2018年7月18日水曜日

第45回「参火会」7月例会 (通算409回) 2018年7月17日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第7回目 アジア篇② ベトナム・中国・韓国・ネパール・マレーシア

今回は、下記資料「6-①~⑱」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した6-①~⑱ の映像約48分を視聴した。



6-1  ミーソン聖域
文化遺産 ベトナム 1980年登録 登録基準④
● チャンパー王国に花開いたヒンドゥー教の聖地
ベトナム中部にあるミーソンは、2世紀末から1835年まで中部ベトナムに存在した国家チャンパーにおけるヒンドゥー教のシヴァ神崇拝の中心となった聖地。4世紀末に国王バードラヴァルマン1世がシヴァ神の神殿を建設したのをはじめ、多くの祠堂(位牌堂)が作られた。6世紀に木造祠堂群が火災で焼失したため、7世紀に耐久性のある焼成レンガを建材に用いるようになり、現存する祠堂はレンガ製のもののみ。遺構の大半がベトナム戦争により破壊されてしまったが、ヒンドゥー建築の東南アジアへの広がりや、チャンパー文化を今に伝える貴重な遺産として、現在も修復作業が続いている。

6-2  古都ホイアン
文化遺産 ベトナム 1999年登録 登録基準②⑤
● 多様な文化を取り込んだ古い街並みが残る港町
ベトナム中部、ダナンの南方30kmトゥボン川河口に位置するホイアンは、16~19世紀に国際貿易港として繁栄した港町。中国、インド、アラブを結ぶ中継貿易の拠点で、ベトナム最大の交易港として、東アジア諸国との交易を求めるヨーロッパ諸国の船も多数寄港した。17世紀には、朱印船貿易の中継地点として多くの日本人が移住し、日本人街が形成され、最盛期には1000人以上がくらしていたといわれる。ところが、江戸幕府が鎖国政策を進めたことで、やむなく帰国。日本人の足跡として、日本の職人が建築したとされる「日本橋」と呼ばれるカウライヴィエン橋(来遠橋)や、ホイアン郊外に日本人墓地などが残されたという。その後、華僑を中心に茶や絹、コーヒーなどの東西貿易で発展するものの、18世紀後半に「西山の乱」という大反乱で潰滅的被害に遭い、そのため現在ホイアンに残る古い建物の大半は18~19世紀に建造されたもの。19世紀に入ると、土砂の堆積のためトゥボン川の水深が浅くなり、船舶の大型化に対応できなくなったため、ホイアンは貿易港との役目を北方のダナンに奪われ、衰退していった。しかし、このことから後世の都市開発や戦争から独特の街並みが守られることになったのは幸いだった。ホイアンの街並みは、建築史的にも文化的にも貴重な存在で、日本、中国ベトナムの建築様式が混在した「タンキーの家」などの伝統的な家屋が公開され、「日本橋」もライトアップされ、観光スポットになっている。

6-3  フエの建造物群
文化遺産 ベトナム 1993年登録 登録基準③④
● 中華風と西洋風が融合したグエン朝の都
ベトナム中部にあるフエは、19世紀初頭から20世紀半ばまで約150年にわたりベトナム最後の王朝であるグエン朝の都で、グエン朝ゆかりの建築物が多く残る。緩やかに流れるフォン川の河畔に王宮や歴代皇帝の帝陵を残すこの古都は、「ベトナムの京都」とも呼ばれている。旧市街の中心に広がる王宮は、中国北京の紫禁城(故宮)の3/4の縮尺で作られたといわれ、ザーロン帝が建設に着手し、2代ミンマン帝の世に完成した。王宮内の建物は、ベトナム戦争時の1968年にほとんど破壊されたが、皇帝の即位式が行われ、政務を執った「太和殿」や王宮の正門は補修が加えられ、現在も豪華な姿を保っている。また王宮内やフエの城壁外には、グエン朝の菩提寺である顕臨閣や歴代皇帝を祀った世祖廟などが点在し、ベトナム伝統の建築様式も見られる。

