2018年2月21日水曜日

第40回「参火会」2月例会 (通算404回) 2018年2月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第2回目 ヨーロッパ篇② ベルギー・スイス・フランス・スウェーデン

今回は、下記資料「2-①~⑯」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」制作 2-①~⑯ の映像約42分を視聴した。



2-① ブリュッセルのグラン・プラス 
文化遺産 ベルギー 1998年登録 登録基準②④
● ギルドの繁栄を物語る壮麗な広場
ベルギーの首都ブリュッセルの旧市街にあるグラン・プラス(「大広場」の意)は、壮麗な建築物に囲まれた約110×70mの広場。その周囲には、市庁舎のほか、パン職人、ビール醸造業者、大工・家具職人、船頭のギルドハウスなど、11棟の建物が並んでいる。ヨーロッパ北部の代表的な商業都市のブリュッセルの歴史は、11世紀後半にロートリンゲン公シャルル・ド・フランスが城塞を築いたことにはじまり、ケルンとフランドル地方を結ぶ交通の要衝にあることから、12世紀ごろから交易が盛んになった。街の中心にはグラン・プラスの原型となる市場が開かれ、13~14世紀になるとブリュッセルは政治の中心となった。そのころになると、商工業が発達し、ギルド(手工業者の同業組合)が出現し、パン職人、肉屋、仕立て屋、小間物商などのギルドハウスが立ち並ぶようになった。1695年、フランスのルイ14世が7万の兵を率いてブリュッセルに激しい砲撃を加えた。この当時、グラン・プラス周辺の建物は大半が木造だったため、石造だった市庁舎以外は焼失した。しかし、ギルドの人たちの団結により、わずか4年ほどで石造の建物で再建され、現在残っているのはこの時につくられたもの。「レ・ミゼラブル」で有名な文豪ユゴーは、19世紀半ばにギルドハウスの一角で暮らしていて「世界一豪華」と賞讃し、ジャン・コクトーは「絢爛たる劇場」と称えるなど、多くの芸術家たちもこの広場に魅了されてきた。

2-② ブルージュの歴史地区 
文化遺産 ベルギー 2000年登録 登録基準②④⑥
● 毛織物業で栄えたハンザ都市の繁栄
「水の都」「北のヴェネチア」「屋根のない美術館」等、数々の異名を誇るブルージュは、13世紀後半から羊毛の輸入で繁栄した貿易都市。ヨーロッパ有数の古い街で、内陸にありながら、24kmも離れた北海といくつもの運河でむすばれている。1252年にハンザ都市となり、ヨーロッパ初となる証券取引所も誕生するなど一大商業都市となった。ところが、15世紀に水路に泥が沈殿して船の航行ができなくなり、徐々に衰退し、中世の街並みがそのまま残された。旧市街の中心にあるマルクト広場には、ハンザ都市特有の階段状の破風(はふ)がついた商館が密集し、13世紀に創建された47個のカリヨン(組み鐘)がある高さ83mの鐘楼は、「ベルギーとフランスの鐘楼群」としても世界遺産に登録されている。

2-③ ベルンの旧市街 
文化遺産 スイス 1983年登録 登録基準③
● 森の中にできた石造の街
スイスの首都ベルンは、12世紀後半に、この地を治めていたベルトルト・ツェーリンゲンが森を拓いて建てた街。北・東・南の三方をアーレ川に囲まれ、13~14世紀にかけて西方に拡張するが、1405年の大火で街の中心部が全焼。その後、木造だった家々は石造りに建て替えられた。1779年にこの地を訪れた文豪ゲーテは、「自分が訪ねた都市のなかで一番美しい」と書き残している。時計塔、聖ヴィセンテ大聖堂、モーゼの噴水など100以上の噴水、スイス連邦議事堂、石造のアーケードなど、見どころが満載。

2-④ パリのセーヌ河岸 
文化遺産 フランス 1991年登録 登録基準①②④
● 歴史とともに歩む芸術の都
首都パリを流れるセーヌ河岸に点在する建築物は、2000年を超える街の歴史と発展を今に伝える。パリの歴史は、紀元前3世紀にケルト系のパリシイ人が、セーヌ川に浮かぶ現在ノートルダム大聖堂のあるシテ島に住みついたことに始まる。紀元前52年ころ、ガリア遠征中のカエサル(シーザー)率いるローマ軍がこの地を攻略した後、ルテティアと呼ばれるようになった。この地は河川交通の要衝として栄え、シテ島とセーヌ左岸を中心にローマ風の都市が形成された。4世紀の中頃、ルテティアはパリに改名され、パリシイ人の人々が話していたラテン語の方言はやがて、現在のフランス語になった。6世紀の初頭、フランク王国のクローヴィスがパリを首都と定めたのを機に商業を中心に栄え、左岸だけでなく右岸も繁栄していく。12世紀には、登録物件となっているノートルダム大聖堂の建設がシテ島に始まり、13世紀半ばにはステンドグラスで荘厳に飾られたサントシャベルが大聖堂の近くに完成。この他の建造物の登録物件は、シャイヨー宮、エッフェル塔、グランパレ、オルセー美術館、ルーヴル美術館などがある。

