2019年3月20日水曜日

第52回「参火会」3月例会 (通算416回) 2019年3月19日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第13回目   日本の世界遺産② 白川郷と五箇山の合掌造り集落/広島の平和記念碑(原爆ドーム)/琉球王国のグスク及び関連遺産群/厳島神社/白神山地/知床/屋久島

今回は、下記資料「12-①~12-⑦」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した下記12-①~⑦ の映像約41分を視聴しました。




12-① 白川郷と五箇山の合掌造り集落
文化遺産 1995年登録 登録基準④⑤
● 豪雪地帯における伝統的建築物
飛騨高地は、岐阜県北部と富山県南部にあり、白川郷と五箇山はその険しい山間を流れる庄川沿いの段丘に形成された集落。一帯はわが国有数の豪雪地帯で、外界との行き来が困難だった。そのため、戦後になって電気や道路が整備されるまでは、昔から伝わる社会制度・民俗・慣習・20~30人で暮らす大家族制などが根強く残され、独自の生活や文化を育んできた。とくに「合掌造り」といわれる独特の家屋と周囲の自然環境は、後世に伝える歴史遺産としての美しさを保つ。合掌造り家屋の最大の特徴である茅葺きの大屋根は、積雪を防ぐため45~60度の傾斜がある。また雪の重みと風の強さに耐えるため部材の結合には釘など金属はいっさい使用せず、縄でしばって固定する工法が守られてきた。各集落には江戸時代から続く互助組織「結い」による協力体制が発展してきた。特に30~40年に1度行われる茅葺屋根の葺き替え作業は「結い」が不可欠で、白川郷では村民100~200人が総出となって、1日で葺き替えを終えたという。19世紀末までは、300棟以上の合掌造りの家屋があったが、1930~60年代にダムがいくつも建設されたことで水没した家屋も多くあり、70年代に入って保護活動が本格化したことで、世界遺産となった1995年には、岐阜県白川村の「荻町集落」(白川郷) には59棟、富山県南砺市の五箇山には「相倉集落」に20棟、「菅沼集落」に9棟が残された。

12-② 広島の平和記念碑(原爆ドーム)
文化遺産 1996年登録 登録基準⑥
● 原爆の悲劇を語り継ぐ平和のシンボル
広島市の平和記念碑(原爆ドーム)は、1945年8月6日、人類史上初めて原子爆弾が投下された当時の姿を後世に伝える「負の遺産」。この建物は、1914年にチェコの建築家ヤン・レツルによって設計され、1915年に「広島県物産陳列館」として誕生したもので、1945年当時は「広島県産業奨励館」に改称されていた。建物は一部鉄骨を使用した3階建てのレンガ造りで、楕円形のドームや湾曲した壁面から「ネオ・バロック」の影響を受け、柱頭や窓枠の正方形や幾何学模様を配置した装飾からは、19世紀ウイーン分離派の「ゼツェッション様式」といわれる。2つの建築様式を融合した大胆なデザインは、周囲の美しい庭園とともに、創建当時から市民の注目を集めていた。またこの建物は、原爆により一瞬にして廃墟となったが、爆風がほぼ真上から襲ったため、全壊を免れた。戦後、この廃墟を「不幸の記憶」として解体すべきか、「平和の象徴」として保存すべきか議論が繰り返されたが、当初保存に消極的だった広島市が、1966年の市議会で「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で可決させた。人類が作り出した最も強力で悲惨な兵器のひとつといえる原子爆弾の被害の実態を後世に伝えるだけでなく、原子爆弾を含めたすべての核兵器の根絶と恒久的な世界平和を訴えるモニュメントとしての価値が高い。なお、登録範囲は原爆ドームの建つ3900㎡の爆心地域と、平和記念公園・平和資料館・原爆死没者慰霊碑・原爆の子像のある場所や周辺の河川地区など約42万㎡となっている。

12-③ 琉球王国のグスク及び関連遺産群
文化遺産 2000年登録 登録基準②③④
● 周辺諸国との交流と、独自の文化をあらわす遺産群
沖縄県内に点在する「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、15~19世紀にかけて存在した「琉球王国」の文化を今に伝える。この地に農耕が本格的に展開した12世紀ころ、按司(あじ)と称する首長が各地に勃興し、城砦(グスク)を築いて覇権を争い、14世紀中頃には北山・中山・南山という三王国が並立していた。これを1429年に中山王の「尚巴志」が統一して生まれたのが「琉球王国」だった。1609年に薩摩藩の侵攻により事実上同藩の支配を受けてはいたが、1879年に沖縄県になるまで450年間にわたり、日本をはじめ中国(明)・朝鮮・東南アジア諸国との広域の交易を経済的な基盤としてきた。沖縄各地に残るグスクは、沖縄が独立国だった時代の歴史を伝えてくれる。今帰仁(なきじん)城・座喜味城・勝連(かつれん)城・中城(なかぐすく)城は、いずれも三王国並立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城であり、首里城は琉球王がその居所と統治機関を設置するために築いたもの。これらの城壁は、主として珊瑚石灰岩により造営されており、曲面を多用した琉球独自の特色を備えている。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」構成する9遺構
◇ 首里城跡…那覇市にあり、那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスク。三王国並立時には中山国王の居城で、琉球王国が成立後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たした。グスクは内郭(内側の小区画)と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されている。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていたが第二次世界大戦末の沖縄戦で全壊、1992年に復元された。
◇ 今帰仁(なきじん)城跡…標高100mの古期石灰岩丘陵に築かれた三王並立時の北山王居城。グスクは6つの郭から成り、総長1500mにも及ぶ城壁は、地形を巧みに利用しながら野面積みで屏風状に築かれている。 難攻不落のグスクだったが、1416年に首里城を拠点とする中山軍によって滅ぼされた。落城後は、王府から派遣された北山監守の居城となり、監守制度は1665年まで続いた。
◇ 座喜味城跡…中山軍の今帰仁城攻略に参加した有力按司(首長)の「護佐丸」によって15世紀前期に築かれたグスク。国王の居城である首里城と緊密な連携を図るという防衛上の必要性から、首里城より眺望可能な丘陵上に立地し、北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていた。 グスクは、2つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩を用いて屏風状に築かれている。
◇ 勝連(かつれん)城跡…琉球王国の初期、最後まで国王に抵抗した有力按司である「阿麻和利」の居城。眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されている。 城内には建物跡、固有信仰の「火の神」を祀った聖域のほかに、最上段の郭(本丸)には玉ノミウヂ御嶽(うたき=祭祀などを行う施設)という霊石があり、信仰の対象となっている。
◇ 中城(なかぐすく)城跡…勝連城主の阿麻和利を牽制するため、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が15世紀中期に整備したグスク。琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たした。6つの郭からなり、県内でも城壁が良く残るグスクの一つ。 城壁は、琉球石灰岩の切石を使用し、地形を巧みに利用しながら曲線状に築かれた。1853年に来琉したアメリカのペリー艦隊の探検隊がその築城技術を高く評価したことが文献や絵画に残されている。
◇ 玉陵(たまうどぅん)…1501年頃、第二尚氏王家歴代の陵墓として造営された。国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、墓を造ったと推測されている。墓室は三室に分かれ、中室には洗骨前の遺骸、東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族などを納骨する。
◇ 園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門…1519年に創建された石造の門。日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造建物で、木製の門扉以外はすべて石造。第二次世界対大戦で破壊されたが、1957年に修復された。
◇ 識名(しきな)園…王家別邸の庭園として1799年に築庭。王族の保養の場としてだけなく、海外の要人を饗応する場所としても利用され、国の外交面において重要な役割を果たした。庭の地割には日本庭園の影響が、池の小島に架かる石橋や六角堂と称される建物の意匠には中国の影響が見られるものの、琉球独自の構成や意匠を主体としている。第二次世界大戦で大きな被害を被ったが、1996年に甦った。
◇ 斎場御嶽(せーふぁうたき)…王国最高位の女神官である聞得大君(きこえおおぎみ)の就任儀式「御新下(おわらお)り」が行われた格式の高い御嶽。中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしただけでなく、琉球の開閥神「アマミク」が創設した御嶽の一つといわれる。

