2016年5月18日水曜日

第24回「参火会」5月例会 (通算388回) 2016年5月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」19回目  昭和37・38年 「先進国への道」





今回は、NHK制作DVD19巻目の映像──
若戸大橋開通、国産機YS11試験飛行成功、北陸トンネル開通、東京都の人口1000万人突破(世界初の1千万都市誕生)、太平洋側の諸都市に連日のスモッグで有害ガス発生、三河島二重衝突事故、京浜運河でタンカー衝突、三宅島の雄山大噴火、堀江青年がヨットで太平洋横断、F・原田がフライ級王者に、IMF8条国移行、黒四ダム完成、鶴見二重衝突事故、三池・三川鉱でガス爆発、吉展ちゃん誘拐事件、狭山事件、草加次郎事件、小さな親切運動始まる、新千円札発行、松川事件最高裁で無罪確定、吉田石松さんに無罪判決、プレオリンピック開催、大鵬6場所連続優勝、初の日米宇宙中継でケネディ暗殺を受信……など約52分を視聴し、東京オリンピックを翌年にひかえた時代を、資料を見ながら振り返りました。


 「この時代の背景」

安保・安保で日本じゅうが揺れ動いた昭和35年の前半でしたが、国民の大反発にあいながらも、新安保法案を自然成立させたことで、使命を終えた岸信介が退陣を表明。自民党総裁選に勝利した池田勇人は、鳩山・岸と続いた改憲・再軍備路線から、軽軍備・通商国家路線に切り替え、同年の年末に所得倍増計画を発表しました。

「経済成長率を年平均7.9%とし、今の国民総生産(GNP)13兆円を10年後に26兆円にします。そうすれば、今約10万円の国民所得は、倍の20万円になります。私はウソを申しません」━━この池田のスローガンは、その後長く続く、日本の高度成長の幕開きとなりました。

ただし、池田首相になってから急に高度成長がはじまったわけではなく、昭和30年ころから2年間ほどは「神武景気」といわれる好景気があり、33年は「鍋底景気」という不景気になるものの、34年ころからは「岩戸景気」といわれ、実質経済6%以上の成長をとげていました。そんな好景気を背景に、安保闘争でデモに励んだ人たちは、これからは懸命に働けば経済的利益が得られ、欧米並みの豊かな暮しができると、池田スローガンにあわせて、がむしゃらに働きはじめました。





こうして、昭和37年からの池田の高度経済成長方針は、重化学工業を中心とする工業化と都市化を本格化させ、それに必要な労働力を農村から都市へ吸引する政策を進めました。戦前の農林業の就業者が全就業者の50%以上だったのが、昭和37年には29%以下となり、その後も急速に減っていきました(昭和40年には25%)。農村の中学卒業生は「金の卵」といわれ、大企業が集団的に採用。農村の働き手の中心だった壮年男子まで都市へ出稼ぎに出かけたため、農業は、じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの「3ちゃん農業」が一般的になりました。

いっぽう目を世界に向けると、東西の冷戦が衝突しました。昭和37年10月に起こった「キューバ危機」は、世界中を震撼させました。3年前に成立したカストロの革命政府にソ連が船で核兵器を持ちこもうと、ミサイル基地をつくっていることが、空からの偵察機の航空写真で確認されたのです。もし出来てしまえば、キューバ西部からフロリダ半島まで200kmしか離れていないため、アメリカには防御の方法がありません。10月22日、ケネディ大統領は「キューバへ武器を運べぬよう、交通遮断を行う」と海上封鎖の声明をだしました。さらに、「航行中のソ連船が停船命令を拒否すれば撃沈する」といい、もしこれが起きれば核による世界戦争となり、地球滅亡の危機となります。ケネディ米大統領が、ソ連に対し「24時間以内にミサイルを撤去するか、もしくは戦争か」とせまると、フルシチョフ首相は、アメリカのキューバ不可侵を条件に、ミサイルの撤去と国連による検証を提案。ケネディが海上封鎖を解除することを言明したのは、6日後の28日のことでした。