2-⑤ ヴェルサイユ宮殿と庭園 
文化遺産 フランス 1979年登録・2007年範囲変更 登録基準①②⑥
● フランス絶対王政を象徴する宮殿
パリから南西約20kmにあるヴェルサイユ宮殿は、1661年にフランスのルイ14世が建造を命じた壮麗な王宮で、1661年にほぼ完成したが、その後も宮殿内外の増改築が繰り返され、すべての工事が完了したのは19世紀初頭。贅と粋を尽くした宮殿は、フランス・バロック様式建造物の最高傑作といわれ、「太陽王」といわれたルイ14世から3代にわたって続いた絶対王政を象徴する。ルイ14世の死後、15世、16世と受け継がれたが、宮廷のぜいたくな暮らしはやがて国家財政の破たんを引き起こし、フランス革命の一因となって荒廃するが、ナポレオン一世によって修復が施され、1989年には、フランス文化省により大規模な改築が行われた。宮殿の中でもひときわ目を引くのは、全長73m・幅10mの「鏡の間」で、庭園に面するアーチ型の17の窓と対峙する壁面には17の鏡が埋め込まれている。花壇が幾何学的に配置された庭園は、十字型の大運河を中心に放射線状の小道、円形・半円形の泉水や花壇で構成され、フランス庭園の典型といわれ、その構図はヨーロッパ各国の造園に大きな影響を与えた。

2-⑥ フォンテーヌブローの宮殿と庭園 
文化遺産 フランス 1981年登録 登録基準②⑥
● ナポレオン1世によって復元されたフランス初のルネサンス宮殿
パリの南東にあるフォンテーヌブロー宮殿は、16世紀にフランソワ1世によって建造されたルネサンス様式の宮殿。この一帯に広がる森は王室の狩猟場として使われ、狩猟用の館が置かれていた。イタリア遠征中にルネサンス美術に魅了されたフランソワ1世は、「新しいローマ」の建設をめざして、この狩猟小屋を豪華な宮殿に改築した。内部の装飾を担当したのはイタリア人芸術家たちで、特にフィオレンティーノが手がけた「フランソワ1世の回廊」は、マニエリスム様式の傑作で、60mの回廊にはフレスコ画や漆喰装飾が施され、宮殿内で最も豪華な空間といわれている。また、宮殿最大の部屋になるのが、フランソワ1世の息子のアンリ2世の代にプリマティッチオが完成させた「舞踏の間」で、かつてはこの部屋で毎晩のように舞踏会が催おされた。宮殿や周囲に広がる庭園は、フランス革命の余波を受けて荒廃したが、19世紀にナポレオン1世によって修復され、以前の美しい姿を取り戻した。

2-⑦ モン・サン・ミシェルとその湾
文化遺産 フランス 1976年登録 登録基準①③⑥
● 海に浮かぶ「聖なる山」に築かれた神秘の修道院
ノルマンディー地方にあるモン・サン・ミシェル湾の海岸から約5kmの位置に浮かぶモン・サン・ミシェルは、修道院などの建物が立ち並ぶ「聖なる山」とあがめられる岩山。カトリックの巡礼地のひとつで「西洋の驚異」と称されている。伝説によると708年にこの地に住む司教オベールの夢に大天使ミカエルが現れ、この岩山に聖堂を建てるよう告げた。オベールが聖堂を建てると津波が押し寄せ、岩山は一夜にして島と化したという。この湾は、潮の干満の差が激しく、モン・サン・ミシェルは干潮時には陸続きとなるが、満潮時には海中に孤立する。そのため過去には、突然襲ってくる激しい潮の流れにさらわれ、巡礼者が命をおとすこともあった。10世紀末には、ノルマンディー公リシャール1世が、この岩山にベネディクト会の修道院を創建し、12世紀後半には修道院に付属する聖堂が建造されるなど、数世紀にわたって増改築が繰り返され、山の頂に鐘塔のそびえる現在の姿になった。14世紀の百年戦争では、イングランド軍が近くの無人島を占領し、モン・サン・ミシェルに迫ったため、修道院は閉鎖され、城壁や塔が築かれ、修道院建築と要塞が融合した現在の姿が形成された。16世紀の宗教戦争の際も、旧教徒軍がモン・サン・ミシェルに立てこもり、新教徒軍の攻撃をしのいだ。16世紀以降は、岩山の斜面に巡礼者のための店や宿が作られたが次第に修道院は衰退していく。18世紀末のフランス革命の際には、修道院は監獄として使われ、修道院として復活するのは、20世紀後半のことだった。なお、19世紀の後半に、モン・サン・ミシェルと対岸のアブランシュの街を結ぶ長い防波堤が作られたため、潮の干潮にかかわらず、モン・サン・ミシェルに歩いて渡ることができるようになった。しかし、そのせいで潮の流れが変わり、砂や泥がたまって、岩山周辺の海底は100年間に3mも上昇した。そこで国家事業としてEUの協力得て、かつての姿を取り戻すべく2009年には地続きの道路が取り壊され、2014年に新たな橋が完成した。

