2018年6月20日水曜日

第44回「参火会」6月例会 (通算408回) 2018年6月19日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第6回目 アジア篇① インド・インドネシア・タイ・カンボジア・スリランカ

今回は、下記資料「5-①~⑯」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した5-①~⑯ の映像約42分を視聴した。



5-① アジャンター石窟寺院群
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①②③⑥
● 1000年の眠りから覚めた森林の仏教石窟寺院群
ムンバイ(ポンペイ)の北東約300kmに位置する断崖にあるアジャンター石窟寺院群は、インド最古の仏教壁画が残る仏教窟。湾曲して流れるワゴーラ川河岸にあるこの石窟群は、全長600mの間に点在する大小30を数える石窟の造営年代は、紀元前2~紀元2世紀に最初の開窟が行われ(前期窟)いったん終了した。北インドの統一王朝のグプタ朝最盛期の5世紀に再開し、7世紀までつづいた(後期窟)と考えられている。この石窟群は、仏教の衰退とともに忘れ去られていたが、1819年、この地で虎狩りをしていたイギリス駐留軍の士官ジョン・スミスが、巨大な虎に襲われてワゴーラー渓谷に逃げ込んだ際、偶然見つけたことが発見の契機となった。仏教石窟には2種類あって、平地に木造か煉瓦造で建てられていた僧院(ヴィハーラ)を石窟におきかえた「ヴィハーラ窟」と、ブッダを象徴する「聖なるもの」(チャイティヤ)として仏塔などが据えられた「チャイティヤ窟」がある。アジャンターでは、9・10・19・26・29窟の5つがチャイティヤ窟で、残りはすべてヴィハーラ窟。壁画の制作には、粘土と牛糞を塗り、石灰を重ねた下地に顔料で描くテンペラ技法の一種が使われている。アジャンター石窟寺院の美術的価値は、後期窟に集中していて、第1・2・16・17窟は、入口柱や天井にミトゥナ(男女一対)像や飛天(諸仏の周囲を飛行遊泳し礼賛する天人)、蓮華や鳥獣の画像が描かれたり、レリーフ(浮彫り彫刻)として刻まれたりしている。特に第1窟に描かれた「蓮華手菩薩像」は、奈良の法隆寺にある「勢至菩薩」を連想させるもので、この石窟の仏教美術の数々は、のちに中国、中央アジア、日本にまで大きな影響を及ぼした。

5-② エローラ石窟群
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①③⑥
● 3つの宗教が共存する聖地
インド中西部、アジャンターの南西100kmの山地にあるエローラ石窟(寺院)群は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の34の石窟寺院が、南北2kmにわたって立ち並んでいる。南端の第1~12窟が7~8世紀に造営された仏経窟、その北の13~29窟が9世紀ごろまでにつくられたヒンドゥー教窟、一番北の30~34窟が9~10世紀ころにつくられたジャイナ教窟。エローラの仏教窟は、インドにある仏教窟としては最後にできたもので、「チャイティヤ窟」の第10窟の天井の高いホールに入ると、奥にあるストゥーパ(卒塔婆=釈迦の遺体・遺骨または代替物)を安置した仏教建築が目に入る。ストゥーパを背にして、仏陀座像が設置されている。ヒンドゥー教窟を代表するのは第16窟の「カイラーサ寺院」で、幅46m奥行き80m高さ34mの寺院は、ひとつの岩からできていて、鑿(のみ)と槌だけで、古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマヤナ」の世界を描いていたエローラを代表する石窟。エローラで最後の開窟を行ったのは9世紀にこの地にやってきたジャイナ教徒で、「カイラーサ寺院」に刺激されて石窟寺院をつくったが、その努力にもかかわらず未完に終わった。しかし、32窟と33窟の完成度は高い。エローラは、アジャンターと違って忘れ去られることなく、今日に至るまで常に巡礼者が集う聖地とされている。3宗教が共存する石窟群は、古代インド社会の「寛容の精神」を表す遺産といえる。