12-④ 厳島神社
文化遺産 1996年登録 登録基準①②④⑥
● 寝殿造りを神社に持ちこんだ美的センス
広島県廿日市市にある安芸の宮島(別名厳島)は、瀬戸内海にあり、標高535mの弥山(みやま)を擁する島全体が「ご神体」としてあがめられてきた。遠く離れた場所から拝むことが信仰の始まりだったが、次第に水際に神殿が形成されていった。平安時代末期、平清盛は保元・平治の乱の戦功などで権力を手中に収め、全盛期を迎えていく。宋との貿易を盛んに行ったことから、瀬戸内海の海上交通を整備し、海上の守り神として厳島神社の社殿を整えていった。現在の厳島神社の原型ともいえる構造物群が完成したのは1168年といわれ、色鮮やかな朱塗りの社殿が海に向かって鳥が羽を伸ばすように広がり、本社(本殿・拝殿・祓殿など)を中心に、37棟の建物が300mもある回廊でむすばれている。有名な大鳥居とともに、満潮時には海に浮かぶという世界にも例を見ない宗教施設。たび重なる火災、水害による被害を受けたが、現在残る主要な殿舎は、1223年に焼失したものを1241年に再建したもの。その後も厳島神社は何度となく風水害に遭いながらも、時の権力者や在地の有力者により修復されてきた。海上に立つ大鳥居もしばしば倒壊したが、1537年の再建に際し控柱をもつ形式の両部鳥居に収められた。現在の大鳥居は、1850年に台風で倒壊したものを1875年に再建したもので、柱の中は空洞となっており、そこへ小石を詰め込んで重くした平安末期から数えて8代目。厳島神社には、1407年に五重塔が、1587年には豊国神社本殿(別名・千畳閣=秀吉が僧恵瓊に建立を命じた857畳の大広間を持つ建物)などが寄進されている。

12-⑤ 白神山地
自然遺産 1993年登録 登録基準⑨
● 東アジアに残る最後の原生温帯林
「白神山地」は、青森県南西部と秋田県北西部をまたぐ1300㎢の範囲に広がる山岳地帯の総称で、世界遺産に登録されたのはその中心部分の約170㎢。およそ8000年前に形づけられた原生的なブナ林が世界最大級の規模で分布し、貴重な動植物の宝庫としても極めて重要であると高く評価された。このブナの純林には、約500種類もの植物が分布しており、この豊富な植生が、哺乳類では国の特別天然記念物のニホンカモシカや大型ツキノワグマから世界最小のトガリネズミまで約20種、鳥類では天然記念物のクマゲラや絶滅危惧種のイヌワシなど約80種、2000種以上の昆虫類など、多種多様な生き物たちの命を育んでいる。微生物に至っては何兆種類ともいわれ、白神で発見された野生酵母は、天然酵母パンの材料としてすっかりおなじみとなった。1000m級の山々と清らかな流れ、V字に切れ込んだ谷壁を流れ落ちる幾筋もの滝など、景観の美しさでも知られるが、森林生態系保護のため秋田県側のコアゾーン(核心地域)への入山は原則禁止。遊歩道の整備された青森県側のバッファゾーン(緩衝地域)は入山可能のため、「暗門の滝」や「十二湖」などへの名勝めぐりやブナの森林浴などが楽しめる。山を熟知している現役のマタギ(猟師)が案内するエコツアーも人気。

12-⑥ 知床
自然遺産 2005年登録 登録基準⑨⑩
● 海と陸が育む複合生態系
「知床」として世界遺産に登録されたのは、北海道の東端にある細長い知床半島の陸域(487㎢)と、海岸線から3kmの海域(224㎢)とあわせた総面積711㎢の範囲。知床半島には、最高峰の羅臼岳(1661m)をはじめ硫黄山(1562m)など1500m級の火山群が縦走する。そこにトドマツ・エゾマツなどの針葉樹やミズナラ・シナノキなどの落葉広葉樹の原生林が広がる。北緯44度に位置する知床は、世界でも最も低い緯度で海水が氷結する「季節海氷域」にあたることで、流氷が運んでくる豊富な栄養塩は春になると溶けて豊富な植物プランクトンを供給する。それを動物ブランクトンが食べ、小魚・甲殻類・貝類などが繁殖するといった「食物連鎖」がおこる。この海から始まる連鎖は絶滅に瀕するトドやアザラシを生息させ、河川を遡上するサケやマスを捕食するヒグマやキタキツネなどの哺乳動物、希少種のオオワシやオジロワシなど魚食性の大型鳥類を支える。オホーツク海に面した海岸線には100mを越える断崖絶壁が連なり、知床連山では800種以上の貴重な高山植物が咲きほこるなど、知床半島には数知れない見どころが存在する。なかでも『知床八景』は、是非訪れたい場所としてよく知られている。① 高さ100mの断崖の途中からオホーツク海へと流れ落ちる不思議な滝「フレペの滝」、②深い原生林に抱かれた溶岩台地にある5つの小さな湖の総称「知床五湖」、③ 活火山である硫黄山の中腹から湧き出る温泉が川に流れ込む「カムイワッカ湯の滝」、④ ハイマツ帯が広がる標高738mの「知床峠」、⑤ オホーツク海と阿寒国立公園の遠望が見渡せる絶景と夕日の名所「プユニ峠」、⑥ ウトロ港の東側にある高さ100mの巨大岩「オロンコ岩散策路」、⑦ ウトロ湾を見下ろす夕日の名所「夕陽台」、⑧ 落差約80m知床半島最大の滝「オシンコシンの滝」の8か所。なお、知床では豊かな生態系を保護するため、イギリスのナショナルトラスト運動を手本にした、市民の寄付で土地を買い取る「知床100㎡運動」が行われ、1997年からは「100㎡運動の森・トラスト」に発展させ、環境保護と観光を両立させる「エコツーリズム」に力をそそいでいる。

