2016年11月17日木曜日

第26回「参火会」11月例会 (通算392回) 2016年11月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」 22回目  昭和43・44年 "昭和元禄"





今回は、NHK制作DVD22巻目の映像──
小笠原諸島日本復帰、第8回参議院選挙タレント候補大量当選、皇居・新宮殿落成式、明治百年記念式典、川端康成ノーベル文学賞受賞、オリンピック・メキシコ大会開催、米空母エンタープライズ佐世保に入港、王子・米軍野戦病院設置反対デモ、国際反戦デ―・新宿で大乱闘、イタイタイ病・水俣病など公害病と認定、日本初の心臓移植手術、飛騨川バス転落事故、有馬温泉の旅館火災、金嬉老事件、3億円強奪事件、日大20億円脱税から紛争に、東大医学部闘争(全学無期限スト・入試中止・全共闘安田講堂占拠・機動隊突入)、新宿西口反対フォークソング集会、佐藤首相訪米・日米共同声明、原子力船「むつ」進水、チクロ使用禁止、米アポロ11号月面着陸、東名高速道路全線開通ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いを行いました。







「この時代の背景」

前回の昭和41年・42年を含め、今回の43年・44年も、すべて佐藤栄作内閣の時代でした。昭和39年(1964年)11月、東京オリンピックの閉会を待っていたかのように、病気辞任した池田勇人を引きついだ佐藤は、退任する昭和47年7月まで、7年8か月という日本の内閣史上最長の記録を作りました。

また、この期間は、昭和40年ごろの一時的不況はあったものの、経済成長率10%以上を毎年のように超え、昭和44年末には国民総生産額が62兆円に達して、ついにイギリスや西ドイツを抜いて、資本主義世界ではアメリカに次いで第2位となりました。「いざなぎ景気」に代わり「昭和元禄」が流行語になるほどでしたが、この好況持続の主要因となったのは、アメリカが主導するベトナム戦争の泥沼化による「ベトナム特需」によるものでした。

こうした急速な経済成長に伴って、農村の過疎化や都会の過密化が進み、交通難・住宅難・物価高・公害問題など、さまざまな矛盾が噴出してきました。これに対し政府は、池田時代からのバラマキ政策をとり続け、補助金や公共事業費を支出することによって、これらの矛盾から国民の目をそらそうとしました。また、赤字国債発行の連発で財政赤字を累積させて問題を後に残すなど、大きな禍根を残しています。

こんな高度成長のひずみに、都市住民の不満を背景とした昭和42年の統一地方選挙で、美濃部亮吉革新都知事の誕生など「革新自治体」の拡大につながりました。また、ベトナム反戦運動のさらなる高まりから、昭和43年に入ると、ベトナムへの北爆に参加するアメリカの原子力空母「エンタープライズ」の佐世保入港に対して学生や革新団体などは、激しい阻止闘争を巻きおこましました。

今回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」ともいわれています。「エンタープライズ」反対闘争に続き、王子野戦病院開設反対闘争(43年1~4月)、成田新国際空港反対闘争(42年11月~)、国際反戦デー新宿騒乱事件(43年10月21日)など、反日共系全学連が、これらの運動の中心となって、街頭や現地実力闘争を展開し、いちやく70年安保闘争の主役に躍り出ました。

警察発表では、43年末に全国115大学が紛争状態にあったといい、こんな学生による異議申し立てや反乱は、日本だけでなく、アメリカではベトナム反戦運動、フランスでは「5月革命」(43年5月・カルチェラタン闘争)という反政府運動をリードした他、西ドイツやイタリアなど先進資本主義国でもおこっていました。性格は異にするものの、中国の紅衛兵による「文化大革命」が、国家機構をマヒさせる事態を引き起こしていたのも、世界の流れと見るむきもあります。

日本の「学園闘争」の頂点に立ったのが、「日大闘争」と「東大闘争」でした。当時日大は、10万人の学生を擁する日本一のマンモス大学でしたが、学生の自治活動は、厳しく抑制されていました。それが43年4月に、東京国税庁の摘発によって、20億円の使途不明金が明らかにされると、鎮静を強いられてきた学生たちは、怒りを爆発させ、5月に全学共闘会議(秋田明大議長)を結成させて、学園民主化闘争を開始しました。大学当局との大衆団交を要求したり、各学部がバリケード・ストライキに突入すると、大学側に立って日本刀などで武装した体育会系学生の殴り込みや、再三の機動隊との衝突で数百人もの負傷者・逮捕者を出すなど、他の学園闘争にはない激しいものでしたが、少しずつ一般学生たちの支持を拡大させていきます。

