2018年9月20日木曜日

第46回「参火会」9月例会 (通算410回) 2018年9月18日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第8回目 アフリカ・オセアニア・中近東篇① エジプト・モロッコ・マダガスカル・ヨルダン

今回は、下記資料「7-①~⑬」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した7-①~⑬ の映像約40分を視聴した。




7-①  カイロ歴史地区
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①⑤⑥
● 豪華なモスク群を擁するイスラム都市 
エジプトの首都カイロは、7世紀にイスラム帝国がこの地に侵攻し、エジプト支配の拠点としてフスタートという都市を建設した。フスタートは、現在の市街地の南にあるオールド・カイロ地区にあった。以後、フスタートは首府や州治所としての役割を果たすようになる。10世紀の中ごろ、ファーティマ朝がフスタートを征服し、ミスル・アル=カーヒラ(勝利の町)を建設した。カーヒラ=カイロで、ここからカイロという名前が歴史上に出てくるようになり、宮殿やアズハル・モスクなどが造られた。12世紀から、アイユービ朝のサラーフ・アッディーンにより、エジプトの政府機能がすべてカイロに集約され、多くの歴史的建造物を抱えた。13世紀中ごろから16世紀初頭までのマムルーク朝時代に入るとカイロは黄金期をむかえ、十字軍やモンゴルの侵入を退け、世界最大規模のイスラム都市として繁栄した。14世紀には、600ものモスクがあるうえ、1000以上のミナレット(塔)を擁するため「千の塔の都」と称されるようになったという。1518年、イスタンブールを首都とするオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすと、エジプト全体が帝国の属州となり、カイロの世界における政治的地位は低下していった。イスラム建築の模範となっていたカイロ独特の建築も、イスタンブール風のモスクにおされ、独自性は失われていった。現在のカイロは、1200万人も住む大都市だが、地盤がゆるく、歴史的建造物が徐々に崩壊するなど、諸問題をかかえている。なお、1979年に「イスラーム都市カイロ」として世界遺産に登録された後、2007年に「カイロ歴史地区」と名称が変更された。その範囲は、カイロ東南部にある約8㎞×4㎞で、イスラム地区である旧市街と、カイロ発祥の地であるオールド・カイロが含まれる。主な建築物は、イスラム最古の大学「アズハル大学」、モカッタムの丘にある城塞「シタデル」、オスマン帝国のエジプト総督が建設した「ムハンマド・アリーモスク」、カイロで最も高い約80mのミナレット持つ「スルタン・ハサン・モスク」などがある。

7-②  メンフィスのピラミッド地帯
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 古代エジプト文明の象徴的存在
エジプトの首都カイロの近郊、ナイル川西岸にある「メンフィスのピラミッド地帯」は、古代エジプトの古王国時代(紀元前2650~前2120年ころ)の首都メンフィスと、王たちが作った巨大墓地遺跡で、メンフィス周辺のギザから、サッカラ、ダハシュールにかけて、約30のピラミッドや建造物が点在する遺跡群が含まれている。この遺跡群の多くは、エジプト古王国時代の第3王朝期から第6王朝期にかけて建設された。この世界遺産の見どころはやはり「ギザの3大ピラミッド」だろう。第1は「クフ王のピラミッド」……紀元前2550年ころに建造されたエジプト最大のピラミッドで、基底部の1辺の長さ約230m・高さ137m。第2は「カフラー王のピラミッド」……クフ王のすぐ南西にあり紀元前2500年ころ建造、基底部の1辺の長さ約214m・高さ136.5m、参道の途中にスフィンクスが横たわる。第3は「メンカウラー王のピラミッド」……カフラー王のすぐ南西にあり紀元前2450年ころに建造、基底部の1辺の長さ約105m・高さ66.5m。その他の主なピラミッドを3つあげると、「階段ピラミッド」……サッカラにあり、紀元前2650年ころジェセル王により建造された最古のピラミッド。「屈折ピラミッド」……ダハシュールにある紀元前2600年ころに建造されたピラミッドで、下部に比べ上部が緩やかになっているのは建設中に地盤がゆるんだためといわれる、基底部の1辺の長さ約190m。「赤のピラミッド」……ダハシュールにあり、スネフェル王により紀元前2600年ごろに建造された赤い石材が使用された現存最古の正四角錘ピラミッドで、基底部の1辺の長さ約220m。さて、あの巨大建造物のピラミッドは、どのように作られたのかは、さまざまな説が唱えられてきた。もっとも信憑性のある説として、農閑期の国家事業として農民たちによって作られたというもの。ナイル川は毎年7~10月にかけて氾濫し、農閑期に入ってしまうため、失業状態の農民達に仕事を与える意味もあった。切り出した石をどうやって運んでどうやって積み上げていったかだが、使われた石は堆積岩で、砂が集まってできた石なので、切り出すのも容易。石切場から離れたピラミッド建造現場までは、氾濫して水かさが増えたナイル川を船で運び、コロを使って現場まで運ぶ。クフ王のピラミッドは平均2.5tの石が230万個使用され、完成までに22~23年の年月がかかっている。石を積む作業は、ピラミッドの横に傾斜のついた坂を築いて、石を引いてあげたとされ、上に行くほどに傾斜を高くしていった。粗く形成された石は、角を直角にして水平にならして積んでいき、積み上げるたびに水平を測っていったという説が有力。

7-③  古代都市テーベとその墓地遺跡
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● ツタンカーメン王の墓がある新王国時代の遺跡
エジプトの首都カイロの南約670㎞、ナイル川中流にある「古代都市テーベとその墓地遺跡」は、ルクソール近郊にあり、地中海からおよそ800㎞南方に位置している。テーベは約1000年もエジプトの首都として栄華を誇り、現在ではルクソールと呼ばれている。この地は、紀元前4000年頃から紀元前3000年頃にかけて、セペトという都市国家があった。その後、エジプト中王国(紀元前2000年~前1800年ころ)の第11王朝の時にエジプトの首都となり、新王国(紀元前1570年~前1069年ころ)の第18~20王朝までの約1000年間にわたって王国の中心として繁栄した。元来ここではアメン神が信仰されていたが、エジプト王国の太陽神ラー信仰と合わさり、アメン・ラーとなり、「カルナク神殿」はアメン・ラー信仰の総本山となって、約5000㎡の大列柱広間は、第19王朝期のラメセス2世の時に完成した。その他、テーベの主な遺跡には、カルナク神殿の副神殿にあたる「ルクソール神殿」があり、カルナク神殿と参道でむすばれている。ラムセス2世の建てた高さ25mのオベリスクや中庭、第18王朝第9代ファラオのアメンヘテプ3世の中庭などがある。ナイル西岸の墓地遺跡群には、「王家の谷」があり、第18王朝トトメス1世から第20王朝ラムセス11世までが眠っているが、特に有名なのは、1922年に発見された第18王朝12代目ファラオのツタンカーメンの墓。王家の墓の南西にある「王妃の谷」には、第17王朝から20王朝までの王子や王女が眠る。ナイル西岸の葬祭殿群には、8tもの巨大胸像のある「ラメセス2世葬祭殿」や第18王朝5代目ファラオの「ハトシェプト女王葬祭殿」がある。この地は、考古学的価値が非常に高い一大遺跡地区として名高い。

7-④  (アブ・シンベルからフィラエまでの)ヌビア遺跡群
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 危機を免れた新王国期・プトレマイオス期の遺跡群
ヌビア遺跡群は、エジプトのナイル川上流にある古代エジプト文明の遺跡で、新王国時代とプトレマイオス朝時代(紀元前304~前30年)に建てられた建造物群。1960年代、エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったが、このダムが完成すると、ヌビア遺跡が水没する危機が懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始すると、世界60ヶ国が名乗りをあげ、約20か国の調査団が技術支援、考古学調査支援などを行った。その後、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立したため、ヌビア遺跡群は、世界遺産が出来るきっかけとなった物件といえる。ヌビア遺跡群を代表するのは、古代エジプト神殿建築の最高傑作といわれる「アブ・シンベル大神殿」。新王国時代第19王朝のファラオで「建築王」と呼ばれたラムセス2世が建てたもので、1964年から1968年の間に正確に分割され、ナイル川にせり出した岩山を掘削して造られた岩窟に移築された。神殿正面には高さ約22mもあるラムセス2世の座像が4体並び、足元には王の母や王妃、息子、娘などの小さな立像がある。「アブ・シンベル小神殿」は、大神殿の北100mほどの場所にあり、ラムセス2世が王妃ネフェルタリのために建造した神殿。「カラブシャ神殿」は、ヌビアの太陽神マンドゥリスが祀られ、ヌビアの神々に捧げられた神殿で、新王国時代に建設されアメンホテプ2世やトトメス3世が関わっていたといわれており、その後、プトレマイオス朝、ローマ帝国支配時代に再建されてアスワンの南約50キロのナイル川西岸にあったが、1970年にアスワン・ハイ・ダムの近くに移築された。ナイル川上流の中州にあるフィラエ島の「イシス神殿」は、古代エジプトの神オシリスの妹であり妻でもある女神イシスに捧げられた神殿で、紀元前3~4世紀のプトレマイオス朝時代に建てられた。神殿の壁面には、神々の姿を描いたレリーフが残っている。

7-⑤  フェズ旧市街
文化遺産 モロッコ 1981年登録 登録基準②⑤
● モロッコ最古のイスラム都市
モロッコの首都ラバトの東170km、セブ川中流のフェズ旧市街は、2.2㎞×1.2㎞の城壁に囲まれており、複雑な街並みから「世界一の迷宮都市」とも呼ばれている。789年、ベルベル人でイドリース朝のイドリース1世により建設され、フェズはモロッコ最古のイスラム王都となった。マリーン朝などの以後のイスラム王朝でも王都とされ、13世紀頃からモスクやマドラサ(イスラム教における高等教育施設)が造られたことで、アラブ諸国から多くの留学生を迎え入れ、芸術や学問の中心として繁栄した。特に、旧市街の中心に位置するカラウィーン・モスクは、859年ころに建てられた礼拝堂が元になって、増改築がくりかえされ、北アフリカ最大の2万人収容のモスクとなったが、非ムスリムは入ることができない。このモスクに付随する世界最古のマドラサは、10世紀に大学の機能を持ち、カイロのアズハル大学と並ぶイスラム最古の大学のカラウィーン大学の前身となった。歴史家のイブン・ハルドゥーンら偉大な学者が教鞭を執ったことで、遠くヨーロッパにまで名を馳せ「アフリカのアテネ」と呼ばれている。街並みが複雑になったのは、外敵の侵入を防ぐためで、坂や路地、階段が入り組んで、車が入ることができない場所がほとんど。そのため、今でも物流の手段としてロバやラバが使われている。手工業が盛んで、最も有名なものはタンネリという一画があり、皮をなめして染める産業は、モロッコでも最大規模を誇る。また、フェズブルーという青一色で彩色した陶器も生産されている。旧市街には約30万人が暮らすが、住宅環境や水利環境が充分でないのが、大きな課題となっている。

7-⑥  古都メクネス
文化遺産 モロッコ 1996年登録 登録基準④
● 北アフリカのヴェルサイユ
モロッコの首都ラバトの東130km、フェズの西60kmの平野に位置するメクネス(ミクナース)は、総延長約40kmの城壁に囲まれた旧市街が世界遺産に登録された地域。9世紀に軍事拠点として建設されたメクネスは、17世紀にイスラム教のアラウィー朝の首都となった。スルタン(王)のムーレイ・イスマイルはヨーロッパとの交流に力を入れ、特にルイ14世に傾倒したため、メクネスをヴェルサイユのような街にしたいと考え、大規模な改修を始めた。古い街並みを壊し、ヨーロッパの文化を取り入れた建物を造ったことで、イスラム+ヨーロッパ風の建物はマグレブ(ヒスパノ・モレスク)様式と呼ばれ、街の至る所に見られるようになった。しかし、街が完成する前にイスマイルは亡くなり、後を継いだ王の息子は他に都を移してしまったことで、メクネスはわずか50年ほどで衰退の一途をたどることになったがために、歴史的建造物が残されることになった。旧市街の南半分を占める王宮地区には、1732年に完成したマンスール門をはじめ、クベット・エル・キャティン、20年分の兵食を蓄えられる巨大穀物倉庫、キリスト教徒の地下牢、スルタンの眠るムーレイ・イスマイル廟などが林立しており、どれもモザイク・スタイル装飾が見もの。

7-⑦  ヴォルビリス遺跡
文化遺産 モロッコ 1996年登録2008年範囲拡大 登録基準②③④⑥
● モロッコ最大のローマ都市遺跡
モロッコの首都ラバトとフェズの間にあるヴォルビリスは、北アフリカにおける古代ローマ都市の最も保存状態のよい遺跡のひとつで、総面積40万㎡もあり、西暦40年ころに発展した。作物が豊かに育つため、小麦やオリーブなどが大量に生産される農業都市となって3世紀ころまで繁栄は続いた。2万人もの人々がこの地にすんでいたといわれ、217年には「カラカラ帝の凱旋門」が建造されたり、全長2300mの城壁や8つの城門、40以上の塔、公共浴場など壮麗なローマ建築が建造された。しかし、3世紀末にローマ帝国が撤退すると、ベルベル人の侵入を許し衰退していった。7世紀にはイスラムが席巻し、681年にはアッバース朝の支配下に入った。やがて、イドリース2世によってフェズの都市が建設されると、ヴォルビリスの重要性は失われた。遺跡群は、1755年のリスボン大地震の際に被害を受け、さらに前後する時期には、メクネスでの建築資材として大理石が一部持ち去られなど、廃墟状態となっていった。1915年、フランス人の調査団によって発掘が開始され、広範囲にわたるローマ都市遺跡群が出土した。大通りにある邸宅群の床にある美しいモザイクは見もの。オリーブの圧搾施設や穀物倉庫など農業都市ならではの遺跡も見つかっている。

7-⑧  マラケシュ旧市街
文化遺産 モロッコ 1985年登録 登録基準①②④⑤
● 南方の真珠とうたわれた赤レンガの古都
モロッコ中央部、サハラ砂漠西方に位置し、アトラス山脈のふもとに位置するマラケシュ旧市街は、1071年、ムラービト朝の君主ユースフ・ブン・ターシュフィンが築き、首都として整備されてきた都市。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」を意味し、モロッコではフェズに次ぐ歴史を持つ。ムラービト朝は、西サハラからイベリア半島南部に至る広大な地域を占領したため、イベリア半島や大西洋沿岸、東のサハラ砂漠を越えた地域をつなぐ通商路の要衝となった。その後、1147年にムワッヒド朝により、ムラービト朝時代の建物は大半が壊されてしまった。前王朝の建造物を破壊して新たなものを造り直すのが、当時のイスラム王朝のやり方だった。マラケシュは、1147年、ムラービト朝を滅ぼしたムワッヒド朝の時代でも首都で、政治・経済・文化の中心都市として発展した。全長20kmの城壁の中で、赤土色のレンガでできた民家が美しく映える光景は、ヨーロッパの詩人から「アトラス山脈に投げられた南方の真珠」と称賛されている。現在残っている建物は、ムワッヒド朝が建てた12世紀のものがほとんどで、クトゥビーヤ・モスクは、この街の中心的な建造物。12世紀半ばに建設されたこのモスクの特徴は、69mのミナレット(小塔)が併設されていることで、旧市街のシンボルでもある。このミナレットは、スペイン・セビリアのヒラルダの塔、首都ラバトのハサンの塔と並び、三大ミナレットのひとつに数えられ、今日でもミナレット建築の手本とされている。ムワッヒド朝時代につくられた著名な建物としては、馬蹄形のアーチ周辺の装飾の美しさと赤い砂岩が特徴的なアグノー門があげられる。旧市街の城壁に設置された巨大な門で、マラケシュで最も美しい門と絶賛されている。1269年にムワッヒド朝を滅ぼしたマリーン朝は、マラケシュを首都としなかったが、この時代にも大規模なマドラサ(イスラム世界の高等教育機関)が建造されている。ベン・ユーセフ・マドラサは、16世紀に再び首都としたサアド朝時代に手が加えられ、さらに大規模なイスラム神学校になって現存している。「バイーヤ宮殿」は、白い壁とタイル張りの床や天井が美しい宮殿で、中庭を囲むように女性たちの部屋が配置されているアラブ・アンダルシア建築の傑作といわれている。「ジャマエルフナ広場」は、旧市街の中心にあり、アラビア語で「死人の集会所」という意味の名を持つ広場は、昔は公開処刑が行われた場所だった。400m四方の広場には多くの屋台がひしめき合い、大道芸人がこぞって芸を披露している。人々は活気にあふれ、この空間は「ジャマエルフナ広場の文化空間」として、2001年に無形文化遺産に登録されている。

7-⑨  要塞村アイット・ベン・ハドゥ
文化遺産 モロッコ 1987年登録 登録基準④⑤
● イスラムから逃れた人々が築いた要塞村
モロッコ中部にありアトラス山脈南麓に位置するアイット・ベン・ハドゥは、7世紀に北アフリカの先住民ベルベル人が造った要塞型の村。一帯にはイスラム勢力から逃れてきた人たちが、部族間抗争や盗賊などの略奪から自分たちを守る「クサール」と呼ばれる要塞化した村がいくつかあるが、そのなかでもアイット・ベン・ハドゥの集落は最も保存状態が良いもののひとつ。村は城壁に囲まれ、単純な造りの家屋から、複数階建ての「カスバ」(砦・城砦の意)とよばれる建物までが立ち並ぶ。カスバは1階が馬小屋、2階が食糧倉庫、3階以上が居住空間になっている。建物は赤茶色の日干し煉瓦を使用して造られ、壁は非常に厚く、夏季に40度を超える気候にあっても、室内を涼しく保てるようにできている。外敵の侵入に備えて入口は1つしかなく、道は細く入り組んで、まるで迷路のよう。住居は侵入してきた敵の視界をさえぎるために室内は暗く、飾り窓に見せかけた銃眼から敵を銃撃することができる仕組みなど、侵入者を防ぐたるの工夫がいくつも施されている。村の丘の上には、アガディールと呼ばれる見張り台を兼ねた穀物倉庫、羊の群れを監視する共同小屋、会議を行う会堂などもある。また、8世紀にイスラム化したこともあり、学校やモスクも遺されている。これらの土やレンガでできた建物はは耐久性に乏しく、2世紀以上の歴史をもつものはひとつもなく、周辺のクサールの中には風化したものもある。家々も傷みが進み、近年、復旧作業が続けられているが、今も居住している住人が数家族いるものの、ほとんどの住民は対岸の住居に移住している。なお、この地は、映画『ソドムとゴモラ』『アラビアのロレンス』などのロケ地としても有名な場所で、年間を通して多くの観光客が訪れる地となっている。

7-⑩  テトゥアン旧市街
文化遺産 モロッコ 1997年登録 登録基準②④⑤
● イスラムとスペインが混じった白亜の街並み
モロッコ北端の街テトゥアン旧市街は、古くからモロッコとイベリア半島をつなぐ拠点として栄えていたが、14世紀末、8世紀から行われてきたキリスト教徒のによるイベリア半島の解放運動「レコンキスタ」の一環として、スペインによって破壊されてしまった。再建したのは、15世紀ごろに「レコンキスタ」(特に1492年のグラナダ陥落で)難民となり土地を追われてきたイスラム教徒とユダヤ教徒の手で、テトゥアンは城塞都市として建設された。20世紀、モロッコの大半はフランス領となったが、テトゥアンの街は1956年までスペイン領だったため、南スペイン・アンダルシア地方の影響を受け、イスラム文化と融合した白亜の街並が広がっており、これらはスペイン・ムーア文化と呼ばれている。旧市街中央に立つ17世紀の王宮はその典型。

7-⑪  ツィンギ・ド・ベマラハ厳正自然保護区
自然遺産 マダガスカル 1990年登録 登録基準⑦⑩
● 奇岩が連なるキツネザルの避難所
マダガスカル島西部にあるツィンギ・デ・ベマラ厳正自然保護区は、自然保護、景観保護を目的とした約1520万㎢の保護地域。ツィンギとは、マダガスカル語で「先の尖った」という意味で、ナイフのように尖った高さ100mもの岩が多数そそり立つ特異な景観が広がっている。この岩山は、石灰岩のカルスト台地が1億6千万年もかけて侵食され、形成したものと考えられている。この奇岩地帯は、降水があっても尖った岩と岩との隙間に吸収されてしまうため、植物はこの地を原産とするアロエやサボテンの仲間などの乾燥に強い珍しい種類のものが多数自生して、保護区内には原生林やマングローブの沼地も広がっている。これらの樹木は岩肌に根を張り、石灰岩台地の地下にまで根を伸ばして水をくみ上げることから、動物たちが暮らせる環境を作り出す。森や沼地には、多くの種類の鳥や世界でも珍しい動物が生息し、黒い顔に真っ白な毛を持つベローシファカというマダガスカル固有種のサルをはじめ、童謡でおなじみの絶滅危惧種アイアイなどのキツネザルの仲間、体長が60~70cmにもなる世界最大のカメレオンのウスタレカメレオンなどがよく知られている。

7-⑫  隊商都市ペトラ
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● 砂漠に浮かぶナバテア王国の古代都市
ヨルダン南部のテトラは、紀元前2世紀ころ北アラビアを起源とする砂漠の遊牧民族ナバテア人によって栄えた隊商都市。もともと隊商の略奪や保護料の徴収などを行っていたナバテア人だったが、やがて自分たちで交易を始めるようになり、ペトラを首都にナバテア王国を興した。ペトラは砂漠の交易路を支配することで大いに繁栄したが、やがて交易ルートから外れ、衰退していった。4、5世紀にはキリスト教の教会が作られ、7世紀にはイスラム教徒の支配に入り、12世紀に十字軍の城塞が築かれたのを最後に、廃墟となって砂に埋もれてしまった。1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトによって再発見され、20世紀初頭から発掘調査が始まったが、2014年時点でもわずか15%しか発掘が進まず、85%が未発掘とされている。ペトラの都市遺跡は、総面積900㎢の山岳地帯に点在し、岩山に刻まれた壮大な建物や用水路などで構成されている。最も有名な遺跡は、砂岩の断崖に刻まれた「カズネ・ファルウン」(エル・カズネ)で、宝物殿として知られる。2003年の調査で、1世紀初頭にナバテア人の王の墳墓として造られたものと推測され、切り立った岩の壁を削って造られた正面は、幅30m、高さ43mにもおよぶ。この遺跡をはじめ、ペトラの遺跡の多くは岩壁を彫刻のように彫りぬいて造られている。ナバテア人は、平らに削った岩壁に設計図を書き、その輪郭にそって彫りぬく方法で、大半の遺跡を築いたとされる。そうした優れた建築技術で多くの防水施設や用水路を建設しており、ほとんど雨の降らない砂漠地帯でありながら、充分な飲料水を確保したと考えられている。2世紀初頭に、ローマ帝国の支配下に入ったこともあるペトラには、円形劇場や、列柱を備えた大通り、王家の墓と呼ばれる岩窟墳墓群が建ち並び、800段もの石段を上り詰めた先には、ペトラ最大の遺跡エド・ディルがある。山と一体となった荘厳な神殿の周囲には、修道僧が住んでいたと思われるおびただしい数の洞穴住居もある。スイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」は、2007年にペトラ遺跡を「世界の七不思議」の一つに選定した。

7-⑬  砂漠の城クサイラ・アムラ城 119
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● フレスコ画で彩られたカリフの隠れ家
ヨルダンの首都アンマンの東方、シリア砂漠の西側にあるクサイラ・アムラは、8世紀初頭、初のイスラム世襲王朝のウマイヤ朝第6代カリフ・ワリード1世が築いた離宮。近くには30もの宮殿跡があるが、クサイラ・アムラは保存状態が特に優れている。隊商宿を増改築した石造建築物は、謁見の間と浴場に分かれる。謁見の間の壁や天井は踊り子や神話の場面、狩猟のようすなどを描いたフレスコ画で彩られ、床はモザイクタイルでおおわれている。一方、温水・冷水浴室、サウナ、脱衣場が設けられた浴場も、イスラム社会には珍しい裸婦などのフレスコ画におおわれている。厳格なイスラム教徒の目を逃れ、ここで王族らが酒宴や入浴を楽しんだ場所だったようだ。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後は、ユネスコで「世界遺産」がどのように誕生し、何をめざすか、世界遺産はどのように決まるかなどを「ヌビア遺跡群」(7-④)を例に確認しました。
古代エジプトの新王国時代(紀元1500年頃から約500年間)に建造され、アブシンベル神殿をはじめとする「ヌビア遺跡群」が、1960年代に危機的な状況に陥りました。エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がり、このダムが完成すると、ナイル川周辺に無数に存在する神殿や墓が、ダムの湖底に沈んでしまいます。ユネスコが「ヌビア水没遺跡救済キャンペーン」を開始すると、世界60か国が支援を表明し、そのうち20ヶ国が調査・技術支援などを行いました。特に古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオで「建築王・大王」と呼ばれたラムセス2世が建てた神殿建築の最高傑作とされる「アブシンベル神殿」をいかに救うか、画期的なアイデアが世界多数から集まりました。最終的に、アブシンベル神殿他を1000個以上のブロックに分けて移築するスウェーデン案が採用され、約4年をかけ、およそ60m上方の高台にある岩山を削って作られた幅38m高さ33mもある岩窟に移築されました。この壮大な移築を記録する約15分の映像 (ユニバーサルミュージック発行・ディアコスティーニ発売)は感動的なもので、よくぞそこまでやったかと歓声があがるほどでした。このキャンペーンにより、世界じゅうから募金や協力の手が差し伸べられ、救うことができた遺跡は、神殿18・墓2・聖堂3・教会1となりましたが、千数百もの遺跡がダムの湖底に消えてしまったのも事実です。
このキャンペーンの成功により、これまでの「宝を持つその国が管理・保護するもの」という考えから、「地球の宝は、国を超え、世界じゅうの人々の協力により、守られべき」という考えが主流となっていきます。こうして、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が満場一致で成立しました。
まず、世界遺産をつくりたい国は、国としてこの条約に加盟しなくてはなりません。遺産を守る一員となる宣言で、2018年7月現在193ヵ国が加盟しています。加盟国は、自国にはこんな素晴しい自然や文化があるので世界遺産に登録してくれませんかと立候補します。
各国から提出された世界遺産の候補地は、その可否が毎年6月下旬から7月上旬に開かれる「世界遺産委員会」で決定されます。委員国は21か国で、任期は6年となっています。これまでに登録された世界遺産の総数は1092件で、文化遺産845件・自然遺産209件・複合遺産38件・危機遺産54件・登録抹消の世界遺産2件がその内訳です。
国別上位12位までは、次の通り。①イタリア 54件 ②中国 53件 ③スペイン 47件 ④ドイツ・フランス 各44件 ⑥インド 37件 ⑦メキシコ 31件 ⑧イギリス 31件 ⑨ロシア 28件 ⑩アメリカ・イラン 各23件 ⑫日本 22件
こうして誕生した世界遺産リストは、世界じゅうのみんなで守るべき「地球の宝」なので、世界遺産を未来に残すことは平和を守ることと同意語であることであり、ユネスコが守るべは緊急性の高いリストは内戦が行われているシリアの6つの世界遺産やエルサレムなど「危機にさらされている世界遺産(危機遺産)」54件であることも知っておく必要がありそうです。
(文責・酒井義夫)