12-⑦ 屋久島
自然遺産 1993年登録 登録基準⑦⑨
● 樹齢1000年を超えるスギの群生地
九州最南端の佐多岬から南南西約60kmにある屋久島は、約1400万年前に花崗岩が隆起して誕生した約500㎢(東京23区ほど)の円形の島。世界遺産に登録されたのは、島の西部海岸線から標高1936mの宮之浦岳をはじめ、1000m級の山が46座もあることで「洋上のアルプス」とも呼ばれる約107㎢の範囲。年間の降雨量は多く、海岸部でも平均4000㎜を超え、山間部では1万㎜にも達する。海岸付近は年間平均気温が19℃もあり1年中ハイビスカスが咲く南国の亜熱帯気候なのに対し、山頂部の平均気温は9℃前後と冷寒帯~亜寒帯に近く、冬には雪が2~3mも降って氷に閉ざされる。そのため、海岸からこの島の急峻な山々までには南西諸島から北海道までの植生が垂直分布しており、まさに日本の植生の縮図ともいえる。標高0~500m付近ではガジュマルやオオタニワタリなどの亜熱帯の森なのに対し、600~1500mに分布する屋久島のシンボルともいえる「屋久杉」は樹齢1000年以上のスギで、1000年未満のスギはここでは「小杉」と呼ばれる。樹齢7200年と推定される「縄文杉」や推定樹齢3000年の「紀元杉」など、樹齢1000年以上のスギの数は2000本以上あるという。本来スギの寿命は300年前後なのに対し、屋久島のスギは栄養分の少ない花崗岩の大地に育つため成長が遅く、そのため材質が緻密で多量の樹脂を蓄えることで腐りにくく、長生きして大きくなるといわれている。屋久杉はもともとはご神木としてあがめられ伐採されることはなかったが、16世紀後半に豊臣秀吉によって寺の建築のため伐採が始まり、江戸時代になると伐採した杉を屋根を葺く平木に加工して年貢として幕府に納めるようになって、森林の50~70%が伐採されてしまった。「屋久杉」の保護は、1924年に原生林が天然記念物に指定されたのに始まり、1954年に特別天然記念物に指定され、1964年には国立公園に編入されたものの伐採は続けられてきた。屋久島島民は、1971年に伐採の中止を求めて「屋久島を守る会」を結成して保護運動を前進させ、1980年代に入っていっさいの伐採が禁止された。こうした保護運動のなかで、1981年屋久島杉はユネスコの「生物圏保護区」に指定され、世界遺産登録への第一歩が築かれた。屋久島には、植物ばかりでなくヤクシカやヤクシマザルなどの固有の哺乳類、アカヒゲやヤクシマアカコッコなど絶滅危惧種の鳥類なども生息している。


上記の映像を視聴後は、2月13~22日まで、「モロッコ 7つの世界遺産をめぐる10日間の旅」に行かれたメンバーの菅原勉氏に、体験レポートをしていただきました。7つの世界遺産のうち、2012年に登録された首都「ラバト」以外の6か所 (世界一の迷宮都市「フェズ」、北アフリカのヴェルサイユ「メクネス」、モロッコ最大のローマ都市「ヴォリビリス」、南方の真珠とうたわれた古都「マラケシュ」、イスラムから逃れた人々が築いた要塞村「アイット・ベン・ハッドゥ」イスラムとスペインが混じった白亜の街「テトゥワン」) は、昨年9月の例会で視聴してはいましたが、その現場ばかりでなく、サハラ砂漠をラクダに乗る姿など、間近に撮影された多くの映像による氏の説明は、とても説得力のあるものでした。
(文責 酒井義夫)


「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2019年2月20日水曜日

第51回「参火会」2月例会 (通算415回) 2019年2月19日(火) 実施

「男鹿のナマハゲ」が昨年12月、「能登のアマメハギ」「鹿児島・甑(こしき)島トシドン」「沖縄・宮古島のパーントゥ」など9件の伝統行事とともに、『来訪神 仮面・仮装の神々』として、ユネスコの無形文化遺産に登録されたことは、新聞・テレビなどのマスコミ報道でご存知のことでしょう。
そこで今回は、都合により予定を変更し、つい10日ほど前の2月9日、秋田県男鹿市の真山神社で行なわれた「第56回 なまはげ柴灯(せど)まつり」(昭和39年に始まり、毎年2月の第二金・土・日の3日間開催される)を見学してきたばかりの酒井義夫が、その体験を語る会としました。

「みちのく五大雪まつり」のひとつとなっているこの祭りは、男鹿の冬を代表する冬祭りとして、900年以上前から毎年1月3日に真山神社で行われている神事「柴灯祭(さいとうさい)」と、民俗行事「なまはげ」を組み合わせた冬の観光行事で、真山神社境内に焚き上げられた柴灯火のもとで繰り広げられ、勇壮で迫力あるナマハゲの乱舞などで、見る人たちを魅了してきました。
「男鹿のなまはげ」は、大みそかの晩に男鹿にある各集落の青年たちがナマハゲに扮して「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」などと大声で叫びながら家々を巡ります。
男鹿の人々にとってのナマハゲは、怠け心を戒め、無病息災・田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす年の節目にやってくる来訪神です。ナマハゲを迎える家では、昔から伝わる作法で料理や酒を準備して丁重にもてなします。男鹿市内のナマハゲ行事は、かつて小正月に行われていましたが、現在は約85の町内で12月31日の大みそかに行われているようです。

「なまはげ柴灯(せど)まつり」は、夕方6時ころにはじまり、次のように進行します。
● なまはげ入魂
なまはげに扮する若者が参道入り口で神職からお祓いを受け、「神(しん)」の入った面を授かりなまはげと化して山へ戻って行きます。





● なまはげ踊り
秋田が生んだ現代舞踏家石井漠の振り付け、子の石井歓が曲を付けて昭和36年に誕生したダイナミックな「なまはげ踊り」が境内中央の柴灯火の前で繰り広げられます。




● なまはげ太鼓
なまはげと和太鼓を組み合わせた郷土芸能「なまはげ太鼓」。勇壮な太鼓のリズムとなまはげの掛け声が響き渡ります。




● なまはげ下山
境内に面した山の頂きの闇の中から松明を手にしたなまはげが現れて参道を下り、観客であふれた境内を練り歩きます。幻想的な柴灯まつりのクライマックス。




当日の夜は、積雪40cmほどもあり、歩道は踏み固められているものの氷点下5~7度と寒く、使い捨てカイロを身体中に貼ってはいても、1時間近くも会場の真山神社境内にいると冷え切ってしまいました。そこで暖をとろうと、5分ほど下ったところにある『なまはげ資料館』に行ってみました。この資料館には、「なまはげ勢ぞろいコーナー」というのがあり、男鹿市内各地で実際に使われていた110体+40枚の多種多様なナマハゲ面が勢ぞろいして、見ごたえ十分です。




「なまはげ伝承ホール」は、50人も座ってみられるスペースがあり、大みそかの男鹿のナマハゲ行事を15分間の映画で紹介してくれます。「面づくりコーナー」では、20年以上もなまはげの面づくりにはげむ彫り師の実演が行われ、「なまはげ変身コーナー」では、だれでも面や衣装を身につけることが出来、記念写真もOK(無料)です。
一番驚いたのは、先ほどまで真山神社で見ていた「なまはげ柴灯(せど)まつり」の実況放送が、2台のテレビに写しだされていることでした。どこで何が行われるか知り尽くした撮影者がテレビカメラで撮っているのでしょう。現場では1500人もの人があふれかえっているため何をやってるのかほとんど見当がつかなかったのが、これを見ていれば実によくわかります。そのため、7時半から終了する8時半ころまで、ここのテレビにかじりついて見続け、まさに寒さ知らずの楽しい時間が過ごせました。なお、「なまはげ柴灯(せど)まつり」は、毎年2月の第二金・土・日の3日間ですので、1度はご覧になることをお薦めいたします。
(文責・酒井義夫)