5-③ カジュラーホの寺院群
文化遺産 インド 1986年登録 登録基準①③
● 官能的な浮彫彫刻の寺院群
インド中部、首都ニューデリーから南東約500kmにある小村カジュラーホに残る寺院群は、中世インド宗教建築の粋をなす。この寺院群のほとんどは、この地を都としたチャンデーラ朝が最盛期をむかえた10~11世紀に建立されたと思われる。13世紀初頭にイスラム教徒が北インドに侵入するものの、彼らはこのころすでに辺境の地と化していたカジュラーホに興味を示さず、大寺院群はいつしか植物に覆われ、19世紀にイギリス人に再発見されるまで、忘れ去られていた。かつては85もの寺院があったといわれるが現存するのは25で、これらは西群、東群、南群に分けられる。最も多く寺院がある西群は、すべてヒンドゥー教寺院で、東群にはジャイナ教寺院が多い。カジュラーホの寺院群の中で最大のなのは、西群に建つカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院で、高さ31mにも達するシカラ(砲弾形の尖塔)と、84もの小シカラが積み重なるように上に伸びている。寺院を覆うように刻まれた緻密な彫刻群が特徴で、なかでもミトゥナ(男女1対の意)と呼ばれる性的な情景を奔放に表現した彫刻が有名。人生の神聖な一面としてその魅力をたたえるヒンドゥー教の宗教観を反映している。これらの彫刻群は、古代インドの性愛論書「カーマスートラ」の教えに基づくものと考えられる。ヒンドゥー教寺院とジャイナ教寺院による建築・彫刻による差異はほとんどみられず、豊穣祈願が込められているという説もある。



ここまで視聴したところで映像を一時停止し、上のカラー資料(「図解世界史」成美堂出版刊)により、紀元前5世紀、釈迦がインド東北部のブッダガヤで悟りを開いた「仏教」は、紀元前3世紀にマウリヤ朝第3代アショカ王により保護されてインド各地に広まった。しかし、インドには定着せず「ヒンドゥー教」に吸収されたこと。仏教は、保守派(個々の修行を重視)の「上座部仏教」(以前は「小乗仏教」といわれたが、大乗仏教側からの蔑称だったため、現在は使用されない)と、進歩派(民衆の救済を求める)の「大乗仏教」に分裂した。その後「上座部仏教」はセイロン島(スリランカ)のシンハラ王国により2000年以上も定着し、ビルマ・タイ・カンボジア・マレーシアなど東南アジアに広がっていった。「大乗仏教」は紀元1世紀ころ、シルクロードを通じ中国や朝鮮半島など東アジアに広がり、日本へは6世紀に朝鮮半島経由で伝来、中国との国交でさらに発展したことなどが解説された。

5-④ デリーのクトゥプ・ミナールとその関連施設
文化遺産 インド 1993年登録 登録基準④
● イスラムの力を誇示したモスクと塔
ニューデリーの南にある、インド初のモスクとされるクトゥプ・ミナールは、12世紀後半にデリーを征服した奴隷王朝(1206~1290年)を開いたアイバクがつくった建造物。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていて、ヒンドゥー教の寺院を破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されている。クトゥプ・ミナールは、高さ72.5m、石造5層のミナレット(モスクに付随する塔)で、今でもインドで最も高い石造建築物。その関連施設には、クトゥブ・ミナールから北に150mほど離れた場所に、未完ミナレットのアライ・ミナールがある。財政難で工事が中断し、現在は直径25mの巨大な基底部を見ることができる。完成していればクトゥブ・ミナールを超え、100mを大きく超える塔になっていたといわれる。

5-⑤ デリーのフマユーン廟
文化遺産 インド 1993年登録 登録基準②④
● ペルシア様式を導入したインド初のイスラム廟建築
デリーにあるフマユーン廟は、亡くなったムガル帝国2代皇帝フマユーンのために、王妃ハージ・ベグムが命じ、9年の歳月をかけて1570年に完成した墓廟で、王妃や王子、宮廷人ら約150人が埋葬された。このムガル帝国初期の傑作とされる建築は、後に帝国の終焉の場ともなった。1857年、イギリスの植民地支配に対しておこった「セポイの反乱」で、反乱軍側についた最後の皇帝がこの廟の中で捕えられ、インドはイギリスの支配下に置かれた。ファサード(正面)の赤砂岩の壁面に白・黒・黄の大理石がはめ込まれた中央廟が伝統的なインド様式に対し、白大理石造りの大ドームはペルシア様式で、インドとペルシアの見事な融合がみられる。周囲に広がる広大な庭園は、水路で田の字に区切られたペルシア式四分庭園(チャハル・バーグ)となっている。4つの正方形にはそれぞれ木々が植えられ、水と緑の楽園が表されている。中央にドームがある左右対称の建物は、四面どこから見ても同じ外観をしているイスラーム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルは100年後のタージ・マハルに大きな影響を与えた貴重な建築。