「参火会」9月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年7月18日水曜日

第45回「参火会」7月例会 (通算409回) 2018年7月17日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第7回目 アジア篇② ベトナム・中国・韓国・ネパール・マレーシア

今回は、下記資料「6-①~⑱」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した6-①~⑱ の映像約48分を視聴した。



6-1  ミーソン聖域
文化遺産 ベトナム 1980年登録 登録基準④
● チャンパー王国に花開いたヒンドゥー教の聖地
ベトナム中部にあるミーソンは、2世紀末から1835年まで中部ベトナムに存在した国家チャンパーにおけるヒンドゥー教のシヴァ神崇拝の中心となった聖地。4世紀末に国王バードラヴァルマン1世がシヴァ神の神殿を建設したのをはじめ、多くの祠堂(位牌堂)が作られた。6世紀に木造祠堂群が火災で焼失したため、7世紀に耐久性のある焼成レンガを建材に用いるようになり、現存する祠堂はレンガ製のもののみ。遺構の大半がベトナム戦争により破壊されてしまったが、ヒンドゥー建築の東南アジアへの広がりや、チャンパー文化を今に伝える貴重な遺産として、現在も修復作業が続いている。

6-2  古都ホイアン
文化遺産 ベトナム 1999年登録 登録基準②⑤
● 多様な文化を取り込んだ古い街並みが残る港町
ベトナム中部、ダナンの南方30kmトゥボン川河口に位置するホイアンは、16~19世紀に国際貿易港として繁栄した港町。中国、インド、アラブを結ぶ中継貿易の拠点で、ベトナム最大の交易港として、東アジア諸国との交易を求めるヨーロッパ諸国の船も多数寄港した。17世紀には、朱印船貿易の中継地点として多くの日本人が移住し、日本人街が形成され、最盛期には1000人以上がくらしていたといわれる。ところが、江戸幕府が鎖国政策を進めたことで、やむなく帰国。日本人の足跡として、日本の職人が建築したとされる「日本橋」と呼ばれるカウライヴィエン橋(来遠橋)や、ホイアン郊外に日本人墓地などが残されたという。その後、華僑を中心に茶や絹、コーヒーなどの東西貿易で発展するものの、18世紀後半に「西山の乱」という大反乱で潰滅的被害に遭い、そのため現在ホイアンに残る古い建物の大半は18~19世紀に建造されたもの。19世紀に入ると、土砂の堆積のためトゥボン川の水深が浅くなり、船舶の大型化に対応できなくなったため、ホイアンは貿易港との役目を北方のダナンに奪われ、衰退していった。しかし、このことから後世の都市開発や戦争から独特の街並みが守られることになったのは幸いだった。ホイアンの街並みは、建築史的にも文化的にも貴重な存在で、日本、中国ベトナムの建築様式が混在した「タンキーの家」などの伝統的な家屋が公開され、「日本橋」もライトアップされ、観光スポットになっている。

6-3  フエの建造物群
文化遺産 ベトナム 1993年登録 登録基準③④
● 中華風と西洋風が融合したグエン朝の都
ベトナム中部にあるフエは、19世紀初頭から20世紀半ばまで約150年にわたりベトナム最後の王朝であるグエン朝の都で、グエン朝ゆかりの建築物が多く残る。緩やかに流れるフォン川の河畔に王宮や歴代皇帝の帝陵を残すこの古都は、「ベトナムの京都」とも呼ばれている。旧市街の中心に広がる王宮は、中国北京の紫禁城(故宮)の3/4の縮尺で作られたといわれ、ザーロン帝が建設に着手し、2代ミンマン帝の世に完成した。王宮内の建物は、ベトナム戦争時の1968年にほとんど破壊されたが、皇帝の即位式が行われ、政務を執った「太和殿」や王宮の正門は補修が加えられ、現在も豪華な姿を保っている。また王宮内やフエの城壁外には、グエン朝の菩提寺である顕臨閣や歴代皇帝を祀った世祖廟などが点在し、ベトナム伝統の建築様式も見られる。

6-4  ハ・ロン湾
自然遺産 ベトナム 1994年登録2000年範囲拡大 登録基準⑦⑧
● 奇岩、奇形の島々が点在するベトナム随一の景勝地
ベトナム北東部、中国との国境からほど近い約1500㎢の広大な湾内に、大小3000もの島が点在しその大半が奇岩。壮大なスケールで広がる山水画のような世界は、中国の世界遺産「桂林」に似ていることから、「海の桂林」とも称される。ハ・ロンとは「空飛ぶ龍が降り立った場所」という意味で、昔むかし、この地に龍の親子が降り立ち、口から宝玉を吐き出して敵を蹴散らした際、それらが岩となって海面に突き刺さったという伝説による。実際には、ハ・ロン湾は約11万5千年前の氷河期に、中国南西部の石灰岩台地が沈み、長い歳月のうちに海水や風雨に浸食されてできたもの。まるで彫刻作品のようなシャモ、ゾウ、魔法使い、幽霊、カメといった変わった名前がつけられた島、鍾乳石や石筍がみられる洞窟の島もある。人が住むには不向きだが、動植物にとって格好の住み処となっていて、貴重なサルであるフランソワリーモンキーやファイールルトンの世界でも数少ない生息地としても知られる。海中にはサンゴ礁や、アワビ、ロブスターなど暖流を好む多くの生き物が生息している。世界遺産に登録されてから、国内外から年間約200万人が訪れるにぎわいを見せ、ハ・ロン湾観光の拠点となるバイチャイやホンガイには、見晴らしのよいベイビューホテルやアミューズメントパーク、マーケットも続々とオープンしているが、生態系の破壊が問題化している。

6-5  万里の長城
文化遺産 中国 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 中国の歴史を物語る世界最大級の城壁
中国北部に、東西約3000kmにわたって連なる万里の長城は、春秋時代(紀元前770~前403年)に始まった。これは西方から異民族が侵入してくるのを恐れたためだといわれ、戦国時代(紀元前403~前220年)に楚、斉、魏、趙、燕などが互いに争い、どんどん防護壁が増えていった。そして、紀元前221年、初めて中国を統一した秦の始皇帝は、各国が築いた長城をつなぐ形で整備・補修、現在の万里の長城の原型といえるものにし、北方民族の「匈奴」の侵略から領土を守るための城壁とした。その後、前漢(紀元前206年~紀元8年)の時代に入ると城壁は現在の敦煌あたりまで伸び、その後も歴代の王朝により拡大と延長を繰り返して、約2000年後の明朝の時代に完成した。しかし、その後に中国を支配した清は北方民族の女真族の王朝だったため、長城を整備することなく放置した。そのため長城は、清代にその大部分が荒廃することになったが、1949年に中国が成立すると、整備・保護が始められた。万里の長城は、明の時代に、西は甘粛省の「嘉峪(かよく)関」から東は河北省の「山海関」に至る3000kmに残る遺跡で、名前の由来は、司馬遷が『史記』にその長さを「万余里」としたことによる。当時の「万里」は現在の約4000km。長城の総延長は約8900kmで、明以前につくられた遺構も含めると約5万kmに達するという説もある。その建設には、原則として山岳地帯は切り出した石が、平地では土や砂などが使われ、明代では焼成レンガや石灰が大量に使われるようになって、より強固なものとなった。高さ平均8m、幅平均4.5mある城壁は、その上を兵士や馬が移動できるようになっていて、敵監視台、のろし台などが均等に分布して芸術性も高く、明代の建築技術の高さがうかがわれる。現在、観光地として公開されている長城は、 八達嶺、慕田峪、司馬台、金山嶺、居庸関、黄崖関、山海関、嘉峪関などで、その中でも「八達嶺」は北京の北西70kmに位置し、比較的気軽に行けるため最も人気が高い。人工衛星から見える唯一の世界遺産というのも有名。 

6-6  秦の始皇帝陵と兵馬俑坑
文化遺産 中国 1987年登録 登録基準①③④⑥
● 中国初代皇帝の権力を示す壮大な地下帝国
中国中央部、陝西省西安の郊外に残る秦始皇帝の陵は、紀元前221年に初めて中国を統一した秦の始皇帝の墓で、国王に即位した前246年から建設を開始し、1日70万人の囚人や職人を動員し、工事年数は40年にもおよんだ。完成したのは、始皇帝の死から2年が経過した前208年のことだった。この陵は、内外二重の城壁に囲まれており、内城は東西580m・南北1355m、外城は東西940m・南北2165mで、総面積は200万㎢という途方もない規模だったという。現在は、文化財保護などの理由から陵の発掘は行われていないため、その全貌は謎のままだが、地下にはまだ巨大な宮殿が存在するといわれている。司馬遷の書いた『史記』には、始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」との詳細な記述があるが、この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていた。しかし、1981年に行われた調査によるとこの周囲から、不老不死の効果があると信じられていた水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。いっぽう、1974年、この始皇帝陵から1kmほど離れた場所で偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることがわかった。これが「兵馬俑」で、始皇帝陵から伸びる道に沿って配置されており、巨大な陵の一部を成していた。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なもの。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されているだけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査は進められていない。

6-7  蘇州園林
文化遺産 中国 1997年登録2000年範囲拡大 登録基準①②③④⑤
● 豊かな水をたたえた名園の数々
蘇州園林は、中国の江蘇省東部、長江下流の蘇州にある歴史的な庭園の総称で、16~18世紀に街の有力者によってつくられた古典庭園群。1997年に4か所(拙政園・留園・網師園・環秀山荘)の庭園が登録され、2000年に5か所(滄浪亭・獅子林・芸圃・耦園・退思園)が追加登録された。蘇州は、市街の中を多くのクリーク(運河)が走り、「東洋のベネチア」と称されている。蘇州の庭園は市街の豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさが特徴で、明・清時代には、200もあったという。これらの多くは個人の趣味として地元の名士によって造られ、皇帝所有の皇家園林に対し、私家園林と呼ばれている。なかでも、滄浪亭・獅子林・拙政園・留園は、蘇州四大園林と呼ばれ、蘇州最大で5万㎡の拙政園と巨岩(冠雲峰)など築山の見事さで知られる留園は、北京の頤和園、承徳の避暑山荘とともに、中国四大名園といわれている。

6-8  北京と瀋陽の故宮
文化遺産 中国 1987年登録2004年範囲拡大 登録基準①②③④
● 調和美を極めた中国皇帝の居城
中国の首都北京の中心部にある故宮は、明と清の24代(1368~1912年)にわたる皇帝の宮城で、高さおよそ10mの城壁に囲まれ、東西750m、南北960m、総面積は72万㎡もあり、宮城としては世界最大。明代には9千人の女官、10万人の宦官(かんがん=宮廷に仕えた去勢された男子)がいたという。「古い宮殿、昔の宮殿」という意味を持つ故宮は、現在は故宮博物院になっている。以前は一般の人が入れないため「紫禁城」と呼ばれており、その城門の一つが有名な天安門。2004年追加登録された瀋陽の故宮は清の前身である後金の皇帝で女真族を統一したヌルハチによって建造された宮殿。清が都を北京に移してからは清王朝の離宮として使用されていた。敷地面積は6万㎡で、北京の故宮に比べると規模は小さいものの、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並んでいる。遊牧民族の住居パオを起源とする八角形の建物や、女真族の文化や宗教などが反映されており、現在はこちらも博物館になっている。

6-9  天壇
文化遺産 中国 1998年登録 登録基準①②③
● 明・清の歴代皇帝が五穀豊穣を祈った祭殿
北京にある天壇は、1420年に明の第3代皇帝の永楽帝が造営した中国最大の祭祀施設。敷地面積は273万㎡と広大で、北京・故宮(紫禁城)の4倍以上もある。その中心となるのは「祈年殿」で、大理石の基壇上に青瑠璃瓦で葺かれた三層の丸屋根が映える建造物は、東アジアの建築に大きな影響を与えるとともに、故宮と並ぶ北京のシンボルとされている。

6-10  頤和園
文化遺産 中国 1998年登録 登録基準①②③
● 西太后が莫大な予算を投じた優美な大庭園
北京の中心部の北西約15kmにある頤和園は、敷地面積が297万㎡と、皇居の2倍以上もある庭園。12世紀半ばに建造された小規模な離宮だったのを、清朝第6代皇帝の乾隆帝が、広大な庭園に整備した。しかし、第2次アヘン戦争・アロー戦争(1856~60年)で、英米軍により破壊されてしまった。その30年後の1891年、西太后が海軍の予算を流用して復元し、頤和園と命名した。広大な庭園の約4分の3を占める人造湖の「昆明湖」と、その周囲に点在する色鮮やかな中国風建築の数々が、頤和園の風光明媚な景観を作り上げている。特に、高さ約60mの人造山である万寿山の中腹に建つ、八角三層の壮大な塔「仏香閣」は、頤和園のシンボル。

6-11  マカオ歴史地区
文化遺産 中国 2005年登録 登録基準②③④⑥
● 西洋と中国の文化が交錯する貿易港
中国南部のマカオは、16世紀にポルトガルがアジア貿易の中継地として、またキリスト宣教のアジア拠点とした港町。19世紀末に清から割譲されるなど、約450年にわたってポルトガルの影響下にあったが、1999年、中国に返還され特別行政区となった。広東省珠海市と隣り合う半島部分には、8つの広場と22の歴史的建造物が密集し、東洋と西洋が融合した独特の魅力を放っている。とくに、日本人も建設にかかわった巨大なファサードのみを残す聖ポール天主堂跡や、中国最古の西洋建築であるギア要塞、日本にキリスト教を伝えたザビエルの遺骨の一部が安置された聖ヨセフ修道院などが見所。

6-12  九寨溝渓谷
自然遺産 中国 1992年登録 登録基準⑦
● 中国最後の神秘的な秘境
中国中央部四川省・成都の北約400kmのところにある九寨(さい)溝渓谷は、鬱蒼とした原生林の中に3つの渓谷・大小100以上の湖沼、瀑布が50kmにもわたって連なる別天地。渓谷(溝)にチベット族の暮す村(寨)が9つあることからこの名がついた。チベット族の間には、昔、山の女神が天界から落とした鏡が 108つに砕け散って湖になったという伝説が残されている。伝説に彩られた湖面は、雪を頂き白く輝く峰や色鮮やかな樹林、澄み渡る青空など周囲の風景を鏡のように映し出し、まるで一枚の絵画のよう。紺、碧、藍、蒼……。「青」だけでは表現しきれない湖水の色彩美と相まって、息を呑むほどの美しい景観をつくり出している。この景観は、石灰岩の地層に含まれる炭酸カルシウムの働きによるもので、湖底から湧き出す地下水を浄化し、水中のチリをも湖底に沈めるといわれている。とくに美しいとされる五花海は、「九寨溝の一絶」と評されている。以前は成都からバスで移動しなくてはならなかったが、近くにある黄龍が世界遺産になったことから、2003年に九寨黄龍空港が開港した。この地に住むチベット族らが宿泊施設を設けるなど、観光地として整備されている。

6-13  黄龍
自然遺産 中国 1992年登録 登録基準⑦
● 自然が描く色彩鮮やかな奇観
九寨溝に近い黄龍は、雪宝山(5588m)を臨む玉翠(ぎょくすい)山麓にある棚田のような池と青い水が美しい観光地。地表に露出した石灰岩層が侵食され、溶けた石灰が堆積して形成された大小の池が棚田状に約3400、約7kmにもわたって連なる。それぞれの池は、水深や光線、見る角度などの違いによって微妙に色合いが異なり、神秘的な美しさを見せる。ここでは、黄金に輝く龍の鱗のような艶やかな岩肌を眺めながらハイキングを楽しむことができる。ジャイアント・パンダなど多種多様な希少動植物が生息していて、2000年にはユネスコの生物圏保存地域に指定された。

6-14  昌徳宮
文化遺産 韓国 1997年登録 登録基準②③④
● 東アジアにおける宮廷建築の代表作
昌徳宮(チャンドックン)は、韓国の首都ソウルにある李氏朝鮮の宮殿で、1405年に李氏朝鮮の第3代王太宗の時代に、正室の景福宮(キョンボックン)の離宮として建設された。文禄・慶長の役(1592~98年)の際、豊臣秀吉が派遣した日本軍により、景福宮や庭園とともに焼失したが、1615年に昌徳宮だけが再建され、以降約270年間、朝鮮王朝で王が最も長く居住した宮殿となった。現存する韓国最古の木造二層式門といわれる昌徳宮の正門「敦化門(トンファムン)」のほかに、重層入母屋造りの正殿「仁政殿」など、13の木造建築が現存している。

6-15  カトマンズの谷
文化遺産 ネパール 1979年登録2006年範囲変更 登録基準③④⑥
● 宗教と芸術が織りなすヒマラヤの万華鏡
ネパール中央部、ヒマラヤ山脈のふもと平均標高1300mにある盆地状になっているカトマンズの谷は、直径20kmほどの範囲に、およそ900もの歴史的建造物が密集する世界でもまれな地域。1769年にシャハ王朝が誕生して以来、ネパールの首都となったカトマンズと、バドガオン(バクタプル)、パタン(ラリトプル)の3古都にまたがる。この3古都がひとつの都市だった13世紀ころにマッラ族がが台頭し、14世紀にはマッラ朝が確立した。仏教とヒンドゥー教の融合が進み、チベットとインドを結ぶ中継都市として栄えた。15世紀後半、マッラ朝はカトマンズ、パタン、パドガオンの3王朝に分裂して栄華を競いあい、それぞれの国で王宮や寺院、広場など芸術性の高い建築物が築かれていった。現在も3つの古都として存在する。街のあちらこちらに見られるヒンドゥー教のコミカルな、あるいは恐ろしい神々たち。半神半獣の神もいれば、病苦を背負って苦しむ神や、ドクロや剣を身につけて猛り狂う神もいる。寺院によってはカラフルにおどろおどろしく彩られた男女交合像でうめつくされているところ、クマリと呼ばれて崇められている少女の生き神様もいる。いっぽう、仏教のストゥーパが立っていて、ブッダの目らしい巨大な目玉が睨みつけてきたりする。マニ車と呼ばれる仏具を手で回している人々が、このストゥーパの周りをみな同じ方向に歩くなど、異世界の光景があちこちでみられる。世界に類を見ない神々が存在するカトマンズの谷は、ヒンドゥー教や仏教、土着のアニミズムの神々が一堂に会する場所という意味で「人より神が多い街」と呼ばれた。近年では、3つの古都へ農村から人々が流れ込み、かつての稲田がコンクリートとレンガの家々で埋め尽くされて街の景観が損なわれたことから、2003年に危機遺産リストに登録された。しかし、保存状況の改善計画が提出され、2007年に危機遺産リストから脱した。

6-16  仏陀の生誕地ルンビニー
文化遺産 ネパール 1997年登録 登録基準③⑥
● ブッダ生誕の地とされる仏教4大聖地のひとつ
ルンビニーは、ネパール南部、ヒマラヤ山脈南麓にある小村。紀元前6世紀、インドとの国境沿いの地を支配していた釈迦族の王妃マーヤーは、白い象が胎内に入る夢をみて懐妊したという。出産のため故郷にむかう途中、ルンビニーで無憂樹の枝に手をかけると、夫人の右脇から赤子、後の仏陀が誕生した。この仏陀誕生の物語にちなみ、6世紀頃、マーヤーデビ寺院が造営され、一時期は仏教徒の巡礼地として栄えたが、14世紀の記録を最後に忘れさられた。1896年、マウリヤ朝のアショーカ王が紀元前3世紀にこの地を訪れて建立した仏陀の生誕地を示す石柱がドイツの考古学者により発掘されると、ルンビニ―聖地として整備され、ふたたび巡礼地に返りざいた。なお、仏教4大聖地は、この地以外に、ブッダガヤ……成道(悟り)所、サールナート……初転法輪(初説法)、クシーナガラ……涅槃(入滅)所がある。

6-17  チトワン国立公園
自然遺産 ネパール 1984年登録 登録基準⑦⑨⑩
● 国に守られた希少動物たちの楽園
ネパール南部、インドとの国境地帯にあるタライ平原の「チトワン国立公園」は、ジャングルと草原が広がる自然保護区。非常に広大で東西80km、南北23km、総面積932㎢を誇る。もとと自然が豊かな場所だったが、不法な移住、森林伐採、動物の乱獲が行われた上、マラリアの撲滅のために1950年代から大量の農薬がまかれたために、自然破壊が進み、森林や野生動物が激減した。1973年、自然破壊を止めるため、ネパール初の国立公園に指定されると、軍隊による密猟者の取り締まりが実施され、保護が徹底された。今では、インドサイ、ベンガルトラなど絶滅種を含む哺乳類は約40種や、コウノトリ、サギ、インコなどの野鳥が生息していて、野鳥の種類は500種類ほど(世界の鳥類の5%)で、世界一といわれている。ゾウの背中に乗って見るジャングルサファリや、カヌー、バードウォッチングなどのアクティビティを楽しむこともできる。

6-18  グヌン・ムル国立公園
自然遺産 マレーシア 2000年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 多くの洞窟があるカルスト地帯
ボルネオ島北部の熱帯地帯にある「グヌン・ムル国立公園」は、標高2371mのムル山が中心。ここに、約3500種もの維管束植物が生息しヤシは100種類を越える他、81種の哺乳類、272種の鳥類が生息する。また、ムル山はもっとも洞窟が多い山といわれ、総延長295kmの洞窟群がつらなる。現在4つの洞窟が公開されているが、1960年代以降調査が進められているにも関わらず、いまだ60%近くが前人未踏といわれる。世界最大の貫通型の洞窟「ディア洞窟」から出てくるコウモリ(ドラゴンダンス)など見所は多い。


世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性

以上の映像を視聴後は、マレーシアの「世界遺産」として特筆される「マラッカとジョージタウン」が紹介された。

(番外) マラッカとジョージタウン
文化遺産 マレーシア 2008年登録 登録基準②③④
● ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易の中継点として繁栄
マレーシアの南西部に位置するマラッカとペナン島のジョージタウンはマラッカ海峡に面し、「海のシルクロード」の中継地として、500年以上前から東西の交易品や文化が盛んに行きかって発展した都市。14世紀末に興ったマラッカ王国の古都マラッカは、16世紀にポルトガルとオランダに支配された時代の政府庁舎や教会、要塞などがみられる。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたきっかけは、マラッカで知り合ったヤジローの勧めと、先導によるもの。その後イギリスの支配が続き、ヨーロッパ風の砦や広場、教会などが紆余曲折の歴史を物語る。いっぽう、ジョージタウンは、マラッカ海峡の入口に浮かぶペナン島北東部の港町。ペナン島は18世紀末にイギリス東インド会社に譲渡され、総督フランシス・ライトがイギリス国王にちなみジョージタウンと名づけられた。1818年に建てられた東南アジアでもっとも古い英国教会セント・ジョージ教会がイギリスの香りを漂わせ、ペナン島随一と称えられる中国寺院クーコンシーが極彩色の輝きを放つ。シティホールなどコロニアル様式の建物と、中国、アラブ、インドなどの商人が建てた寺院やモスクが狭いエリアに同居し、どこの国にいるのか分からないほど。両都市とも、トライショー(自転車タクシー)に乗って、異空間をさまよってみるのも楽しい。

メンバーの酒井猛夫は、避寒と避暑を兼ね、今年も含め夫妻で10年以上も毎年1月下旬から40日間・7月下旬から40日間の「マレーシア・ロングステイ」を続けています。マレーシアについての話をしてもらいましたので、そのポイントを以下に記します。
「マレーシアを選んだ理由」(治安のよさ・物価の安さ・日本人への対応のよさほか)、「フレイザーズ・ヒルの魅力」(首都のクアラルンプールが赤道直下で1年中真夏なのに対し標高1500mの高原リゾートは1年中20度前後、ホテル前には18ホールのゴルフコースがあり使用料は1か月1万円程度、NHKの衛星テレビが見られる中国人経営のホテル代は1部屋1日4500円で朝晩の豪華食事つき、舗装された5つ以上の散歩コースは景色抜群ほか)、「マラッカ旅行の勧め」(ポルトガル・オランダ・イギリス・日本の支配を受け東西交易の中継地として栄えたマレーシア最古の街で「独立宣言記念館」「セント・ジョンズ砦」「スタダイス」「フランシスコ・ザビエル教会」など見所多数) など等……。

引き続き、ごく最近「世界遺産」に登録された『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』につき、7月8日に「TBS世界遺産」で放送した映像を視聴しました。17~19世紀にかけてキリスト教が禁じられた間、密かに信仰を続けていた潜伏キリシタンが育んだ独特の「宗教的伝統」を描いたもので、彼らが崇拝した聖地や暮した集落跡、禁教が解けた後に建てられたカトリック教会、また、当時の信仰を続ける「かくれキリシタン」の儀式を通して、潜伏キリシタンの生きた痕跡がよくわかりました。なお酒井義夫は、昨年9月24日に放送された『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』以降、毎週日曜日の6時から30分間放送されている「TBS世界遺産」をDVD化(すでに37週分)しています。今後、当日のテーマに合うときは、視聴することを了承していただきました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒

2018年6月20日水曜日

第44回「参火会」6月例会 (通算408回) 2018年6月19日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第6回目 アジア篇① インド・インドネシア・タイ・カンボジア・スリランカ

今回は、下記資料「5-①~⑯」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した5-①~⑯ の映像約42分を視聴した。



5-① アジャンター石窟寺院群
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①②③⑥
● 1000年の眠りから覚めた森林の仏教石窟寺院群
ムンバイ(ポンペイ)の北東約300kmに位置する断崖にあるアジャンター石窟寺院群は、インド最古の仏教壁画が残る仏教窟。湾曲して流れるワゴーラ川河岸にあるこの石窟群は、全長600mの間に点在する大小30を数える石窟の造営年代は、紀元前2~紀元2世紀に最初の開窟が行われ(前期窟)いったん終了した。北インドの統一王朝のグプタ朝最盛期の5世紀に再開し、7世紀までつづいた(後期窟)と考えられている。この石窟群は、仏教の衰退とともに忘れ去られていたが、1819年、この地で虎狩りをしていたイギリス駐留軍の士官ジョン・スミスが、巨大な虎に襲われてワゴーラー渓谷に逃げ込んだ際、偶然見つけたことが発見の契機となった。仏教石窟には2種類あって、平地に木造か煉瓦造で建てられていた僧院(ヴィハーラ)を石窟におきかえた「ヴィハーラ窟」と、ブッダを象徴する「聖なるもの」(チャイティヤ)として仏塔などが据えられた「チャイティヤ窟」がある。アジャンターでは、9・10・19・26・29窟の5つがチャイティヤ窟で、残りはすべてヴィハーラ窟。壁画の制作には、粘土と牛糞を塗り、石灰を重ねた下地に顔料で描くテンペラ技法の一種が使われている。アジャンター石窟寺院の美術的価値は、後期窟に集中していて、第1・2・16・17窟は、入口柱や天井にミトゥナ(男女一対)像や飛天(諸仏の周囲を飛行遊泳し礼賛する天人)、蓮華や鳥獣の画像が描かれたり、レリーフ(浮彫り彫刻)として刻まれたりしている。特に第1窟に描かれた「蓮華手菩薩像」は、奈良の法隆寺にある「勢至菩薩」を連想させるもので、この石窟の仏教美術の数々は、のちに中国、中央アジア、日本にまで大きな影響を及ぼした。

5-② エローラ石窟群
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①③⑥
● 3つの宗教が共存する聖地
インド中西部、アジャンターの南西100kmの山地にあるエローラ石窟(寺院)群は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の34の石窟寺院が、南北2kmにわたって立ち並んでいる。南端の第1~12窟が7~8世紀に造営された仏経窟、その北の13~29窟が9世紀ごろまでにつくられたヒンドゥー教窟、一番北の30~34窟が9~10世紀ころにつくられたジャイナ教窟。エローラの仏教窟は、インドにある仏教窟としては最後にできたもので、「チャイティヤ窟」の第10窟の天井の高いホールに入ると、奥にあるストゥーパ(卒塔婆=釈迦の遺体・遺骨または代替物)を安置した仏教建築が目に入る。ストゥーパを背にして、仏陀座像が設置されている。ヒンドゥー教窟を代表するのは第16窟の「カイラーサ寺院」で、幅46m奥行き80m高さ34mの寺院は、ひとつの岩からできていて、鑿(のみ)と槌だけで、古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマヤナ」の世界を描いていたエローラを代表する石窟。エローラで最後の開窟を行ったのは9世紀にこの地にやってきたジャイナ教徒で、「カイラーサ寺院」に刺激されて石窟寺院をつくったが、その努力にもかかわらず未完に終わった。しかし、32窟と33窟の完成度は高い。エローラは、アジャンターと違って忘れ去られることなく、今日に至るまで常に巡礼者が集う聖地とされている。3宗教が共存する石窟群は、古代インド社会の「寛容の精神」を表す遺産といえる。

5-③ カジュラーホの寺院群
文化遺産 インド 1986年登録 登録基準①③
● 官能的な浮彫彫刻の寺院群
インド中部、首都ニューデリーから南東約500kmにある小村カジュラーホに残る寺院群は、中世インド宗教建築の粋をなす。この寺院群のほとんどは、この地を都としたチャンデーラ朝が最盛期をむかえた10~11世紀に建立されたと思われる。13世紀初頭にイスラム教徒が北インドに侵入するものの、彼らはこのころすでに辺境の地と化していたカジュラーホに興味を示さず、大寺院群はいつしか植物に覆われ、19世紀にイギリス人に再発見されるまで、忘れ去られていた。かつては85もの寺院があったといわれるが現存するのは25で、これらは西群、東群、南群に分けられる。最も多く寺院がある西群は、すべてヒンドゥー教寺院で、東群にはジャイナ教寺院が多い。カジュラーホの寺院群の中で最大のなのは、西群に建つカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院で、高さ31mにも達するシカラ(砲弾形の尖塔)と、84もの小シカラが積み重なるように上に伸びている。寺院を覆うように刻まれた緻密な彫刻群が特徴で、なかでもミトゥナ(男女1対の意)と呼ばれる性的な情景を奔放に表現した彫刻が有名。人生の神聖な一面としてその魅力をたたえるヒンドゥー教の宗教観を反映している。これらの彫刻群は、古代インドの性愛論書「カーマスートラ」の教えに基づくものと考えられる。ヒンドゥー教寺院とジャイナ教寺院による建築・彫刻による差異はほとんどみられず、豊穣祈願が込められているという説もある。



ここまで視聴したところで映像を一時停止し、上のカラー資料(「図解世界史」成美堂出版刊)により、紀元前5世紀、釈迦がインド東北部のブッダガヤで悟りを開いた「仏教」は、紀元前3世紀にマウリヤ朝第3代アショカ王により保護されてインド各地に広まった。しかし、インドには定着せず「ヒンドゥー教」に吸収されたこと。仏教は、保守派(個々の修行を重視)の「上座部仏教」(以前は「小乗仏教」といわれたが、大乗仏教側からの蔑称だったため、現在は使用されない)と、進歩派(民衆の救済を求める)の「大乗仏教」に分裂した。その後「上座部仏教」はセイロン島(スリランカ)のシンハラ王国により2000年以上も定着し、ビルマ・タイ・カンボジア・マレーシアなど東南アジアに広がっていった。「大乗仏教」は紀元1世紀ころ、シルクロードを通じ中国や朝鮮半島など東アジアに広がり、日本へは6世紀に朝鮮半島経由で伝来、中国との国交でさらに発展したことなどが解説された。

5-④ デリーのクトゥプ・ミナールとその関連施設
文化遺産 インド 1993年登録 登録基準④
● イスラムの力を誇示したモスクと塔
ニューデリーの南にある、インド初のモスクとされるクトゥプ・ミナールは、12世紀後半にデリーを征服した奴隷王朝(1206~1290年)を開いたアイバクがつくった建造物。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていて、ヒンドゥー教の寺院を破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されている。クトゥプ・ミナールは、高さ72.5m、石造5層のミナレット(モスクに付随する塔)で、今でもインドで最も高い石造建築物。その関連施設には、クトゥブ・ミナールから北に150mほど離れた場所に、未完ミナレットのアライ・ミナールがある。財政難で工事が中断し、現在は直径25mの巨大な基底部を見ることができる。完成していればクトゥブ・ミナールを超え、100mを大きく超える塔になっていたといわれる。

5-⑤ デリーのフマユーン廟
文化遺産 インド 1993年登録 登録基準②④
● ペルシア様式を導入したインド初のイスラム廟建築
デリーにあるフマユーン廟は、亡くなったムガル帝国2代皇帝フマユーンのために、王妃ハージ・ベグムが命じ、9年の歳月をかけて1570年に完成した墓廟で、王妃や王子、宮廷人ら約150人が埋葬された。このムガル帝国初期の傑作とされる建築は、後に帝国の終焉の場ともなった。1857年、イギリスの植民地支配に対しておこった「セポイの反乱」で、反乱軍側についた最後の皇帝がこの廟の中で捕えられ、インドはイギリスの支配下に置かれた。ファサード(正面)の赤砂岩の壁面に白・黒・黄の大理石がはめ込まれた中央廟が伝統的なインド様式に対し、白大理石造りの大ドームはペルシア様式で、インドとペルシアの見事な融合がみられる。周囲に広がる広大な庭園は、水路で田の字に区切られたペルシア式四分庭園(チャハル・バーグ)となっている。4つの正方形にはそれぞれ木々が植えられ、水と緑の楽園が表されている。中央にドームがある左右対称の建物は、四面どこから見ても同じ外観をしているイスラーム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルは100年後のタージ・マハルに大きな影響を与えた貴重な建築。

5-⑥ アーグラ城
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準③
● ムガル帝国の栄華を伝える赤い城
首都ニューデリーの南約200kmにあるアーグラ城は、ムガル帝国を強大な国家に発展させたムガル帝国3代皇帝アクバルが、1565年から1573年にかけて首都アーグラに建設した城塞。赤砂岩の城壁に囲まれていることから、デリーの城と同様「赤い城」とも称される。アクバル帝時代は要塞機能に重点が置かれたが、5代皇帝シャー・ジャハーン、6代皇帝アウラングゼーブによる大幅な改築がなされ、広大な敷地内に、市場、居住区といった都市機能も備える都城となった。アウラングゼーブ帝が1707年に亡くなってからは、他国の占領を受けたり、内乱の舞台になったりしたことで多くの建物が破壊されたが、20世紀に入ってからは修復が進み、現在は過去の姿をとりもどしつつある。アーグラ城は、二重の堀、二重の城壁に囲まれているが、その堅固な外部と対照的に内部は豪華。白大理石の列柱が立ち並ぶ「公的謁見の間」「私的謁見の間」、美しい「四分庭園」(チャハル・バーグ)、「真珠モスク」など3つあるモスクはすべて総大理石で、インド・イスラム建築の絢爛たる魅力を伝える。城内に現存するアクバル帝時代の唯一の建物はジャハーンギール宮殿で、ペルシア建築の特徴とヒンドゥー教の建築様式が混在している。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融合をはかるために尽力したアクバル帝の政治的意図を象徴しているといわれる。

5-⑦ タージ・マハル
文化遺産 インド 1983年登録 登録基準①
● インド・イスラム建築を代表する霊廟建築
インド北部アーグラにあるタージ・マハルは、17世紀、ムガル帝国の最盛期を迎えた第5代皇帝シャー・ジャハーンにより、約20年もの歳月をかけ、1631年に37歳の若さで死去した愛妃ムムターズ・マハルのために建設された総白大理石づくりの霊廟。愛する王妃を失った皇帝の悲しみは深く、国民に2年間喪に服すことを命じ、喪が明けるころ、ヤムナー川のほとりに霊廟の建設を開始した。総面積17万㎡におよぶタージ・マハルの敷地は塀で囲まれ、霊廟本体、南門、四分庭園、モスク、迎賓館などで構成されている。1辺約95m、高さ7mの基盤の上に建つ霊廟は、ドームを冠する変形八角形の建物で、幅65m高さ58mある。建物の前後左右4面にはイーワーンと呼ばれるホールが設けられている。また基盤の4隅には高さ42mのミナレット(尖塔)がそびえる。デリーのフマユーン廟をモデルにし、ムガル朝の伝統的な建築様式を踏襲したタージ・マハルだが、職人のなかにはフランスの金細工師やイタリアの宝石工もいたため、トルコ石やサファイアといった宝石が象嵌にはめこまれ、ヨーロッパのバロック様式の影響もみられる。

5-⑧ ボロブドゥール寺院遺跡群
文化遺産 インドネシア 1991年登録 登録基準①②⑥
● 密林に埋もれていた世界最大規模の仏教遺跡
ジャワ島中部、ジャカルタの北西40kmに位置するボロブドゥールの仏教寺院群は、770年ごろから820年ごろにかけて、仏教を信仰するシャイレンドラ朝によってつくられた総面積1.5万㎡世界最大規模を誇る仏教遺跡。この王朝は、100年前後しか続かず、滅亡とともにこの寺院も荒廃していったが、1814年トーマス・ラッフルズに発見されて注目を浴びることになった。1907年になって基礎的な調査や修復が行われたが、切石の劣化や風化がひどく、1973年から10年間、国際的な援助を受けて大規模な調査や修復が行われ、今日のような姿に回復した。自然の丘を利用して盛り土をし、土を覆うように切石を積み上げて建造されたボロブドゥール寺院は、最も下に一辺約120mの基壇があり、その上に5層の方形壇(方壇)、さらにその上に3層の円形壇(円壇)があり、全体で9層の階段ピラミッド状の構造となっていて、頂上には釣り鐘型のストゥーパがそびえたつ、まさに「立体曼荼羅」ともいえる寺院。この構造は、大乗仏教の宇宙観「三界」を表しており、基壇は「欲界」、方壇は「色界」、円壇は「無色界」を示すとされている。方壇にある4つの回廊を上階へと上っていき、円壇まで登ることで、仏教への真理へ到達するという。総延長5kmにおよぶ方壇の回廊には、仏教説話にもとづいた1460面におよぶレリーフ(浮彫り彫刻)が時計回りにつづいている。仏像は、回廊の壁くぼみに432体、3段の円壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、合計で504体ある。レリーフは、その構図の巧みさ、洗練された浮彫り技法、細部表現の優雅さで知られ、仏像とともにインドのグプタ様式の影響が強く認められるとされる。ボロブドゥール寺院から東3㎞の位置にあって、堂内に安置された3体の石造仏(中央の如来倚座像は美しさで有名)で知られる「ムンドゥッ寺院」、ボロブドゥールとムンドゥッ寺院の中間地点に「パオン寺院」があり、この3つの寺院が世界遺産に登録されている。一直線に並ぶその位置から、この一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったのかと推測される。

5-⑨ アユタヤと周辺の歴史地区群 
文化遺産 タイ 1991年登録 登録基準③
● インドシナ半島を支配した国際都市の遺跡
タイの首都バンコクの北に位置し「平和な都」を意味するアユタヤは、14世紀半ばに開かれたアユタヤ朝の都として約400年の間繁栄した都市。チャオプラヤー川とその支流であるパサック川、ロップリー川の合流地点にあるアユタヤは、古くから交易で栄えていたが、アユタヤ朝は、神格化された王の絶大な権力のもと、1431年にクメール人のアンコール朝を滅ぼし、その後スコータイを併合すると、インドシナ半島中部までその勢力を伸ばした。17世紀には、アジア諸国ばかりでなくヨーロッパ諸国とも活発な交易を行って最盛期を迎えた。当時アユタヤには3つの王宮、29の要塞、375の寺院を擁し、推定人口19万人の国際都市だったという。外国人の居留区も設けられ、朱印船貿易の相手だった日本人街には、1500人以上が居住していたとされる。日本人街のリーダー、アユタヤ朝の傭兵、貿易商として活躍していたのが山田長政で、アユタヤ朝支配下のリゴール国王にまでなっている。仏教を厚く信仰した歴代の王たちは、多くの仏像や寺院を築いたが、黄金や宝石をふんだんに用いた豪華なものだったため、1767年、ビルマ軍の侵攻によってアユタヤ朝は滅び、ビルマ軍の徹底した破壊や略奪により、王宮はわずか土台を残すのみとなって、都は廃墟になってしまった。現在、世界遺産に登録されている史跡公園とその周辺には、中心寺院であり木の根に取り囲まれた仏頭が印象的な「ワット・プラ・マハータート」、アユタヤ最大規模で3基の大仏塔が美しくそびえる「ワット・プラ・シー・サンペット」、王朝時代の貴重な壁画や禁制品などの財宝が奇跡的に発見された「ワットラー・ジャブーラ」など、独特で印象的な建造物を含め、その繁栄ぶりを遺跡に知ることができる。

5-⑩ スコータイと周辺の歴史地区
文化遺産 タイ 1991年登録 登録基準①③
● タイ族初の統一国家の都
タイの首都バンコクから北へ約450kmの位置にあるスコータイ(幸福の夜明け)は、スコータイ朝の古都で、13世紀前半、クメール族に代わって台頭したタイ族が初めて統一王朝を樹立した。13世紀後半、スコータイ朝3代目ラームカムヘーン王のときに最盛期を迎え、上座部仏教が伝わると、多くの寺院が建てられ、仏教国として繁栄を見せたが、1438年に南方のアユタヤ朝に併合され、その歴史の幕を閉じた。現在、スコータイの都は、約70㎢ののスコータイ公園として保存されていて、遺跡の中心となるのは、3重の城壁に囲まれた都城。その中には初代王インタラティットが建造したスコータイ最大の寺院「ワット・マハータート」、クメール風の仏塔が並ぶ「ワット・シー・サワイ」、遺跡中最古の建造物とされる「ター・パー・デーン堂」などの仏教寺院が並んでいる。ワット・プラ・バーイ・ルアンにある、かつてタイを支配したアンコール王朝最盛期の王ジャヤヴァルマン7世を模した仏像やワット・シーチャムにある高さ14.7mにも及ぶ仏陀座像「アチャナ仏」は有名で、仏陀の歩く姿をかたどった「遊行仏」は、スコータイ美術を代表する。城壁外にも多くの寺院の遺構があり、ぼう大な数の仏像が見つかっている。また、スコータイ郊外にある、古い陶磁器(日本にも伝わった宋胡録焼)発祥の地シー・サッチャーナライ、5.8mの城壁に囲まれた軍事都市カンペーン・ペットの都市遺跡などとともに、世界遺産に登録されている。

5-⑪ アンコールの遺跡群
文化遺産 カンボジア 1992年登録 登録基準①②③④
● アンコール朝の栄華を伝える聖なる遺構
カンボジア北西部に広がる熱帯雨林に囲まれた「アンコールの遺跡群」は、12世紀前半にアンコール朝のスールヤヴァルマン2世が建築を開始したアンコール・ワットや、1181年に王位についたジャヤヴァルマン7世が着工したアンコール・トムに代表される都市遺跡。802年ころクメール人が興して以来、アンコール朝の王は代々即位のたびに都城と寺院を造営し、自らを神格化した。9世紀後半にヤショヴァルマン1世がヤショダラプラと呼ばれた地を王都としてから、何世紀にもわたり、王の絶対的権力が反映された芸術性に富む都城や寺院などが建造されたが、1431年ころ西隣りにあったタイのアユタヤ朝に攻められアンコール朝は滅亡し、その建造物群もジャングルに打ち捨てられた。1860年に博物学者アンリ・ムオに発見されると世界の注目を集めたものの、1970年代にカンボジアの内戦が始まるとアンコールの遺跡群も破壊や崩壊の危機にさらされた。1991年に停戦し、翌年に世界遺産に登録されたものの同時に危機遺産リストにも登録された。その後、日本(上智大の石澤良昭教授がアンコール遺跡国際調査団長)などによる修復支援や保存作業が行われ、2004年に危機遺産リストから脱した。アンコール遺跡最大の寺院は、幅190mの外堀に囲まれた約2㎢の「アンコール・ワット」で、古代インドの宇宙観を表しており、中央にある高さ65mの尖塔と四方の塔の計5基は、地球の中心に位置し神々が住むとされる須弥山(しゅみせん=メール山)を具現している。アンコール・ワットの北約1.5kmにある「アンコール・トム」は、13世紀に完成した。1177年に隣国チャンバーから攻撃を受けたジャヤヴァルマン7世は、都城を幅113mの外堀で囲み、5つの門を設置するなど、アンコール・ワットより防衛力を強化しただけでなく、敷地を9㎢の王朝史上最大規模の都城とした。王が仏教を厚く信仰したことから、仏教的要素の色濃い建造物が多く、中心となる仏教寺院バイヨンには、54基の巨大な四面仏顔塔が立ち並ぶ。

5-⑫  聖地アヌラーダプラ
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準②③⑥
● スリランカ仏教発祥の聖地
スリランカ北中部のアヌラーダプラは、紀元前5世紀にシンハラ王国の最初の首都で、まさにスリランカ仏教発祥の聖地。スリランカ仏教の総本山マハーヴィハーラ寺院や、国内最古の仏塔であるトゥーパーラーマ仏塔を擁する。これらの建造物は、アショーカ王の王子マヒンダの説法で仏教に帰依したシンハラ王国7代王デナーワンピヤによって建立された。王の死後も55~75mの高さを誇るルワンウェリセーヤ仏塔、アバヤギリ仏塔、ジェタワナ仏塔の3大仏塔などが建てられた。10世紀末のチョーラ朝の侵略により衰退したが、今日では多くの巡礼者が訪れる。

5-⑬ シーギリヤの古代都市
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準②③④
● そびえる岩山に建設された天空の要塞都市
スリランカ中部のシーギリアは、480年にシンハラ王国のカッサバ1世が、およそ南北180m、東西100m、高さ200mの岩山(シーギリヤ・ロック)に建設した要塞を中心とした古代都市。弟のモッガラーナを追放し、父のダーツーセナ王を殺して王に即位したカッサバ1世は、父が計画し未完になっていたシーギリヤの城塞を完成させて移り住んだ。自らを神と称し、岩山を天上界に見立てた。岩山西側の壁には、「ジーギリア・レディ」と呼ばれる華やかな装身具を身を飾った雲の上を舞う天女たちを描いたテンペラ壁画がある。当時は500体もの天女が描かれていたといわれるが、ほとんどは雨や陽にさらされて風化し、今では岩の窪みに残る18体のみとなった。「獅子の山」を意味する岩山の頂には、王妃たちの宮殿や庭園、貯水池などを含む空中都市が造営され、北側には、高さ10mの獅子をかたどった巨大な城門が作られ、今も残る獅子の足が往時の姿を物語る。さらに麓の市街地には、当時の造園技術を結集したアジア最古といわれる「水の庭園」がある。ところが、11年後の491年、カッサバ1世は弟モッガラーナに敗れて自害した。わずか11年でシーギリアは放棄されてしまうが、その後寺院として人々の信仰を集める場所となった。そのころ訪れた参拝客が残した「落書き」は、カッサバ1世の盛衰を表現した詩ともいえるもので、685編もあり、スリランカ最古の文学作品といわれる貴重な記録となっている。こうして狂気の王の物語は、今も語り継がれている。

5-⑭ 古代都市ポロンナルワ
文化遺産 スリランカ 1982年登録 登録基準①③⑥
● スリランカ仏教芸術の傑作が集まる仏教都市
スリランカ北中部にある中世の古都ポロンナルワは、シンハラ王国2番目の都で11~13世紀に栄えた。ポロンナルワは、12世紀後半にパラークラマバーフ1世によって大改修され、交易と農業が栄えて黄金時代を迎えた。特に、灌漑設備の充実に努め、国の東部地域で乾季でも農耕可能にし、農耕と防衛の両方の目的で、首都の周囲にパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)と呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設した。また、街に城壁をめぐらせ、1000もの部屋がある7階建てのウェジャンタパーサーダ宮殿を王宮としたほか、全長13mの釈迦涅槃像・立像・座像の3体があるガル・ヴィハーラ寺院など、スリランカ仏教芸術の秀作がたくさん作られた。

5-⑮ ダンブッラの黄金寺院
文化遺産 スリランカ 1991年登録 登録基準①⑥
● 極彩色の壁画で飾られたスリランカ最大の石窟寺院
ダンブッラの黄金寺院は、スリランカ最大の都市コロンボから北東148kmにある。高さ約180mの岩山の中腹にある天然の洞窟を利用し、5つの石窟が作られた。紀元前3世紀頃から始まったと言われ、その内部は極彩色で描かれた天井画や壁画で埋め尽くされている。「黄金寺院」の名は、金箔で覆われた仏像に由来し、全長約14mの涅槃仏を含む160体以上の仏像が安置されている。またこの地域は南アジアで最大の紅水晶の鉱山や、セイロンテツボクの森林があることでも知られている。

5-⑯ 聖地キャンディ
文化遺産 スリランカ 1988年登録 登録基準④⑥
● 仏歯をまつるシンハラ朝最後の都
セイロン島の中央に位置するキャンディは、人口の7割を仏教徒が占めるスリランカ仏教の聖地であり、またシンハラ人による最後の王朝の都。キャンディには、仏陀の歯があるとされるダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)がある。伝承によれば、仏歯は4世紀にインドのカリンガ国からもたらされたとされ、シンハラ王国は、仏歯を王家の所有物として扱い、王宮内に仏歯をまつるための寺を作った。仏教を国教とするシンハラ王国だったが、11世紀以降、国内外のヒンドゥー教徒の攻撃を受けて遷都を繰り返していたが、16世紀に香辛料を求めるポルトガル人が侵入するとキャンディへ遷都し、17世紀にヴィマラ・ダルマ・スーリヤ1世により、ダラダー・マーリガーワ寺院が建立された。19世紀、スリランカがイギリスの植民地となってシンハラ王国が滅亡すると、王家が所有していた寺院と仏歯は、仏教僧団が管理することになった。現在仏歯は、1日3回、1回につき10分開帳される。毎年7~9月のエサラ月には、「ペラヘラ祭」が行われ、黄金の舎利容器に収めた仏歯が、約100頭の象の背中に乗せられて、神々の象徴である武器と共に町中を練り歩き、仏教徒だけでなく、観光客の人気を集めている。仏歯は雨を呼ぶともいわれ、作物の豊作をもたらす祈願の対象でもある。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性



後半は、元上智大学学長で、アンコール遺跡国際調査団長として活躍されている石澤良昭教授が、メジャーとなるきっかけとなったというべきNHKの人気番組だった「プロジェクトX(挑戦者たち)」の『アンコールワットに誓う師弟の絆』の感動的映像を視聴しました。また、石澤良昭氏が中心となって、2009年8月から2011年1月まで全国を巡回した「世界遺産アンコールワット展」のガイドブックにある、アンコールのさまざまな仏像等を見ながら、日本の仏像とは全く違うカンボジア人(クメール人)独自の世界に感銘しました。なお、石澤良昭氏は、2017年アジアのノーベル賞ともいわれる「マグサイサイ賞」を受章しています。
(文責・酒井義夫)