9月30日の両国講堂での全学集会(団交)では、翌朝3時まで12時間にわたる数万人の学生の追及の前で、古田会頭以下、全理事が退陣を表明。これまでの対応を謝罪し、学生自治権の回復、体育会の解散などを約束しました。学生たちは「これで大学は正常化する」と喜んだものの、翌日佐藤首相は、「大衆団交」について「こんな集団暴力は許せない」と発言し、政治問題化します。そして10月3日、大学側は一転して約束を破棄、秋田議長ら指導者に逮捕状が出されました。翌年2月には機動隊を導入してストを解除し、ロックアウトを行い、学生たちから誓約書を取って授業を再開すると、運動は下火になっていきました。

「東大闘争」は、43年1月、「インターン制度」廃止にともなう「登録医制度反対」の医学部無期限ストが発端でした。これに対し医学部当局は3月に17人の学生の処分を発表します。その中の一人がそのころ東京にいなかったのに処分されるという「事実誤認問題」がおこると、学生側は態度を硬化させ、数十人が安田講堂を占拠しました。すると6月、大学当局がこれを排除するため機動隊を導入したことから、紛争はいっきに全学に拡がり、10月には全学部がストに入るという開学以来初となる異常事態となりました。

紛争は長期化し、大量留年、入試中止が懸念されるようになると、事態収拾の動きがではじめ、44年の1月10日には、7学部の学生代表団と大学当局との交渉により、10項目の確認書が交わされました。医学部処分の撤回、大学運営に学生も参加などでしたが、政府はこれに強く反発、この年の入試は中止としました。また、この話し合いに参加しなかった全共闘系学生は、15日に安田講堂をバリケード補強するなど要塞化し、支援する他大学学生や労働者などが立てこもって対決色を強めていきました。





退任した大河内一男学長に代って加藤一郎総長代行は、何度も交渉を重ねたにもかかわらず、話し合いに応じない学生たちの抵抗にしびれを切らし、警察に占拠排除を要請します。こうして1月18日午前7時、機動隊8500人が出動してバリケードの撤去を開始し、工学部・医学部・法学部などにガス銃の一斉射撃・放水をくりかえすと、学生側も投石や火炎瓶などで応戦するものの、昼ごろまでに封鎖は解除されました。

全共闘主力が立てこもる安田講堂に機動隊が突入したのは午後3時ごろで、講堂周辺は4機のヘリコプターから投下された催涙ガスの白い霧に包まれる中、講堂に滝のような放水を浴びせ、学生側は投石と火炎瓶で頑なに抵抗しました。結局、機動隊が講堂最上階の時計台に達し、学生たち全員を排除したのは、翌日の午後5時45分のことでした。この2日間にわたる「安田砦攻防戦」は、全国にテレビ中継され、日本じゅうの人々が衝撃の映像を見続けました。

いっぽう、この攻防戦がつづいているころ、神田駿河台周辺では、中大、明大、日大を中心とした学生たちが、フランスの「バリ5月革命」(カルチェラタン闘争)にならって、機動隊と市街戦をくりひろげ、御茶ノ水駅から神保町に至る道路の一部を封鎖して「解放区」にしていました。

こうした「安田講堂」や「解放区」が解除されて一連の騒動が終わると、大多数の学生を巻き込んだ東大・日大の学生運動は、いっきに下火になるいっぽう、その他の大学では、闘争のテーマは違っても、全共闘は依然として健在で、全国165大学が「バリケード・ストライキ」を行い、11月には佐藤首相が沖縄返還交渉のために訪米する際には、抗議のゲリラ戦を演じて2000人以上が逮捕されたりしました。

やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していったのでした……。

会の後半は、前回に引き続き、メンバーの郡山・岩崎・小田・菅原各氏の「近況報告」が行われました。当時の「上智大学」にも学園紛争があり、日大闘争のような大規模なものではなかったものの、法政大学などの支援を受けた学生によるバリケードストライキ、これに対抗した大学側が機動隊出動を要請してロックアウトするなど、騒然とした一時期があった話には、多くのメンバーの関心を引きました。また、アメリカの大統領選に勝利した「トランプ・ショック」の話にも盛り上がり、今後の「昭和史研究の集い」の後半は、その後の「トランプ・アメリカ」など、話題のニュースをとりあげて話し合いをしようということになりました。


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)



  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