2-⑧ (シェリー・シェル・ロワールとシャロンヌ間の)ロワール渓谷
文化遺産 フランス 2000年登録 登録基準①②④
● 美しい渓谷に王侯貴族たちが競って建てた城館群
フランス中部のロワール渓谷は、風光明媚なロワール川流域の渓谷周辺にルネサンス様式を中心とする130以上の城館が点在する。全長1000kmのロワール川のうち、シェリー・シェル・ロワールからシャロンヌに至る約200kmの流域が世界遺産に登録された。貴族たちに愛されたロワール渓谷は、芸術家をも魅了し、19世紀には文豪バルザックが『谷間の百合』など多くの作品でこの地を舞台に設定した。イギリスの画家ターナーも渓谷の美しさを繊細に表現している。とくにフランソワ1世が1519年に建設を開始したシャンボール城は、フランス・ルネサンス様式の最高傑作と讃えられていて、1981年に単独で世界遺産に登録されたが、ロワール渓谷の遺産登録に含まれることになった。

2-⑨ リヨン歴史地区
文化遺産 フランス 1988年登録 登録基準②④
● 2000年の歴史をもつ商業と文化の要衝
フランス南東部にあるリヨンは、紀元前1世紀‎にローマ人によって、ガリア3州と呼ばれた3つの地方の首都に定められたことを起源とする歴史都市。ソーヌ川西側の、石畳の街並みの残る旧市街からクロワ・ルースにかけての地区には、古代ローマ時代の遺跡や、12世紀に建てられた大聖堂、絹織物工業に関する建造物が残されている。1436年、ルイ11世国王が、自由市を開く特権をこの都市に与え、フランソワ1世がイタリアから絹を導入したことがきっかけとなって、絹織物工業が急速に発展。また同時期に活版印刷技術も導入され、フランス国内で最初にフランス語の本が出版された。

2-⑩ カルカッソンヌの歴史的城塞都市
文化遺産 フランス 1997年登録 登録基準②④
● ヨーロッパ最大の規模の城壁を誇る中世城塞都市
フランス南部、ピレネー山脈を挟んでスペインと対峙するカルカッソンヌは、堅固な二重の城壁に囲まれた中世の城塞都市。古代ローマ時代に最初の城壁の外側に、新たな城壁が作られたのは13世紀半ばのルイ9世の時代で、隣国のアラゴン王国に対する防御のためだった。しかし、1659年のピレネー条約によりスペインとの国境が確定すると、城壁の重要性は失われた。19世紀に城壁の歴史的価値が見直され、建築家ヴィオレ・ルディックによって始められた修復プロジェクトは1910年まで続いた。

2-⑪ アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教の建造物群、アヴィニョンの橋
文化遺産 フランス 1995年登録 登録基準①②④
● 教皇が君臨したかつてのカトリック世界の都
フランス南東部、ローヌ川の東岸にあるアヴィニョンは、かつて教皇庁がおかれ、カトリック世界の中心として栄えた。14世紀、時のフランス国王フィリップ4世は、教皇クレメンス5世に圧力をかけ、1309年にアヴィニョンに教皇庁を移転させ、以後1377年まで68年間にわたって教皇所在地となった。この異例の事態は「教皇のアヴィニョン捕囚」と呼ばれている。教皇庁がローマにもどるまで7人のフランス人が教皇の座についたが、アヴィニョンの街を買い取って教皇領とした4代目のクレメンス6世のころから、街に多くの学者や芸術家、貴族、文化人が移り住んだことで急速に洗練された街に変貌していく。しかし、7代目のグレゴリウス11世がローマに帰還したことで、カトリック世界の中心都市としてのアヴィニョンの歴史は一度終わるが、彼の死後ローマとアヴィニョンにそれぞれの教皇が並び立つ「教会大分裂(シスマ)」時代を迎える。この混乱は、1417年に解決したが、アヴィニョンが正式にフランス領となったのは1791年のこと。中世の城壁に囲まれたアヴィニョンには、教皇が住居としていた宮殿をはじめ、聖堂や修道院が多数残り、教皇時代に培われた自由と芸術を重んじる街の雰囲気は、毎年夏に1か月にわたって開かれる演劇祭などに受け継がれている。