「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 蕨南暢雄 文新1959年卒

2018年5月16日水曜日

第43回「参火会」5月例会 (通算407回) 2018年5月15日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第5回目 ヨーロッパ篇④ ハンガリー・チェコ・ロシア・ノルウェー・デンマーク・トルコ・ポーランド

今回は、下記資料「4-①~⑭」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した 4-①~⑭ の映像約42分を視聴した。



4-①  ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り
文化遺産 ハンガリー 1987年登録・2002年範囲拡大 登録基準②④
● ハンガリーの苦難と栄光の歴史を刻む街
ハンガリーの首都ブダペストはその美しさに定評があり、「ドナウの真珠」「ドナウのバラ」「ドナウの女王」など、それを称える異名をいくつも持っている。ドナウ川西岸のブダ地区と東岸のペスト地区からなり、もともとはブダとオーブダ、ペストの3地区の街だった。1848年にドナウ川に架けられた「くさり橋」(鋼鉄のチェーンが375mの橋を釣り下げて支えている)によって合併の機運が高まり、1873年に合併した。ブダ地区は、9世紀にこの地区に入ったマジャル人が建国したハンガリー王国の都として繁栄した。丘に建てられたブダ城は、時代とともに増改築がくりかえされた。さまざまな他民族に支配され翻弄され続けた歴史を象徴する建造物で、16世紀半ばにオスマン帝国に征服されてからは、ブダ城の一部は火薬保管庫とされ、その後火薬の爆発で潰滅的被害を受けた。17世紀後半にハプスブルク家がオスマン帝国から街を奪還すると、廃墟になっていたブダ城は、バロック様式で再建、さらに18世紀にマリア・テレジアの命で大増改築が行われた。第2次世界大戦でドイツ軍とソ連軍の戦闘で大きな被害を受けたが、戦後に修復され、今の姿になっている。ペスト地区は、国会議事堂(皇妃エリザベートの努力で自治国家となった象徴として建築がはじまり、20年後の1904年に完成)や官公庁が立ち並ぶ。1872年にはアンドラーシ通りが敷設され、ハンガリー建国千年祭が開かれた1896年には、この通りの下にヨーロッパ大陸初の地下鉄が開通した。

4-② プラハ歴史地区
文化遺産 チェコ 1992年登録 登録基準②④⑥
● 「黄金のプラハ」と呼ばれた東欧・中欧のモデル都市
チェコの首都プラハは、たくさんの歴史的建造物により、「黄金の街」「魔法の都市」「建築博物館」などと称えられ、世界でもっとも美しい街の一つに数えられている。1000年以上の歴史を誇る街並みにはロマネスク、ゴシック、ルネサンスからロココ、アール・ヌーヴォーまで、あらゆる建築様式が混在し、カフカ、リルケ、ドヴォルザーク、スメタナらを輩出し、モーツァルト、シューベルト、ミュシャらが愛した街だけに、ゆかりの文化財も数多い。6世紀後半、スラブ民族がモルダウ川の岸辺に集落をつくり、7世紀に丘の上に砦を築いたのが起源で、880年ころモルダウ川左岸にプラハ城の前身となる城塞が築かれ、900年にこの川の右岸にヴィシェフラト城が建造されると、2つの城にはさまれた区域に人口が集中。973年に司教座がプラハに設置されると、市域は広がって人口も増加し続けた。14世紀半ば、ボヘミヤ王のカレル1世が神聖ローマ帝国カール4世として即位すると、プラハは帝国の首都となった。カール4世は、帝都にふさわしい都市とするためにイタリアやドイツから高名な芸術家を招へいしたり、1348年からプラハ旧市街の隣に新市街の建設をはじめると、プラハは人口5万人面積7.6㎢におよぶ中央ヨーロッパ随一の都市へと成長した。しかし、15世紀初頭、教会の規律の乱れを危惧するプラハ大学教授のヤン・フスが教皇を批判して火刑に処されると、この処置に抗議するフス派と、神聖ローマ皇帝やカトリック教会との間に「フス戦争」がおこり、プラハは戦乱の舞台となって、戦争終結後も混乱がつづいた。16世紀からハプスブルク家が国王になると、少しずつカトリック化が進み、ルネサンス風の建物も登場した。17世紀前半にはプロテスタントが反乱をおこして三十年戦争のきっかけをつくったが、皇帝軍の前に敗退し、本格的にカトリック化が進んだ。現在プラハには3670もの建造物があるが、そのうちの1500余りが、歴史的・文化的価値があると認められている。なかでも『プラハ城(聖ヴィート大聖堂)(聖イジー聖堂)』『カレル橋』『ストラホフ修道院』『ティーン聖堂』『旧市庁舎(オルロイ天文時計)』は人気が高く、特に日本になじみのあるザビエルら30体もの聖人像のある全長560m・幅10m・車両通行禁止のカレル橋は、いつも大きなにぎわいをみせている。

4-③ モスクワのクレムリンと赤の広場 
文化遺産 ロシア 1990年登録 登録基準①②④⑥
● ロシアの歴史の主人公になった建造物群
ロシアの首都モスクワにある27.5万㎢の「クレムリン」(ロシア語でクレムリ「城塞」を意味する)と、クレムリンの外側に設けられた7万3千㎢の「赤の広場」は、ピョートル大帝以前のロシア帝国の宮廷や、ソビエト連邦(ソ連)から現在のロシア連邦までの動乱の歴史を刻んだシンボルともいうべき場所で、タマネギ型のドームで知られるロシア正教会の大聖堂「聖ワシリー聖堂」も赤の広場にある。
モスクワの歴史は、1147年にユーリー・ドルゴルキーがモスクワ川左岸に木造の砦を築いたのが起源とされる。1480年、過去240年間にわたるモンゴルの支配から脱却し、自らをツァーリ(皇帝)と称したイワン3世が、14世紀半ばにつくられた城壁をいっそう強固にしようと壁と塔をレンガ造りに変えた。さらに、全長2235m、高さ最大19m、厚さ3.5~6mの城壁内に、皇帝の戴冠式が行われてきた「ウスペンスキー大聖堂」をはじめ、グラノヴィータヤ宮殿などを建て、現在みられるクレムリンの原型をこしらえた。クレムリンには、20の城門があり、城壁内には多くの塔(最大の塔は80m)など、何世紀にもわたって築かれたさまざまな建築物のある複合建築群となっている。三角形の城壁内の中心には周囲に聖堂が立ち並ぶサボールナヤ広場が広がり、建造物だけでなく、14~15世紀のフレスコ画、イコン、高価な写本、礼拝用具など芸術レベルの高い作品や、数々の宝物を収めたダイヤモンド庫などの見どころがある。

4-④ サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群 
文化遺産 ロシア 1990年登録 登録基準①②④⑥
● 西洋文化を採り入れたロシアの水の都
サンクト・ペテルブルクは、バロックや古典主義様式など、ヨーロッパの文化や芸術を採り入れた帝政ロシア時代の都。ロマノフ朝のピョートル大帝は、1697年3月から18か月にわたってヨーロッパ諸国を歴訪し、帰国後にロシアの西欧化を推進すると、1701年にスウェーデンとの間の北方戦争の最中にフィンランド湾奥の湿地帯に新都を建設すると発表、1703年、大帝はバルト海に開かれた港と要塞を建設した。湿地帯に都を建てることは困難をきわめたが、何万人ものトルコ人やスウェーデンとの戦争捕虜を動員して道路や水路を整備して主要な建築物の建設を進め、1712年、新都を大帝とその守護聖人ペテロにちなんで「サンクトペテルブルク(聖ペテロの町)」と名づけ、モスクワに代わる首都とした。街並は、当時のヨーロッパを模して建てられているために中世ヨーロッパの姿が今も残っている。ピョートル大帝以降では、代々の皇帝がくらした1762年に「冬宮」が完成した。現在は「エルミタージュ美術館」となって、レオナルド・ダ・ビンチの聖母子をはじめ、ラファエロ、ミケランジェロ、ルーベンス、レンブラント、ゴヤらの古典作品から、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソ、マティスら近代美術のコレクションも豊富な美術館は必見。18世紀後半にエカチェリーナ2世が即位すると、バロックに代わって古典主義様式の建物が多く作られた。

4-⑤ バイカル湖
自然遺産 ロシア 1996年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 「シベリアの真珠」と呼ばれる世界一透明度の高い湖
ロシアのシベリア南東部に位置し、三日月型の湖のバイカル湖は、2500万年の歴史と1700mの水深を持つ世界最古で最深の湖。湖底での地震で発生する化学物質や鉱物が湖水を浄化することから、世界一透明度が高く、セレンガ川、バルグジン川、上アンガラ川など336本の河川が流入するが、流出する河川は南西端に近いアンガラ川のみであるため水量が常に豊富で、世界最大の貯水量を誇る。こうした特異な環境は、豊かな生物相を育み、水生生物だけでも1500種類以上も生息し、そのうちの80%はこの湖の固有種。淡水にすむ唯一のアザラシ「バイカルアザラシ」が代表的。本格的な調査は1980年代後半に始まったばかりであり、未確認の固有種も少なくないと予想される。

4-⑥ ベルゲンのブリッゲン地区
文化遺産 ノルウェー 1979年登録 登録基準③
● ハンザ同盟で繁栄した美しい家々が立ち並ぶ港町
スカンジナビア半島の南西沿岸部にあるベルゲンは、1070年にノルウェー王オーラヴによって開かれ、海上交易で栄えた。その後ドイツの商人たちが経済の実権を握り、13世紀には、バルト海の交易を独占していたハンザ同盟の拠点の一つとなり、ブリッゲン地区は、ヨーロッパで需要の高かった干ダラ(乾燥ダラ)の取引の中心地となり、ハンザ商人の事務所・商館・宿泊地として使用されるようになった。やがて商人だけでなく職人も移り住むようになって、ノルウェー最大の港湾都市に発展していき、約400年にわたってハンザ商人たちによる支配は続いた。現在、ブリッゲン地区に立ち並ぶ奥行きのある三角屋根のカラフルな木造家屋は、1950年代に発生した火災の後に再建されたもの。1761年建造のハンザ同盟会議場のショートスチューエネや、12世紀創建のドイツ人のための聖母マリア聖堂も残っている。

4-⑦ クロンボー城
文化遺産 デンマーク 2000年登録 登録基準④
● ハムレットの舞台として名高い海峡の城
デンマークの首都コペンハーゲンから北に約30kmの、バルト海に面した海岸線にあるクロンボ―城は、デンマーク国王フレゼリク2世が16世紀に完成させた城で、海峡を渡る船から税金を徴収するために建てられた城を改修した。スウェーデンと対するエアスン海峡の幅は4kmしかなく、城には多くの大砲が備えられている。兵舎や牢屋、現在は商業海事博物館も設けられている。1629年の火災で焼失したが、再建されて現在の姿となった。しかし、1785年から1924年までは、デンマーク軍の基地司令部として利用されていたため、城内は創建当時の面影を残していない。なお、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の舞台「エルシノア城」として有名な城だが、シェイクスピア自身はこの城を訪れたことはない。城内には、シェイクスピアを記念した石版が掲げられており、毎年夏には城の中庭を使って演劇公演が行われている。

4-⑧ イスタンブール歴史地区
文化遺産 トルコ 1985年登録 登録基準①②③④
● 東西文明を結ぶアジアとヨーロッパの架け橋
トルコ北西部にある、トルコ最大の都市イスタンブールは、シルクロードの要衝という特異な立地から、ヨーロッパとオリエント両文明の交流点として世界の富が集まり、「この地を制覇するものは世界を制する」と言われるほどだった。また、キリスト教国のビザンツ帝国、イスラム教国のオスマン帝国という2大宗教の覇権争いの舞台となって1500年も大国の首都となった歴史を持つ。
このイスタンブール旧市街地区に最初の都市をつくったのは紀元前7世紀ころ、ギリシャの都市国家メガラのビザスが建設した都市と伝えられる。この植民都市は、現在トプカプ宮殿がある丘につくられ、ビザスにちなんで、ビザンティオンと命名された。この地は、三方を海に囲まれ、交易に適し軍事的価値も高かったことからその領有権をめぐって、幾度となく抗争がくりかえされた。スパルタ、アテネ、アレクサンドロス率いるマケドニア王国、ペルガモン王国、ローマ帝国と次々に支配者が代わり、2世紀末に「ビザンチウム」に改名された。さらに330年には、ローマ帝国皇帝でネロ皇帝以来禁止されてきたキリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌス1世(大帝)は、腐敗したローマに代わる首都として自身の名にちなんで「コンスタンティノポリス」(コンスタンティノープル)と改名し、従来の城壁の2km西に城壁を築き、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。395年、ローマ帝国が東西に分裂すると、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都となり、476年に西ローマ帝国が滅亡した後も繁栄。1054年にキリスト教会が東西に分裂すると、西のローマがカトリック教会の中心になったのに対し、コンスタンティノープルは、ギリシャ正教会の本拠地となった。やがて栄華をきわめたビザンツ帝国もしだいに衰退し、13世紀初頭にはローマ教皇が派遣した十字軍によりコンスタンティノープルが占領されて滅亡の危機に陥る。ビザンツ帝国の亡命政権ハイル8世が奪回するものの、かつての栄光は戻らなかった。
1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国との激しい攻防戦の末にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。コンスタンティノープルは、オスマン帝国の新首都となり、「イスタンブール」という呼称がしだいに定着していった。メフメト2世は、帝国各地からの移民を受け入れて市街の再開発を推進し、イスタンブールは首都として再び繁栄の時を迎えた。16世紀、スレイマン1世(在位1520~66年)が統治する時代に最盛期を迎え、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域まで勢力を拡大させた。後続の君主(スルタン)も17世紀末までこれを維持して隆盛を誇った。1922年に、トルコ共和国の成立に伴い、アンカラが新しい首都になったが、今でも、トルコ最大で、活気に満ちた都市であることは変わらない。世界遺産に登録されたイスタンブール旧市街があるのは、ボスポラス海峡の西岸のヨーロッパ側の地区で、無数のモスクや教会など多くの歴史的建造物が残され、東西文明の交差点だった歴史を伝えている。
必見の建築物としてはまず、メフメト2世によって15世紀半ばに建造された「トプカプ宮殿」があげられる。15世紀から19世紀半ばまで37代にわたりオスマン帝国の君主が改築を加えながら居住し執務にあたった宮殿。国の執政を裏側から操っていたのがトプカプ宮殿の中にある「ハレム」で、スルタンの寵愛を受けた妃とスルタンの母、女官や宦官が生活していた。スルタンが側近や家族、親交の深い友人と宴を開いた「スルタンの大広間」もハレム内にある。現在、宮殿は博物館として公開され、オスマン帝国の繁栄ぶりをうかがわせる貴重な品々を多数展示している。
イスタンブールの歴史的変遷を象徴する「アヤソフィア(聖なる叡智の意)」は、360年にコンスタンティヌス1世が、ローマ帝国の新首都建設の一環として建設したキリスト教の聖堂だった。しかし、2度にわたって焼失したため、現在のアヤソフィアは、537年にユスティニアス1世が南北70m・東西75m・高さ56m・中央ドーム直径31mという大聖堂に再建したもの。15世紀末にコンスタンティノープルがオスマン帝国の手に落ちると、メフメト2世はこの大聖堂をジャミイ(モスク)に改修するように命じ、聖壇にはミフラーブ(説教台)を取りつけさせ、ビザンチン文化の最高傑作といわれその象徴ともいえるキリスト・聖母マリア・ヨハネらのモザイク画を漆喰で塗り固めさせ、4本のミナレット(尖塔)を新たに建設させた。1932年、トルコ共和国初代大統領となったケマル・アタチュルクはモザイク画の復元作業を命じ、1934年アヤソフィアは、無宗教の博物館に変わった。
「地下宮殿」と呼ばれる地下空間にも注目したい。ここはビザンチン帝国時代、アヤソフィアをはじめ街に水を送るために造られた貯水池で、奥行140m・幅70mのうす暗い空間にヘレニズム時代の遺跡の柱を流用したとされる無数の大理石の柱が立ち、その足元にきれいな水をたたえた幻想的な雰囲気がただよう。水の上に歩行通路が設けられ、ぐるっと一周できるようになっているが、いちばん奥にあるギリシャ神話の怪女メデューサの首をかたどった2本の柱には驚かされる。神話によると、メデューサは巻毛の美しい娘だったが美貌を自慢して女神アテナと争ったため、巻毛はヘビに顔は怪物に変えられ、メデューサを見た者は石に変えられてしまう。ゼウスの息子ペルセウスは、アテナの盾にメデューサの顔を写し、眠るメデューサの首を切り落としたと神話は伝えている。

4-⑨ ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石群
複合遺産 トルコ 1985年登録 登録基準①③⑤⑦
● 自然が生み出した奇観とキリスト教徒を支えた岩窟聖堂
首都アンカラの南東約280km、標高1000mを超える高原地帯にあるカッパドキアは、キノコ形や尖塔形などの奇岩が林立するなかに、洞窟聖堂や洞窟修道院が点在する地域。
およそ300万年前に火山の大噴火がおこり、大量の溶岩と火山灰が一帯をおおった。これらが堆積して凝灰岩や玄武岩の層になり、長い経過のうちに軟らかい凝灰岩の部分が風雨に浸食されて奇岩の群れに姿を変えていった。紀元前4000年ころになると、削りやすい凝灰岩を利用し、一帯に洞窟住宅が作られていった。紀元前15~12世紀ごろ、古代オリエントの王国ヒッタイトの中心地として栄えた。やがて3世紀半ばにローマによるキリスト教の弾圧が始まると、キリスト教徒たちが隠れ住んで信仰を続ける地下都市となっていく。ギョレメ渓谷には約30の岩窟教会があり、36の地下都市が存在するが、現在公開されているのは4か所のみ。多くの旅行者が訪れるのは、大規模なことで知られる「カイマクル地下都市」で、20層にも積み重なった床が狭い階段でつながっており、多いときは5000人以上が暮らしていたという。台所や食糧庫、教会やワイナリーなど、長期間生活するための施設が整って都市の機能を果たしていたといわれるが、人々の困難な暮しぶりが想像できるだけに胸を打たれる。現在、カッパドキアで人気のアクティビティは、気球(バルーン)による空中散歩。年間のフライト日数と参加者は世界でも断トツに多く、世界有数の気球フライトのポイントになっている。この地特有の植物は100種を超え、動物ではオオカミや赤ギツネなどが生息し、貴重な自然遺産と文化遺産の共存が課題となっている。

4-⑩ ヒエラポリスとパムッカレ
複合遺産 トルコ 1988年登録 登録基準③④⑦
● 石灰棚の奇観と繁栄を築いていた古代都市
トルコの西部にあるパムッカレ(トルコ語で「綿の城」の意)は、幾世紀もの時を経て出来た石灰棚で、二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となり、その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の景観を作り出した。レストランやカフェを併設した「パムッカレ・テルマル」は、天然温泉(水着を着て入るのがルール)を楽しむ人たちでにぎわっている。パムッカレの近くの台地の中腹に広がるヒエラポリスは、紀元前2世紀ペルガモン王国が築き、ローマ時代に温泉保養地として栄えた古代ローマの都市。ローマ帝国時代に地震で破壊されるが、その後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。かつて1万5千人を収容したローマ劇場や、マルティリウムと呼ばれる八角形の聖堂、浴場などがヒエラポリス遺跡に残る。

4-⑪ ワルシャワ歴史地区 
文化遺産 ポーランド 1980年登録 登録基準②⑥
● 国民の熱い思いでよみがえったボーランドの首都
ポーランドの中部、ヴィワス川に面したワルシャワは、破壊と再建の歴史を歩んできた都市。統一国家ポーランドが成立したのは、10世紀後半のことで、首都がワルシャワに定められたのは1611年。ポーランドは、国土の大半が平地で天然の防壁がないため、幾度となく周辺国や他民族の侵略を受けてきた。1772年と1793年のロシア、プロイセン、オーストリア3国による「ポーランド分割」でポーランド王国は滅亡し、第1次世界大戦後に独立が認められたものの、ナチスによりドイツに併合された。抵抗組織をつくったワルシャワ市民は、1944年に蜂起するが、ナチス・ドイツの反撃により敗北。ワルシャワの85%が灰燼と化し、市民66%の85万人が犠牲となった。第2次世界大戦後に再独立すると、遷都案も出たが、国民はワルシャワ復興と完全な復元を希望し「すべてを未来のために」を合言葉に、古い図面や写真、18世紀後半の国王に仕えていたベルナルド・ペレットが描いた風景画を参考に、中世のゴシック様式から19世紀新古典主義に至る多様な様式の建築物が連なる姿に復元させた。

4-⑫ クラクフ歴史地区
文化遺産 ポーランド 1978年登録・2010年範囲変更 登録基準④
● ポーランド王国最盛期の面影を残す古都
ポーランド南部にあるクラクフは、11世紀から17世紀のワルシャワ遷都までの約600年間首都として栄えた街で、ポーランド王国の最も繁栄した時代を今に伝える。1978年、世界遺産第1号の12件の1つになったクラクフ歴史地区は、約10㎢の旧市街で、国の歴史を語る上で欠かせない歴史的建造物が点在している。かつての国王の居城だったヴァヴェル城が築かれたのは、10世紀の中頃と伝えられているが、歴代の国王によって増改築が行われた。中央ヨーロッパで第2の古い歴史を持つ教育機関ヤギェウォ大学や、中央広場にある全長100mの織物会館、聖マリア教会も残っている。

4-⑬ アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所
文化遺産 ポーランド 1979年登録 登録基準⑥
● ナチスによる虐殺の歴史を語る負の遺産
第2次世界大戦中の1940年にナチス・ドイツによってつくられたポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所は、ドイツ軍が接収したポーランド軍兵舎を改築・増築したもの。この場所が選ばれたのは、鉄道での輸送・運搬が容易で、周囲からの隔離が簡単にできるためだった。海外向けには、「善意によってユダヤ人を保護収容する」「幸福世界」などと喧伝されていたが、実際には収容者に強制的な重労働を課し、処刑する場所だった。1942年にはアウシュヴィッツの近隣に第2収容所としてビルケナウ強制収容所を完成させた。殺害された人の数は約150万人と推測されており、90%がユダヤ人だった。以前は400万人ともいわれたが、正確な数は定かではない。ユダヤ人以外には政治犯、犯罪者、精神・身体障碍者、ロマなど少数民族も28種族にもおよび、多くの人命が毒ガスによって奪われた。銃殺刑や絞首刑、過労死、栄養失調死、自殺した者もいたという。終戦間近、ドイツは大量虐殺の実態を隠すため、強制収容所の破壊を始めたが、ソ連が予想より早くポーランド国内に侵攻したため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの建物の一部は残された。終戦後の1947年、ポーランド政府は、「死の収容所」を、ナチス・ドイツの凶行を証明するモニュメントとして保存することを決定。犠牲者を悼む慰霊碑も建設された。

4-⑭ ヴィエリチカ岩塩抗 
文化遺産 ポーランド 1978年登録・2008年範囲変更 登録基準④
● 岩塩で築いた礼拝堂がある岩塩抗
ポーランドの古都クラクフ南東に位置するヴィエリチカ岩塩抗は、13世紀から本格的な採掘がはじまった岩塩採掘所。2千万年前には海だったこのあたり一帯は、地殻変動により陸地に囲まれた塩湖となり、長い年月のうちに水分が蒸発して広大な岩塩層が誕生した。10世紀末にはその存在が知られ、12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、ヴィエリチカの採掘権を独占した。14~16世紀に採掘された岩塩は、ポーランド王国の財源の1/3を占めるほどだったという。18世紀にこの地がハプスブルク家領になった後、フランツ2世が坑道内を視察するために鉄道が敷かれた。こうしてヴィエリチカは9つの層に分かれる大規模なものとなり、700年間で深さ700m以上、総延長300kmに及んだ。坑道内には、頑丈な岩塩に守られた空間が広がり、特に観光客向けの3.5kmの坑道には、歴史上や神話上のさまざまなモチーフをかたどった彫像が並んでいる。屈曲した部屋や礼拝堂が岩塩で形成され、岩塩採掘史の展示までがなされている。さながら岩塩製の地下大聖堂のごとき景観を呈している。ここも、クラクフ歴史地区と同様、世界遺産第1号の12件の1つになったが、1989年に危機遺産リストに加えられた。原因は、換気装置に問題があったためで、坑内の湿度が適切に保たれるようにしたことで、1998年に危機遺産リストから除外された。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


DVD視聴後は、半月前に中欧旅行から帰ったばかりの菅原勉氏から、チェコが一人当たりのビール消費量世界一で、この国ほどビールが安くて旨い国はないといった興味深い話や、過去にチェコの首都プラハを訪れた反畑誠一氏と深澤雅子さんが音楽との関わりを語ってくれました。後半は、「5つの世界遺産をめぐるトルコ10日間の旅」を体験して4月5日に帰国した酒井義夫が、映像にあったイスタンブール・カッパドキア・パムッカレ以外に、「トロイヤ遺跡」と「エフェソス」を番外として紹介しましたので、参考にしてください。

「番外1」トロイヤ遺跡
文化遺産 トルコ 1998年登録 登録基準②③④
● 歴史が幾重にも重なる謎多き古代都市
トルコ北西部に位置し、ヒサルルクの丘に広がるトロイヤ遺跡は、紀元前3000年から紀元500年ごろに至るまで、9つの時代(第1市~第9市)が、古い年代順に折り重なるように層をなす古代都市遺跡。
「トロイヤ」が有名なのは、紀元前8世紀に書かれたホメロスの叙事詩『イリアス』で、トロイヤ戦争の舞台として登場するためだ。この物語は、トロイヤの王子パリスが、スパルタ王妃のヘレネを奪ったところから始まる。激怒したスパルタ王メネラーオスは、兄のミケナイ王アガメムノンと組み、ギリシャ中から兵を集めてトロイヤを攻めるものの、大きな城壁に囲まれたトロイヤは、10年経っても打ち破れない。ギリシャ連合軍将軍オデュッセウスが策略をめぐらせ、攻略をあきらめたふりをして、巨大な木馬を残し撤退したとみせかける。勝利を確信したトロイヤの戦士たちは、木馬を城内に引き入れ、祝宴に酔いしれてしまう。すると木馬の中に潜んでいた50人の勇士と、引き揚げたはずのギリシャ兵がもどって急襲し、トロイヤの町は一夜のうちに全滅したというもの。
この物語は神話上の架空の話といわれていたが、ドイツの実業家シュリーマンは史実に基づくものであると確信し、私財を投じて古代都市トロイヤの発掘に執念を燃やし、1873年に「プリアモス王の宝」と呼ばれる装飾品の杯や矢じりなどを発見する。その発掘で、この遺跡が一時代のものではなく、興亡を繰り返した数時代の遺跡が折り重なるように層をなしていることが判明。遺跡の調査は今も続いているが、その後の調査で、ミケーネ文明とトロイヤ文明が同時期であること、第6市と第7市がプリマオス王のトロイヤと推定された。また、第1市から第7市までは青銅器時代、第8市はギリシャ人、第9市はローマ人が建設したとされている。