6-4  ハ・ロン湾
自然遺産 ベトナム 1994年登録2000年範囲拡大 登録基準⑦⑧
● 奇岩、奇形の島々が点在するベトナム随一の景勝地
ベトナム北東部、中国との国境からほど近い約1500㎢の広大な湾内に、大小3000もの島が点在しその大半が奇岩。壮大なスケールで広がる山水画のような世界は、中国の世界遺産「桂林」に似ていることから、「海の桂林」とも称される。ハ・ロンとは「空飛ぶ龍が降り立った場所」という意味で、昔むかし、この地に龍の親子が降り立ち、口から宝玉を吐き出して敵を蹴散らした際、それらが岩となって海面に突き刺さったという伝説による。実際には、ハ・ロン湾は約11万5千年前の氷河期に、中国南西部の石灰岩台地が沈み、長い歳月のうちに海水や風雨に浸食されてできたもの。まるで彫刻作品のようなシャモ、ゾウ、魔法使い、幽霊、カメといった変わった名前がつけられた島、鍾乳石や石筍がみられる洞窟の島もある。人が住むには不向きだが、動植物にとって格好の住み処となっていて、貴重なサルであるフランソワリーモンキーやファイールルトンの世界でも数少ない生息地としても知られる。海中にはサンゴ礁や、アワビ、ロブスターなど暖流を好む多くの生き物が生息している。世界遺産に登録されてから、国内外から年間約200万人が訪れるにぎわいを見せ、ハ・ロン湾観光の拠点となるバイチャイやホンガイには、見晴らしのよいベイビューホテルやアミューズメントパーク、マーケットも続々とオープンしているが、生態系の破壊が問題化している。

6-5  万里の長城
文化遺産 中国 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 中国の歴史を物語る世界最大級の城壁
中国北部に、東西約3000kmにわたって連なる万里の長城は、春秋時代(紀元前770~前403年)に始まった。これは西方から異民族が侵入してくるのを恐れたためだといわれ、戦国時代(紀元前403~前220年)に楚、斉、魏、趙、燕などが互いに争い、どんどん防護壁が増えていった。そして、紀元前221年、初めて中国を統一した秦の始皇帝は、各国が築いた長城をつなぐ形で整備・補修、現在の万里の長城の原型といえるものにし、北方民族の「匈奴」の侵略から領土を守るための城壁とした。その後、前漢(紀元前206年~紀元8年)の時代に入ると城壁は現在の敦煌あたりまで伸び、その後も歴代の王朝により拡大と延長を繰り返して、約2000年後の明朝の時代に完成した。しかし、その後に中国を支配した清は北方民族の女真族の王朝だったため、長城を整備することなく放置した。そのため長城は、清代にその大部分が荒廃することになったが、1949年に中国が成立すると、整備・保護が始められた。万里の長城は、明の時代に、西は甘粛省の「嘉峪(かよく)関」から東は河北省の「山海関」に至る3000kmに残る遺跡で、名前の由来は、司馬遷が『史記』にその長さを「万余里」としたことによる。当時の「万里」は現在の約4000km。長城の総延長は約8900kmで、明以前につくられた遺構も含めると約5万kmに達するという説もある。その建設には、原則として山岳地帯は切り出した石が、平地では土や砂などが使われ、明代では焼成レンガや石灰が大量に使われるようになって、より強固なものとなった。高さ平均8m、幅平均4.5mある城壁は、その上を兵士や馬が移動できるようになっていて、敵監視台、のろし台などが均等に分布して芸術性も高く、明代の建築技術の高さがうかがわれる。現在、観光地として公開されている長城は、 八達嶺、慕田峪、司馬台、金山嶺、居庸関、黄崖関、山海関、嘉峪関などで、その中でも「八達嶺」は北京の北西70kmに位置し、比較的気軽に行けるため最も人気が高い。人工衛星から見える唯一の世界遺産というのも有名。 

6-6  秦の始皇帝陵と兵馬俑坑
文化遺産 中国 1987年登録 登録基準①③④⑥
● 中国初代皇帝の権力を示す壮大な地下帝国
中国中央部、陝西省西安の郊外に残る秦始皇帝の陵は、紀元前221年に初めて中国を統一した秦の始皇帝の墓で、国王に即位した前246年から建設を開始し、1日70万人の囚人や職人を動員し、工事年数は40年にもおよんだ。完成したのは、始皇帝の死から2年が経過した前208年のことだった。この陵は、内外二重の城壁に囲まれており、内城は東西580m・南北1355m、外城は東西940m・南北2165mで、総面積は200万㎢という途方もない規模だったという。現在は、文化財保護などの理由から陵の発掘は行われていないため、その全貌は謎のままだが、地下にはまだ巨大な宮殿が存在するといわれている。司馬遷の書いた『史記』には、始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」との詳細な記述があるが、この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていた。しかし、1981年に行われた調査によるとこの周囲から、不老不死の効果があると信じられていた水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。いっぽう、1974年、この始皇帝陵から1kmほど離れた場所で偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることがわかった。これが「兵馬俑」で、始皇帝陵から伸びる道に沿って配置されており、巨大な陵の一部を成していた。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なもの。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されているだけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査は進められていない。