2-⑫ アミアン大聖堂
文化遺産 フランス 1981年登録 登録基準①②
● ゴシック彫刻に包まれたフランス最大級の大聖堂
フランス北部にある「アミアン大聖堂」は、13世紀、アミアン大司教の命を受けて、建築家のリュザルシュらによって築かれたフランス最大級の大聖堂。旧大聖堂が火事で焼失したため、1220年に建設が開始され、1288年に主要部分がほぼ完成した。均整の取れた設計で、13世紀に最盛期を迎えたゴシック様式建築の中でも最高峰といわれている。聖堂正面の中央扉口付近をはじめ、聖堂内外に施された彫刻も高く評価されている。

2-⑬ ランスのノートルダム大聖堂ほか
文化遺産 フランス 1991年登録 登録基準①②⑥
● フランク王国の宗教史を残す宗教建築
パリの東北にあるランスの大聖堂は、496年にクローヴィスがフランク王国の国王として初めてキリスト教に改宗して以降、歴代の王の戴冠式が行われた場所。1211年に着工され、13世紀末に主要部分が完成した。聖堂の西正面部分にある2300体を超える彫刻のうち、「諸王のギャラリー」や「ランスの微笑み」と呼ばれる天使像のレリーフは傑作。近年制作された、シャガールらのステンドグラスグラスは、優れたアート作品として注目されている。「サン・レミ修道院」「トー宮」が世界遺産に登録された。

2-⑭ シャルトルの大聖堂
文化遺産 フランス 1979年登録・2009年範囲変更 登録基準①②④
● ステンドグラスの美しいゴシック建築の最高峰
フランス北西部、ボース平野の小高い丘に建つ大聖堂は、13世紀初頭に完成したフランスを代表するゴシック建築。この丘は古来から聖域とされ、9世紀にシャルル2世は、聖母マリアがキリストを出産したときに身につけていたという「聖母の衣」をこの大聖堂に寄進したという。以来、数多くの巡礼者が訪れたが、11世紀にロマネスク様式の大聖堂が建てられたものの、大半を焼失したため、ゴシック様式に再建された。西正面には、ロマネスク様式の高さ106mの旧塔及びゴシック様式の高さ115mの新塔がそびえ、大聖堂のシンボルになっている。側壁のアーケードや高窓には、「シャルトルブルー」と称えられる鮮やかな青を基調に、赤や緑、黄などを加えた176ものステンドグラスがはめこまれていて、その総面積は2600㎡に及ぶ。日の光がステンドグラスを通して差し込むと、聖堂内は神秘的な青色に染まる。ステンドグラスの多くは12~13世紀に作られたもので、保存状態もよく、特に「美しき絵ガラスの聖母」は傑作と称されている。

2-⑮ ストラスブールの旧市街(通称グラン・ディル) 
文化遺産 フランス 1988年登録 登録基準①②④
● 独自の文化を育んだ「ヨーロッパの十字路」
フランス北東部の、ライン川左岸に位置するストラスブールは、紀元前12年ころ、古代ローマ軍がイル川の中州に築いた駐屯地に始まる。ストラスブールは、ドイツ語で「街道の街」を意味し、その名の通りこの街は、ローマ時代以来、人や物の行き交う交易都市として発展した。旧市街は、ロマネスクとゴシック様式の混在するノートルダム大聖堂があり、16~17世紀の街並みを残す「プティット・フランス」という一画には、ハーフティンバー様式といわれるドイツ風の木造家屋が立ち並ぶ。