このキューバ危機回避のあと、ケネディとフルシチョフに友好ムードが高まり、翌昭和38年8月5日に、イギリスを含めた「部分的核実験停止条約」(大気圏内、宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約)に調印をしました。これには米ソ両国とも、猛反対する人たちがたくさんいましたが、両首脳は核戦争が起こらないようお互いに協調することを誓い、冷戦状態をなんとか収める外交努力をしたことは、大いに評価されるところでしょう。

ところが、翌年の東京オリンピックの中継準備として同38年の11月22日に、日米間にテレビ宇宙中継実験放送が行われて成功したものの、その一報がなんと「ケネディ大統領暗殺」という衝撃的ニュースでした。テキサス州ダラス市内をオープンカーでパレード中、何者かに狙撃されたのでした。FBIと地元警察は、ただちにオズワルドを容疑者として逮捕するものの、2日後には容疑者も護送中に射殺され、事件の真相は不明のままとなりました。





この年に特筆されるのは、アメリカの環境汚染の危険を告発したレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が、全米のベストセラーとなったことです。この本は、春になっても鳥の声が聞かれないのはなぜ? という疑問から、DDTなどの農薬が自然を破壊している実態を4年にわたる厖大な資料の検討と調査に基づいて著したもので、大統領の科学諮問委員会もこの内容を評価して危険な農薬禁止につなげました。のちに、カーソンに刺激された作家の有吉佐和子が『沈黙の春』の日本版ともいえる『複合汚染』(1974年)を著し、ベストセラーとなっています。

高度成長の光の裏側にある影の部分として、日本でも、海や河川の汚染が問題になり、特に水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病の報道がされはじめたのもこの時代からでした。





メンバーの植田康夫氏が最近、現代の出版界を読み解く3部作の最終版「出版の冒険者たち。活字を愛した者たちのドラマ」を上梓されました。ポプラ社、二玄社、小学館、大修館書店、冨山房、暮しの手帖社、農山漁村文化協力会の7社を取材した力作で、「雑誌は見ていた。雑誌ジャーナリズムの興亡」「本は世につれ。ベストセラーはこうして生まれた」に続く完結編です。

そこで今回は、植田氏にこの本が生まれたいきさつを語っていただきました。特に、思い入れの強かったポプラ社に力点がおかれ、終戦後まもなく世田谷の4畳半の部屋で一人の青年と小学時代の恩師との出会いから生まれたこと、苦境に陥ると書店回りを積極的に行い、売り込むだけでなく市場の情報を集めて出版企画につなげたこと、図書館が整備されると聞くと図書館に参入するための本づくりをし、2002年に「総合的な学習の時間」ができるという情報から「ポプラディア」という百科事典を作りあげて大成功をおさめるなどの話を語っていただきました。



「参火会」5月例会 参加者

 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年5月2日月曜日

第23回「参火会」4月例会 (通算387回) 2016年4月19日(火) 実施

臨時会 「東日本大震災 被災地を巡って……」

2011年3月11日におこった「東日本大震災」から5年が経過しました。
この大震災は、日本人とくに東北・関東に住む私たちにとっては、一生のうちでも、最も強烈な体験であり、印象に残る大事件のひとつだったと思われます。

当日、リポートしてくださったメンバーの山本明夫氏にとっても、人一倍関心のあるテーマで、だからこそ、発生から2年半後、3年後、5年後の今回と、3度にわたって被災地の三陸・福島訪問という行動をおこされたのでしょう。

そこで今回は、会場での山本氏のリポートを再現していただきながら、特に訴えたいこと、現地を訪問しなくてはわからないこと、今後も被災地を見つめ続けることの大切さなどをつづってもらいました。





「東日本大震災 被災地を巡って……」 山本明夫氏 (71文新卒)

2011年3月11日には、私は赴任先の宮崎市にある大学研究室でテレビの国会中継を聞いていました。委員会室が大きく揺れる様子が写しだされ、緊急地震速報のチャイムが聞こえたため、急いで録画を始めました。