6-7  蘇州園林
文化遺産 中国 1997年登録2000年範囲拡大 登録基準①②③④⑤
● 豊かな水をたたえた名園の数々
蘇州園林は、中国の江蘇省東部、長江下流の蘇州にある歴史的な庭園の総称で、16~18世紀に街の有力者によってつくられた古典庭園群。1997年に4か所(拙政園・留園・網師園・環秀山荘)の庭園が登録され、2000年に5か所(滄浪亭・獅子林・芸圃・耦園・退思園)が追加登録された。蘇州は、市街の中を多くのクリーク(運河)が走り、「東洋のベネチア」と称されている。蘇州の庭園は市街の豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさが特徴で、明・清時代には、200もあったという。これらの多くは個人の趣味として地元の名士によって造られ、皇帝所有の皇家園林に対し、私家園林と呼ばれている。なかでも、滄浪亭・獅子林・拙政園・留園は、蘇州四大園林と呼ばれ、蘇州最大で5万㎡の拙政園と巨岩(冠雲峰)など築山の見事さで知られる留園は、北京の頤和園、承徳の避暑山荘とともに、中国四大名園といわれている。

6-8  北京と瀋陽の故宮
文化遺産 中国 1987年登録2004年範囲拡大 登録基準①②③④
● 調和美を極めた中国皇帝の居城
中国の首都北京の中心部にある故宮は、明と清の24代(1368~1912年)にわたる皇帝の宮城で、高さおよそ10mの城壁に囲まれ、東西750m、南北960m、総面積は72万㎡もあり、宮城としては世界最大。明代には9千人の女官、10万人の宦官(かんがん=宮廷に仕えた去勢された男子)がいたという。「古い宮殿、昔の宮殿」という意味を持つ故宮は、現在は故宮博物院になっている。以前は一般の人が入れないため「紫禁城」と呼ばれており、その城門の一つが有名な天安門。2004年追加登録された瀋陽の故宮は清の前身である後金の皇帝で女真族を統一したヌルハチによって建造された宮殿。清が都を北京に移してからは清王朝の離宮として使用されていた。敷地面積は6万㎡で、北京の故宮に比べると規模は小さいものの、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並んでいる。遊牧民族の住居パオを起源とする八角形の建物や、女真族の文化や宗教などが反映されており、現在はこちらも博物館になっている。

6-9  天壇
文化遺産 中国 1998年登録 登録基準①②③
● 明・清の歴代皇帝が五穀豊穣を祈った祭殿
北京にある天壇は、1420年に明の第3代皇帝の永楽帝が造営した中国最大の祭祀施設。敷地面積は273万㎡と広大で、北京・故宮(紫禁城)の4倍以上もある。その中心となるのは「祈年殿」で、大理石の基壇上に青瑠璃瓦で葺かれた三層の丸屋根が映える建造物は、東アジアの建築に大きな影響を与えるとともに、故宮と並ぶ北京のシンボルとされている。

6-10  頤和園
文化遺産 中国 1998年登録 登録基準①②③
● 西太后が莫大な予算を投じた優美な大庭園
北京の中心部の北西約15kmにある頤和園は、敷地面積が297万㎡と、皇居の2倍以上もある庭園。12世紀半ばに建造された小規模な離宮だったのを、清朝第6代皇帝の乾隆帝が、広大な庭園に整備した。しかし、第2次アヘン戦争・アロー戦争(1856~60年)で、英米軍により破壊されてしまった。その30年後の1891年、西太后が海軍の予算を流用して復元し、頤和園と命名した。広大な庭園の約4分の3を占める人造湖の「昆明湖」と、その周囲に点在する色鮮やかな中国風建築の数々が、頤和園の風光明媚な景観を作り上げている。特に、高さ約60mの人造山である万寿山の中腹に建つ、八角三層の壮大な塔「仏香閣」は、頤和園のシンボル。