5-⑥ アーグラ城
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準③
● ムガル帝国の栄華を伝える赤い城
首都ニューデリーの南約200kmにあるアーグラ城は、ムガル帝国を強大な国家に発展させたムガル帝国3代皇帝アクバルが、1565年から1573年にかけて首都アーグラに建設した城塞。赤砂岩の城壁に囲まれていることから、デリーの城と同様「赤い城」とも称される。アクバル帝時代は要塞機能に重点が置かれたが、5代皇帝シャー・ジャハーン、6代皇帝アウラングゼーブによる大幅な改築がなされ、広大な敷地内に、市場、居住区といった都市機能も備える都城となった。アウラングゼーブ帝が1707年に亡くなってからは、他国の占領を受けたり、内乱の舞台になったりしたことで多くの建物が破壊されたが、20世紀に入ってからは修復が進み、現在は過去の姿をとりもどしつつある。アーグラ城は、二重の堀、二重の城壁に囲まれているが、その堅固な外部と対照的に内部は豪華。白大理石の列柱が立ち並ぶ「公的謁見の間」「私的謁見の間」、美しい「四分庭園」(チャハル・バーグ)、「真珠モスク」など3つあるモスクはすべて総大理石で、インド・イスラム建築の絢爛たる魅力を伝える。城内に現存するアクバル帝時代の唯一の建物はジャハーンギール宮殿で、ペルシア建築の特徴とヒンドゥー教の建築様式が混在している。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融合をはかるために尽力したアクバル帝の政治的意図を象徴しているといわれる。

5-⑦ タージ・マハル
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①
● インド・イスラム建築を代表する霊廟建築
インド北部アーグラにあるタージ・マハルは、17世紀、ムガル帝国の最盛期を迎えた第5代皇帝シャー・ジャハーンにより、約20年もの歳月をかけ、1631年に37歳の若さで死去した愛妃ムムターズ・マハルのために建設された総白大理石づくりの霊廟。愛する王妃を失った皇帝の悲しみは深く、国民に2年間喪に服すことを命じ、喪が明けるころ、ヤムナー川のほとりに霊廟の建設を開始した。総面積17万㎡におよぶタージ・マハルの敷地は塀で囲まれ、霊廟本体、南門、四分庭園、モスク、迎賓館などで構成されている。1辺約95m、高さ7mの基盤の上に建つ霊廟は、ドームを冠する変形八角形の建物で、幅65m高さ58mある。建物の前後左右4面にはイーワーンと呼ばれるホールが設けられている。また基盤の4隅には高さ42mのミナレット(尖塔)がそびえる。デリーのフマユーン廟をモデルにし、ムガル朝の伝統的な建築様式を踏襲したタージ・マハルだが、職人のなかにはフランスの金細工師やイタリアの宝石工もいたため、トルコ石やサファイアといった宝石が象嵌にはめこまれ、ヨーロッパのバロック様式の影響もみられる。

5-⑧ ボロブドゥール寺院遺跡群
文化遺産 インドネシア 1991年登録 登録基準①②⑥
● 密林に埋もれていた世界最大規模の仏教遺跡
ジャワ島中部、ジャカルタの北西40kmに位置するボロブドゥールの仏教寺院群は、770年ごろから820年ごろにかけて、仏教を信仰するシャイレンドラ朝によってつくられた総面積1.5万㎡世界最大規模を誇る仏教遺跡。この王朝は、100年前後しか続かず、滅亡とともにこの寺院も荒廃していったが、1814年トーマス・ラッフルズに発見されて注目を浴びることになった。1907年になって基礎的な調査や修復が行われたが、切石の劣化や風化がひどく、1973年から10年間、国際的な援助を受けて大規模な調査や修復が行われ、今日のような姿に回復した。自然の丘を利用して盛り土をし、土を覆うように切石を積み上げて建造されたボロブドゥール寺院は、最も下に一辺約120mの基壇があり、その上に5層の方形壇(方壇)、さらにその上に3層の円形壇(円壇)があり、全体で9層の階段ピラミッド状の構造となっていて、頂上には釣り鐘型のストゥーパがそびえたつ、まさに「立体曼荼羅」ともいえる寺院。この構造は、大乗仏教の宇宙観「三界」を表しており、基壇は「欲界」、方壇は「色界」、円壇は「無色界」を示すとされている。方壇にある4つの回廊を上階へと上っていき、円壇まで登ることで、仏教への真理へ到達するという。総延長5kmにおよぶ方壇の回廊には、仏教説話にもとづいた1460面におよぶレリーフ(浮彫り彫刻)が時計回りにつづいている。仏像は、回廊の壁くぼみに432体、3段の円壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、合計で504体ある。レリーフは、その構図の巧みさ、洗練された浮彫り技法、細部表現の優雅さで知られ、仏像とともにインドのグプタ様式の影響が強く認められるとされる。ボロブドゥール寺院から東3㎞の位置にあって、堂内に安置された3体の石造仏(中央の如来倚座像は美しさで有名)で知られる「ムンドゥッ寺院」、ボロブドゥールとムンドゥッ寺院の中間地点に「パオン寺院」があり、この3つの寺院が世界遺産に登録されている。一直線に並ぶその位置から、この一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったのかと推測される。