まず皆さんに見ていただくのが当日の津波の様子を伝える映像です(15分間)。
中継映像を見つつ鳥肌が立ち背筋が寒く震えたのを、つい最近のことのように覚えています。

次に、被災地の中で私が関心を持って訪れている女川(宮城県)、釜石(岩手県)、富岡町(福島県)の震災後の5年間の映像を見ていただきます(11分間)。





こうした被災地への訪問を続けていると、復旧・復興の様子がそれぞれの場所で違っていることがわかります。その中で、2013年秋に訪れて以来疑問に思っていることは“土地のかさ上げ”と“防潮堤”の復旧のあり方です。

ふたつとも国の取り組みはとても早いものでした。災害列島日本の政府は、こうした事態への対応に慣れているのかもしれません。しかし現地に入ってみると、「大津波被害をこれで本当に防げるのか?」という疑念が湧きあがってきました。そして、地元の人たちから話を聞くとその置かれた立場によって人さまざまな反応が返ってきます。人命を第一に思う人、生活基盤を優先する人……。

復旧を急ぐ官庁の担当者たちは、そうした人々の声を十分に聞いているのか? 多分そうではなく、過去の経験則を基に復旧工事を急いでいるのだろうと推測できるのです。

市街地再建にしても、まず道路がつき電柱が立ちます。しかし訪れるたびに移設が行われているのに気付きます。建物はすべて流されているのですから、幹線の上下水道や電気・ガスなどのインフラの整備をまず整えてから道路をつければ、掘り返しなどの二度手間が省けると思うのですが、そうはなっていません。荒涼とした土地に電柱が林立する様子は「住む人が復旧の中心に居ない」という印象を強く受けました。

防潮堤についてお話しします。国は海岸線400kmにわたって7~10mを超えるものを整備するとしています。しかし既に多くの関係者から指摘のある通り、「海沿いでありながら海の見えないところに住まうのか?」「今回も海が見えないために住民の避難が遅れた」などの問題が横たわったままになっています。

これに対して上智の卒業生でもある細川護煕さんや元横浜国大教授の宮脇昭さんなどが設立した「森の長城プロジェクト」は、震災瓦礫を海岸線に沿って高さ5m程に積み上げて盛り土をし、そこにドングリの生る常緑樹を植えて防潮堤の代わりとするものです。松などは根を横に張るため津波の直撃を受けると横に倒れてしまいますが、ドングリの生える植物の多くは根を縦に深く張るため津波の直撃を受けても倒れずにしなるようにして力を弱められると見られています。仙台市の南の岩沼市や福島県の南相馬市などで3年前に植えられた50cmほどの苗は地元の高校生や関東地方のボランティアの手入れもあり、すでに人の背丈を超えるほどに成長しています。

この森の長城は、単に津波を和らげるだけでなく公園としての役割も果たして、景観に溶け込んだ自然豊かな海辺のリクリエーションゾーンとして期待されています。こうした運動が、なぜ国の施策として実施されないのか不思議に思います。

また、女川町では浸水地域のかさ上げとともに新しい街づくりに着手しています。ここで注目するのは単なるかさ上げではなく、港から奥に向かってなだらかな傾斜地を造成したことです。日常では女川駅や商店街から海が見られますが、いざという時にはこのスロープを上って高台に避難することになります。日常性と減災対策の両立を取り入れた復興事業だと思います。かさ上げに用の土砂を削り取って出来た土地は住宅地として整備されると聞きました。

被災地を巡って感じることは、避難した人たちの帰還が進んでいないということです。地元の商業者は、なんとかして元の状態に戻したいと歯を食いしばって再建に取り組んでいるようですが、肝心の住民の減少が大きなネックとなっています。夜などは本当に「火の消えた町並み」で、被災地域の厳しさが迫ってきます。

私たち遠方の者たちには「千年に一度の未曾有の災害」を受けた人々に何ができるのか問われていると思います。さりとて妙案も出てこず、私としては被災地を巡ることによって人々の思いを聞き、声を掛けるとともに地元の旨いものをいただくことによって、多少とも力添えになるのではないかと考えており、今後も訪問を続けようと思っています。
 


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