6-11  マカオ歴史地区
文化遺産 中国 2005年登録 登録基準②③④⑥
● 西洋と中国の文化が交錯する貿易港
中国南部のマカオは、16世紀にポルトガルがアジア貿易の中継地として、またキリスト宣教のアジア拠点とした港町。19世紀末に清から割譲されるなど、約450年にわたってポルトガルの影響下にあったが、1999年、中国に返還され特別行政区となった。広東省珠海市と隣り合う半島部分には、8つの広場と22の歴史的建造物が密集し、東洋と西洋が融合した独特の魅力を放っている。とくに、日本人も建設にかかわった巨大なファサードのみを残す聖ポール天主堂跡や、中国最古の西洋建築であるギア要塞、日本にキリスト教を伝えたザビエルの遺骨の一部が安置された聖ヨセフ修道院などが見所。

6-12  九寨溝渓谷
自然遺産 中国 1992年登録 登録基準⑦
● 中国最後の神秘的な秘境
中国中央部四川省・成都の北約400kmのところにある九寨(さい)溝渓谷は、鬱蒼とした原生林の中に3つの渓谷・大小100以上の湖沼、瀑布が50kmにもわたって連なる別天地。渓谷(溝)にチベット族の暮す村(寨)が9つあることからこの名がついた。チベット族の間には、昔、山の女神が天界から落とした鏡が 108つに砕け散って湖になったという伝説が残されている。伝説に彩られた湖面は、雪を頂き白く輝く峰や色鮮やかな樹林、澄み渡る青空など周囲の風景を鏡のように映し出し、まるで一枚の絵画のよう。紺、碧、藍、蒼……。「青」だけでは表現しきれない湖水の色彩美と相まって、息を呑むほどの美しい景観をつくり出している。この景観は、石灰岩の地層に含まれる炭酸カルシウムの働きによるもので、湖底から湧き出す地下水を浄化し、水中のチリをも湖底に沈めるといわれている。とくに美しいとされる五花海は、「九寨溝の一絶」と評されている。以前は成都からバスで移動しなくてはならなかったが、近くにある黄龍が世界遺産になったことから、2003年に九寨黄龍空港が開港した。この地に住むチベット族らが宿泊施設を設けるなど、観光地として整備されている。

6-13  黄龍
自然遺産 中国 1992年登録 登録基準⑦
● 自然が描く色彩鮮やかな奇観
九寨溝に近い黄龍は、雪宝山(5588m)を臨む玉翠(ぎょくすい)山麓にある棚田のような池と青い水が美しい観光地。地表に露出した石灰岩層が侵食され、溶けた石灰が堆積して形成された大小の池が棚田状に約3400、約7kmにもわたって連なる。それぞれの池は、水深や光線、見る角度などの違いによって微妙に色合いが異なり、神秘的な美しさを見せる。ここでは、黄金に輝く龍の鱗のような艶やかな岩肌を眺めながらハイキングを楽しむことができる。ジャイアント・パンダなど多種多様な希少動植物が生息していて、2000年にはユネスコの生物圏保存地域に指定された。

6-14  昌徳宮
文化遺産 韓国 1997年登録 登録基準②③④
● 東アジアにおける宮廷建築の代表作
昌徳宮(チャンドックン)は、韓国の首都ソウルにある李氏朝鮮の宮殿で、1405年に李氏朝鮮の第3代王太宗の時代に、正室の景福宮(キョンボックン)の離宮として建設された。文禄・慶長の役(1592~98年)の際、豊臣秀吉が派遣した日本軍により、景福宮や庭園とともに焼失したが、1615年に昌徳宮だけが再建され、以降約270年間、朝鮮王朝で王が最も長く居住した宮殿となった。現存する韓国最古の木造二層式門といわれる昌徳宮の正門「敦化門(トンファムン)」のほかに、重層入母屋造りの正殿「仁政殿」など、13の木造建築が現存している。