「参火会」2月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2019年1月16日水曜日

第50回「参火会」1月例会 (通算414回) 2019年1月15日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第12回目   日本の世界遺産① 古都京都の文化財/古都奈良の文化財/法隆寺地域の仏教建造物群/紀伊山地の霊場と参詣道/姫路城/日光の社寺/石見銀山遺跡とその文化的景観

今回は、下記資料「11-①~11-⑦」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した下記11-①~⑦ の映像約41分を視聴しました。




11-① 古都京都の文化財
文化遺産 1994年登録 登録基準②④
● 各時代を象徴する様式が守られる「千年の都」
桓武天皇が794年に長岡京から遷都を行い平安京が誕生して以来、およそ1000年にわたり、日本の首都として繁栄した。平安時代から江戸時代に入るまでの各時代を代表する建築様式、庭園様式など、その文化的背景を今に伝え、日本の建築、造園、都市計画の発展に大きく寄与した。建築分野では、日本の基礎的建築様式の「和様」や16世紀末から17世紀初頭に用いられた「桃山様式」は京都で洗練され、それが日本全国へと伝え広がった。造園分野では、京都で産み出された枯山水や浄土式庭園といった庭園様式が後に日本各地へと広がった。また、都市計画では、中心部と周縁部からなる京都の都市の構造を取り入れた、いわゆる「小京都」と呼ばれる都市が16世紀以降、日本各地で盛んに造られた。「古都京都の文化財」は都市の近代化とともに失われていく日本の伝統的木造建築の文化とその技術を後生に伝える、人類にとってかけがえのないものといえる。
構成資産は京都府京都市、宇治市、滋賀県大津市に点在する次の17資産
① 上賀茂神社…豪族、賀茂氏の氏神である「賀茂別雷神命(かもわけいかずちのみこと)」を祭神とする神社で、8世紀に下鴨神社が分社したため、区別するために「上賀茂神社」と呼ばれる。国宝の本殿・権殿のほか、41棟が重要文化財に指定されている。
② 下鴨神社…上賀茂神社とともに、国家鎮護の神社として崇敬され、11世紀に現在の姿となる。東本殿と西本殿は国宝。3万坪以上ある「糺(ただす)の森」も資産に含まれる。
③ 東寺…794年に桓武天皇は、平安京遷都に際して都の正門の東西に官寺(国立の寺院)として、「東寺」「西寺」を建立した。その後、西寺は衰退したが、東寺は、823年に弘法大師空海に下賜され、正式名称を「教王護国寺」とし、日本初の真言密教の寺院となった。国宝指定の五重塔・金堂・蓮花門・御影堂のほか、重要文化財の講堂など見どころ満載。
④ 清水寺…13万㎢もある境内には、「清水の舞台」といわれる国宝の本堂をはじめ、仁王門・西門・三重塔などの重要文化財を合わせた15の伽藍があり、そのほとんどが江戸時代の初期に再建された。寺名は、寺が建つ音羽山中から湧き音羽の滝に流れる清水による。
⑤ 比叡山延暦寺…788年、最澄が建てた草庵を起源とする天台宗の総本山。西に京都、東に琵琶湖を望む幽幻の地にあり、平安京の鬼門(北東)を守る鎮護国家の道場として、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮らを輩出し、今もなお修行道場として厳粛な雰囲気に満ちている。
⑥ 醍醐寺…真言宗醍醐派の総本山。200万坪以上の広大な境内は「上醍醐」「下醍醐」に区分され、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」で有名。874年聖宝理源大使が上醍醐に堂宇を建立したことに始まる。国宝の金堂・三宝院のほか、下醍醐にある国宝の五重塔は京都最古の木造建築。
⑦ 仁和寺…真言宗御室派の総本山。門跡寺院(法親王の住む寺院)となった最初の寺で、徒然草や方丈記にも登場する格式高い寺院。遅咲き桜として有名な「御室桜」がある。国宝の金堂をはじめ、存在感のある二王門・五重塔ほか重要文化財も多い。
⑧ 平等院…宇治市の宇治川沿いにある藤原氏ゆかりの豪華絢爛な寺院。元々この地には、源融という「源氏物語の主人公」光源氏のモデルとされた人物の別荘があった。10円硬貨の絵柄にある鳳凰堂をはじめ、鳳凰堂壁扉画、日本三名鐘の一つとされる梵鐘など多数の国宝を所有。
⑨ 宇治上神社…宇治市にある神社で隣接している宇治神社とは対を成し宇治離宮明神などと呼ばれている。宇治上神社の創建は定かではないが、国宝の本殿は現存する日本最古の神社建築とされる。拝殿も国宝で寝殿造の趣を伝える貴重な文化財。
⑩ 高山寺…真言宗系の寺で、高雄山からさらに奥の山中(京都右京区栂尾)に位置する。1206年に後鳥羽上皇が明恵上人に下賜し再興された。国宝の鳥獣戯画を所有することでも知られ、国宝の石水院は鎌倉時代の住宅建築をしのばせる貴重な建造物。日本最古と伝わる茶園もある。
⑪ 西芳寺…境内を約120種もの苔が覆い、周辺の緑の木々や池泉回遊式庭園と相まって美しい景観美を見せることから「苔寺」と呼ばれる。奈良時代に高僧行基によって創建したとされ、1339年夢窓疎石が禅宗寺院として再興して隆盛する。
⑫ 天龍寺…臨済宗天龍寺派の大本山。1339年に没した後醍醐天皇の菩提を弔うために、室町幕府初代将軍足利尊氏が夢窓疎石を開山として建立。庭園は、曹源池を中心とした池泉回遊式で、貴族文化と禅文化の伝統が薫る。国の史跡・特別名勝指定第1号でもある。
⑬ 金閣寺…臨済宗相国寺派寺院で、正式名称は鹿苑寺。金閣の名の通り金色に輝く豪華絢爛な「舎利殿」は、華やかな北山文化の象徴として国内外にその名を轟かせる。建物は三層の楼閣からなり、金箔がほどこされている。庭園は、特別史跡・特別名勝指定されている。
⑭ 銀閣寺…臨済宗相国寺派寺院で、正式名称は慈照寺。室町幕府8代将軍足利義政が、1482年東山に建立した山荘が発祥。銀閣という名前の由来は、北山殿金閣と対比してつけられた。国宝の観音殿・東求堂は、わび・さびに通じる東山文化を象徴する。
⑮ 龍安寺…臨済宗妙心寺派の寺院。日本庭園の傑作とされる白砂と石だけで構成された枯山水の「石庭」は、世界的に有名。奥行き約10m、幅25mの白砂の庭に15個の石を配した様は、禅の境地を表現したものとされ、「七五三の庭」「虎の子渡しの庭」とも呼ばれる。
⑯ 西本願寺…浄土真宗本願寺派本山。1272年親鸞聖人の廟堂を覚信尼が京都東山に建立したことに始まる。延暦寺の迫害を受け、大阪・和歌山などを転々とし、1591年豊臣秀吉から寄進を受けて現在の地に移転。国宝は書院・黒書院・能舞台・飛雲閣・唐門と5つもある。
⑰ 二条城…徳川幕府の誕生と終焉の舞台となった城。15代将軍徳川慶喜がここで大政奉還を表明したことは有名。国宝となっている二の丸御殿の3000面以上もある障壁画のうち1016面が重要文化財に指定されている。庭園は3つあり、書院造りの二の丸庭園は特別名勝となっている。

