市部の総面積は約5㎢。その約半分が山の斜面を利用した段々畑で、トウモロコシやジャガイモなどの畑も開墾され、山頂近くにもかかわらず、高度な利水システムが完備されていることも注目に値する。西側の平坦な市街地には、神殿をはじめとする公共建築物や住居など200戸の石積みの建物が並び、インカ独特の精巧な石積み技術は見ごたえがある。遺跡最高点からの眺望には誰もが感嘆のため息をもらすほどの美しさ。多くの謎に包まれ、旅人のロマンをかき立てるマチュピチュ。通常の都市ではなく、王族の離宮であったという説が有力だが、確たる証拠はない。堅牢な神殿や住居をどのように建設したのか、そもそも材料となる巨石をどこから調達し、ここまでどうやって運んだのかも、未だ解明されていない。総面積326㎢におよぶ遺跡一帯は、絶滅の危機にあるアンデスイワドリやオセロット、珍獣とされるメガネグマの生息地となっている。

9-14 リマ歴史地区
文化遺産 ペルー 1988年登録1991年範囲拡大 登録基準④
● スペインによる南米支配の中心都市
ペルー中央部、リマック川南岸にあるペルーの首都リマは、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人のフランシスコ・ピサロによって1535年に築かれた。ピサロの母国マドリードがモデルになっており、アルマス広場を中心に碁盤の目状に道路が配されている。ピサロが太平洋沿岸のこの地を選んだのは、南米各地で収集した財宝を母国に運ぶのに便利だったからだったが、1541年に支配地をめぐる争いの末、この地で暗殺された。リマは、1544年にスペイン王が植民地支配を王に代わって支配する「ペルー副王領」の首都となると、南米諸国が独立するまで、スペインの南米支配の中心地として多くの重要な建築物が作られた。アルマス広場前にある大聖堂は、1535年の起工時はピサロ自身が礎石を据えたという。完成したのは1624年だが、礼拝堂は過剰なまでの装飾を施したチュリゲラ様式でつくられ、ピサロの遺骨を納める石棺が安置されている。また、南米の建築史上最高傑作といわれる美しいセビリアンタイルが貼られたサン・フランシスコ教会・修道院は、1574年に完成したものの、後に地震で損傷したため、バロック様式やキリスト教とイスラムの融合したムデハル様式で改築された。そのほか、コロニアル様式のトーレ・ダグレ邸、ペルー副王領時代の栄華を伝えるサント・ドミンゴ教会堂やラ・インキシシオン、ペルー軍の守り神で聖女メルセーが祀られたラ・メルセー教会などが見どころとなっている。この街の特徴は、数々の歴史的建造物が日常風景に渾然一体となっているところだといわれる。いくつもの教会や建物などがあるすぐ側にファーストフード店が並ぶといった不思議な光景がみられるが、その外観や看板の色は落ち着いた配色で、街の景観を壊さないような配慮がされている。

9-15 ナスカの地上絵
文化遺産 ペルー 1994年登録2016年名称変更 登録基準①③④
● 平原に描かれた巨大な地上絵
ペルー南部のナスカ川とインヘニオ川に囲まれた、乾燥した盆地状の高原や平原の地表面に描かれた巨大な幾何学図形・動植物の絵は、数々の研究にもかかわらず、考古学界にいまだに大きな謎を投げかけている。この地域は、年間降水量が10mm以下の乾燥地帯で、酸化により赤黒く変色した石の破片で表面が覆われている。地上絵は、このような石の破片を特定の場所だけ幅1m~2m、深さ20~30cm程度取り除くと、深層の酸化していない明るい黄色の岩石(沖積層)を露出させることによって「描かれて」いる。規模によってはもっと広く深い「線」で構成されている。制作年代は、およそ紀元前190~紀元後660年で、2~9世紀にこの地域で発展したナスカ文化と深い関係があったと推測されている。1939年6月のこと、ペルー政府から先インカ遺跡の依頼を受けていたアメリカの考古学者ポール・コソックが、調査に先駆けて行った空から現地視察の際、偶然にも動植物の地上絵を発見した。コソックの仕事を引き継いだドイツの女流数学者マリア・ライヘ(1903-98年)は、太平洋からアンデス山脈の約450㎢にもわたる広範囲に、約70の動植物の絵をはじめ、三角形、台形、渦巻など700本を超える幾何学的な線や図があることを発見した。さらにライヘは、小さな絵を縮尺図として比例拡大を利用して地上に描いたという仮説を掲げた。地上絵のそばから木の杭やロープが発掘されたためで、1980年代にはこの方法で地上絵を描く実験にも成功。現在この方法が、最も有力な説とされている。制作の目的については諸説あるが、「滑走路」とも呼ばれる直線図が地下水脈のありかを示し、地上絵が農耕と関連することから、農耕儀礼やこの地方の特産品である織物の制作作業団の儀礼との関係が重要視されている。世界遺産登録される十数年前、建設されたパン・アメリカン・ハイウェイが遺跡を分断したり、送電線の敷設や自動車による描線の破壊などがおこったため、ペルー政府は1977年、この地を保護地区に指定した。


会の後半は、メンバーの酒井猛夫がメキシコ・シティに7年半(1975~82年) 三菱電機の駐在員として赴任した際、フランスの牙城といわれきたメキシコ地下鉄に食い込んで1000台もの車両の売り込みに成功した話、観光ガイドにも力を入れて来訪者にソチミルコやテオティワカン他に数十回も案内して好評だったこと、日本人には好意的なメキシコ人の気質など、メキシコの魅力を語ってもらいました。
引き続き、ごく最近アフリカ南部を訪問されたメンバーの菅原勉氏に、100枚を越える写真を投射しながら、世界遺産となっているナミブ砂漠 (8000万年前に形成された世界最古の砂漠といわれ、高さ100~300mもの巨大な赤い砂丘が延々と連なる美しさは圧巻)、ケープタウン(ケープ植物区保護地域群・バスコダガマが発見した喜望峰など)、ビクトリア滝(南米のイグアス、北米のナイアガラと並ぶ世界三大瀑布の一つで、氏は三大瀑布のすべて踏破)など、その体験を語っていただきました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

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