2015年5月20日水曜日

第12回「参火会」5月例会 (通算376回) 2015年5月19日(火) 実施

「昭和史を考える集い」9回目 昭和20年1~8月「戦争終結」

進行役・谷内秀夫氏

「NHKの映像をもとにしたDVDの視聴」





(おもな内容)

米軍ルソン島上陸、米軍ルソン島バキオに侵入、米機動部隊関東各地を初空襲、米軍硫黄島上陸、硫黄島の日本軍玉砕、東京夜間大空襲、東京5新聞「共同新聞」に、日本製風船爆弾、緑十字船「阿波丸」沈没、花岡鉱山で中国人蜂起、国民学校初等科以外の授業1年間停止、ラジオ放送の時間短縮、戦局悪化、1等10万円の「勝札」発行、米軍ラングーンを占拠、小磯首相日中和平案を提議、米軍沖縄本島上陸、鈴木貫太郎内閣成立、ヤルタ会議、ソ連軍戦車隊ベルリンに突入、エルベの誓い、ヒトラー自殺、独無条件降伏、ルーズベルト死去、天皇臨席の最高戦争指導会議、国民義勇戦闘隊、戦艦「大和」沈没、日本軍沖縄守備隊全滅、最高戦争指導会議、東北・北海道空襲、米最初の原爆実験成功、ポツダム宣言、鈴木首相ポツダム宣言黙殺を声明、広島に原爆投下、ソ連対日宣戦布告、長崎に原爆投下、御前会議、「国体維持・断固抗戦」、ポツダム宣言無条件受諾、「終戦の詔書」を放送……など。


「この時代の概要」

昭和20年に入ると、戦争は絶望的な段階に入りました。1月に米軍はルソン島に上陸するものの、日本軍にはすでに反撃する力はなく、小磯内閣と大本営は本土決戦を叫び、最後まで戦い抜く体制を固めました。これまでの米軍の本土空襲は軍需工場が中心だったのが、3月10日の東京大空襲以降は全国の人口密集地へ終戦の前日まで焼夷弾攻撃を行いました。また米軍は、3月に硫黄島の守備隊2万3千人を玉砕させた後、沖縄の慶良間列島を潰滅させて4月1日に沖縄本島へ上陸、6月23日までに20万人もの県民が犠牲になり、本土の決戦を暗示させました。

この間、ヨーロッパ戦線は最終段階に入り、5月にドイツが無条件降伏して戦争が終わりました。6月には連合国の代表がサンフランシスコで「国際連合憲章」に調印して戦後世界の秩序をつくり、7月には米英ソの首脳がベルリン郊外のポツダムで会談、日本に対する降伏勧告ともいえる「ポツダム宣言」を発表しました。しかし鈴木内閣の黙殺声明を理由に、8月6日と9日に広島と長崎へ原爆を投下、8月8日にはソ連の対日参戦となりました。

原爆投下とソ連の参戦により、日本はポツダム宣言を8月14日の夜に受諾して降伏しました。しかし、事後処理のまずさから、その後もソ連は攻撃をしつづけ、わずか1週間で満州の日本軍8万人を戦死させ、57万5000人もの捕虜をシベリヤに連れて何年も労働させ、10万人以上が亡くなったといわれています。こうして、長かった戦争は終わりましたが、310万人以上もが犠牲になったうえ、廃墟と化した国内に、引揚者や復員者が帰り、8000万人以上が飢えに苦しみながら生活せざるをえませんでした。

8月28日、日本占領のため米軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、2日後には連合国最高司令官マッカーサーも到着し、以後40万人の軍隊が日本に進駐することになりました。