11-② 古都奈良の文化財
文化遺産 1998年登録 登録基準②③④⑥
● 天平文化をはぐくんだ平城京の面影
「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」と万葉集にも歌われた奈良は、710年から784年までの74年間、日本の都「平城京」として大いに栄えた。元明天皇により中国(唐)の長安を参考に造営された平城京は、道が碁盤の目のように配された計画都市で、唐との交流を通して日本文化の原型が形成された。当時の人口は10万人と推定され、政治・経済の中心であるだけでなく、同時代に栄えた天平文化の中心でもあった。
構成資産は、次の8資産
① 東大寺…正式名は金光明四天王護国之寺。752年仏の加護により国家を鎮護しようと聖武天皇の発願で本尊「廬舎那仏坐像」(大仏)が建立された。国宝の金堂(=大仏殿は1709年に再建)は寄棟造本瓦葺による世界最大の木造建物とされ、内部には廬舎那仏坐像のほか、薬師如来立像、千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ。東大寺は全国にある国分寺の総本山で、宮内庁管理の正倉院も含まれる。
② 興福寺…南都六宗(華厳宗・法相宗・律宗・三論宗・成実宗・倶舎宗)のひとつ法相宗の総本山。669年藤原鎌足が病を得た際、夫人の鏡大王が夫の回復を祈って、釈迦三尊などの仏像を祀るために山階寺を建てたことに始まる。平城遷都に伴って現在の場所に移され、興福寺となった。国宝の五重塔・三重塔・東金堂・北円堂、重要文化財の南円堂など9棟の建物がある。また、国宝館には有名な阿修羅像などたくさんの国宝が展示されている。
③ 春日大社…786年創建とされる中臣氏(藤原氏)の氏神を祀った全国に約1000社ある春日神社の総本社。国宝の本殿は春日造りの華やかな社殿で、茨城の鹿島神宮からの武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮からの経津主命(ふつぬしのみこと)など4柱(神殿)が横に並び、ひとつの建造物になっている。国宝殿は、春日大社が所有する国宝352点、重要文化財971点をはじめ多くの文化財を所蔵して展示する美術館。
④ 元興寺…6世紀に蘇我馬子が飛鳥に建立した日本で最も古い本格的な寺院の法興寺を、710年の平城京遷都と共に移転して元興寺となった。
⑤ 薬師寺…680年天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈って建立を開始したが完成を見ることなく天皇は686年に没し、後を継いだ持統天皇とその後の文武天皇に伽藍の建築・整備が受け継がれ、718年に藤原京から平城京に移された。その後、973年に金堂・東西両塔を除いてほぼ焼失したのをはじめ、1445年には大風で金堂が倒壊し、1528年には兵火で西塔も失った。こうして創建時の建物は東塔のみとなった。金堂にある国宝の薬師三尊像は、「東洋美術の最高峰」「白鳳期を代表する最高傑作」などと高く評価されている。近年、名物管長だった高田好胤は「百万巻写経勧進」を推進し、600万巻を達成させて金堂・西塔を再建した。
⑥ 唐招提寺…南都六宗のひとつ律宗の総本山で、律宗の開祖であった唐僧の鑑真によって759年に建立された。教義上、立派な伽藍より住むに足るだけの僧坊や食堂と、仏法を講じる講堂が必要だったことから、これらの建物が最初に建てられた。鑑真の没後、奈良時代末に金堂が完成し、810年には五重塔が建立され、順次伽藍が整っていった。金堂内部に安置されている薬師如来立像・盧舎那仏坐像・千手観音立像・梵天立像・帝釈天立像はいずれも国宝。
⑦ 平城宮跡…平城京の中央北端に位置する宮跡で、東西1.3km、南北1km、面積130ヘクタールの広がりをもつ。内部には国の政治や儀式を執り行う大極殿・朝堂院ほか天皇の居所である内裏、行政機関である各役所などがあり、四方には高さ5mの塀が作られ、朱雀門をはじめとする12の門があった。当時の宮殿や役所などの木造建築の遺構は、今も地下に良好に保存されている。
⑧ 春日山原始林…標高は498m、約25ヘクタールの広さがあり人手が加えられていない自然のままの林。古来より春日大社の神域とみなされ、841年からは狩猟と伐採が禁じられている。以来、大社の神山として大切に守られ、明治になって国有地となって奈良公園に編入された後、春日山原始林として1924年に天然記念物に、1955年には特別天然記念物に指定された。

11-③ 法隆寺地域の仏教建造物群
文化遺産 1993年登録 登録基準①②④⑥
●  聖徳太子ゆかりの仏教建築物群
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある法隆寺の47棟と法起寺1棟が登録範囲で、およそ18万7千㎡(東京ドーム14個分)という広大なもの。607年、厩戸王(聖徳太子)と推古天皇によって建立された斑鳩寺を起源とする法隆寺は、西院と東院の二つの伽藍群で構成される。西院に並ぶ金堂と五重塔は、現存する世界最古の木造建造物として知られる。高さ31.6mの五重塔は五つの屋根が重なるようになっており、空・風・火・水・地の五世界という仏教での宇宙観を表している。また、上にいくほど屋根が小さく、塔身も細くなっているのは視覚的に安定感があり、そのデザイン性も高く評価されている。また、西院や五重塔の一部に建物の柱にエンタシスの技法(柱の中央部分を膨らませたギリシャのパルテノン神殿などに見られる建築技法)が見られ、日本と中国、東アジアにおける密接な建築上の文化交流がうかがえる。太子の遺言で建立されたといわれる法起寺の境内にある三重塔は、706年に創建された当時のままの姿で残されている。法隆寺地域の仏教建造物群は、日本に仏教が伝わって間もない飛鳥時代の建築様式を示しており、中国や朝鮮の影響を受けながらも、独自に発展してきた過程を知る上で、貴重な史料となっている。なお、敷地内にある建造物には、金堂内部に安置されている本尊の薬師如来を中心とする釈迦三尊像など国宝が17件、重要文化財が35件ある。