2-⑯ ガンメルスタードの教会村
文化遺産 スウェーデン 1996年登録 登録基準②④⑤
● 教区民のために築かれたコテージ村
バルト海のボスニア湾最奥部地域にありルーレ川河口に位置するガンメルスタードは、15世紀ごろに石造の教会が建てられると、以来遠方から信者が訪れるようになった。宿泊施設がたくさん作られ、16世紀に入ると、47の村々からなる大規模な教区に発展した。教会を中心に放射状に伸びる道沿いには、424軒の平屋の木造コテージが並んでいる。シュルクスタードと呼ばれるこれらの家屋は、週末や宗教上の祭事にのみ用いられた住居で、現在も利用されている。当時の聖堂や木造家屋など、伝統的な建築物がよく保存されている優れた例証として評価された。2014年、「教会村」は「教会街」に名称変更された。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後、今回も前回と同じような流れで、酒井(兄)猛夫の記した「海外旅行ブログ」を基に、酒井(弟)義夫と共に補足説明を行い、メンバーとの対話などを活発に行った。

酒井兄弟がオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを訪れたのは、2012年4月12日~20日「9日間のベネルクス三国旅行」の時だった。「ベネルクス」とは、英語の「ベルギー」「ネーデルランド(オランダ)」「ルクセンブルク」3か国の頭文字をつなげた言葉で、元々は、第2次世界大戦中に、オランダとベルギーの経済対立を回避するため、ルクセンブルクが行司役となって、3国の亡命政権の間でまとまった「経済同盟」のことだった。むしろ、3国が一つの国になるべきはずだったが、ゲルマン民族でプロテスタントの勢力の強い海洋国家のオランダと、ラテン系民族でカトリック勢力の強い内陸国家のベルギー・ルクセンブルクでは、統一には至らなかった。

この3国についての人口、面積、1人当たりのGDPをご存知だろうか。まず当時の人口は、オランダ1661万人、ベルギー1071万人、ルクセンブルク51万人で、3国あわせても2783万人でしかない。この人口規模は、日本の約2割、マレーシア、北朝鮮、台湾と同程度。国土の広さでいえば、オランダが九州程度、ベルギーが四国の1.7倍、ルクセンブルクは神奈川県程度なので、3国合わせても日本の約2割しかない。ところが、1人当たりのGDP世界ランキングでは、17位の日本に対し、ルクセンブルクが1位、オランダが9位、ベルギーが16位と、3国とも日本をしのいでいる。

日本とオランダとのつながりは深く、明治以降の日本の急速な発展は、鎖国時代の「出島オランダ商館」の存在無くしては実現しないものだった。徳川家康は、オランダに興味を持って交易を許したものの、やがてカトリック教徒の領土欲を警戒しだした。そして、徳川3代将軍家光のときの1633年に鎖国を開始し、それ以降200年以上も鎖国を続けたが、幕府は「西洋への窓」をオランダだけには残した。「オランダ商館」は、1609年に「オランダ東インド会社」の出先機関として設置され、1641年に長崎港内を埋め立てた4000坪ほどの「出島」に移された。その後、8代将軍吉宗は「享保の改革」の一環として、1720年に洋書輸入の一部を解禁し、青木昆陽らにオランダ語を学ばせたことから「オランダ学」が始まった。のちに杉田玄白らによる「解体新書」発行につながった。オランダ語から日本語になった言葉には、次のようなものがある。船のマスト、外科医のメス、金属板のブリキやトタン、ガラス、カバン、ランドセル、インキ、レンズ、オルゴール、ピストル、コーヒー……など。

特にメンバーの菅原勉氏は、上智の教授になる前に2年間オランダ留学を体験したことからベネルクス3国に詳しく、徳川家康の警戒した領土欲といったものはオランダ人にはないこと、3国が一つの国になることはあり得ないこと、非英語圏でありながらオランダほど老若男女に英語が通じる国はなく、間もなく小学校に教科として英語を導入する日本は、オランダの英語教育に学ぶべきといった話は、説得力のあるものだった。