6-15  カトマンズの谷
文化遺産 ネパール 1979年登録2006年範囲変更 登録基準③④⑥
● 宗教と芸術が織りなすヒマラヤの万華鏡
ネパール中央部、ヒマラヤ山脈のふもと平均標高1300mにある盆地状になっているカトマンズの谷は、直径20kmほどの範囲に、およそ900もの歴史的建造物が密集する世界でもまれな地域。1769年にシャハ王朝が誕生して以来、ネパールの首都となったカトマンズと、バドガオン(バクタプル)、パタン(ラリトプル)の3古都にまたがる。この3古都がひとつの都市だった13世紀ころにマッラ族がが台頭し、14世紀にはマッラ朝が確立した。仏教とヒンドゥー教の融合が進み、チベットとインドを結ぶ中継都市として栄えた。15世紀後半、マッラ朝はカトマンズ、パタン、パドガオンの3王朝に分裂して栄華を競いあい、それぞれの国で王宮や寺院、広場など芸術性の高い建築物が築かれていった。現在も3つの古都として存在する。街のあちらこちらに見られるヒンドゥー教のコミカルな、あるいは恐ろしい神々たち。半神半獣の神もいれば、病苦を背負って苦しむ神や、ドクロや剣を身につけて猛り狂う神もいる。寺院によってはカラフルにおどろおどろしく彩られた男女交合像でうめつくされているところ、クマリと呼ばれて崇められている少女の生き神様もいる。いっぽう、仏教のストゥーパが立っていて、ブッダの目らしい巨大な目玉が睨みつけてきたりする。マニ車と呼ばれる仏具を手で回している人々が、このストゥーパの周りをみな同じ方向に歩くなど、異世界の光景があちこちでみられる。世界に類を見ない神々が存在するカトマンズの谷は、ヒンドゥー教や仏教、土着のアニミズムの神々が一堂に会する場所という意味で「人より神が多い街」と呼ばれた。近年では、3つの古都へ農村から人々が流れ込み、かつての稲田がコンクリートとレンガの家々で埋め尽くされて街の景観が損なわれたことから、2003年に危機遺産リストに登録された。しかし、保存状況の改善計画が提出され、2007年に危機遺産リストから脱した。

6-16  仏陀の生誕地ルンビニー
文化遺産 ネパール 1997年登録 登録基準③⑥
● ブッダ生誕の地とされる仏教4大聖地のひとつ
ルンビニーは、ネパール南部、ヒマラヤ山脈南麓にある小村。紀元前6世紀、インドとの国境沿いの地を支配していた釈迦族の王妃マーヤーは、白い象が胎内に入る夢をみて懐妊したという。出産のため故郷にむかう途中、ルンビニーで無憂樹の枝に手をかけると、夫人の右脇から赤子、後の仏陀が誕生した。この仏陀誕生の物語にちなみ、6世紀頃、マーヤーデビ寺院が造営され、一時期は仏教徒の巡礼地として栄えたが、14世紀の記録を最後に忘れさられた。1896年、マウリヤ朝のアショーカ王が紀元前3世紀にこの地を訪れて建立した仏陀の生誕地を示す石柱がドイツの考古学者により発掘されると、ルンビニ―聖地として整備され、ふたたび巡礼地に返りざいた。なお、仏教4大聖地は、この地以外に、ブッダガヤ……成道(悟り)所、サールナート……初転法輪(初説法)、クシーナガラ……涅槃(入滅)所がある。

6-17  チトワン国立公園
自然遺産 ネパール 1984年登録 登録基準⑦⑨⑩
● 国に守られた希少動物たちの楽園
ネパール南部、インドとの国境地帯にあるタライ平原の「チトワン国立公園」は、ジャングルと草原が広がる自然保護区。非常に広大で東西80km、南北23km、総面積932㎢を誇る。もとと自然が豊かな場所だったが、不法な移住、森林伐採、動物の乱獲が行われた上、マラリアの撲滅のために1950年代から大量の農薬がまかれたために、自然破壊が進み、森林や野生動物が激減した。1973年、自然破壊を止めるため、ネパール初の国立公園に指定されると、軍隊による密猟者の取り締まりが実施され、保護が徹底された。今では、インドサイ、ベンガルトラなど絶滅種を含む哺乳類は約40種や、コウノトリ、サギ、インコなどの野鳥が生息していて、野鳥の種類は500種類ほど(世界の鳥類の5%)で、世界一といわれている。ゾウの背中に乗って見るジャングルサファリや、カヌー、バードウォッチングなどのアクティビティを楽しむこともできる。