「番外2」エフェソス
文化遺産 トルコ 2015年登録 登録基準③④⑥
● 悠久の歴史を物語る世界最大級の都市遺跡
トルコ西部の港湾都市エフェソス(エフェス)は、紀元前10世紀ころから人々が定住しはじめ、やがてギリシャからイオニア人がエフェスを中心にエーゲ海沿岸に都市国家をつくり、地中海貿易の集積港として栄えた。紀元前133年にはローマ帝国の支配下に入るとアジア州の州都として最盛期を迎えた。この遺跡には、紀元後2世紀ころまでの建造物が保存状態良く立ち並んでいる。必見遺跡のいくつかをあげると、まず、群を抜く美しさを誇るのが「セルスス図書館」の遺構で、壁には知識などを象徴する4体の像が立ち、柱、梁は細部にまで精緻な装飾が施され、かつては1万冊以上もの蔵書を誇り、アレキサンドリア、ペルガモンと肩を並べる図書館だったという。2万4000人を収容した半円形の「大劇場」は、丘を背にしたすり鉢状の構造は音響効果に優れ、今もオペラやコンサートなどが催されるそうだ。「ハドリアヌス神殿」には、みごとな女神ティケとメドゥーサの彫刻が残っている。三角屋根のある水道水として利用されていた「トラヤヌスの泉」のほか、商店や売春宿まで残るメインストリートを歩くと、活気に満ちたかつての大都市の様子や人々の暮しぶりが容易に想像できる。
紀元前3世紀には、アテネのパルテノン神殿をしのぐ「アルテミス神殿」(古代の世界七不思議の1つ)がエフェスに建っており、120本のイオニア式円柱に支えられた内部には、黄金や宝石で飾られた高さ15mのエフェソスの主神で豊穣の女神「アルテミス像」が祀られていたという。(2世紀に造られた2対のアルテミス像は「エフェス考古学博物館」に所蔵されている)
なお、キリストの昇天後聖母マリアと使徒たちは、エルサレムに教会を建てて布教をはじめたものの迫害にあい、ヨハネの弟ら命を落とす者も出てきた。エルサレムから逃れる決意をしたヨハネは紀元42年頃、聖母マリアとともにエフェスに移り住み、ヨハネはこの地で福音書を記して没した「聖ヨハネ教会(墓所)」がある。また、聖母が暮していたとされる東西全長260mもの「聖母マリア教会」も残されていたが真相は不明だった。18世紀になって、あるドイツの修道女が「聖母マリアの家はエフェスの丘にある」という夢を見たということがきっかけになって、本格的な調査が行われた結果、事実であることが証明され、1961年にローマ教皇ヨハネ23世は「エフェスは聖地」という宣言をしている。
(文責・酒井義夫)


「参火会」5月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 深澤雅子   文独1977年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 蕨南暢雄 文新1959年卒

2018年4月18日水曜日

第42回「参火会」4月例会 (通算406回) 2018年4月17日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第4回目『イタリア特集』

フィレンツェの歴史地区・ローマの歴史地区・ヴァティカン市国・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と食堂にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

前月の「参火会ブログ」に記した通り、今回は、ルネサンスの先駆けとなり、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロ、ミケランジェロらの優れた才能が残した芸術作品にあふれる「花の都フィレンツェ」、フォロロマーノ・コロッセウム・パンテオン・コンスタンチヌスの凱旋門など、単独でも世界遺産に登録してもよさそうな名所旧跡の宝庫ともいえる「ローマ」、ローマ市内にあってカトリックの総本山でもある「ヴァチカン」、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と隣接する食堂に描かれたレオナルド・ダ・ビンチの最高傑作のひとつ「最後の晩餐」に焦点をあてた会とすることになった。



まずはじめに、2004年にディアゴスティーニ・ジャパンから発売された「世界遺産DVDコレクション」の第1巻「フィレンツェ・ローマ・最後の晩餐」約47分の映像を視聴したあと、酒井義夫(弟)が中心となってメンバーとの対話を行った。酒井弟は、1987年に初めてローマを訪れてヴァチカン美術館やローマの数々の遺跡に感嘆して以来、1998年と2001年の「イタリア旅行」でヴァチカンを含むローマを3度訪ねたほか、フィレンツェとミラノの「最後の晩餐」には2度対面している。先に配布した資料の該当部分を加筆し、「最後の晩餐」(番外)を書き下ろしたので、参考にして下さい。

3-② フィレンツェの歴史地区
文化遺産 イタリア 1982年登録 登録基準①②③④⑥
● ルネサンスが咲き誇った「花の都」
イタリア中部に位置するトスカーナ地方のアルノ河畔に広がるフィレンツェは、14世紀末から17世紀にかけてルネサンスの中心となった商業都市。12世紀に自治都市(コムーネ)宣言をし、中世に毛織物業や金融業で栄え、14世紀初頭には13万人を擁する大都市に成長した。その中で台頭したメディチ家は、メディチ銀行を拡大させ、莫大な財を蓄えた。15世紀半ばには [コジモ・メディチ] が実質的に市政の支配権を握り、以後300年にわたってフィレンツェを支配した。市民の信望をえて、のちに「祖国の父」という称号を与えられたコジモは、市の税収の半分を負担し、図書館などの公共施設を建設、プラトン・アカデミーを設立して古典研究を奨励するとともに、ルネサンス芸術家を庇護した。フィレンツェの街でひときわ目を引く「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は、コジモの援助によって建設されたルネサンス様式の建物である。ほかにコジモはヨーロッパ初の孤児院やメディチ・リッカルディ宮なども建設した。つづくコジモの孫の [ロレンツォ・メディチ] は、他都市と巧みに均衡をはかって外交を安定させ、「春(プリマベーラ)」「ビーナスの誕生」で知られる画家のボッティチェリ、「モナリザ」の作者で学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家を支援した。若きミケランジェロを見出して彫刻を学ばせたのもロレンツォで、1501年に26歳のミケランジェロは、巨大な大理石から像を掘り出すという難行に挑んだ「ダビデ像」(アカデミア美術館所蔵) は、ローマ帝国以来の傑作とたたえられた。



16世紀に入ると、[コジモ1世] がトスカーナ大公となって領土を拡大し、数々の建物を改築するなどしてフィレンツェをさらなる華やかさに高めた。16世紀半ば、コジモ1世は、14世紀初めに建設されたゴシック様式の政庁舎ヴェッキオ宮を住居とし、大改築を施した。この宮殿の「五百人広間」壁面にはメディチ家を賞賛する絵で埋め尽くされている。また、メディチ家の財産はフィレンツェのものとされ、「ウフィツィ美術館」には、ボッティチェリの「春(プリマベーラ)」ほか代表作の数々、ダ・ヴィンチ「受胎告知」、ミケランジェロ「聖家族」など、世界最大級ともいえるメディチ家が収集した美術品が時代順、様式順に公開されており、「ルネサンス発祥の地・フィレンツェ」を代表する大美術館といえる。



その他、アルノ河左岸にある「ビッテ宮殿」には、ラファエロの「椅子の聖母」「ラ・ベラタ」やティツィアーノの「マグダラのマリア」などの名品がある「パラティナ画廊」のほか、磁器・銀器・馬車博物館、衣装美術館などルネサンス美術を概観できる宮殿も必見。

3-⑦ ローマの歴史地区
文化遺産 イタリア 1980年登録・1990年範囲拡大 登録基準①②③④⑥
● 長い歴史を伝える「永遠の都」
イタリア半島の中部にある首都ローマは、古代ローマ帝国の首都やキリスト教世界の中心地となった。ルネサンス以降は、芸術・文化の発信地などと地位を変えながらも、約2600年にもわたって、ヨーロッパの歴史の中で、重要な役割を果たしてきた。伝説によると、牝オオカミに育てられた双子のロムルスとレムスのうち、兄ロムルスが紀元前753年にパラティーノの丘にローマを築いたとされる。ローマの名はロムルスに因んでいる。紀元前10世紀ごろからこの地に人が住み始めると、都市国家となり紀元前509年に共和制となって、紀元前270年ころには半島全土を征圧して地中海の覇権を握った。その後政治的混乱に陥ったが、これを救ったのがカエサル(シーザー)で、紀元前46年に事実上ローマ皇帝の地位に登りつめたものの前44年に暗殺された。神格化されたシーザーの威光を利用した養子のオクタビアヌスが権力を掌握すると、紀元前27年にアウグストゥスを名のって初代皇帝となり、帝政が始まった。歴代の皇帝は、首都ローマに凱旋門、劇場、浴場、神殿、円形闘技場などを次々に建築し、現代も残る建築物群が立ち並ぶようになった。313年にはコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認すると、キリスト教文化が繁栄し、教皇の住むカトリック教会の中心地として聖堂群が建てられている。「ローマ歴史地区の主な建築物や場所」を掲げると、① フォロ・ロマーノ……「ローマ市民の広場」を意味する古代ローマの中心であり、最も重要な施設が集まっていた場所。廃墟に等しい状態とはいえ、政治的な演説や集会、祭り、皇帝たちの凱旋行進が行われた当時の道路や建物群を忠実に追うことができる。② コロッセウム……80年に完成した世界最大の円形闘技場。ヴェスバシアヌス帝が市民のための娯楽場とし、剣闘士同士の戦いや剣闘士と猛獣との格闘などの見世物が行われた。一層目がドーリア式、2層目がイオニア式、3層目がコリント式。③ パンテオン……ローマ人が信仰する「万神殿」。紀元前27年にアグリッパが建て、ハドリアネス帝が改築。ミケランジェロが「天使の設計」と絶賛する古代ローマ時代の建築当時の姿をほぼ伝える唯一ともいえる建造物。④ コンスタンチヌスの凱旋門……315年に、キリスト教を公認するきっかけとなったマクセンティウスとの戦いに勝利したことを記念して建てられたローマ最大の凱旋門で、のちのパリの凱旋門の手本となった。



⑤ スペイン広場……映画『ローマの休日』で有名になった広場。135段の階段を一番上まで登ると、ローマを一望できる。「フランス教会」(リニタ・デイ・モンティ教会)前にある18世紀の「オベリスク」も人気スポット。階段下には、低い水圧を利用したベルニーニの父ピエトロの「パルカッチャ(老いぼれ舟)の噴水」があり、飲料水としておいしいと評判。⑥ ボルゲーゼ美術館……名門貴族ボルゲーゼ家歴代のコレクションが堪能できる邸宅美術館で、バロック期の偉大な彫刻家ベルニーニの最高傑作の数々、ラファエロ「一角獣を持つ若い女性の肖像」カラヴァッジョ「果物かごをもつ少年」、ティツィアーノ「性愛と俗愛」、クラーナハ「ヴィーナスとキューピッド」などを所蔵。



⑦ トレビの泉……ローマで最も大きな噴水。肩ごしにコインを投げ入れると、またローマに戻って来られるという伝説がある。1700年代半ばにコンテストで優勝したニコラ・サルヴィの設計によるもので、想像以上の大きさのバロック様式の泉に圧倒される。⑧ カラカラ浴場……1600人が同時に入浴できるほか、劇場・運動場・庭園を含む16万㎡もの総合娯楽施設跡。そのほか、ローマには単独でも「世界遺産」登録の価値あるものが多数存在する。

3-⑧ ヴァティカン市国
文化遺産 ヴァティカン 1984年登録 登録基準①②④⑥
● 教皇庁の置かれるキリスト教世界の最重要都市



ローマ教皇を国家元首とする「ヴァティカン市国」は、面積0.44㎢、人口800人の世界最小の独立国で、カトリック教会の中枢として、国全体が世界遺産に登録された唯一の場所。サン・ピエトロ寺院の立つヴァティカンの丘は、イエス・キリストの最初の弟子といわれる聖ペテロの墓所があったとされる場所。そこに、ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教を保護したコンスタンチヌス1世の命により、バシリカ式の教会堂が建てられた。それから1000年ほど経った15世紀中頃になると、教会堂が老朽化したため、時の教皇ニコラウス5世によってより大きな聖堂への改築工事が始められた。ブラマンテを主任建築家に迎えて建築が始まるものの、技術的・資金的理由で工事は長い年月がかかり、ブラマンテの死後、ミケランジェロらに引き継がれて世界最大の「サン・ピエトロ大聖堂」が完成したのは1626年、着工から完成までに約120年後のことだった。大聖堂以外の「ヴァティカン市国の主な建築物」は次のとおり。① ヴァティカン宮殿……サン・ピエトロ大聖堂の北部に広がるこの宮殿は、1378年以降ローマ教皇の住居となっている。宮殿内部には美術館、図書館、礼拝堂など多数あり、それらを総称して「ヴァティカン美術館」といわれている。美術館として開放されている部分だけでも1400部屋にもおよび、歴代教皇のコレクションで飾られている。



② システィーナ礼拝堂……ヴァティカン美術館内の礼拝堂のひとつで、ミケランジェロの描いた天井画「創世記」や壁画「最後の審判」が特に有名。

③ ラファエロの間……ラファエロが手掛けた壁画がある4室。特に「署名の間」にあるギリシャの哲学者を描いた「アテナイの学堂」はラファエロの最高傑作とされる。



④ サン・ピエトロ広場……ベルニーニが設計した284本の円柱が広場を囲む。列柱廊の上部にある140体の聖人像もベルニーニとその弟子たちによる彫刻。⑤ オベリスク……サン・ピエトロ広場の中央に立つモニュメント。古代ローマの皇帝カリグラがエジプトから運ばせたとされる。

「番外」
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院と食堂の「最後の晩餐」
文化遺産 イタリア 1980年登録 登録基準①②
● レオナルド・ダ・ヴィンチの不朽の名作が残された修道院
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院は、15世紀半ばにドメニコ会の修道院としてゴシック様式でつつましく建てられていた。これを1492年、ミラノ公ルドヴィコは、一族の霊廟にするため、ルネサンス建築の先駆者で当世一の建築家ブラマンテ(のちにヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の設計を手がけた)に命じ、ルネサンス様式による改築と拡張を図ることを決めた。ブラマンテは聖堂の北側に、修道院の景観を見渡すルネサンス様式の回廊を造り、 聖堂には、スフォルツァ家の霊廟となる 巨大な円蓋を載く内陣を新たに建設した。さらにミラノ公は1494年、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに、修道院に隣接する食堂の壁画に『最後の晩餐』の制作を依頼した。



2年後に完成した作品は、「この中に裏切り者がいる」と、イエス・キリストとその言葉に驚愕して動揺する使徒たちを描いたもので、磔刑前夜の劇的瞬間を描いた芸術史に新しい時代を開いた名作として讃えられている。当時の壁画は、漆喰を塗った壁に水で溶いた顔料で描くフレスコ画が主流で、漆喰が乾く前に一気に仕上げねばならず、作業の中断や描き直しは不可能だった。気が乗らないとすぐに仕事を中断し、熱中すれば何度でも描き直したダ・ヴィンチは、中断や描き直しができるテンペラ画法(乾いた壁に、顔料を卵などの溶剤で練った絵の具で描く)を選択した。ところが、テンペラは絵の具が壁に染み込まず、やがて湿気で剥落する運命にあった。完成してまもなく、絵には細かい亀裂が生じていたため、ダ・ヴィンチは、それを一度は塗り直したものの、ミラノを去り、以後、この絵に執着することはなかった。剥落は次第に激しくなり、50年後には絵の多くが傷んでいた。18世紀の修復家は、油彩で筆を入れ、原画を描き変えるなど強引な修復が行われ、これは美術ファンの期待を裏切るものだった。1977年に、本格的な修復活動が始まった。修復家のピニン・ブランビッラが中心になり20年以上の歳月をかけたもので、表面に付着した汚れなどの除去、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が進められたことで、後世の修復家の加筆は取り除かれ、「キリストの口が開いていた」「背景の左右の壁にある黒い部分には花模様のタペストリがかけられていた」などが 新たに判明するなど 、この執念の修復で、500年ぶりにダ・ビンチの原画が復活したといえそうだ。

会の後半は、インターカルチャークラブが制作した「世界の美術館」の『ヴァティカン美術館』を観賞した。特に、システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画『創世記』を詳しく解説した部分はとてもわかりやすく、改めてそのすばらしさに感嘆したという声や、「聖母の画家」といわれるラファエロが描いたヴァティカーノ宮・署名の間にある『アテネの学堂』の見事さを改めて知ったという声もあがった。

なお、植田康夫氏が4月8日に転移性肺がんでお亡くなりになり、11日に家族葬をされたことを、16日に「参火会」メンバー全員に次のようにメールした。

植田氏は、上智大学新聞学科を卒業後すぐに、出版界の情報紙の一つ「週刊読書人」に入社して同紙の編集に携わり、1982年から編集長を務めました。1989年に同社退社後、新聞学科の助教授、1992年から2008年まで同教授として新聞学科長を務めながら、日本出版学会会長、日本マスコミ学会理事などを歴任されました。2008年からは名誉教授のかたわら「週刊読書人」取締役編集主幹、2013年からは同社社長となって活動するかたわら、『本は世につれ。』『出版の冒険者たち。』『雑誌は見ていた。』という氏の遺書ともいうべき出版3部作を発表され、敬服しておりました。まさに植田氏は、「出版論」を学問として確立した現代日本を代表する編集者の一人として称えられる存在でしょう。そういう経歴の方が、私たち「参火会」のメンバーとして身近に接してくれたことに感謝するとともに、氏のご冥福をお祈り申し上げます。



そこで今回は会の始めに、向井昌子さんや増田道子さんが用意してくれた花束やお香、竹内光氏が用意してくれた元気なころの写真を前に、植田康夫氏の霊へ献杯させてもらった。また、植田氏が「大宅壮一東京マスコミ塾」の第1期生で、大宅壮一文庫の監事をやられていたことから、後日「大宅壮一文庫」が中心となってお別れの会が開かれる予定という最新情報を伝えた。
(文責・酒井義夫)


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒

2018年3月23日金曜日

第41回「参火会」3月例会 (通算41回) 2018年3月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第3回目 ヨーロッパ篇③ イタリア・バチカン・ギリシャ・オーストリア・ドイツ

今回は、下記資料「3-①~⑲」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した 3-①~⑲ の映像約42分を視聴した。



3-①  ヴェネツィアとその潟 
文化遺産 イタリア 1987年登録 登録基準①②③④⑤⑥
● 東方貿易で栄華を極めた水の都
イタリア北東部アドリア海に浮かぶヴェネチアは、海上に築かれた都市。118の島、176の運河、400以上の橋からなっていて、「アドリア海の女王」と称されている。この地に人々が定住しだしたのは、6世紀ころからといわれ、異民族の武力侵攻を受けたヴェネト人が、アルプスを越えてこの地域の潟(ラグーナ)に都市を築いた。7世紀に入ると本格的な建物が建てられるようになり、漁や交易経済体系が確立していった。8世紀にはヴェネチア共和国として実質的な独立国家となり、9世紀には聖マルコ(『マルコの福音書』を著す)の聖遺物が持ちこまれ、その遺骨を奉るサン・マルコ大聖堂がつくられた。その後300年間、東西貿易の一大拠点として発展したが、1797年ナポレオン1世による侵略を受け、約1100年続いた歴史に幕が下ろされた。832年に創建された「サン・マルコ大聖堂」は、一時火災によって焼失したが、1094年に今も残るビザンツ様式で再建された。内部には総面積4000㎡のモザイク画があり、マルコの福音書やヴェネチアの歴史などが描かれている。大聖堂に隣接する「ドゥカーレ宮殿」は9世紀に建造され、14世紀にヴェネチア共和国総督の邸宅に改築され、16世紀にヴェネチア派の画家ティントレットが描いた「天国」でも有名。カナル・グランデに架かる「リアルト橋」は、12世紀の木造橋を起源とし、16世紀に石造に改築されたが、この橋付近は、ヴェネチア最古の歴史をもつ。「カ・ドーロ」は、カナル・グランデに面して建つヴェネチア・ゴシック様式の邸宅で、外壁に金箔が用いられているため「黄金の館」とよばれ、ヴェネチア一の美しい建物といわれる。ヴェネチアは現在、地下水や天然ガスの採取の影響から、海に沈みかけており、1986年からユネスコが救済団体を組織し、世界各国から支援を受けて救済活動が行われている。 

3-② フィレンツェの歴史地区
文化遺産 イタリア 1982年登録 登録基準①②③④⑥
● ルネサンスが咲き誇った「花の都」
イタリア中部に位置するトスカーナ地方のアルノ河畔に広がるフィレンツェは、14世紀末から17世紀にかけてルネサンスの中心となった商業都市。12世紀に自治都市(コムーネ)宣言し、中世に毛織物業や金融業で栄え、14世紀初頭には13万人を擁する大都市に成長した。その中で台頭したメディチ家は、メディチ銀行を拡大させ、莫大な財を蓄えた。15世紀半ばには「コジモ・メディチ」が実質的に市政の支配権を握り、以後300年にわたってフィレンツェを支配した。市民の信望をえて、のちに「祖国の父」という称号を与えられたコジモは、市の税収の半分を負担し、図書館などの公共施設を建設、プラトン・アカデミーを設立して古典研究を奨励するとともに、ルネサンス芸術家を庇護した。フィレンツェの街でひときわ目を引く「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は、コジモの援助によって建設されたルネサンス様式の建物である。ほかにコジモはヨーロッパ初の孤児院やメディチ・リッカルディ宮なども建設した。つづくコジモの孫の「ロレンツォ・メディチ」は、他都市と巧みに均衡をはかって外交を安定させ、「春(プリマベーラ)」「ビーナスの誕生」で知られる画家のボッティチェリ、「モナリザ」の作者で学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家を支援し、若きミケランジェロを見出して彫刻を学ばせたのもロレンツォで、1501年に26歳のミケランジェロは、巨大な大理石から像を掘り出すという難行に挑んだ「ダビデ像」は、ローマ帝国以来の傑作とたたえられた。16世紀に入ると、「コジモ1世」がトスカーナ大公となって領土を拡大し、数々の建物を改築するなどしてフィレンツェをさらなる華やかさに高めた。16世紀半ば、コジモ1世は、14世紀初めに建設されたゴシック様式の政庁舎ヴェッキオ宮を住居とし、大改築を施した。この宮殿の「五百人広間」壁面にはメディチ家を賞賛する絵で埋め尽くされている。なお、メディチ家の財産はフィレンツェのものとされ、「ウフィツィ美術館」にはメディチ家が収集した美術品の大半が公開されている。

3-③ ピサのドゥオモ広場
文化遺産 イタリア 1987年登録・2007年範囲変更 登録基準①②④⑥
● かつての海洋王国の繁栄をしのばせる建築群が残る広場
イタリア中部トスカーナ地方にあるピサのドゥオモ広場は、かつて地中海の覇権を握ったピサの繁栄を今に伝える。古代ローマ時代から他都市に支配され続けたピサは、11世紀にようやく自治都市になる。地中海沿岸の商業ルートを確立し、1063年にパレルモ沖海戦でサラセン軍に勝利した。また、数度の十字軍にも参加したことで、地中海航路の大半を支配下として、地中海貿易の拠点として繁栄した。このころの貿易で築いた莫大な富を背景につくられたのが、ドゥオモ広場の個性的な建築群。最も古い「大聖堂」は、パレルモ沖海戦の勝利を記念して海戦勝利直後に着工され、1380年に完成。白亜の大理石による均整の取れたロマネスク様式で、トスカーナ地方における聖堂のモデルとなった。大聖堂の正面にある「洗礼堂」は、完成に200年以上かかったことで、下層はロマネスク様式、上層はゴシック様式の建造物。内部はビザンツ様式の影響を受け、説教壇の側面には新約聖書の諸場面を表現したレリーフで知られる。1173年に着工された鐘楼は「ピサの斜塔」として有名。軟弱な地盤が原因で、着工後ほどなく傾斜が始まり、以来傾いた側を少しずつ高くして水平を保つように工事が行われたが、当初予定されていた高さを下方修正し、つり鐘のある最上層が取り付けられ55mで完成した。16世紀にガリレオが大きさの異なる鉄球を同時に落下させる実験を行ったという伝説でも有名。

3-④ ナポリの歴史地区
文化遺産 イタリア 1995年登録 登録基準②④
● 大国支配の歴史を物語る街並み
イタリア南部のナポリ湾に面するナポリは、紀元前5世紀に古代ギリシャによって建設された植民都市で、そのころは「新しい都市」を意味するネオポリス、転じてナポリと呼ばれるようになった。海上交易で栄えたナポリは、古代ローマ帝国や東ゴート王国の支配期を経て、6世紀にはビザンツ帝国の支配下に入り、8世紀からはナポリ公国として独立状態を保った。12世紀にノルマン人によるノルマン・シチリア王国の手に渡って、同国の首都となった。その後、オーストリア、フランス、スペインなどの大国の支配に置かれた末、1861年にイタリア王国に併合されて現在に至っている。美しいナポリ湾と、ヴェスヴィオ火山が織りなす風光明媚なところから、「ナポリを見て死ね」とまでいわれた。世界遺産に登録されたのはナポリの西部で、「スパッカ・ナポリ(ナポリをまっ2つに切る)」といわれ、ナポリ独特の雑然とした下町風景は、誕生以来2500年間に支配国の変遷とともに変わり続けた文化の影響が色濃く反映されている。
 