先ほどの映像にはなかったが、オランダの世界遺産のひとつ「キンデルダイクの風車群」からはじまった。

「番外」キンデルダイク・エルスハウトの風車群
文化遺産 オランダ 1997年登録 登録基準①②④
● 国土を守り人々の生活を支えた風車群



ロッテルダムの南東約20kmに位置するキンデルダイク村は、約4分の1が海抜0m以下のオランダでも、特に低い土地で、場所によっては海抜マイナス2mにも達する。そのため風車を活用した排水技術が発達した。海抜以下の土地はボルダー(干拓地)を作らなければならず、排水用の動力として風車が大活躍した。風車がもっとも活躍した19世紀半ばには、オランダ全土で約1万基が稼働したという。「キンデルダイクの風車」は、1740年ころに約100基建てられたが、蒸気機関の排水設備が登場すると、多くの風車は次々に壊され、川の両側に13基残されただけで使用されなくなった。しかし、第2次世界大戦中、蒸気機関の燃料となる石炭が不足したことから動力源として復活、戦後もいつでも稼働できる状態で保存された。キンデルダイクの風車には、今も風車守が居住し、夏の間は週に1回メンテナンスをする姿が見られる。目の前に立つと、その規模の大きさに驚かされる。普通の家の3~4階建てから、大型になると5~6階建てほどの建築物といえる。川の両側には自転車専用道路もあって、地元の人たちもたくさん集う場所でもある。その大きな目的は「釣りを楽しむこと」だという。ケチと評する人もいるが、オランダ人の質実剛健の生活の知恵が、釣りの楽しみにつながったようだ。

2-② ブルージュの歴史地区
ブルージュは、街の中を運河が縦横に走り、その上に無数の橋がかけられている。まさに橋の街という趣で、地名も現地読みをすれば「ブルッヘ」で橋のこと。この街は、12世紀から13世紀にかけて、羊毛産業が栄え、パリ、ロンドン、ローマより開けた大都会だったという。北海からつながる水路や運河を利用した交通により、西ヨーロッパ第一の貿易港となり、中世ヨーロッパの商業の中心地として繁栄した。ドイツのリューベックの建設(1158年)に伴うバルト海を中心とした北欧商業圏の商人組合組織「ハンザ同盟」の有力都市でもあった。ブルージュが衰退に向かったのは「北海とを結ぶ水路が沈泥のため浅くなり、商船の出入りが出来なくなったため」といわれているが、商業都市としての機能は喪失したものの、華々しい歴史と中世の景観を見事に保っている。ブルージュで一番のにぎわいをみせる「マルクト広場」は、おとぎ話に出てくるような小さな石造の家々や、州庁舎などの堂々とした歴史的構造物がずらりと並んでいる。そのハイライトは13世紀に創建された高さ83mもあり、47個のカリヨン(組み鐘)による音楽を奏でる鐘楼は、「ベルギーとフランスの鐘楼群」として「世界遺産」にもなっている。我々は、この広場から歩いてすぐのところにある船着場から、20人乗りの小さなボートによる約30分の「運河クルーズ」を満喫した。



運河の両側には道路がなく、クルーズから見える家々は、昔の商人の大豪邸が多く、今もホテルやレストランとして利用されているそうだ。中世そのままの景観を低い視線からながめるこのクルーズは、一生の思い出になったという人が少なくない。ブルージュはわずか12万人の街だが、大教会が9つもあるという。ミケランジェロの「聖母子像」があるのは「聖母教会」だが、ルネサンスの代表作を購入する財力がブルージュにあったことを示している。そのほかの見どころは、1181年に建てられたヨーロッパでもっとも古い「セントヨハネ病院」はそのまま「メムリンク美術館」として今も使用されている。「ベギン会修道院」は、中世の女性たちの自立を支えた女性だけが住む施設で、これまた「世界遺産」になっている。そのほか、ロマンチックな景色を見せる「愛の湖」など、この街だけでもじっくり訪れる価値はある。なお、ブルージュは、1月28日のTBS番組『世界遺産』で、「3つの世界遺産を持つ中世の国際都市」として放映されたので、ご覧になった方もあるだろう。DVDに保存したので、いつかこの会で取り上げてみたい。

2-④ パリのセーヌ河岸 
酒井兄弟が、いっしょに「フランス」訪れたのは、2006年5月14日からの「フランス大周遊10日間」だった。酒井弟は1991年9月と1999年4月に、ドイツのロマンチック街道・スイス登山鉄道ユングフラウヨッホ駅を経てパリに来ているので、パリとベルサイユ宮殿は、計3度訪れたことになる。「パリのセーヌ河岸」の世界遺産登録物件は、シュリー橋からイエナ橋までのおよそ8kmで、ノートルダム大聖堂、シャイヨー宮、エッフェル塔、グランパレ、オルセー美術館、ルーヴル美術館などがあり、今回は「ノートルダム大聖堂」「ルーヴル美術館」を取り上げてみよう。