11-④ 紀伊山地の霊場と参詣道
文化遺産 2004年登録 登録基準②③④⑥ 
● 日本の宗教文化の歴史を伝える文化的景観
紀伊山地は、三重・奈良・和歌山県をまたいで、標高1000メートル級の山脈が縦横に走り、年間3000ミリをこえる豊かな降水量が深い森林をはぐくむ山岳地帯。太古の昔から自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀に仏教が伝来した以降、紀伊山地は真言密教をはじめとする山岳修行の場となった。修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の拠点である「熊野三山」、空海が開祖となった真言宗の根本道場である「高野山」の三つの霊場と、それらを結ぶ 「参詣道」が形成されてきた。この地方の神聖性がことさら重要視されるようになった背景には、深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などが大きく影響していたと考えられている。このような日本固有の宗教形態は世界に類を見ない点が高く評価されて世界遺産に登録された。参詣道が世界遺産として認定されたのは、キリスト教聖地の巡礼道で知られる「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」に続き2件目。
◇ 霊場「吉野・大峯」
紀伊山地の最北部にあり、三霊場の中で最も北に位置している。農耕に不可欠の水を支配する山あるいは金などの鉱物資源を産出する山として崇められた「金峯山」を中心とする「吉野」の地域と、その南に連続する山岳修行の場である「大峯」の地域からなっている。修験道の中心的聖地として発展し、10世紀の中頃には日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどの崇敬を集めるようになった。日本中から多くの修験者が訪れ、「吉野・大峯」を規範として、全国各地に山岳霊場が形成されていった。
◇ 霊場「熊野三山」
紀伊山地の南東部にあり、相互に20~40kmの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三つの神社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二つの寺院からなっている。三つの神社はもともと個別に自然崇拝の起源を持っていたと考えられる。10世紀後半は他の二社の主祭神を相互に合祀するようになり、以来「熊野三山」あるいは「熊野三所権現」と呼ばれ、多くの皇族・貴族の崇敬を集めるようになった。「青岸渡寺」「補陀洛山寺」は、「熊野那智大社」と一体となって発展してきた寺院で、神仏習合の形態をよく保っている。世界遺産には、「那智大滝」「那智原始林」もふくまれる。
◇ 霊場「高野山」
空海が唐からもたらした真言密教の山岳修行道場として816年に創建した「金剛峯(こんごうぶ)寺」を中心とする霊場。「金剛峯寺」の伽藍は、真言密教の教義に基づき本堂と多宝塔を組み合わせた独特のもので、全国の真言宗寺院における伽藍の規範となっている。また、「丹生都比売(にうつひめ)神社」の祭神は、高野山一体の地主神で、空海にこの地を譲った神と伝えられ、「金剛峯寺」の鎮守として祀られた。
◇ 参詣道
三霊場に対する信仰が盛んになるにつれて形成され整備された「大峯奥駈道」「熊野参詣道」「高野参詣道」と呼ばれる三つの道。これらの道は、人々が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場であり、険しく清浄な自然環境のなかに今日まで良好な状態で残り、沿道の山岳・森林と一体となった文化的景観を形成している。「大峯奥駈道」は、「吉野・大峯」と「熊野三山」の二大霊場を結ぶ山岳道で、修験道の最も重要な修行の場。「熊野参詣道」は、「熊野三山」に参詣する道で、京都方面からの参詣のために最も頻繁に使われた「中辺路」、「高野山」との間を結ぶ「小辺路」、紀伊半島の南部の海沿いを行く「大辺路」、同じく南西部の海沿いを行く「紀伊路」、伊勢神宮との間を結ぶ「伊勢路」からなっている。「高野参詣道」は、金剛峯寺北側の紀ノ川から高野山に至る経路、霊場高野山を囲む経路などからなる参詣道。

11-⑤ 姫路城
文化遺産 1993年登録 登録基準①④
● 400年以上にわたり優美な姿を誇る白鷺の城
兵庫県姫路市にある姫路城は、現存する日本木造城郭建築の最高傑作とされる。城郭としての始まりは、1346年に赤松貞範による築城とする説が有力で、16世紀末に城主となった羽柴秀吉は、この城を毛利氏攻略の拠点に定め、新たに3層の天守閣を建設した。そして、1600年の関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政は、9年間にわたる大改修を施し、姫路城の象徴でもある外観5層の大天守を中心に、今日見られる大規模な城郭へと拡張させた。木造の建物を配し、石造の城壁と白色の土塀をめぐらせる日本の独特の城郭の様式は16世紀中頃に確立したが、姫路城はこの城郭建築の最盛期の遺産であり、17世紀初頭の日本の城郭を代表するものといえる。この城は、白漆喰の総塗籠の外壁という優美な外観から、白鷺城の別称があり、その名でも広く知られているいっぽう、きわめて堅牢な城でもある。らせん状に構築された巧妙な基本設計、姫山と呼ばれる自然の丘の地形をいかした城壁や堀、数多く配した櫓や門などにより、高度な防衛能力を兼備している。内濠と高い石垣に囲まれた内郭地域には城柵主要部と城主の居館が造営され、内濠と外濠のあいだの外郭地域には武家屋敷があった。その外は一般民衆の居住地と商業地からなる城下町であり、その周囲にも濠が巡っていた。明治維新の際の廃城令や第2次世界大戦でも戦火をまぬがれ、江戸時代初期の姿を今にとどめている。1956年から8年間にわたる「昭和の大修理」では天守閣の解体修理が行われ、2009年から6年間は、大天守の屋根瓦や漆喰壁の保守修理事業が行われ、「修理を行いながら真正性を保つ」取り組みも高く評価された。大天守のほか、東小天守、西小天守、乾小天守、イ・ロ・ハ・ニ渡櫓の8棟が国宝、その他の櫓や濠など74棟が重要文化財に、石垣も含めた全体が特別史跡に指定されている。

11-⑥ 日光の社寺
文化遺産 1999年登録 登録基準①④⑥
● 日本近世の建築様式を代表する建造物
日光の社寺は、東照宮と東照宮以外の神道の総称である二荒山神社、仏教関連の寺の総称である輪王寺の2社1寺に属する計103の宗教的建造物からなる登録遺産で、栃木県日光市にある。日光は、男体山など標高2000m級の山々が連なり、古くから神仏習合の聖地であり霊場だった。開山は奈良時代後期766年に勝道上人が創建した四本龍寺をこの神聖なる日光の山の斜面に造ったとされている。今日では、これらの建造物群は、宗教的習慣の保存だけでなく、何世紀にも亘る建造物の保全と修復をも立証する。この遺産の特異な点として、長期的に価値のある遺産の組み合わせということが挙げられる。50.8ヘクタールに及ぶこの遺産は、積年の伝統的崇拝、高いレベルの芸術的功績、建造物と周囲の自然が織りなす印象的な景観を示すもので、国家の記録の宝庫としての役割も果たしている。
「日光の社寺」構成資産
① 東照宮…江戸時代の初代将軍徳川家康の霊廟として、家康の側近だった僧天海が東照宮の前身となる東照社を建設した。その際天海は荒廃していた社寺の再興にも尽力したことで、日光は徳川幕府の聖地として再び信仰を集めるようになった。その後、第3代将軍徳川家光の代に1年5か月にわたる「寛永の大造替」と呼ばれる大改修を行って権現造を主体とする姿に替え、1645年に東照宮と改称した。この大造替により、陽明門や三猿として知られる神厩舎など、当時の最高技術を用いた芸術性の高い建造物がつくられた。特に高さ11.1m、横幅7mの大きさを誇る国宝の「陽明門」には、500を越える精緻な彫刻が施されている。その他、東照宮には眠り猫・唐門・御本社・回廊など国宝が8棟、重要文化財が34棟ある。
② 二荒山神社…霊峰二荒山(男体山)をご神体と仰ぐ山岳信仰の中心として、古くから崇拝されてきた。本社社殿をはじめ、唐門や拝殿・神橋など23棟が重要文化財に指定されている。
③ 輪王寺…輪王寺の本堂で東日本最大の「三仏堂」、家光の霊廟である国宝の「大猷院」は本殿・拝殿・相の間ともに金箔や彩色がほどこされていることから「金閣殿」と呼ばれるなど、見どころ多数。