3-⑤ ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アヌンツィアータの考古地区
文化遺産 イタリア 1997年登録 登録基準③④⑤
● 古代ローマ都市を現代に蘇らせたタイムカプセル
イタリア南部のポンペイは、紀元79年、近郊にそびえるヴェスヴィオ火山の噴火により、火山灰に埋没した。16世紀に農民が偶然発見したポンペイの遺跡は、1748年から始められた発掘によって、姿を現した。広場を中心に市場や神殿、市庁舎、野外劇場、娼館、公共浴場給水設備など……の遺構が見つかり、当時の民衆の生活ぶりを今に伝える。また、高級リゾート地だったエスコラーノからは、ポンペイより優れた排水設備が、トッレ・アヌンツィアータからはネロ皇帝の后の別荘が発見された。

3-⑥ アルベロベッロのトゥルッリ
文化遺産 イタリア 1996年登録 登録基準③④⑤
● 奇妙な屋根の「トゥルッリ」が並ぶ街
南イタリアのブーリア地区には、石灰岩の土壌が広がっており、古くから石灰石を用いた独自の建築が発達した。アルベロベッロのトゥルッリも、独特の円錐状の屋根を持つ住居で、ひとつの部屋にひとつの石積みの屋根がつき、そんな部屋がいくつか集まって一軒の家になる。現在、アルベロベッロ旧市街にある2つの地域に、1000以上のトゥルッリがあり、現役の住居建築となっているが、石積み技術の継承など保存上の課題がある。

3-⑦ ローマの歴史地区
文化遺産 イタリア 1980年登録・1990年範囲拡大 登録基準①②③④⑥
● 長い歴史を伝える「永遠の都」
イタリア半島の中部にある首都ローマは、古代ローマ帝国の首都やキリスト教世界の中心地。ルネサンス以降は、芸術・文化の発信地などと地位を変えながらも、約2600年にもわたって、ヨーロッパの歴史の中で、重要な役割を果たしてきた。伝説によると、オオカミに育てられた双子のロムルスとレムスのうち、兄ロムルスが紀元前753年にパラティーノの丘にローマを築いたとされる。ローマの名はロムルスに因んでいる。紀元前10世紀ごろからこの地に人が住み始めると、都市国家となり紀元前509年に共和制となり、紀元前270年ころには半島全土を征圧して地中海の覇権を握った。紀元前27年にアウグストゥス(オクタビアヌス)を初代皇帝とする帝政が始まり、歴代の皇帝は、首都ローマに凱旋門、劇場、浴場、神殿、円形闘技場などを次々に建築し、現代も残る建築物群が立ち並ぶようになった。313年にはコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認すると、キリスト教文化が繁栄し、教皇の住むカトリック教会の中心地として聖堂群が建てられている。「ローマ歴史地区の主な建築物」を掲げると、① フォロ・ロマーノ……「ローマ市民の広場」を意味する古代の公共広場。政治的な演説や集会、祭り、皇帝たちの凱旋行進が行われた。② コロッセウム……80年に完成した世界最大の円形闘技場。ヴェスバシアヌス帝が市民のための娯楽場とし、剣闘士同士の戦いや剣闘士と猛獣との格闘などの見世物が行われた。一層目がドーリア式、2層目がイオニア式、3層目がコリント式。③ パンテオン……ローマ人が信仰する「万神殿」。紀元前27年にアグリッパが建て、ハドリアネス帝が改築。ミケランジェロが「天使の設計」と絶賛。④ コンスタンチヌスの凱旋門……315年に、政敵に勝利したことを記念して建てられたローマ最大の凱旋門。他に、「カラカラ浴場」「フォーリ・インペリアーリ(諸皇帝の広場)「アウレリアヌスの城壁」など、単独でも「世界遺産」登録の価値あるものが多数存在する。

3-⑧ ヴァティカン市国
文化遺産 ヴァティカン 1984年登録 登録基準①②④⑥
● 教皇庁の置かれるキリスト教世界の最重要都市
ローマ教皇を国家元首とする「ヴァティカン市国」は、面積0.44㎢、人口800人の世界最小の独立国で、カトリック教会の中枢として、国全体が世界遺産に登録された唯一の場所。サン・ピエトロ寺院の立つヴァティカンの丘は、イエス・キリストの最初の弟子といわれる聖ペテロの墓所があったとされる場所。そこに、ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教を保護したコンスタンチヌス1世の命により、バシリカ式の教会堂が建てられた。それから1000年ほど経った15世紀中頃になると、教会堂が老朽化したため、時の教皇ニコラウス5世によってより大きな聖堂への改築工事が始められた。ブラマンテを主任建築家に迎えて建築が始まるものの、技術的・資金的理由で工事は長い年月がかかり、ブラマンテの死後、ミケランジェロらに引き継がれて世界最大の「サン・ピエトロ大聖堂」が完成したのは1626年で、着工から完成までに約120年後のことだった。大聖堂以外の「ヴァティカン市国の主な建築物」は次のとおり。① ヴァティカン宮殿……サン・ピエトロ大聖堂の北部に広がるこの宮殿は、1378年以降ローマ教皇の住居となっている。宮殿内部には美術館、図書館、礼拝堂など多数あり、それらを総称して「ヴァティカン美術館」ともいわれている。美術館として開放されている部分だけでも1400部屋にもおよび、歴代教皇のコレクションで飾られている。② システィーナ礼拝堂……ヴァティカン美術館内の礼拝堂のひとつで、ミケランジェロの描いた天井画「創世記」や壁画「最後の審判」が特に有名。③ ラファエロの間……ラファエロが手掛けた壁画がある4室。特に「署名の間」にあるギリシャの哲学者を描いた「アテナイの学堂」はラファエロの最高傑作とされる。④ サン・ピエトロ広場……ベルニーニが設計した284本の円柱が広場を囲む。列柱廊の上部にある140体の聖人像もベルニーニの彫刻。⑤ オベリスク……サン・ピエトロ広場の中央に立つモニュメント。古代ローマの皇帝カリグラがエジプトから運ばせたとされる。

3-⑨ アテネのアクロポリス 
文化遺産 ギリシャ 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 女神アテネに捧げられた神殿群
アクロポリスは、古代ギリシャ最大の都市国家アテネの遺構が残る丘。標高456mの石灰岩の岩山の周囲に城壁を築いてつくられた面積4㎢のテーブル大地に、パルテノン神殿を中心とした古代ギリシャ建築の最高峰とされる建築物群が立ち並ぶ。アテネの古名アテナイは、この地の守護神であるオリンポス12神の一神で、戦いと知恵の女神アテナに由来する。ギリシャ神話によれば、アテナは海の神ポセイドンとこの都市の守護神の座を争い、どちらからの贈物がより市民を喜ばせるかを競った。ポセイドンが三叉の矛で岩を打ち海水の泉を噴出させると、アテナは杖で地を突いてオリーブの樹を生やした。人々は、飲めない海水より、生活に実りのあるオリーブを選び、アテナがこの都市の守護神に選ばれた。今も、アクロポリスの丘には、アテナが芽生えさせたというオリーブの樹が残っている。この地には、5000年も前から人が住みはじめ、紀元前8世紀ころからこの丘のふもとに街が形成され、丘の上にアテネの神殿が作られ、聖域として発展した。その後ペルシア戦争でアクロポリスは潰滅的な打撃を受けるものの、ペルシアに対抗するデロス同盟の盟主として繁栄し、ペリクレスがパルテノン神殿などの神殿を建造。やがてソクラテス、プラトン、アリストテレスら知識人がアクロポリス北西部のアゴラに集まって、哲学や政治を論じ、劇場ではアイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスらの劇が演じられるなど、アテネはその後の世界に多大な影響を与えるギリシャ文化の中心地となった。「パルテノン神殿」は、ペルシア戦争の勝利を祝ってアテナに捧げられた神殿で、彫刻家フェイデアスを総監督に10年の歳月をかけて完成させた。高さ10.8mのエンタシスを持つ柱が東西に8本、南北に17本ずつ、計46本並ぶ。

3-⑩ ロドス島の中世都市
文化遺産 ギリシャ 1988年登録 登録基準②④⑤
● エーゲ海に浮かぶ要塞都市
エーゲ海の海上交通の要衝に位置するロドス島は、古代ギリシャ、古代ローマ、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国と、各時代の強国や軍隊の支配下におかれた歴史を持つ。世界遺産に登録されたのは、聖ヨハネ騎士団がイスラム帝国に対抗するために築いた全長4kmに及ぶ城壁に守られた要塞都市。城壁には11の門が造られ、城壁内には使用言語が分かれた8つの騎士団の館、騎士団長の館、施療院などのゴシック建築が良好な保存状態で残っている。16世紀以降は、オスマン帝国の支配下に入り、モスクや公共浴場などのイスラム建築も建てられた。

3-⑪ シェーンブルン宮殿と庭園
文化遺産 オーストリア 1996年登録 登録基準①④
● ハプスブルク家の栄光を伝えるマリア・テレジアの居城
オーストリア東北部、首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿は、オーストリアの女帝マリア・テレジアが大規模な増改築を行い、建造物と庭園が一体化した総合芸術作品と賞されている。その前進は、17世紀末、神聖ローマ帝国レオポルド1世がオーストリア・バロックを代表する建築家フィッシャーに命じて造営させた離宮で、1740年にマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継承すると、ここを居城と定めて大改築したもの。規模が拡大されただけでなく、壁画や装飾が施され、庭園も拡張され、つつましやかだった離宮は、壮大な宮殿に変貌した。19世紀に入って神聖ローマ帝国は崩壊するが、シェーンブルン宮殿は、歴史の舞台であり続け、ナポレオン1世がウィーンを占領した際には司令部がおかれ、1814~15年にはウィーン会議が開かれ、1961年にはアメリカ大統領ケネディとソ連の最高指導者フルシチョフとの歴史的会談が行われた。総部屋数1400を超える宮殿の中で最も豪華な部屋「百万の間」は、中米から取り寄せた紫檀の壁に囲まれ、金箔の額に入れられたペルシアの細密画が飾られている。公式行事の謁見の場だった「鏡の間」は、幼いモーツァルトがマリア・テレジアの前で御前演奏をした部屋でもある。その他「ナポレオン室」、庭園の間といわれる「ベルグルの間」など、みどころ多数。花壇を中心に広がる庭園には、噴水やアーケード、植え込みなどが巧みに配置されているほか、世界最古の動物園、ガラス建築の植物園なども立ち並ぶ。

3-⑫ ザルツブルク市街の歴史地区
文化遺産 オーストリア 1996年登録 登録基準②④⑥
● 塩の交易で栄えた大司教の街
オーストリア北西部に位置し、ドイツ国境近くの山間部にあるザルツブルクは、紀元前から岩塩の採掘と交易によって栄えた宗教都市。739年に司教座がおかれ、司教都市の性格を強め、8世紀には大司教座に昇格した。1077年には、教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争をめぐりローマ教皇側に立った大司教が、帝国の侵攻から逃れるための隠れ家として「ホーエンザルツブルク城」を建設した。この城は、建設以来、拡張と軍備強化が繰り返され、15世紀には武器庫を備える城塞となった。16世紀になると、塩の取引で生ずる税金により莫大な富を手にした大司教たちが、「北のローマ」をめざしてバロック建築に力を注ぎ、特に1578年に就任したディートリヒ大司教は、歴代大司教の邸宅となるレジデンスや大聖堂を完成させた。いっぽう、ドイツ語圏最初期の教会建築や、696年ごろ作られた最古の男子修道院も残っている。ザルツブルクは、音楽の都としても知られ、1920年から開かれる夏の「ザルツブルク音楽祭」や、ザルツブルク生まれのモーツァルトを記念して開催されるフェスティバルには、世界中から毎年多くの人が訪れる。

3-⑬ グラーツ歴史地区
文化遺産 オーストリア 1999年登録・2010年拡大登録 登録基準②④
● ハプスブルク家の庇護のもとに発展した歴史都市
ウィーン東北にあるオーストリア第2の都市グラーツは、古代ローマ帝国の時代に設けられた砦が起源で、町の語源はスラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきている。15世紀末、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世がエッゲンベルグ城を築くと、ハプスブルク家の庇護のもとに発展。歴史地区には、聖エギディウス大聖堂や、ドイツ語圏初のルネサンス建築のイエズス会神学校が残る。2010年に追加登録された「エッゲンベルグ城」は、ゴシック様式のホール、後期ゴシック様式の礼拝堂やらせん階段、ルネサンス様式の庭など、時代時代の建築様式が融合している。

3-⑭ ハルシュタット・ダッハシュタイン、ザルツカンマーグートの文化的景観
文化遺産 オーストリア 1997年登録 登録基準②④
● 山と湖に囲まれた美しき「塩の街」
オーストリア中央部にある「ザルツカンマーグート(良い塩の産地の意)地方」は、アルプスの山々に囲まれた風光明媚な湖水地帯で、その名の通り、古来より岩塩の採掘で栄えてきた。中でもハルシュタットの街の周辺では、岩塩の採掘は数千年にもわたるもので、先史時代の墓地や青銅器などの遺物が発掘されていて、その文化は「ハルシュタット文化」と呼ばれている。その後もローマ帝国などによって岩塩採掘が進められ、中世には岩塩は「白い黄金」といわれるほど価値が高まり、16世紀に神聖ローマ帝国によって国有化され、ハプスブルク家の重要な財源となった。この街の近くにあるダッハシュタイン山には、巨大な氷穴や洞窟がひろがっており、地質学的重要さから、ここも併せて世界遺産に登録された。

3-⑮ ヴァッハウ渓谷の文化的景観
文化遺産 オーストリア 2000年登録 登録基準②④
● 中世そのままの景観を残すドナウの渓谷
オーストリア北部のドナウ川下流地域に広がる景勝地で、メルクからクレムスに至る南北の山脈に抱かれた36キロに及ぶ渓谷一帯地域をさす。渓谷の両岸には古城やメルク修道院など修道院が点在し、観光クルーズとしても人気が高い。ドナウ川流域には太古の人々が生活していた数多くの痕跡が残っているが、1909年にヴィレンドルフで発見された石像はその精緻さにおいて最上のもので、「ヴィレンドルフのヴィーナス」と呼ばれている。

3-⑯ ケルン大聖堂
文化遺産 ドイツ 1996年登録 登録基準①②④
● 時代を超えて生みだされた荘厳なゴシック聖堂
ドイツの西部、ライン河畔にあるドイツ有数の古都ケルンに、ひときわ高くそびえる大聖堂は、1248年の建築開始から632年もの長い歳月をかけ、1880年に完成した。大聖堂の基となった聖堂は、9世紀に建てられたもので、火災により一度焼失して再建された。13世紀に入って大規模な建て替えが計画されると、建築家のゲルハルトが招かれ、フランスのアミアン大聖堂を手本とする工事がはじまった。ところがあまりに壮大な計画だっため、ゲルハルトの死後も設計担当者が何代も引き継がれたが、たびたび資金不足に陥った。工事開始から300年以上過ぎた1560年に、内陣が完成しただけで工事はまた中断してしまう。その後300年間も、そのままの姿で放置された。1814年に偶然、オリジナル図面が発見され、その2年後にそれを補完する資料が見つかると、1842年ついに工事が再開され、38年後の1880年、中世そのままのゴシック様式の大聖堂が人々の前に姿を見せた。長期間にわたる建築では、その時代の様式に影響を受けて設計が変更されてしまうことが多いが、ケルンの大聖堂は、最初の図面通り、純粋なゴシック様式として完成した。奥行き144m、最大幅86mの建築で、高さ157mの2本の尖塔は、聖堂建築としてはドイツ「ウルム大聖堂」(161.53m)に次ぎ、世界2位の高さを誇る。

3-⑰ ヴュルツブルク司教館、その庭園と広場
文化遺産 ドイツ 1981年登録・2010年範囲変更 登録基準①④
● バロック様式の粋を集めた壮麗な館
南ドイツのロマンティック街道の起点となるヴュルツブルクは、11世紀ころから司教領として栄えた都市で、17~18世紀には、地方領主のシェーンボルン家が司教の座につき隆盛の時を迎えた。1719年に司教に任命されたヨハン・フィリップ・フランツは、市の中心に司教館の建設を決め、建築家バルタザール・ノイマンに設計を依頼。指揮をとるノイマンのもとには、イタリアやオーストリアから一流の建築家や画家、装飾家が集まり、1744年に内装と庭園をのぞいた建物が完成した。それから36年後の1780年、内装と庭園の完成をもって18世紀バロック建築の傑作と評される司教館が完成した。建物内には5つの大広間と300以上の部屋があるが、中でも有名なのは「階段の間」で、柱の無い広大な吹き抜けに画家ティエポロの描いた世界で一番大きいフレスコ天井一枚画がある。この吹き抜けは、当時としては常識外れの設計で、「設計ミス」「絶対に崩れる」などと酷評されが、ノイマンは「砲弾を打ち込まれても崩れない」と反論、事実、第二次世界大戦の空襲でここだけ天井が残った。その頑丈さには、建材に軽くて丈夫で耐火性がある凝灰岩を使ったためで、レジデンツ裏にはホーフ庭園が広がる。

3-⑱ ライン渓谷上流中部
文化遺産 ドイツ 2002年登録 登録基準②④⑤
● 中世の伝説に彩られたロマンあふれる渓谷
南北ヨーロッパの大動脈であるライン川のうち、コブレンツとビンゲン・アム・ライン間の65kmにわたる渓谷が世界遺産に登録されたところで、古城やブドウ畑などが織りなす景観が広がる。8~14世紀にかけて川岸に関所となる城や城塞が40以上も築かれたが、17~18世紀にドイツとフランスの抗争により荒廃した。19世紀初頭、プロイセンの統治下に入ると通行税が廃止され、荒れはてた古城の改修が進められた。なお、現在では渓谷に沿ってのクルージングが盛んに行われており、ザンクト・ゴアー西側あたりがライン川で最も川幅が狭いが、詩人ハイネの詩でうたわれたローレライの岩があるところとして有名。
  
3-⑲ エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群
文化遺産 ドイツ 2001年登録 登録基準②③
● ドイツ重工業の発展に寄与した炭坑業遺跡群
ドイツ西部エッセン市にあるツォルフェライン炭坑業遺産群は、19世紀半ばに発足したドイツ関税同盟炭坑の跡地。この炭鉱は世界最大規模の採掘量を誇ったが、燃料の主流が石油へ移行したことで衰退し、1986年に産業遺産として保護されることになった。特に、1932年より稼働開始した第12抗のボイラー棟は、中世のバウハウスのスタイルを採り入れた建物により、近代産業建築のモニュメントと見なされ、現在はデザインセンターとして利用されている。


世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後、今回も前回と同じような流れで、酒井(兄)猛夫の記した「海外旅行ブログ」を基に、ほとんどの場所を訪問したことのある酒井義夫が中心となって補足説明を行い、メンバーとの対話を行った。そして、後半の初めに次のような提案をした。

「42分間の映像をご覧になって、多くの方がお気づきになったと思いますが、本田技研系列のSBGが制作した [一つの世界遺産を1分半から2分半(平均2分)にまとめた映像] は、ほぼ的確と思われましたが、今回のメインとなっているイタリアの「フィレンツェ」「ローマ」「ヴァチカン」までもが2分程度になっているのは、いささか不満が残るものでした。そこで提案ですが、次回(4月17日)の「参火会」は、「イタリア特集」として、ルネッサンスの先駆けとなり、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロらの優れた才能が遺した芸術作品にあふれる「花の都フィレンツェ」、フォロロマーノ、コロッセウム・パンテオン・コンスタンチヌスの凱旋門など、単独でも世界遺産に登録してもよさそうな名所旧跡の宝庫ともいえる「ローマ」、ローマ市内にあってカトリックの総本山として国のすべてが世界遺産となっている「ヴァチカン」、そしてもう一つ、今回の映像にはありませんでしたが、レオナルド・ダ・ビンチの最高傑作「最後の晩餐」のあるミラノの3都市を中心とした会にしたいと思いますが、いかがでしょうか」…と。
出席者全員の賛成が得られたことで、次回の「参火会」(4月17日) は「イタリア特集」とし、フィレンツェ、ローマ、ヴァチカン、ミラノに焦点をあてた会とすることになった。

イタリアへは、酒井猛夫は2005年に、義夫は1987年、1998年、2001年と3度訪れており、特に印象深かった街のひとつ「ヴェネツィア」からはじめてみよう。

3-①  ヴェネツィアとその潟 
文化遺産 イタリア 1987年登録 登録基準①②③④⑤⑥
お渡しした今回の「資料」にある通り、ヴェネツィアとその潟の「登録(評価)基準」は、文化遺産の①~⑥までのすべてを満たしている。ちなみに、その評価基準のポイントを記すと、
「評価基準1(傑作)」・・・・海の上に築かれた独特の街として「傑作」。「評価基準2(交流)」・・・・サン・マルコ大聖堂の建築様式や壁のモザイク画は、東西の文化が「交流」して生まれた。「評価基準3(文明の証し)」・・・・東洋と西洋、イスラム世界とキリスト教世界を結びつける海洋国家の存在を証す。「評価基準4(時代性)」・・・・14~16世紀のルネサンス期を代表する建築が街にいくつも残された。「評価基準5(文化的景観)」・・・・海の浅瀬(潟)に巧みに杭を打ち込んで築かれた街は、自然に美しく溶けこんだ「文化的景観」の一例。「評価基準6(無形)」・・・・マルコ・ポーロの生誕地として世界に名を馳せ、小説や絵画・オペラの舞台になった。シンボルとしての価値を持つ。



TBS系列で日曜日の午後6時から毎週30分間放送されている「TBS世界遺産」は昨年20周年を迎えたが、この番組制作にディレクター・プロデューサーとして20年間深く関わってきた高城千昭氏は『「世界遺産」20年の旅』という著書の中で、「3つのお薦め世界遺産」のトップにヴェネツィアを挙げ、「海に浮かぶ街」「金のモザイク画」を美のツボとして、次のよう記している。



[この地は、1000年以上も前は葦の生い茂る干潟だった。無数の杭を打ち込んで地盤づくりから始め、118の島を400もの橋と迷路のような運河でつないで街にした。馬や車を締め出し、今も人間の足と船だけが交通の手段だ。上空から街を見渡すと、中世の人々が街づくりにかけた執念に圧倒される。「金のモザイク画」は、サン・マルコ大聖堂内部にある総面積4000㎡のモザイク画のことで、金色を中心にした様々な色のわずか1cmほどの小片タイルを壁の漆喰に埋め込んだ、気の遠くなりそうな「点描画」なのだ。遠目にはありきたりに映るキリスト教の巨大な絵が、すべて小指の爪ほどの小片タイルと知ると、まったく見え方が違って見える]・・・・と、この地を訪れる人は、このあたりに注目してほしいとしている。



私たち兄弟は、いっしょの訪問ではなかったが、ほとんど同じような場所を訪れている。かつてナポレオンが「世界一美しい空間」と称したサンマルコ広場、黄金色に輝くサン・マルコ大聖堂や、ティントレットやヴェロネーゼらヴェネチア派の見事な絵画で飾られたドゥカーレ宮殿に感嘆し、ゴンドラに乗って30分ほどの運河クルーズを楽しんだ。その後、ベネチアングラス工房に立ち寄り、鉄パイプの先端に高熱で溶かしたガラスを巻きつけてシャボン玉のように息を吹いて膨らませる成型方法を見学してから、ブローチやネックレスなどさまざまなガラス製品の美しさに見とれたことを思い出す。今回、さまざまな資料を読んだり調べたりするうち、さらにその魅力にとりつかれ、改めて再訪したいという思いが強くなった。

今回の映像の後半は、オーストリアだったが、酒井兄弟が共にオーストリアの首都ウィーンを訪れたのは、2010年4月下旬「中欧5か国(オーストリア・チェコ・ドイツ・スロバキア・ハンガリー)周遊旅行」の時で、ウィーン郊外にある「シェーンブルン宮殿と庭園」と「ウィーン歴史地区」を堪能した。

3-⑪ シェーンブルン宮殿と庭園
ウィーン郊外にある「シェーンブルン宮殿」の名は、17世紀初頭にハプスブルク家のマティアス皇帝(在位1612~19年)が、狩猟用の館の近くの森でおいしい水が湧き出す「美しい泉(シェナー・ブルンネン)」を発見してから、「シェーンブルン」の名がついたといわれる。皇帝レオポルド1世(在位1658~1705年)が、ベルサイユ宮殿をしのぐものを造りたいと、建築家フィッシャー・エアラッハに命じたものの、途中財政難にみまわれて中絶した。これを、女帝マリア・テレジアは1743年に改築命令を下して、今日の『マリア・テレジア・イエロー』に輝く荘厳な姿を見せている。



16人の子どもを生んだテレジアの末娘がマリー・アントワネットで、フランス国王ルイ16世に嫁ぐもののフランス革命の犠牲になって処刑されてしまった。アントワネットは嫁ぐまでこの宮殿で育ち、女帝の前で演奏を披露したモーツァルトが、アントワネットに求婚したという逸話も残されている。1441室のうちもっとも重要な約40室が一般公開されているが、この時は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の控えの間や執務室・皇妃エリザベートが生活した部屋・豪華な鏡の間・漆の間・大ギャラリー・丸い中国の小部屋など、権力の象徴ともいえる装飾品の数々に驚嘆した。さらに、宮殿の南側には、手入れの行き届いた1.7㎢(東京ドーム36個分)の広大な庭園があり、色とりどりの春の花が咲き乱れた幾何学模様の花壇は実に鮮やかだった。南の奥の丘には塔にもみまがう「グロリエッテ」という1775年に建設された軍事記念門がある。また、宮殿の西側には動物園もあるというが、高い樹木の続く林が特に印象的だった。