「ノートルダム大聖堂」は、1163年にモーリス・ド・シェリー司教が着工し、2世紀半をかけて完成した初期ゴシック建築の最高傑作とされる。数々の尖塔や南塔、北塔からなり、奥行きの深い、美しい外観を誇る建造物。周りをぐるっと回って眺めるだけでもその壮大さがわかる。ここはフランス・カトリックの聖地で、ちなみにノートルダムとはフランス語で「私たちの貴婦人」つまり聖母マリアを指す。昼間でもほの暗い寺院内は、信者たちが静かに祈りをささげる神聖な場所だ。ここは、ナポレオンが戴冠式を行った聖堂でもあり、ダヴッドの名画でもよく知られている。大聖堂の前にある広場がパリの起点になっていて、パリから「××km」と表示があれば、ここからの距離になる。
「ルーヴル美術館」は、16世紀にフランソワ1世がかつて要塞だったこの場所に「ルーヴル宮」を建設したのが始まりで、1793年に国民公会の手で歴代の王たちが収集した美術品が公開されたのが「美術館」のスタートといわれている。ルーヴルに所蔵されているのは、30万点以上といわれ、古代オリエント、エジプト、ギリシャ・ローマ、彫刻、美術工芸、絵画の6部門に分かれ、常時公開されているのは、3万点程度という。それでも館内をくまなく鑑賞するには数日かかるという。「ルーヴル美術館とオルセー美術館見学のためだけで数日滞在したい」というのを将来の目標にして、この日の見学は2階の「ドノン翼」を中心に、フランス絵画、イタリア絵画、およびスペイン絵画を主体にした。「モナリザ」(ダ・ヴンチ)、「ナポレオン1世の戴冠式」(ダヴッド)、「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ)、「メデューズ号の筏」(ジェリコー)、「カナの婚宴」(ヴェロネーゼ)なども、ゆっくり見学をした。やはり、いちばん人気を集めていたのは「モナリザ」で、ルーヴル訪問者の7割の人が足を向けるという。しかし「モナリザ」は、防弾ガラスの向こうに静かにほほ笑んでいたが、ヴァチカンのサンピエトロ寺院の「ピエタ像」(ミケランジェロ)と同様、暴漢対策とはいえ一種悲しい気持ちになったのも事実。彫像の「サモタラケのニケ」を見た後、シュリー翼1階の古代ギリシャ美術品の中の「ミロのビーナス」と久しぶりにゆっくりと対面した。

「閑談休話」 「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」の勧め



歌やダンス、フレンチカンカンを組み合わせたショーや、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも知られるパリの夜の人気スポット。モンマルトルの丘にある800人も収容できるこのフレンチキャバレーへ、酒井弟は1999年5月初旬に、2004年に亡くなった妻と共に訪れた。18歳から22歳までのトップレスダンサーや歌手たちが、豪華な衣装をまとい、一流のダンスを見せるエンターテインメントショーはまさに圧巻。亡妻の感想は、「美術館では、ルーヴルよりオルセーの方が楽しかった。一番印象深かったのはどこかと聞かれれば、ムーラン・ルージュかな」でした。参考にしてみてください。

2-⑦ モン・サン・ミシェルとその湾
ここに、20年以上も続く「TBS世界遺産」のスタッフが選んだ『世界遺産ベスト101』という本がある。この地をベスト12位「舞い降りた大天使に捧げられた、海の修道院」として見開きで取り上げ、「966年に着工以来、18世紀まで増改築をくり返し、城砦や監獄、帽子工場という数奇な変遷をたどり今日に至る。また、周囲の湾が、大潮の日は干潟から水深15mになるほど干満の差が激しいことでも知られ、中世には、モン・サン・ミシェルへ行くなら遺書をしたためてから行け、といわれるほどだった。その後土手のような堤防道路の影響で、海の修道院の陸地化が懸念されたことから、2014年に新たな橋が完成。これにより、大潮の日には、海上にそびえる姿が蘇えることになった」と紹介されている。



修道院内部の見学は、一気に階段を昇り、最上階から部屋を一つひとつ見ながら降りる。王の門、西のテラス、回廊のある内庭、食堂、貴賓室、騎士の間や、人力で荷物を高所に運ぶ水車のような設備などが見ものだった。何人かのツアー仲間には、今回の旅にモン・サン・ミシェルが含まれているので参加したという人や、カメラ自慢とおぼしき仲間は理想のシャッターチャンスを探そうと張り切っていた。この旅を計画した阪急交通社は、宿泊が島内になるか、島外になるかが、大きな選択ポイントとしていたが、どちらでも構わないと考えていた我々だが、割り当てられたホテルの「ルレ・サン・ミシェル」には満足した。敬虔な信者でなければ、島外を勧める。ルレ・サン・ミシェルは、あの地の最高級ホテルで、どの部屋からも「モン・サン・ミシェル」が遠望できるようになっていた。ライトアップされた姿を長い時間楽しめたことで愛着がわき、出来たらもう一度たずねたい場所のひとつとなった。