約50分の映像を視聴後、配布資料の補足説明が行われ、特に20万人もの島民が犠牲になった「沖縄戦」の悲劇が注目されました。4月1日にアメリカ軍は軍艦1317隻、航空母艦に載る飛行機1727機、上陸部隊18万人で沖縄本島中部に上陸し、読谷(よみたん)・嘉手納飛行場をただちに占拠し、20日間で中北部を完全に制圧しました。日本軍はほとんど抵抗せず、守備隊は南部の首里方面に米軍を誘いこんで、県民を守ることより、1日でも本土決戦を遅らせる持久戦の方針を遂行しました。その結果、20万人という島民の1/4が犠牲になりながらも、6月末まで持ちこたえました。アメリカが終結宣言をしたのが7月2日ですから、まさに、沖縄人々の頑張りが本土上陸を阻止したことは、日本人は決して忘れてはいけないという声があがりました。

いっぽうアメリカ軍は、ヨーロッパ宣戦でドイツ空襲で成果をあげて潰滅させたルメイ中将を赴任させると、「日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾が有効」という作戦を立て、300機以上のB29を3月10日に東京の下町に無差別爆撃をかけ(東京大空襲)、1夜にして焼け野原にしました。これをきっかけに、全国の大中都市に無差別焼夷弾が襲い、敗戦までに約30万人を殺害しました。そのいいわけに「日本の民家はどこも、機械で軍需品を作っているので軍需工場と同じ。だから無差別攻撃に当たらない」というのは、非難される行為であることに間違いはありません。

特攻隊も問題視されました。1944年10月のフィリピンのレイテ沖海戦ではじめて編成され、爆弾をかかえ、飛行機もろとも敵艦に体当たりする決死の攻撃「神風特別攻撃隊」は、大きな成果をあげました。特に沖縄戦では大規模な特攻が行われ、九州各地から約2000機が出撃しましたが、制海権は米軍にあったため、沖縄につく前に9割が撃墜され、運よく到着した機も米軍の対空砲火を受けて、ほとんどが無駄死でした。

広島、長崎に原爆を落とされ、ソ連が参戦する状況になっても、7月27日に発表された「無条件降伏」条件をめぐって「最高指導会議」は、結論を出せません。まさに、なさけない日々を送ったことに、天皇への批判もあるなど、熱の入った議論が続きました。


なお、終了間際に、メンバーの植田康夫氏が、5月5日のBSフジ「プライムニュース」(午後8時~9時55分)2時間の生放送に出演された件で、ご本人から、その感想を伺いました。この番組は、5月4日から8日までのシリーズ企画『昭和を創った人たち』の2回目として「大宅壮一」がとりあげられ、1967年に始まった「大宅壮一マスコミ塾」の第1期生として参加された植田氏が、評論家の大宅映子氏らとに生出演されたものです。大宅の功績をたどりながら、戦後ジャーナリズムの変遷、「一億総白痴化」といわれたテレビのありかたなど、キャスターの反町理らと、幅広い議論が行われましたが、大宅の発した「駅弁大学」など、番組内では聞けなかったさまざまな話を聞くことができました。


また、会長の酒井が、5月16日(土)に行われた「ソフィア会春季全国代議員会」に「参火会代表」として初めて参加したことを報告しました。同時にメンバーの向井昌子さんが「さいたまソフィア会」の交代代表になられたことも同時に発表されたこと、従来の代議員の竹内光氏、菅原勉氏とともに、みんなで終了後の「懇親会」に参加させてもらいました。私たちの時代には見ることができなかった現役学生チアガールを交えた応援風景の実演も見ることができ、写真に撮りましたので参考にしてください。





最後に、「参火会」に寄贈されたメンバーの著書に関するルール案が発表され、承認されたことを記します。現在までに、『うたのチカラ』『週刊読書人と戦後知識人』『英語で発する広島メッセージ』『めざせ! 海外ビジネス』があり、読みたい書籍があった方へ例会の席で渡し、例会出席簿の左ページにサインし、次回の例会で返却すること。もし、次回の例会に欠席の場合は、「レターラックミニ」(郵便局・360円)で、酒井義夫自宅あてへ郵送すること──以上。



「参火会」5月例会参加者 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒 
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 小林宏之 文新1960年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原  勉  文英1966年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一 文新1960年卒
  • 鴇澤武彦  文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1973年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