5-⑨ アユタヤと周辺の歴史地区群 
文化遺産 タイ 1991年登録 登録基準③
● インドシナ半島を支配した国際都市の遺跡
タイの首都バンコクの北に位置し「平和な都」を意味するアユタヤは、14世紀半ばに開かれたアユタヤ朝の都として約400年の間繁栄した都市。チャオプラヤー川とその支流であるパサック川、ロップリー川の合流地点にあるアユタヤは、古くから交易で栄えていたが、アユタヤ朝は、神格化された王の絶大な権力のもと、1431年にクメール人のアンコール朝を滅ぼし、その後スコータイを併合すると、インドシナ半島中部までその勢力を伸ばした。17世紀には、アジア諸国ばかりでなくヨーロッパ諸国とも活発な交易を行って最盛期を迎えた。当時アユタヤには3つの王宮、29の要塞、375の寺院を擁し、推定人口19万人の国際都市だったという。外国人の居留区も設けられ、朱印船貿易の相手だった日本人街には、1500人以上が居住していたとされる。日本人街のリーダー、アユタヤ朝の傭兵、貿易商として活躍していたのが山田長政で、アユタヤ朝支配下のリゴール国王にまでなっている。仏教を厚く信仰した歴代の王たちは、多くの仏像や寺院を築いたが、黄金や宝石をふんだんに用いた豪華なものだったため、1767年、ビルマ軍の侵攻によってアユタヤ朝は滅び、ビルマ軍の徹底した破壊や略奪により、王宮はわずか土台を残すのみとなって、都は廃墟になってしまった。現在、世界遺産に登録されている史跡公園とその周辺には、中心寺院であり木の根に取り囲まれた仏頭が印象的な「ワット・プラ・マハータート」、アユタヤ最大規模で3基の大仏塔が美しくそびえる「ワット・プラ・シー・サンペット」、王朝時代の貴重な壁画や禁制品などの財宝が奇跡的に発見された「ワットラー・ジャブーラ」など、独特で印象的な建造物を含め、その繁栄ぶりを遺跡に知ることができる。

5-⑩ スコータイと周辺の歴史地区
文化遺産 タイ 1991年登録 登録基準①③
● タイ族初の統一国家の都
タイの首都バンコクから北へ約450kmの位置にあるスコータイ(幸福の夜明け)は、スコータイ朝の古都で、13世紀前半、クメール族に代わって台頭したタイ族が初めて統一王朝を樹立した。13世紀後半、スコータイ朝3代目ラームカムヘーン王のときに最盛期を迎え、上座部仏教が伝わると、多くの寺院が建てられ、仏教国として繁栄を見せたが、1438年に南方のアユタヤ朝に併合され、その歴史の幕を閉じた。現在、スコータイの都は、約70㎢ののスコータイ公園として保存されていて、遺跡の中心となるのは、3重の城壁に囲まれた都城。その中には初代王インタラティットが建造したスコータイ最大の寺院「ワット・マハータート」、クメール風の仏塔が並ぶ「ワット・シー・サワイ」、遺跡中最古の建造物とされる「ター・パー・デーン堂」などの仏教寺院が並んでいる。ワット・プラ・バーイ・ルアンにある、かつてタイを支配したアンコール王朝最盛期の王ジャヤヴァルマン7世を模した仏像やワット・シーチャムにある高さ14.7mにも及ぶ仏陀座像「アチャナ仏」は有名で、仏陀の歩く姿をかたどった「遊行仏」は、スコータイ美術を代表する。城壁外にも多くの寺院の遺構があり、ぼう大な数の仏像が見つかっている。また、スコータイ郊外にある、古い陶磁器(日本にも伝わった宋胡録焼)発祥の地シー・サッチャーナライ、5.8mの城壁に囲まれた軍事都市カンペーン・ペットの都市遺跡などとともに、世界遺産に登録されている。