2-⑧ (シェリー・シェル・ロワールとシャロンヌ間の)ロワール渓谷
「フランスの庭」といわれる中部ロワール地方を東西に流れるのロワール川に沿って、数々の街が栄え、その流域100kmに、風光明媚なたくさんの古城を残した。名高い古城だけでも、東からシャンボール城、シュヴェルニー城、ブロワ城、ショーモン城、シュノンソー城、アンポワーズ城、ヴィラントリー城、ユッセ城、シノン城など。いつの日かこれらの「古城めぐり」をしたいものだ。



今回の旅では、シュノンソー城の見学が実現した。15世紀、100年戦争でパリを逃れていたシャルル7世(在位1403~61年)は、戦争終結後もロワール地方に首都を置いた。孫のシャルル8世(在位1470~98年)の時代になると、国情も安定し、イタリアへ出兵するほどになる。イタリアでルネサンス最盛期の文化を目の当たりにして「城が文化水準の象徴」と見るようになった。財力のある貴族たちは「築城競争」を始め、競って装飾的な城に仕上げていく。フランソワ1世(在位1494~1547年)の時代には、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとする芸術家を海外から招へいし、シュノンソー城を建設した。城は3つの構成部分から成り立っていて、まずは、15世紀の城塞の名残でもある手前右側の「独立塔」。次は、シャンボール城よりわずかに早く建てられたシェール川岸近くの棟で、初期ルネサンス様式豊かな建築。3つ目は橋上の3層建築で、1階の壁面は橋脚に合わせて半円形にふくらませ、2階の窓に円弧の切妻ひさしを出し、3階には屋根をくりぬいた丸窓が並ぶクラシックスタイルで、「シェール川に投錨した船」にたとえられている。16世紀の創建以来、代々の城主が女性だったことから、「6人の女の城」とか「奥方の城」とも呼ばれている。なかでも有名なのが2番目の城主ディアーヌ・ド・ポアチエ(時の王アンリ2世の愛妾)で、王より20歳年上ながら衰えることのない美貌で愛を独占したといわれる。王の死後、正妻のカトリーヌ・ド・ポアチエがディアーヌを追い出し、3番目の城主となった。城を囲む2つのフランス式庭園は、ヴェルサイユ宮殿の庭園にも匹敵するほど美しいが、かつての愛憎劇を偲ばせるように、それぞれ「カトリーヌの庭」・「ディアーヌの庭」と名付けられている。

「番外」ユングフラウ・アレッチのスイスアルプス
自然遺産 スイス 2001年登録・2007年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨
● ヨーロッパ最大の氷河が横たわるアルプスの秘境



スイス南西部に広がるアルプス山脈ベルナー・アルプスにそびえるユングフラウ山(若き乙女の意)を中心とする約540㎢の地域に、ヨーロッパ最長の氷河とメンヒ、アイガーなど4000m級の名峰が連なる。多様な動植物の生態系はもちろん、その神々しいまでの山岳景観美が「アルプスの少女ハイジ」など多くの文学作品や芸術に影響を与えたという点も大いに評価され、2007年には、登録面積がそれまでの約1.5倍、ベルナーアルプス山脈がすっぽりと収まる824㎢に拡大された。交通の難所であったアルプスの美しさを最初に讃えたのは、自然回帰を唱えたロマン主義の父ジャン・ジャック=ルソー。19世紀初めのメイヤー兄弟によるユングフラウ初登頂を機にアルピニズム黄金時代の幕が切って落とされると、1811~58年にかけ、この地域の峰はほとんど登頂され、スイスアルプスは世界中の人々が訪れる一大観光地となった。ヨーロッパ最高地点(標高3454m)にある鉄道駅がユングフラウヨッホ。高速エレベーターでスフィンクス展望台に上がれば、眼前は見渡す限りの銀世界。これが、約24kmにわたって延々と続くアレッチ氷河だ。眺めるだけでは満足できない人たちは、氷河トレッキングやスキー、犬ぞりなどに興じる。懸念されるのは、地球温暖化による氷河の縮小と消滅。19世紀後半に観測がスタートしてから、大アレッチ氷河は約3kmも後退しており、その溶解スピードは加速しているという。危機感を募らせた地元自治体は、電気自動車以外の侵入を禁止するなど、エコリゾートへ向けての取り組みを進めている。

最後の10分ほどは、インターカルチャークラブ制作の『世界の美術館』(18巻)のうち、「オルセー美術館」が所蔵している名画の数々を視聴した。

(文責 酒井猛夫・酒井義夫)


「参火会」2月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 深澤雅子   文独1977年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