11-⑦ 石見銀山遺跡とその文化的景観
文化遺産 2007年登録・2010年範囲変更 登録基準②③⑤
● 17世紀に世界の銀の3分の1を産出した産業遺産
石見銀山遺跡は日本海に面する島根県のほぼ中央に位置し、石見銀の採掘・精錬から運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体を表す「銀鉱山跡と鉱山町」「港と港町」「街道」からなり、面積は4.42㎢(東京ドームの95倍)もある。14世紀初頭に、この地を領していた大内氏が発見したといわれる石見銀山の開発は、1527年に九州博多の豪商神谷寿貞が朝鮮から導入した「灰吹法」という銀の精錬技術により銀の飛躍的増産を可能にした。そのため近隣豪族の争奪の的となり、1528年に邑智郡川本に本拠を持つ小笠原氏がこれを奪ったのを手始めに、出雲の尼子氏、安芸(広島)の毛利氏、周防(山口)の大内氏らが幾度となく戦火を交じえて銀山一帯を血で染めた。銀山に平和がよみがえるのは関ヶ原合戦以降で、徳川家康は石見銀山を直轄領とし、1601年に初代奉行大久保長安が着任。安原伝兵衛を右腕として、鉱床の発見、採鉱、精練など当時の技術を総動員させた。1700年前後の最盛期には石見銀山の年間産出量は、1万貫(約38トン)に達し、当時世界の銀産出量の1/3を占めるまでになった。しかし、17世紀後半には産出量は激減、明治期には銅を主体に再開発するが、1923年に閉山した。鉱山としての石見銀山は幕を閉じたが、2007年アジア初の産業遺産として、往時の姿をとどめながら覚醒した。
主な構成資産は、次の通り
■ 銀鉱山跡と鉱山町
◇銀山柵内(さくのうち)…採掘から選鉱、製練・精練まで銀生産の諸作業が行われいた場所で、柵で厳重に囲まれていたことから「柵内」と名づけられた。
◇龍源寺間部…間歩(まぶ)とは坑道のことで、江戸時代中期に開発され、全長600mのうち約270mが公開されている。
◇大久保間歩…石見銀山最大規模の間歩。約150mが公開されている。
◇熊谷家住宅…大森銀山の街路に面して建つ建築物の中でも最大(約1500㎡)の町家建築。有力商人の社会的地位や生活の変遷を伝える重要文化財。
◇代官所跡…江戸時代に銀山と周辺の領地を管理していた代官たちの屋敷跡。現在は「資料館」。
◇羅漢寺五百羅漢…銀山の安泰を願った真言宗の寺院。3つの石窟があり、中央窟に三尊仏、左右に250体ずつの石造五百羅漢坐像がある。
■ 街道(石見銀山街道)および港と港町
◇温泉津沖泊道…銀山と日本海に面した沖泊か、沖泊に隣接する温泉津までを結ぶ全長約12kmの道中には、苔むした石造の坂や石仏などがある。
◇鞆(とも)ケ浦道…銀山開発初期の16世紀前半に、銀山から博多へ運ぶ鞆ケ浦港までを結んだ約7kmの険しい街道。

後半は、講談社の「動く図鑑move・世界遺産」(本体2000円) を、年末に書店の店頭で見て感銘し、すぐに購入した酒井義夫が詳しく紹介。NHKのスペシャル映像を豊富に使ったDVD付の「動く図鑑move」シリーズはこれまでに22冊が刊行され、親子で親しめると評判となって累計300万部突破したそうで、「動く図鑑move・世界遺産」はこのシリーズの最新刊。




図鑑には、全体の約2/3は「日本の世界遺産」、後半の1/3は「海外の世界遺産」が取り上げられています。「日本の世界遺産」は、知床、白神山地、屋久島などの自然遺産から、日光、富士山、京都、熊野古道、原爆ドーム、琉球王国のグスクなどの文化遺産まで、日本の22ある世界遺産を北から順に南へと、それぞれ数ページにわたって豊富な写真とともに詳しく解説されています。さらに北海道・北東北の縄文文化、佐渡金山、鎌倉など世界遺産に申請中のエリアについても紹介されていて、大人がみても十分に満足できる内容になっています。文字は最小限なので、子どもでも興味がわきそう。「海外の世界遺産」は、エジプトのピラミッドからヴェルサイユ宮殿、モンサンミシェルなどの文化遺産から、グランドキャニオン、ガラパゴス諸島などの自然遺産まで代表的な世界遺産63か所を、迫力のある写真や臨場感あるイラストで紹介しています。
NHK制作のDVDを見ながら会は進められ、「チョー絶景な世界遺産」など次の5つのジャンルに分けた映像は、どれも興味深いものでした。
①「チョー絶景な世界遺産」…グランドキャニオン・イグアスの滝・エンジェルフォール(ベネズエラ) ・武陵源 ②「超アチチな世界遺産」…ハワイ火山国立公園・イエローストーン・ナミブ砂漠 ③ 「こんなところに生きもの発見」…セレンゲティ国立公園・ツインギティ(マダガスカル)・オオカバマダラ生物圏保護区(メキシコ) ④「アンビリーバブルな世界遺産」…バリアリーフ保護区(ベリーズ)・カカドゥ国立公園(オーストラリア)・ポンペイ遺跡・メテオラ修道院(ギリシャ) ⑤「ちょっとミステリーな世界遺産」…ストーンヘイジ(イギリス)・イースター島モアイ像・エボラ教会(ポルトガル)・聖母マリア教会(チェコ)・エディンバラ旧市街
時々「どちらが高いでしょう」自由の女神像(ニューヨーク)とビッグベン(ロンドンの国会議事堂)、タージマハル(インド)とピサの斜塔(イタリア)はほぼ互角。けっさくなのは、ケルンの大聖堂(ドイツ)157mとサグラダファミリア(スペイン)102m、でも、2026年の完成時には172mとなる「サグラダファミリアの勝」など、視聴者をあきさせない工夫があちこちにほどこされています。DVD後半は、日本の世界遺産の姫路城、平泉、厳島神社、日光東照宮、白川郷、富士山を取り上げあげています。とくに、富士山が過去の4回にわたる噴火を図示しながら、日本一の山になるまでの過程が描かれているのは驚きでもありました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」1月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年12月19日水曜日

第49回「参火会」12月例会 (通算413回) 2018年12月18日(火) 実施


「世界遺産を考える集い」第11回目   南北アメリカ篇② コスタリカ・ブラジル・アルゼンチン・パラグアイ・チリ・エクアドル・コロンビア

今回は、下記資料「10-1~10-11」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した下記10-1~10-11の映像約42分を視聴しました。




10-1 タラマンカ地方=ラ・アミスター保護区群/ラ・アミスター国立公園
自然遺産 コスタリカ/パナマ 1983年登録1990年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 中央アメリカ最大の熱帯雨林
コスタリカとパナマの国境沿いにあり、両国をまたいで広がる自然保護地域。1983年にコスタリカの世界遺産として、7つの国立公園や自然保護区がまとめて「タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群」として登録された後、1990年にパナマのラ・アミスター国立公園が加えられた。北アメリカと南アメリカが出会う場所にあり、3000m級の山々が連なり、南米最高峰で氷河湖のあるチリポ山(3820m)がそびえ、高低差のある地形と気候が、多様な生態系を作り出している。雲霧林、熱帯低地多雨林など8つの植生があり、ピューマ、ジャガー、ノドジロオマキザル、リンナマケモノなど哺乳類215種、幻の鳥ケツァールなど鳥類600種、爬虫類・両生類250種、淡水魚115種など、多くの絶滅危惧種や固有種を含む生物が生息している。また、原住民の4部族が居住し、自然の恵みの下で暮らしている。