5-⑪ アンコールの遺跡群
文化遺産 カンボジア 1992年登録 登録基準①②③④
● アンコール朝の栄華を伝える聖なる遺構
カンボジア北西部に広がる熱帯雨林に囲まれた「アンコールの遺跡群」は、12世紀前半にアンコール朝のスールヤヴァルマン2世が建築を開始したアンコール・ワットや、1181年に王位についたジャヤヴァルマン7世が着工したアンコール・トムに代表される都市遺跡。802年ころクメール人が興して以来、アンコール朝の王は代々即位のたびに都城と寺院を造営し、自らを神格化した。9世紀後半にヤショヴァルマン1世がヤショダラプラと呼ばれた地を王都としてから、何世紀にもわたり、王の絶対的権力が反映された芸術性に富む都城や寺院などが建造されたが、1431年ころ西隣りにあったタイのアユタヤ朝に攻められアンコール朝は滅亡し、その建造物群もジャングルに打ち捨てられた。1860年に博物学者アンリ・ムオに発見されると世界の注目を集めたものの、1970年代にカンボジアの内戦が始まるとアンコールの遺跡群も破壊や崩壊の危機にさらされた。1991年に停戦し、翌年に世界遺産に登録されたものの同時に危機遺産リストにも登録された。その後、日本(上智大の石澤良昭教授がアンコール遺跡国際調査団長)などによる修復支援や保存作業が行われ、2004年に危機遺産リストから脱した。アンコール遺跡最大の寺院は、幅190mの外堀に囲まれた約2㎢の「アンコール・ワット」で、古代インドの宇宙観を表しており、中央にある高さ65mの尖塔と四方の塔の計5基は、地球の中心に位置し神々が住むとされる須弥山(しゅみせん=メール山)を具現している。アンコール・ワットの北約1.5kmにある「アンコール・トム」は、13世紀に完成した。1177年に隣国チャンバーから攻撃を受けたジャヤヴァルマン7世は、都城を幅113mの外堀で囲み、5つの門を設置するなど、アンコール・ワットより防衛力を強化しただけでなく、敷地を9㎢の王朝史上最大規模の都城とした。王が仏教を厚く信仰したことから、仏教的要素の色濃い建造物が多く、中心となる仏教寺院バイヨンには、54基の巨大な四面仏顔塔が立ち並ぶ。

5-⑫  聖地アヌラーダプラ
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準②③⑥
● スリランカ仏教発祥の聖地
スリランカ北中部のアヌラーダプラは、紀元前5世紀にシンハラ王国の最初の首都で、まさにスリランカ仏教発祥の聖地。スリランカ仏教の総本山マハーヴィハーラ寺院や、国内最古の仏塔であるトゥーパーラーマ仏塔を擁する。これらの建造物は、アショーカ王の王子マヒンダの説法で仏教に帰依したシンハラ王国7代王デナーワンピヤによって建立された。王の死後も55~75mの高さを誇るルワンウェリセーヤ仏塔、アバヤギリ仏塔、ジェタワナ仏塔の3大仏塔などが建てられた。10世紀末のチョーラ朝の侵略により衰退したが、今日では多くの巡礼者が訪れる。

5-⑬ シーギリヤの古代都市
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準②③④
● そびえる岩山に建設された天空の要塞都市
スリランカ中部のシーギリアは、480年にシンハラ王国のカッサバ1世が、およそ南北180m、東西100m、高さ200mの岩山(シーギリヤ・ロック)に建設した要塞を中心とした古代都市。弟のモッガラーナを追放し、父のダーツーセナ王を殺して王に即位したカッサバ1世は、父が計画し未完になっていたシーギリヤの城塞を完成させて移り住んだ。自らを神と称し、岩山を天上界に見立てた。岩山西側の壁には、「ジーギリア・レディ」と呼ばれる華やかな装身具を身を飾った雲の上を舞う天女たちを描いたテンペラ壁画がある。当時は500体もの天女が描かれていたといわれるが、ほとんどは雨や陽にさらされて風化し、今では岩の窪みに残る18体のみとなった。「獅子の山」を意味する岩山の頂には、王妃たちの宮殿や庭園、貯水池などを含む空中都市が造営され、北側には、高さ10mの獅子をかたどった巨大な城門が作られ、今も残る獅子の足が往時の姿を物語る。さらに麓の市街地には、当時の造園技術を結集したアジア最古といわれる「水の庭園」がある。ところが、11年後の491年、カッサバ1世は弟モッガラーナに敗れて自害した。わずか11年でシーギリアは放棄されてしまうが、その後寺院として人々の信仰を集める場所となった。そのころ訪れた参拝客が残した「落書き」は、カッサバ1世の盛衰を表現した詩ともいえるもので、685編もあり、スリランカ最古の文学作品といわれる貴重な記録となっている。こうして狂気の王の物語は、今も語り継がれている。