6-18  グヌン・ムル国立公園
自然遺産 マレーシア 2000年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 多くの洞窟があるカルスト地帯
ボルネオ島北部の熱帯地帯にある「グヌン・ムル国立公園」は、標高2371mのムル山が中心。ここに、約3500種もの維管束植物が生息しヤシは100種類を越える他、81種の哺乳類、272種の鳥類が生息する。また、ムル山はもっとも洞窟が多い山といわれ、総延長295kmの洞窟群がつらなる。現在4つの洞窟が公開されているが、1960年代以降調査が進められているにも関わらず、いまだ60%近くが前人未踏といわれる。世界最大の貫通型の洞窟「ディア洞窟」から出てくるコウモリ(ドラゴンダンス)など見所は多い。


世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性

以上の映像を視聴後は、マレーシアの「世界遺産」として特筆される「マラッカとジョージタウン」が紹介された。

(番外) マラッカとジョージタウン
文化遺産 マレーシア 2008年登録 登録基準②③④
● ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易の中継点として繁栄
マレーシアの南西部に位置するマラッカとペナン島のジョージタウンはマラッカ海峡に面し、「海のシルクロード」の中継地として、500年以上前から東西の交易品や文化が盛んに行きかって発展した都市。14世紀末に興ったマラッカ王国の古都マラッカは、16世紀にポルトガルとオランダに支配された時代の政府庁舎や教会、要塞などがみられる。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたきっかけは、マラッカで知り合ったヤジローの勧めと、先導によるもの。その後イギリスの支配が続き、ヨーロッパ風の砦や広場、教会などが紆余曲折の歴史を物語る。いっぽう、ジョージタウンは、マラッカ海峡の入口に浮かぶペナン島北東部の港町。ペナン島は18世紀末にイギリス東インド会社に譲渡され、総督フランシス・ライトがイギリス国王にちなみジョージタウンと名づけられた。1818年に建てられた東南アジアでもっとも古い英国教会セント・ジョージ教会がイギリスの香りを漂わせ、ペナン島随一と称えられる中国寺院クーコンシーが極彩色の輝きを放つ。シティホールなどコロニアル様式の建物と、中国、アラブ、インドなどの商人が建てた寺院やモスクが狭いエリアに同居し、どこの国にいるのか分からないほど。両都市とも、トライショー(自転車タクシー)に乗って、異空間をさまよってみるのも楽しい。

メンバーの酒井猛夫は、避寒と避暑を兼ね、今年も含め夫妻で10年以上も毎年1月下旬から40日間・7月下旬から40日間の「マレーシア・ロングステイ」を続けています。マレーシアについての話をしてもらいましたので、そのポイントを以下に記します。
「マレーシアを選んだ理由」(治安のよさ・物価の安さ・日本人への対応のよさほか)、「フレイザーズ・ヒルの魅力」(首都のクアラルンプールが赤道直下で1年中真夏なのに対し標高1500mの高原リゾートは1年中20度前後、ホテル前には18ホールのゴルフコースがあり使用料は1か月1万円程度、NHKの衛星テレビが見られる中国人経営のホテル代は1部屋1日4500円で朝晩の豪華食事つき、舗装された5つ以上の散歩コースは景色抜群ほか)、「マラッカ旅行の勧め」(ポルトガル・オランダ・イギリス・日本の支配を受け東西交易の中継地として栄えたマレーシア最古の街で「独立宣言記念館」「セント・ジョンズ砦」「スタダイス」「フランシスコ・ザビエル教会」など見所多数) など等……。

引き続き、ごく最近「世界遺産」に登録された『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』につき、7月8日に「TBS世界遺産」で放送した映像を視聴しました。17~19世紀にかけてキリスト教が禁じられた間、密かに信仰を続けていた潜伏キリシタンが育んだ独特の「宗教的伝統」を描いたもので、彼らが崇拝した聖地や暮した集落跡、禁教が解けた後に建てられたカトリック教会、また、当時の信仰を続ける「かくれキリシタン」の儀式を通して、潜伏キリシタンの生きた痕跡がよくわかりました。なお酒井義夫は、昨年9月24日に放送された『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』以降、毎週日曜日の6時から30分間放送されている「TBS世界遺産」をDVD化(すでに37週分)しています。今後、当日のテーマに合うときは、視聴することを了承していただきました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