「番外」1 ウィーン歴史地区
文化遺産 オーストリア 2001年登録 登録基準②④⑥
● 多彩な建築様式と音楽で彩られた古都
オーストリアの首都ウィーンは、13世紀に神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ1世の領土となり、ハプスブルク家の王都として発展してきた。ウィーンの中心部にある「ホーフブルク」が王宮で、1918年まで、650年間にわたり、王家の居城となった。世界最大級の宮殿複合体は、最古の部分は13世紀に建てられ、最新部分は20世紀初頭に完成した。現在は数多くの博物館に貴重な文化遺産が展示されているほか、オーストリア共和国大統領官邸がある。
17世紀後半にオスマン帝国に包囲されたが、これを撃退したことで、城壁内におしこめられていた市街が市外に拡大し、ヨーロッパ文明の中心地として繁栄した。19世紀、ハプスブルク家最後の皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は内側の城壁を取り払って、「リンク・シュトラーセ」と呼ばれる「環状道路」を設置した。世界遺産のウィーン歴史地区の多くはその周囲約5kmのこのリンク内側にあり、路面電車がこのリンクを走っている。
ウィーンを代表する歴史的建造物には、まず12世紀から15世紀に建てられた「聖シュテファン大聖堂」があげられる。歴史あるウィーンの街のシンボルで、市民から「シュテッフル」の愛称で親しまれている。12世紀半ばにロマネスク様式の教会として建設されたことに始まり、13世紀から14世紀にかけてハプスブルク家のルドルフ4世の命により、建物主要部分がゴシック様式に建て替えられている。
「ベルヴェデーレ宮殿」は、17世紀後半に対オスマン帝国戦で活躍したサヴォイア公オイデンによって18世紀前半に建設されたバロック様式の夏の離宮で、城壁の外側にある丘の上に建てられた。ここからはウィーンの街が一望できる。現在はオーストリア美術館になっており、上宮には、クリムトの「抱擁」など代表作ほか19世紀から20世紀にかけての作品が、下宮にはバロック美術や中世の作品が収蔵されている。
「音楽の都ウィーン」を象徴する「ウィーン国立歌劇場」は、ウィーン市民の誇りであり、世界中の音楽愛好家を魅了する場所で、今でも世界最高レベルを保っている。日本を代表する指揮者小沢征爾が2002年から2010年まで、この歌劇場の音楽監督を務めたことでも知られる。
「自然史博物館」と「ウィーン美術史美術館」は、王宮前のマリア・テレジア像の左右に、ほぼ同じ形の宮殿風の建物が対となって建っている。西側にあるのが「自然史博物館」。東側にある「美術史美術館」は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命によって1872~92年にネオ・ルネサンス方式で、皇帝所蔵の絵画や工芸品のコレクションを収め、展示するために建てられた。この美術館は、パリのルーブル美術館やスペインのプラド美術館にも引けをとらない。中に入ると、まず目に入るのが壮麗な「階段の間」に描かれたクリムトの壁画などの大階段で、高い天井に大理石をふんだんに使った豪華な内装はまさにハプスブルグ家が誇る美の殿堂。



ブリューゲルの「バベルの塔」「農家の婚礼」「雪中の狩人」、フェルメール「画家のアトリエ」、ルーベンス「毛皮をまとった画家の妻」、ベラスケス「青いドレスのマルガリータ」「自画像」、クラナハ「ユディト」「ザクセンの3王女」、ティントレット「スザンナの沐浴」、ラファエロ「草原の聖母」等など、数々のヨーロッパ名画は必見。

今回の後半は、酒井兄弟が2007年5月17日から28日まで参加した「世界遺産の街に泊まるドイツ12日間」についての旅行記を基に進めたい。この回も酒井兄は自身のブログで、帰国後の6月1日から40回にわたって詳細に記述し、その量たるや単行本一冊分ほどにもなる。そこで、酒井弟がそのポイントとなる内容をコンパクトにまとめてみた。

「番外」2 ハンザ都市リューベック
文化遺産 ドイツ 1996年登録 登録基準
● 「ハンザの女王」と呼ばれた中世の商業都市
ドイツ北東部、トラヴェ川の中州にあるリューベックは、1143年にホルシュタイン伯アドルフによって建設され、ザクセン公ハインリヒ3世の保護を受けて発展し、1226年に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世から「帝国自由都市」の特権を与えられて、バルト海沿岸で初となる自由都市となった。
12世紀にバルト海沿岸の交易を400年以上も独占し続けた「ハンザ同盟」が誕生すると、その盟主となり、1669年に解散するまで、「ハンザの女王」として繁栄し続けた。14、15世紀がハンザ同盟の全盛期といわれ、加盟都市は200以上、2000~3000もの船が穀物・木材・毛皮・鉱石・蜜蝋・琥珀・塩・ワイン・亜麻布・干魚やニシンなどを運んでいた。軍隊まであり、1370年にはデンマークを破った実績もあるという。



世界遺産に登録されているのは、リューベック旧市街の大半で、街を象徴する2本の尖塔が印象的な「ホルステン門」をくぐるとレンガ造りの旧市街が広がる。そこには、「マルクト広場」に面してドイツ最古のゴシック様式建築の「市庁舎」、125mある2基の尖塔をもち、バッハがパイプオルガンに魅了されたという「聖マリア聖堂」ほか5つの聖堂、ドイツ初の福祉施設「聖霊病院」、船員組合会館など、13~17世紀の建築物が立ち並び、往時の繁栄をしのばせる。ドイツの文豪でノーベル賞を受章したトーマス・マンの祖父母の家も残り、ここは1993年に「マン兄弟記念館」となっている。我々はこの地に2泊し、夕食をとった船員組合の家は、店内に飾られた帆船模型やランプなどの船具、舟板製の支柱やテーブルなどが船員組合の姿を保ち続けており、そんな雰囲気の中で、数百年も続いているという「ジャガイモと魚料理」を食したことを思い出す。

3-⑯ ケルン大聖堂



人口100万を超えるドイツ第4の都市ケルンのシンボルともなっているカトリック大聖堂は、建築開始から632年もの長い歳月をかけ、1880年に完成した。第2次世界大戦時に連合国から14回もの爆撃を受けたものの崩れず、1956年の復旧工事で復元された。建築物のすべての縦の線が、高さ157mの2本の尖塔の頂点を目指して「駆け上がって行くような造形」が眼を奪う。内部も広く全長144mあり、広い幅の翼廊と高さ40mもあるい中廊、大聖堂を支える石柱と石像などが配され重厚感がある。西ファサードから入って右手にはバイエルンの王、ルートヴィヒ1世が1842年に奉納した5枚のステンドグラスが設置されている。これは「バイエルンの窓」と呼ばれキリストの受胎の告知、アダムとイブ、4人の預言者、東方三博士の礼拝、聖霊降臨、聖ステファノの殉教などが描かれていて、外から差し込む神秘的な光に心が安らぐ。
中央祭壇の奥には世界最大の黄金で飾られた豪華な聖棺があり、東方三博士の聖遺骨が入っている。祭壇の右上の柱には「ミラノのマドンナ」と呼ばれる聖マリアの彫像があり、1164年に黄金の聖棺の東方三博士の聖遺物と共に、この聖堂に運ばれてきた。そもそも「ケルン大聖堂」は、この三博士の聖遺骨を納めるのにふさわしい聖堂を建築したいと、1248年に建築開始されたものだった。近年ライン川沿いには高層ビルなどの建設が進み、ケルン市内にも高層ビルの建築計画がもち上がり、2004年に「危機遺産リスト」に登録されたが、2006年に解除された。「ケルン大聖堂」は、ケルンの象徴というより、ドイツの象徴でもある。世界遺産としていつまでも堂々たる姿を見せてほしいものだ。

3-⑱ ライン渓谷上流中部
南北ヨーロッパの大動脈であるライン川のうち、コブレンツとビンゲン・アム・ライン間の65kmにわたる渓谷が「ライン渓谷上流中部」という世界遺産になっている。今回のツアーの目玉のひとつが、「ライン川ランチ・クルーズ体験」だ。乗船するのはライン川東側にあるザンクト・ゴアスハウゼンで、対岸にはラインフェルス城が見える。200人も乗れそうな大きな外輪船「ゲーテ号」で、12時すぎにここを出発し上流に向かう。すぐに「ねこ城」が見え、5kmも行くと左手に130mほど突き出た岩山の「ローレライ」が見えてきた。ライン川の川幅が最もせばまる上、水面下に多くの岩が潜んでいて、かつては船の事故が起こりやすい交通の難所だった。歌にもなったローレライだが、魔女伝説にもつながりがある。さらに、ラーンエック城、マルクスブルク城など次々に現れる城を見ながら船内で食事をし、13.2km・約3時間の船旅はたいくつすることなく進み、ドイツを代表するワインの産地「リューデスハイム」に着いた。
この街の中心となるのは「つぐみ横丁」で、わずか150mほどの狭い路地だが、両側にワイン酒場がぎっしり軒を連ね、昼から深夜までにぎわっているという。この横丁に隣接するホテルへ荷物を置き、この地を探索することにした。まず我々がめざしたのは、山の上にあるドイツ統一の象徴として1871年から6年かけて建立された「ニーダーヴァルトの記念碑」。ゴンドラ・リフトという名のケーブルカーの往復利用券を購入して上った。うわさに違わず、25mの台座にある像高10.55mの「女神ゲルマニア」の堂々たる銅像は一見の価値がある。



下りも同じリフトで帰るのは残念な気持ちになり、素晴らしいブドウ畑とライン川の絶景をもう一度楽しもうと、帰路は歩くことにした。下りきってもまだ陽が高いので、「つぐみ横丁」を散歩した。この横丁は、まだ明るいこの時間でもワイン酒場ばかりでなく、パブ、ディスコ、土産物屋も大きなにぎわいをみせており、ラインガウ地方のワインの集積地・消費地として栄えてきた「リューデスハイムの発展を象徴」しているようだ。この横丁の外れにある店に、ツアー仲間たちと連れ立って入り、今が旬といわれる白アスパラガスのハム添え料理を食べることにした。もちろん、この地方特有の白ワイン「リースニング」も充分味わった。生演奏付というのがこの店の売りになっていて、喧騒が心配だったが、演奏される曲は私たち世代になじみのある1970年代ポップスが多く、ダンス・フロアもあって、元青年たちは大いに盛り上がった夕食になった。

「番外」3 ドレスデン・エルベ渓谷
ドレスデンは、「バロックの真珠」「エルベ川のフィレンツェ」などと呼ばれ、その美しい街並みが称えられていたが、第2次世界大戦の空爆で街の80%が被害を受けた。エルベ川南側にある旧市街は、多くの歴史的建造物が再建・修復されたが、新市街は東独時代の建物が多くみられ、垢抜けしない感じも残る。ドレスデンの次のような見どころは、旧市街に集約される。
「ドレスデン城」は、12~16世紀に建てられたザクセン王の居住地で、北側の城壁にある2万5千枚ものマイセン焼のタイルで造られた [君主の行列] は、歴史の古い順に左から93人が描かれており、第2次世界大戦の爆撃から奇跡的に逃れた逸品で、ザクセン王室の財宝を展示する緑の円天井、宝石で作られたミニチュアとともに必見。



「ツヴィンガー宮殿」は、フリードリヒ・アウグスト2世(アウグスト強王)の命により、1710年から38年にかけて建立した宮殿。このころがザクセン王国の最盛期で、1697年からは隣国のポーランド王も兼任した。建築家ペッペルマンと彫刻家ベルモーザーが造ったドイツ・バロックの傑作といわれ、宮殿内には武器庫・数学・物理博物館などの他、マイセン陶磁器を発明させたアウグスト強王が収集した東洋の陶磁器はヨーロッパ一の「陶磁器コレクション」がある。さらに、アウグスト強王とフリードリッヒ2世の2代にわたって集められた14~18世紀のヨーロッパ絵画約800点を展示する「アルテマイスター(ドレスデン絵画館)」もこの宮殿内にある。ラファエロ「シスチーナのマドンナ」、フェルメール「手紙を読む婦人」「取り持ち女」、レンブラント「放蕩息子:レンブラントとサスキア」「自画像」、ティントレット「サタンと戦うと天使ミカエル」「眠るヴィーナス」、ベラスケス「ある貴紳の肖像」など、一流画家の代表作ともいえる名品の数々に驚かされる。
「大聖堂(旧宮廷教会)」も、アウグスト強王が1738~55年に建てた宮廷用の教会で、強王はカトリックに改宗したが、ザクセンではプロテスタント勢力が強かったため宮廷用としたという。屋根には78体の聖人像が立ち、高さ約85mの鐘楼がそびえる。
「ザクセン州立歌劇場(ゼンパー・オーパー)」は、ゴットフリート・ゼンパーによる設計で、1841年に建設された。たびたびの火災や戦災での消失にあったが、2002年に再建し、現在でも世界屈指のオペラ歌劇場として世界中の人々から愛されている。この歌劇場は、ワーグナーの代表作「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」が初演されたことでも知られる。



「フラウエン(聖母)教会」は、18世紀半ばに建てられた美しく壮大なドームを持つバロック様式の建物だったが、第2次世界大戦の爆撃で壊され、戦後は「反戦のシンボル」として瓦礫のまま放置されていた。1994年から再建を開始し2005年に修復が完成したばかりだった。崩れた石を可能な限り元の場所に移す方法を採用しているため、新しい石とまだなじんでいないものの「戦争の傷跡」から「平和と和解の象徴」へと生まれ変わった教会前には、見学のために並ぶ人々の列が絶えない人気のスポットになっている。
この地は、2004年に「ドレスデン・エルベ渓谷」として世界遺産に登録されたが、2009年6月、景観を損ねる橋の建設を理由に、世界遺産リストから削除されたが、再考してほしいものだ。

[閑談休話]  ベルリンの「中華料理店」で小澤征爾氏にバッタリ
今回のドイツ旅行では、6日目に「ノイシュバンシュタイン城」の側にあるミージュカルシアターで人気のミュージカル「ルートビッヒ2世」を観賞するはずだった。ところが、急遽休演になったために、その代替としてベルリンでの最終日、「ベルリンフィルハーモニーのコンサート」を観賞することになったと、阪急交通社からの旅行日程表の送付とともに通知があった。当方としては、どちらでもよいと気軽に考えていた。
それが当日の朝になって、「みなさん朗報です。今晩のコンサートは、小澤征爾の指揮するチケットが手に入りました」という添乗員からの報告に、全員が歓声を上げた。小澤征爾は、2002年からウィーン国立歌劇場の音楽監督をやっていたものの、2006年1月に帯状疱疹・慢性上顎洞炎・角膜炎などを併発して、1年5か月にわたり休養していた。それが2週間ほど前の新聞に「小澤征爾復活」の記事が載っていたのは記憶していたが、その復活公演が、ベルリンフィルハーモニー大ホールで3日間行われ、その最終日の公演チケットを入手したということだった。
当日は、朝からベルリン市内観光で、「ブランデンブルク門」や「ベルリンの壁」が残されている場所、ナチスによって大量虐殺されたユダヤ人犠牲者を慰霊する「ホロコースト記念碑」などを見たあと、世界遺産となっている博物館島にあるたくさんの博物館のうち、「ペルガモン博物館」をじっくり観賞した。
当日の午後は、オプショナルツアーとして阪急交通社が用意した「世界遺産ポツダム観光」(昼食付・一人17800円)に兄夫妻と私(義夫)は参加する予定だった。ところが、希望者が10人未満のため不催行となってしまった。そこで、ホテルに近いところにベルリン動物園があるので、午後はたっぷりと動物園見物をしようということにした。酒井弟は、日本食が恋しくなったということで、ガイドブックに載っていた動物園駅に近い日本料理店をめざしたがなかなか見つからないため、小道にあった中華料理店に入ることにした。久しぶりの箸による昼食を楽しんでいたところ、何とそこへ、新聞を小脇に普段着姿の小澤征爾がひょっこり入ってきて、私たちのテーブルの斜め前に座ったのだ。帰り際に、「今夜の演奏会を楽しみにしています」と挨拶をしたところ、「日本からこられたのですか。私は、よくこの店で食事をしているのです」といった短い会話だったが、さまざまな偶然の連続がなくては生まれない出会いだった。
当日夜の指揮小澤によるコンサートの演目は、① プロコフィエフ作曲「ピアノ協奏曲 第2番」②チャイコフスキー作曲・交響曲第1番「冬の日の幻想」で、ピアニストは、2000年の「ショパンコンテスト」で優勝した25歳の中国人ピアニストのユンディ・リだった。小澤は、再起を印象づけるため、場所や交響楽団を選んだのと同じように、指揮者としての実力を発揮できる曲を選んだに違いない。1曲目は若いピアニストを引き立てる抑え気味の指揮だったが、2曲目は、小澤の真骨頂が発揮され、管楽器の音を包みこむ弦楽器の響きが見事だった。アレグロの演奏では、小澤の指揮は「華麗な舞いそのもの」で、利き手の右より、やや上に位置する「黄金の左手」のリードが迫力を出していた。満席の会場から鳴りやまぬ拍手が響きわたり、何度も指揮台に駆け戻る小澤の足の軽やかさは71歳(当時)の年齢を感じさせないもので、彼の「完全復活」を心から賞賛したい気持ちになった。
(文責 酒井猛夫・酒井義夫)


「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 深澤雅子   文独1977年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年2月21日水曜日

第40回「参火会」2月例会 (通算404回) 2018年2月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第2回目 ヨーロッパ篇② ベルギー・スイス・フランス・スウェーデン

今回は、下記資料「2-①~⑯」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」制作 2-①~⑯ の映像約42分を視聴した。



2-① ブリュッセルのグラン・プラス 
文化遺産 ベルギー 1998年登録 登録基準②④
● ギルドの繁栄を物語る壮麗な広場
ベルギーの首都ブリュッセルの旧市街にあるグラン・プラス(「大広場」の意)は、壮麗な建築物に囲まれた約110×70mの広場。その周囲には、市庁舎のほか、パン職人、ビール醸造業者、大工・家具職人、船頭のギルドハウスなど、11棟の建物が並んでいる。ヨーロッパ北部の代表的な商業都市のブリュッセルの歴史は、11世紀後半にロートリンゲン公シャルル・ド・フランスが城塞を築いたことにはじまり、ケルンとフランドル地方を結ぶ交通の要衝にあることから、12世紀ごろから交易が盛んになった。街の中心にはグラン・プラスの原型となる市場が開かれ、13~14世紀になるとブリュッセルは政治の中心となった。そのころになると、商工業が発達し、ギルド(手工業者の同業組合)が出現し、パン職人、肉屋、仕立て屋、小間物商などのギルドハウスが立ち並ぶようになった。1695年、フランスのルイ14世が7万の兵を率いてブリュッセルに激しい砲撃を加えた。この当時、グラン・プラス周辺の建物は大半が木造だったため、石造だった市庁舎以外は焼失した。しかし、ギルドの人たちの団結により、わずか4年ほどで石造の建物で再建され、現在残っているのはこの時につくられたもの。「レ・ミゼラブル」で有名な文豪ユゴーは、19世紀半ばにギルドハウスの一角で暮らしていて「世界一豪華」と賞讃し、ジャン・コクトーは「絢爛たる劇場」と称えるなど、多くの芸術家たちもこの広場に魅了されてきた。

2-② ブルージュの歴史地区 
文化遺産 ベルギー 2000年登録 登録基準②④⑥
● 毛織物業で栄えたハンザ都市の繁栄
「水の都」「北のヴェネチア」「屋根のない美術館」等、数々の異名を誇るブルージュは、13世紀後半から羊毛の輸入で繁栄した貿易都市。ヨーロッパ有数の古い街で、内陸にありながら、24kmも離れた北海といくつもの運河でむすばれている。1252年にハンザ都市となり、ヨーロッパ初となる証券取引所も誕生するなど一大商業都市となった。ところが、15世紀に水路に泥が沈殿して船の航行ができなくなり、徐々に衰退し、中世の街並みがそのまま残された。旧市街の中心にあるマルクト広場には、ハンザ都市特有の階段状の破風(はふ)がついた商館が密集し、13世紀に創建された47個のカリヨン(組み鐘)がある高さ83mの鐘楼は、「ベルギーとフランスの鐘楼群」としても世界遺産に登録されている。

2-③ ベルンの旧市街 
文化遺産 スイス 1983年登録 登録基準③
● 森の中にできた石造の街
スイスの首都ベルンは、12世紀後半に、この地を治めていたベルトルト・ツェーリンゲンが森を拓いて建てた街。北・東・南の三方をアーレ川に囲まれ、13~14世紀にかけて西方に拡張するが、1405年の大火で街の中心部が全焼。その後、木造だった家々は石造りに建て替えられた。1779年にこの地を訪れた文豪ゲーテは、「自分が訪ねた都市のなかで一番美しい」と書き残している。時計塔、聖ヴィセンテ大聖堂、モーゼの噴水など100以上の噴水、スイス連邦議事堂、石造のアーケードなど、見どころが満載。

2-④ パリのセーヌ河岸 
文化遺産 フランス 1991年登録 登録基準①②④
● 歴史とともに歩む芸術の都
首都パリを流れるセーヌ河岸に点在する建築物は、2000年を超える街の歴史と発展を今に伝える。パリの歴史は、紀元前3世紀にケルト系のパリシイ人が、セーヌ川に浮かぶ現在ノートルダム大聖堂のあるシテ島に住みついたことに始まる。紀元前52年ころ、ガリア遠征中のカエサル(シーザー)率いるローマ軍がこの地を攻略した後、ルテティアと呼ばれるようになった。この地は河川交通の要衝として栄え、シテ島とセーヌ左岸を中心にローマ風の都市が形成された。4世紀の中頃、ルテティアはパリに改名され、パリシイ人の人々が話していたラテン語の方言はやがて、現在のフランス語になった。6世紀の初頭、フランク王国のクローヴィスがパリを首都と定めたのを機に商業を中心に栄え、左岸だけでなく右岸も繁栄していく。12世紀には、登録物件となっているノートルダム大聖堂の建設がシテ島に始まり、13世紀半ばにはステンドグラスで荘厳に飾られたサントシャベルが大聖堂の近くに完成。この他の建造物の登録物件は、シャイヨー宮、エッフェル塔、グランパレ、オルセー美術館、ルーヴル美術館などがある。

2-⑤ ヴェルサイユ宮殿と庭園 
文化遺産 フランス 1979年登録・2007年範囲変更 登録基準①②⑥
● フランス絶対王政を象徴する宮殿
パリから南西約20kmにあるヴェルサイユ宮殿は、1661年にフランスのルイ14世が建造を命じた壮麗な王宮で、1661年にほぼ完成したが、その後も宮殿内外の増改築が繰り返され、すべての工事が完了したのは19世紀初頭。贅と粋を尽くした宮殿は、フランス・バロック様式建造物の最高傑作といわれ、「太陽王」といわれたルイ14世から3代にわたって続いた絶対王政を象徴する。ルイ14世の死後、15世、16世と受け継がれたが、宮廷のぜいたくな暮らしはやがて国家財政の破たんを引き起こし、フランス革命の一因となって荒廃するが、ナポレオン一世によって修復が施され、1989年には、フランス文化省により大規模な改築が行われた。宮殿の中でもひときわ目を引くのは、全長73m・幅10mの「鏡の間」で、庭園に面するアーチ型の17の窓と対峙する壁面には17の鏡が埋め込まれている。花壇が幾何学的に配置された庭園は、十字型の大運河を中心に放射線状の小道、円形・半円形の泉水や花壇で構成され、フランス庭園の典型といわれ、その構図はヨーロッパ各国の造園に大きな影響を与えた。

2-⑥ フォンテーヌブローの宮殿と庭園 
文化遺産 フランス 1981年登録 登録基準②⑥
● ナポレオン1世によって復元されたフランス初のルネサンス宮殿
パリの南東にあるフォンテーヌブロー宮殿は、16世紀にフランソワ1世によって建造されたルネサンス様式の宮殿。この一帯に広がる森は王室の狩猟場として使われ、狩猟用の館が置かれていた。イタリア遠征中にルネサンス美術に魅了されたフランソワ1世は、「新しいローマ」の建設をめざして、この狩猟小屋を豪華な宮殿に改築した。内部の装飾を担当したのはイタリア人芸術家たちで、特にフィオレンティーノが手がけた「フランソワ1世の回廊」は、マニエリスム様式の傑作で、60mの回廊にはフレスコ画や漆喰装飾が施され、宮殿内で最も豪華な空間といわれている。また、宮殿最大の部屋になるのが、フランソワ1世の息子のアンリ2世の代にプリマティッチオが完成させた「舞踏の間」で、かつてはこの部屋で毎晩のように舞踏会が催おされた。宮殿や周囲に広がる庭園は、フランス革命の余波を受けて荒廃したが、19世紀にナポレオン1世によって修復され、以前の美しい姿を取り戻した。

2-⑦ モン・サン・ミシェルとその湾
文化遺産 フランス 1976年登録 登録基準①③⑥
● 海に浮かぶ「聖なる山」に築かれた神秘の修道院
ノルマンディー地方にあるモン・サン・ミシェル湾の海岸から約5kmの位置に浮かぶモン・サン・ミシェルは、修道院などの建物が立ち並ぶ「聖なる山」とあがめられる岩山。カトリックの巡礼地のひとつで「西洋の驚異」と称されている。伝説によると708年にこの地に住む司教オベールの夢に大天使ミカエルが現れ、この岩山に聖堂を建てるよう告げた。オベールが聖堂を建てると津波が押し寄せ、岩山は一夜にして島と化したという。この湾は、潮の干満の差が激しく、モン・サン・ミシェルは干潮時には陸続きとなるが、満潮時には海中に孤立する。そのため過去には、突然襲ってくる激しい潮の流れにさらわれ、巡礼者が命をおとすこともあった。10世紀末には、ノルマンディー公リシャール1世が、この岩山にベネディクト会の修道院を創建し、12世紀後半には修道院に付属する聖堂が建造されるなど、数世紀にわたって増改築が繰り返され、山の頂に鐘塔のそびえる現在の姿になった。14世紀の百年戦争では、イングランド軍が近くの無人島を占領し、モン・サン・ミシェルに迫ったため、修道院は閉鎖され、城壁や塔が築かれ、修道院建築と要塞が融合した現在の姿が形成された。16世紀の宗教戦争の際も、旧教徒軍がモン・サン・ミシェルに立てこもり、新教徒軍の攻撃をしのいだ。16世紀以降は、岩山の斜面に巡礼者のための店や宿が作られたが次第に修道院は衰退していく。18世紀末のフランス革命の際には、修道院は監獄として使われ、修道院として復活するのは、20世紀後半のことだった。なお、19世紀の後半に、モン・サン・ミシェルと対岸のアブランシュの街を結ぶ長い防波堤が作られたため、潮の干潮にかかわらず、モン・サン・ミシェルに歩いて渡ることができるようになった。しかし、そのせいで潮の流れが変わり、砂や泥がたまって、岩山周辺の海底は100年間に3mも上昇した。そこで国家事業としてEUの協力得て、かつての姿を取り戻すべく2009年には地続きの道路が取り壊され、2014年に新たな橋が完成した。