5-⑭ 古代都市ポロンナルワ
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準①③⑥
● スリランカ仏教芸術の傑作が集まる仏教都市
スリランカ北中部にある中世の古都ポロンナルワは、シンハラ王国2番目の都で11~13世紀に栄えた。ポロンナルワは、12世紀後半にパラークラマバーフ1世によって大改修され、交易と農業が栄えて黄金時代を迎えた。特に、灌漑設備の充実に努め、国の東部地域で乾季でも農耕可能にし、農耕と防衛の両方の目的で、首都の周囲にパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)と呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設した。また、街に城壁をめぐらせ、1000もの部屋がある7階建てのウェジャンタパーサーダ宮殿を王宮としたほか、全長13mの釈迦涅槃像・立像・座像の3体があるガル・ヴィハーラ寺院など、スリランカ仏教芸術の秀作がたくさん作られた。

5-⑮ ダンブッラの黄金寺院
文化遺産 スリランカ 1991年登録 登録基準①⑥
● 極彩色の壁画で飾られたスリランカ最大の石窟寺院
ダンブッラの黄金寺院は、スリランカ最大の都市コロンボから北東148kmにある。高さ約180mの岩山の中腹にある天然の洞窟を利用し、5つの石窟が作られた。紀元前3世紀頃から始まったと言われ、その内部は極彩色で描かれた天井画や壁画で埋め尽くされている。「黄金寺院」の名は、金箔で覆われた仏像に由来し、全長約14mの涅槃仏を含む160体以上の仏像が安置されている。またこの地域は南アジアで最大の紅水晶の鉱山や、セイロンテツボクの森林があることでも知られている。

5-⑯ 聖地キャンディ
文化遺産 スリランカ 1988年登録 登録基準④⑥
● 仏歯をまつるシンハラ朝最後の都
セイロン島の中央に位置するキャンディは、人口の7割を仏教徒が占めるスリランカ仏教の聖地であり、またシンハラ人による最後の王朝の都。キャンディには、仏陀の歯があるとされるダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)がある。伝承によれば、仏歯は4世紀にインドのカリンガ国からもたらされたとされ、シンハラ王国は、仏歯を王家の所有物として扱い、王宮内に仏歯をまつるための寺を作った。仏教を国教とするシンハラ王国だったが、11世紀以降、国内外のヒンドゥー教徒の攻撃を受けて遷都を繰り返していたが、16世紀に香辛料を求めるポルトガル人が侵入するとキャンディへ遷都し、17世紀にヴィマラ・ダルマ・スーリヤ1世により、ダラダー・マーリガーワ寺院が建立された。19世紀、スリランカがイギリスの植民地となってシンハラ王国が滅亡すると、王家が所有していた寺院と仏歯は、仏教僧団が管理することになった。現在仏歯は、1日3回、1回につき10分開帳される。毎年7~9月のエサラ月には、「ペラヘラ祭」が行われ、黄金の舎利容器に収めた仏歯が、約100頭の象の背中に乗せられて、神々の象徴である武器と共に町中を練り歩き、仏教徒だけでなく、観光客の人気を集めている。仏歯は雨を呼ぶともいわれ、作物の豊作をもたらす祈願の対象でもある。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性



後半は、元上智大学学長で、アンコール遺跡国際調査団長として活躍されている石澤良昭教授が、メジャーとなるきっかけとなったというべきNHKの人気番組だった「プロジェクトX(挑戦者たち)」の『アンコールワットに誓う師弟の絆』の感動的映像を視聴しました。また、石澤良昭氏が中心となって、2009年8月から2011年1月まで全国を巡回した「世界遺産アンコールワット展」のガイドブックにある、アンコールのさまざまな仏像等を見ながら、日本の仏像とは全く違うカンボジア人(クメール人)独自の世界に感銘しました。なお、石澤良昭氏は、2017年アジアのノーベル賞ともいわれる「マグサイサイ賞」を受章しています。
(文責・酒井義夫)


「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 蕨南暢雄 文新1959年卒