2-⑧ (シェリー・シェル・ロワールとシャロンヌ間の)ロワール渓谷
文化遺産 フランス 2000年登録 登録基準①②④
● 美しい渓谷に王侯貴族たちが競って建てた城館群
フランス中部のロワール渓谷は、風光明媚なロワール川流域の渓谷周辺にルネサンス様式を中心とする130以上の城館が点在する。全長1000kmのロワール川のうち、シェリー・シェル・ロワールからシャロンヌに至る約200kmの流域が世界遺産に登録された。貴族たちに愛されたロワール渓谷は、芸術家をも魅了し、19世紀には文豪バルザックが『谷間の百合』など多くの作品でこの地を舞台に設定した。イギリスの画家ターナーも渓谷の美しさを繊細に表現している。とくにフランソワ1世が1519年に建設を開始したシャンボール城は、フランス・ルネサンス様式の最高傑作と讃えられていて、1981年に単独で世界遺産に登録されたが、ロワール渓谷の遺産登録に含まれることになった。

2-⑨ リヨン歴史地区
文化遺産 フランス 1988年登録 登録基準②④
● 2000年の歴史をもつ商業と文化の要衝
フランス南東部にあるリヨンは、紀元前1世紀‎にローマ人によって、ガリア3州と呼ばれた3つの地方の首都に定められたことを起源とする歴史都市。ソーヌ川西側の、石畳の街並みの残る旧市街からクロワ・ルースにかけての地区には、古代ローマ時代の遺跡や、12世紀に建てられた大聖堂、絹織物工業に関する建造物が残されている。1436年、ルイ11世国王が、自由市を開く特権をこの都市に与え、フランソワ1世がイタリアから絹を導入したことがきっかけとなって、絹織物工業が急速に発展。また同時期に活版印刷技術も導入され、フランス国内で最初にフランス語の本が出版された。

2-⑩ カルカッソンヌの歴史的城塞都市
文化遺産 フランス 1997年登録 登録基準②④
● ヨーロッパ最大の規模の城壁を誇る中世城塞都市
フランス南部、ピレネー山脈を挟んでスペインと対峙するカルカッソンヌは、堅固な二重の城壁に囲まれた中世の城塞都市。古代ローマ時代に最初の城壁の外側に、新たな城壁が作られたのは13世紀半ばのルイ9世の時代で、隣国のアラゴン王国に対する防御のためだった。しかし、1659年のピレネー条約によりスペインとの国境が確定すると、城壁の重要性は失われた。19世紀に城壁の歴史的価値が見直され、建築家ヴィオレ・ルディックによって始められた修復プロジェクトは1910年まで続いた。

2-⑪ アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教の建造物群、アヴィニョンの橋
文化遺産 フランス 1995年登録 登録基準①②④
● 教皇が君臨したかつてのカトリック世界の都
フランス南東部、ローヌ川の東岸にあるアヴィニョンは、かつて教皇庁がおかれ、カトリック世界の中心として栄えた。14世紀、時のフランス国王フィリップ4世は、教皇クレメンス5世に圧力をかけ、1309年にアヴィニョンに教皇庁を移転させ、以後1377年まで68年間にわたって教皇所在地となった。この異例の事態は「教皇のアヴィニョン捕囚」と呼ばれている。教皇庁がローマにもどるまで7人のフランス人が教皇の座についたが、アヴィニョンの街を買い取って教皇領とした4代目のクレメンス6世のころから、街に多くの学者や芸術家、貴族、文化人が移り住んだことで急速に洗練された街に変貌していく。しかし、7代目のグレゴリウス11世がローマに帰還したことで、カトリック世界の中心都市としてのアヴィニョンの歴史は一度終わるが、彼の死後ローマとアヴィニョンにそれぞれの教皇が並び立つ「教会大分裂(シスマ)」時代を迎える。この混乱は、1417年に解決したが、アヴィニョンが正式にフランス領となったのは1791年のこと。中世の城壁に囲まれたアヴィニョンには、教皇が住居としていた宮殿をはじめ、聖堂や修道院が多数残り、教皇時代に培われた自由と芸術を重んじる街の雰囲気は、毎年夏に1か月にわたって開かれる演劇祭などに受け継がれている。

2-⑫ アミアン大聖堂
文化遺産 フランス 1981年登録 登録基準①②
● ゴシック彫刻に包まれたフランス最大級の大聖堂
フランス北部にある「アミアン大聖堂」は、13世紀、アミアン大司教の命を受けて、建築家のリュザルシュらによって築かれたフランス最大級の大聖堂。旧大聖堂が火事で焼失したため、1220年に建設が開始され、1288年に主要部分がほぼ完成した。均整の取れた設計で、13世紀に最盛期を迎えたゴシック様式建築の中でも最高峰といわれている。聖堂正面の中央扉口付近をはじめ、聖堂内外に施された彫刻も高く評価されている。

2-⑬ ランスのノートルダム大聖堂ほか
文化遺産 フランス 1991年登録 登録基準①②⑥
● フランク王国の宗教史を残す宗教建築
パリの東北にあるランスの大聖堂は、496年にクローヴィスがフランク王国の国王として初めてキリスト教に改宗して以降、歴代の王の戴冠式が行われた場所。1211年に着工され、13世紀末に主要部分が完成した。聖堂の西正面部分にある2300体を超える彫刻のうち、「諸王のギャラリー」や「ランスの微笑み」と呼ばれる天使像のレリーフは傑作。近年制作された、シャガールらのステンドグラスグラスは、優れたアート作品として注目されている。「サン・レミ修道院」「トー宮」が世界遺産に登録された。

2-⑭ シャルトルの大聖堂
文化遺産 フランス 1979年登録・2009年範囲変更 登録基準①②④
● ステンドグラスの美しいゴシック建築の最高峰
フランス北西部、ボース平野の小高い丘に建つ大聖堂は、13世紀初頭に完成したフランスを代表するゴシック建築。この丘は古来から聖域とされ、9世紀にシャルル2世は、聖母マリアがキリストを出産したときに身につけていたという「聖母の衣」をこの大聖堂に寄進したという。以来、数多くの巡礼者が訪れたが、11世紀にロマネスク様式の大聖堂が建てられたものの、大半を焼失したため、ゴシック様式に再建された。西正面には、ロマネスク様式の高さ106mの旧塔及びゴシック様式の高さ115mの新塔がそびえ、大聖堂のシンボルになっている。側壁のアーケードや高窓には、「シャルトルブルー」と称えられる鮮やかな青を基調に、赤や緑、黄などを加えた176ものステンドグラスがはめこまれていて、その総面積は2600㎡に及ぶ。日の光がステンドグラスを通して差し込むと、聖堂内は神秘的な青色に染まる。ステンドグラスの多くは12~13世紀に作られたもので、保存状態もよく、特に「美しき絵ガラスの聖母」は傑作と称されている。

2-⑮ ストラスブールの旧市街(通称グラン・ディル) 
文化遺産 フランス 1988年登録 登録基準①②④
● 独自の文化を育んだ「ヨーロッパの十字路」
フランス北東部の、ライン川左岸に位置するストラスブールは、紀元前12年ころ、古代ローマ軍がイル川の中州に築いた駐屯地に始まる。ストラスブールは、ドイツ語で「街道の街」を意味し、その名の通りこの街は、ローマ時代以来、人や物の行き交う交易都市として発展した。旧市街は、ロマネスクとゴシック様式の混在するノートルダム大聖堂があり、16~17世紀の街並みを残す「プティット・フランス」という一画には、ハーフティンバー様式といわれるドイツ風の木造家屋が立ち並ぶ。

2-⑯ ガンメルスタードの教会村
文化遺産 スウェーデン 1996年登録 登録基準②④⑤
● 教区民のために築かれたコテージ村
バルト海のボスニア湾最奥部地域にありルーレ川河口に位置するガンメルスタードは、15世紀ごろに石造の教会が建てられると、以来遠方から信者が訪れるようになった。宿泊施設がたくさん作られ、16世紀に入ると、47の村々からなる大規模な教区に発展した。教会を中心に放射状に伸びる道沿いには、424軒の平屋の木造コテージが並んでいる。シュルクスタードと呼ばれるこれらの家屋は、週末や宗教上の祭事にのみ用いられた住居で、現在も利用されている。当時の聖堂や木造家屋など、伝統的な建築物がよく保存されている優れた例証として評価された。2014年、「教会村」は「教会街」に名称変更された。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後、今回も前回と同じような流れで、酒井(兄)猛夫の記した「海外旅行ブログ」を基に、酒井(弟)義夫と共に補足説明を行い、メンバーとの対話などを活発に行った。

酒井兄弟がオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを訪れたのは、2012年4月12日~20日「9日間のベネルクス三国旅行」の時だった。「ベネルクス」とは、英語の「ベルギー」「ネーデルランド(オランダ)」「ルクセンブルク」3か国の頭文字をつなげた言葉で、元々は、第2次世界大戦中に、オランダとベルギーの経済対立を回避するため、ルクセンブルクが行司役となって、3国の亡命政権の間でまとまった「経済同盟」のことだった。むしろ、3国が一つの国になるべきはずだったが、ゲルマン民族でプロテスタントの勢力の強い海洋国家のオランダと、ラテン系民族でカトリック勢力の強い内陸国家のベルギー・ルクセンブルクでは、統一には至らなかった。

この3国についての人口、面積、1人当たりのGDPをご存知だろうか。まず当時の人口は、オランダ1661万人、ベルギー1071万人、ルクセンブルク51万人で、3国あわせても2783万人でしかない。この人口規模は、日本の約2割、マレーシア、北朝鮮、台湾と同程度。国土の広さでいえば、オランダが九州程度、ベルギーが四国の1.7倍、ルクセンブルクは神奈川県程度なので、3国合わせても日本の約2割しかない。ところが、1人当たりのGDP世界ランキングでは、17位の日本に対し、ルクセンブルクが1位、オランダが9位、ベルギーが16位と、3国とも日本をしのいでいる。

日本とオランダとのつながりは深く、明治以降の日本の急速な発展は、鎖国時代の「出島オランダ商館」の存在無くしては実現しないものだった。徳川家康は、オランダに興味を持って交易を許したものの、やがてカトリック教徒の領土欲を警戒しだした。そして、徳川3代将軍家光のときの1633年に鎖国を開始し、それ以降200年以上も鎖国を続けたが、幕府は「西洋への窓」をオランダだけには残した。「オランダ商館」は、1609年に「オランダ東インド会社」の出先機関として設置され、1641年に長崎港内を埋め立てた4000坪ほどの「出島」に移された。その後、8代将軍吉宗は「享保の改革」の一環として、1720年に洋書輸入の一部を解禁し、青木昆陽らにオランダ語を学ばせたことから「オランダ学」が始まった。のちに杉田玄白らによる「解体新書」発行につながった。オランダ語から日本語になった言葉には、次のようなものがある。船のマスト、外科医のメス、金属板のブリキやトタン、ガラス、カバン、ランドセル、インキ、レンズ、オルゴール、ピストル、コーヒー……など。

特にメンバーの菅原勉氏は、上智の教授になる前に2年間オランダ留学を体験したことからベネルクス3国に詳しく、徳川家康の警戒した領土欲といったものはオランダ人にはないこと、3国が一つの国になることはあり得ないこと、非英語圏でありながらオランダほど老若男女に英語が通じる国はなく、間もなく小学校に教科として英語を導入する日本は、オランダの英語教育に学ぶべきといった話は、説得力のあるものだった。

先ほどの映像にはなかったが、オランダの世界遺産のひとつ「キンデルダイクの風車群」からはじまった。

「番外」キンデルダイク・エルスハウトの風車群
文化遺産 オランダ 1997年登録 登録基準①②④
● 国土を守り人々の生活を支えた風車群



ロッテルダムの南東約20kmに位置するキンデルダイク村は、約4分の1が海抜0m以下のオランダでも、特に低い土地で、場所によっては海抜マイナス2mにも達する。そのため風車を活用した排水技術が発達した。海抜以下の土地はボルダー(干拓地)を作らなければならず、排水用の動力として風車が大活躍した。風車がもっとも活躍した19世紀半ばには、オランダ全土で約1万基が稼働したという。「キンデルダイクの風車」は、1740年ころに約100基建てられたが、蒸気機関の排水設備が登場すると、多くの風車は次々に壊され、川の両側に13基残されただけで使用されなくなった。しかし、第2次世界大戦中、蒸気機関の燃料となる石炭が不足したことから動力源として復活、戦後もいつでも稼働できる状態で保存された。キンデルダイクの風車には、今も風車守が居住し、夏の間は週に1回メンテナンスをする姿が見られる。目の前に立つと、その規模の大きさに驚かされる。普通の家の3~4階建てから、大型になると5~6階建てほどの建築物といえる。川の両側には自転車専用道路もあって、地元の人たちもたくさん集う場所でもある。その大きな目的は「釣りを楽しむこと」だという。ケチと評する人もいるが、オランダ人の質実剛健の生活の知恵が、釣りの楽しみにつながったようだ。

2-② ブルージュの歴史地区
ブルージュは、街の中を運河が縦横に走り、その上に無数の橋がかけられている。まさに橋の街という趣で、地名も現地読みをすれば「ブルッヘ」で橋のこと。この街は、12世紀から13世紀にかけて、羊毛産業が栄え、パリ、ロンドン、ローマより開けた大都会だったという。北海からつながる水路や運河を利用した交通により、西ヨーロッパ第一の貿易港となり、中世ヨーロッパの商業の中心地として繁栄した。ドイツのリューベックの建設(1158年)に伴うバルト海を中心とした北欧商業圏の商人組合組織「ハンザ同盟」の有力都市でもあった。ブルージュが衰退に向かったのは「北海とを結ぶ水路が沈泥のため浅くなり、商船の出入りが出来なくなったため」といわれているが、商業都市としての機能は喪失したものの、華々しい歴史と中世の景観を見事に保っている。ブルージュで一番のにぎわいをみせる「マルクト広場」は、おとぎ話に出てくるような小さな石造の家々や、州庁舎などの堂々とした歴史的構造物がずらりと並んでいる。そのハイライトは13世紀に創建された高さ83mもあり、47個のカリヨン(組み鐘)による音楽を奏でる鐘楼は、「ベルギーとフランスの鐘楼群」として「世界遺産」にもなっている。我々は、この広場から歩いてすぐのところにある船着場から、20人乗りの小さなボートによる約30分の「運河クルーズ」を満喫した。



運河の両側には道路がなく、クルーズから見える家々は、昔の商人の大豪邸が多く、今もホテルやレストランとして利用されているそうだ。中世そのままの景観を低い視線からながめるこのクルーズは、一生の思い出になったという人が少なくない。ブルージュはわずか12万人の街だが、大教会が9つもあるという。ミケランジェロの「聖母子像」があるのは「聖母教会」だが、ルネサンスの代表作を購入する財力がブルージュにあったことを示している。そのほかの見どころは、1181年に建てられたヨーロッパでもっとも古い「セントヨハネ病院」はそのまま「メムリンク美術館」として今も使用されている。「ベギン会修道院」は、中世の女性たちの自立を支えた女性だけが住む施設で、これまた「世界遺産」になっている。そのほか、ロマンチックな景色を見せる「愛の湖」など、この街だけでもじっくり訪れる価値はある。なお、ブルージュは、1月28日のTBS番組『世界遺産』で、「3つの世界遺産を持つ中世の国際都市」として放映されたので、ご覧になった方もあるだろう。DVDに保存したので、いつかこの会で取り上げてみたい。

2-④ パリのセーヌ河岸 
酒井兄弟が、いっしょに「フランス」訪れたのは、2006年5月14日からの「フランス大周遊10日間」だった。酒井弟は1991年9月と1999年4月に、ドイツのロマンチック街道・スイス登山鉄道ユングフラウヨッホ駅を経てパリに来ているので、パリとベルサイユ宮殿は、計3度訪れたことになる。「パリのセーヌ河岸」の世界遺産登録物件は、シュリー橋からイエナ橋までのおよそ8kmで、ノートルダム大聖堂、シャイヨー宮、エッフェル塔、グランパレ、オルセー美術館、ルーヴル美術館などがあり、今回は「ノートルダム大聖堂」「ルーヴル美術館」を取り上げてみよう。



「ノートルダム大聖堂」は、1163年にモーリス・ド・シェリー司教が着工し、2世紀半をかけて完成した初期ゴシック建築の最高傑作とされる。数々の尖塔や南塔、北塔からなり、奥行きの深い、美しい外観を誇る建造物。周りをぐるっと回って眺めるだけでもその壮大さがわかる。ここはフランス・カトリックの聖地で、ちなみにノートルダムとはフランス語で「私たちの貴婦人」つまり聖母マリアを指す。昼間でもほの暗い寺院内は、信者たちが静かに祈りをささげる神聖な場所だ。ここは、ナポレオンが戴冠式を行った聖堂でもあり、ダヴッドの名画でもよく知られている。大聖堂の前にある広場がパリの起点になっていて、パリから「××km」と表示があれば、ここからの距離になる。
「ルーヴル美術館」は、16世紀にフランソワ1世がかつて要塞だったこの場所に「ルーヴル宮」を建設したのが始まりで、1793年に国民公会の手で歴代の王たちが収集した美術品が公開されたのが「美術館」のスタートといわれている。ルーヴルに所蔵されているのは、30万点以上といわれ、古代オリエント、エジプト、ギリシャ・ローマ、彫刻、美術工芸、絵画の6部門に分かれ、常時公開されているのは、3万点程度という。それでも館内をくまなく鑑賞するには数日かかるという。「ルーヴル美術館とオルセー美術館見学のためだけで数日滞在したい」というのを将来の目標にして、この日の見学は2階の「ドノン翼」を中心に、フランス絵画、イタリア絵画、およびスペイン絵画を主体にした。「モナリザ」(ダ・ヴンチ)、「ナポレオン1世の戴冠式」(ダヴッド)、「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ)、「メデューズ号の筏」(ジェリコー)、「カナの婚宴」(ヴェロネーゼ)なども、ゆっくり見学をした。やはり、いちばん人気を集めていたのは「モナリザ」で、ルーヴル訪問者の7割の人が足を向けるという。しかし「モナリザ」は、防弾ガラスの向こうに静かにほほ笑んでいたが、ヴァチカンのサンピエトロ寺院の「ピエタ像」(ミケランジェロ)と同様、暴漢対策とはいえ一種悲しい気持ちになったのも事実。彫像の「サモタラケのニケ」を見た後、シュリー翼1階の古代ギリシャ美術品の中の「ミロのビーナス」と久しぶりにゆっくりと対面した。

「閑談休話」 「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」の勧め



歌やダンス、フレンチカンカンを組み合わせたショーや、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも知られるパリの夜の人気スポット。モンマルトルの丘にある800人も収容できるこのフレンチキャバレーへ、酒井弟は1999年5月初旬に、2004年に亡くなった妻と共に訪れた。18歳から22歳までのトップレスダンサーや歌手たちが、豪華な衣装をまとい、一流のダンスを見せるエンターテインメントショーはまさに圧巻。亡妻の感想は、「美術館では、ルーヴルよりオルセーの方が楽しかった。一番印象深かったのはどこかと聞かれれば、ムーラン・ルージュかな」でした。参考にしてみてください。

2-⑦ モン・サン・ミシェルとその湾
ここに、20年以上も続く「TBS世界遺産」のスタッフが選んだ『世界遺産ベスト101』という本がある。この地をベスト12位「舞い降りた大天使に捧げられた、海の修道院」として見開きで取り上げ、「966年に着工以来、18世紀まで増改築をくり返し、城砦や監獄、帽子工場という数奇な変遷をたどり今日に至る。また、周囲の湾が、大潮の日は干潟から水深15mになるほど干満の差が激しいことでも知られ、中世には、モン・サン・ミシェルへ行くなら遺書をしたためてから行け、といわれるほどだった。その後土手のような堤防道路の影響で、海の修道院の陸地化が懸念されたことから、2014年に新たな橋が完成。これにより、大潮の日には、海上にそびえる姿が蘇えることになった」と紹介されている。



修道院内部の見学は、一気に階段を昇り、最上階から部屋を一つひとつ見ながら降りる。王の門、西のテラス、回廊のある内庭、食堂、貴賓室、騎士の間や、人力で荷物を高所に運ぶ水車のような設備などが見ものだった。何人かのツアー仲間には、今回の旅にモン・サン・ミシェルが含まれているので参加したという人や、カメラ自慢とおぼしき仲間は理想のシャッターチャンスを探そうと張り切っていた。この旅を計画した阪急交通社は、宿泊が島内になるか、島外になるかが、大きな選択ポイントとしていたが、どちらでも構わないと考えていた我々だが、割り当てられたホテルの「ルレ・サン・ミシェル」には満足した。敬虔な信者でなければ、島外を勧める。ルレ・サン・ミシェルは、あの地の最高級ホテルで、どの部屋からも「モン・サン・ミシェル」が遠望できるようになっていた。ライトアップされた姿を長い時間楽しめたことで愛着がわき、出来たらもう一度たずねたい場所のひとつとなった。

2-⑧ (シェリー・シェル・ロワールとシャロンヌ間の)ロワール渓谷
「フランスの庭」といわれる中部ロワール地方を東西に流れるのロワール川に沿って、数々の街が栄え、その流域100kmに、風光明媚なたくさんの古城を残した。名高い古城だけでも、東からシャンボール城、シュヴェルニー城、ブロワ城、ショーモン城、シュノンソー城、アンポワーズ城、ヴィラントリー城、ユッセ城、シノン城など。いつの日かこれらの「古城めぐり」をしたいものだ。



今回の旅では、シュノンソー城の見学が実現した。15世紀、100年戦争でパリを逃れていたシャルル7世(在位1403~61年)は、戦争終結後もロワール地方に首都を置いた。孫のシャルル8世(在位1470~98年)の時代になると、国情も安定し、イタリアへ出兵するほどになる。イタリアでルネサンス最盛期の文化を目の当たりにして「城が文化水準の象徴」と見るようになった。財力のある貴族たちは「築城競争」を始め、競って装飾的な城に仕上げていく。フランソワ1世(在位1494~1547年)の時代には、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとする芸術家を海外から招へいし、シュノンソー城を建設した。城は3つの構成部分から成り立っていて、まずは、15世紀の城塞の名残でもある手前右側の「独立塔」。次は、シャンボール城よりわずかに早く建てられたシェール川岸近くの棟で、初期ルネサンス様式豊かな建築。3つ目は橋上の3層建築で、1階の壁面は橋脚に合わせて半円形にふくらませ、2階の窓に円弧の切妻ひさしを出し、3階には屋根をくりぬいた丸窓が並ぶクラシックスタイルで、「シェール川に投錨した船」にたとえられている。16世紀の創建以来、代々の城主が女性だったことから、「6人の女の城」とか「奥方の城」とも呼ばれている。なかでも有名なのが2番目の城主ディアーヌ・ド・ポアチエ(時の王アンリ2世の愛妾)で、王より20歳年上ながら衰えることのない美貌で愛を独占したといわれる。王の死後、正妻のカトリーヌ・ド・ポアチエがディアーヌを追い出し、3番目の城主となった。城を囲む2つのフランス式庭園は、ヴェルサイユ宮殿の庭園にも匹敵するほど美しいが、かつての愛憎劇を偲ばせるように、それぞれ「カトリーヌの庭」・「ディアーヌの庭」と名付けられている。

「番外」ユングフラウ・アレッチのスイスアルプス
自然遺産 スイス 2001年登録・2007年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨
● ヨーロッパ最大の氷河が横たわるアルプスの秘境



スイス南西部に広がるアルプス山脈ベルナー・アルプスにそびえるユングフラウ山(若き乙女の意)を中心とする約540㎢の地域に、ヨーロッパ最長の氷河とメンヒ、アイガーなど4000m級の名峰が連なる。多様な動植物の生態系はもちろん、その神々しいまでの山岳景観美が「アルプスの少女ハイジ」など多くの文学作品や芸術に影響を与えたという点も大いに評価され、2007年には、登録面積がそれまでの約1.5倍、ベルナーアルプス山脈がすっぽりと収まる824㎢に拡大された。交通の難所であったアルプスの美しさを最初に讃えたのは、自然回帰を唱えたロマン主義の父ジャン・ジャック=ルソー。19世紀初めのメイヤー兄弟によるユングフラウ初登頂を機にアルピニズム黄金時代の幕が切って落とされると、1811~58年にかけ、この地域の峰はほとんど登頂され、スイスアルプスは世界中の人々が訪れる一大観光地となった。ヨーロッパ最高地点(標高3454m)にある鉄道駅がユングフラウヨッホ。高速エレベーターでスフィンクス展望台に上がれば、眼前は見渡す限りの銀世界。これが、約24kmにわたって延々と続くアレッチ氷河だ。眺めるだけでは満足できない人たちは、氷河トレッキングやスキー、犬ぞりなどに興じる。懸念されるのは、地球温暖化による氷河の縮小と消滅。19世紀後半に観測がスタートしてから、大アレッチ氷河は約3kmも後退しており、その溶解スピードは加速しているという。危機感を募らせた地元自治体は、電気自動車以外の侵入を禁止するなど、エコリゾートへ向けての取り組みを進めている。

最後の10分ほどは、インターカルチャークラブ制作の『世界の美術館』(18巻)のうち、「オルセー美術館」が所蔵している名画の数々を視聴した。

(文責 酒井猛夫・酒井義夫)


「参火会」2月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 深澤雅子   文独1977年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