10-2 ブラジリア
文化遺産 1987年登録 登録基準①④
● 未開の地に建設されたブラジルの首都
ブラジリアは、1960年にブラジル中西部、標高約1000mのブラジル高原の未開の大地に建設された計画都市。1956年に大統領に当選したジュセリーノ・クビチェックは、大西洋側のリオ・デ・ジャネイロに代わる新しい首都を経済的に立ち遅れていた内陸部に作ろうと、「新都ブラジリア計画」を発表すると、当選直後から実行に移され、3年10か月という短期間で完成させた。設計の中心となったのは、近代建築の巨匠ル・コルビュジエの弟子でブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤー。彼の発案で都市計画案を募った結果、ルシオ・コスタの「パイロット案」が採用され、ニーマイヤーによって都市の主要な建築物が設計された。ブラジリアの全体像は、十字架型の平面からなり、「飛行機」「弓と矢」などと形容される。「飛行機」の機首にあたる部分は、国会議事堂や最高裁判所、大統領府、行政庁舎が集まる「三権広場」が配置され、胴体部分は一直線の緑地帯と商業や文化の中心となる建物が並び、翼の部分には高層住宅、各国の大使館、ホテルがある。居住区は一辺240mの正方形をしており、その中に学校や商店街、公園、教会など、生活に不可欠な施設が配置されている。街の建築物はどれも斬新なデザインをした近代建築で、道路網は立体交差により信号はほとんどなく、交通手段はバスをはじめ、自動車のみの徹底ぶりで、2016年7月現在約298万人がここに住んでいる。都市の中心部にある代表的な建築物をあげると、1950~60年代の前衛主義的建築がほとんどで、4000人の信徒を収容でき円形広間を持つ「ブラジリア大聖堂」は、キリストのいばらの冠をイメージさせる独創的な形状となっている。「三権広場」もユニークで、28階建てのツインビルの国会議事堂と、お椀を伏せたような形のドームと、反対に空に向いたドームには、上院と下院の議場がある。「アルボラーダ宮殿」(大統領官邸)は黎明の宮殿という意味で、市の機軸部分の建設に先立ち、パラノア湖畔に建設された。「メトロポリタン・カテドラル」は、外観は円形の建物で、屋根は円錐形をしており、16本の曲線を描く支柱(祈りの手)が天に向かって伸びている。「ドン・ボスコ聖堂」は、イタリアの聖人ドン・ボスコが見た夢の記憶を元に建設されたとか、見所に枚挙のいとまがない。

10-3 パンタナル自然保護区
自然遺産 ブラジル 2000年登録 登録基準⑦⑨⑩
● 南アメリカ中央に広がる野生動物の聖域
南アメリカ大陸のほぼ中央部に位置するパンタナル自然保護区は、ブラジル、ボリビア、パラグアイ3国にまたがる世界最大の淡水湿地パンタナル湿原(総面積19万5000㎢)のうちの一部1878㎢。ここには主要河川のクヤバ川とパラグアイ川の源流があり、雨季の氾濫・浸水によって養分が行きわたって肥沃な大地が培われることで、コウノトリ・トキ類など水鳥の繁殖地となり、約650種の鳥類が生息する。湿原や川には、300~400種の魚類、約80種の哺乳類、50種の爬虫類が確認されている。

10-4・5 イグアス国立公園
自然遺産 アルゼンチン/ブラジル 1984年アルゼンチン/1986年ブラジル登録 登録基準⑦⑩
● 大瀑布が生み出す動物たちの楽園
ブラジルとアルゼンチンにまたがるイグアスの滝は、北米のナイアガラの滝、アフリカのヴィクトリアの滝と並び、世界三大瀑布に数えられている。しかし、スケールの大きさ、ダイナミックな滝の迫力は他の滝とはケタ違いの規模。イグアスの滝は大小275の滝があり、最大落差約80m、滝幅はなんと約4kmにもわたる。先住民の言葉で「巨大な水」を意味するイグアスはその名の通り、雨季には毎秒6万5千トンという大量の水を放出している。中でも馬蹄型のイグアスの滝最奥部にある最大の滝は、すさまじい落下音から「悪魔ののど笛」といわれており、この滝だけでも毎秒7千トンの水量がある。かつてこの滝を見たアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領夫人が「かわいそうな私のナイヤガラ」と嘆いたほどの雄大さと迫力を兼ね備えている。この滝の滝つぼからあがる水しぶきは、周辺の植物の生長を助け、一帯の熱帯雨林にはシダ類をはじめ2000種以上の珍しい植物が繁茂する。また、ヤマキチョウなど約500種のチョウ、オオカワウソ、ジャガーなどの哺乳類のほか、メガルカイマンなどの爬虫類、オニオオハシなどの鳥類ほか多様な生物が生育している。

10-6 ロス・グラシアレス国立公園
自然遺産 アルゼンチン 1981年登録 登録基準⑦⑧
● 青い輝きを放つ大氷河
南米大陸の南緯40度以南の地でアルゼンチンとチリとの国境にあるパタゴニア地方にあるスペイン語で「氷河」を意味するロス・グラシアレスは、南極大陸、グリーンランドに次ぐ世界第3位の規模を誇る氷河地帯で、その南部に「ロス・グラシアレス国立公園」がある。公園内は標高約1800m、アルヘンティーノ湖周辺の総面積1169㎢がその範囲で、太平洋の湿気を含んだ風がアンデスの山々にぶつかり、大量の雪を降らせ、積もった雪が圧力で氷結し氷河を形成した。冬の最低気温が比較的高いため氷が溶けやすく、再氷結を繰り返しながら、速い速度で移動するロス・グラシアレスの47に及ぶ氷河群のうち、最も大きい氷河の「ウプサラ氷河」は、面積600㎢。アルヘンティーノ湖に流れ込む「ペリト・モレノ氷河」は、中央部で1日に約2mも移動し、[生きている氷河] と呼ばれるほど非常に活発な氷河で、氷は気泡が少なく透明度が高いため、青い光だけを反射し神秘的なブルーの輝きを放っている。12月から3月の夏の間は、展望台から、乾いた音とともに氷柱に亀裂が走り、静まり返った湖面に地響きを立てて氷塊が崩落するところを目のあたりにすることができる。国立公園の東側には、森林地帯や乾燥した大草原(パンパ)が広がり小型シカのプーズーなどの希少種、パンパにはアルマジロなども生息している。

10-7 パラナ川北岸のイエズス会伝道施設
文化遺産 パラグアイ 1993年登録 登録基準④
● イエズス会修道士たちが築いたレドゥクシオン
パラグアイ南部、パラナ川北岸に残るレドゥクシオン(大規模な村落)は、イエズス会修道士たちのミッションとして先住民のグアラナ人とともに暮らした跡。レドゥクシオンの農業と工芸は、大きな利益をあげ、一帯は「パラグアイのイエズス会国家」と呼ばれた。最古の歴史を持つサン・コスメ・イ・ダミアンには、学校や墓地、住居、日時計などが残り、当時の暮らしを想像させる。タバランゲには、広場を中心に建設された教化集落特有の建物が建ち並ぶ市街地がある。約4000人が暮らしたとされるトリニダードは、保存状態が良く、赤いレンガ造りの遺構、精巧な彫刻が施された教会の石壁が残る。
 
10-8 ラパ・ニュイ国立公園
文化遺産 チリ 1995年登録 登録基準①③⑤
● モアイ像が海を背に立ち並ぶパスクワ島
チリの海岸から西に3700kmの南太平洋に浮かぶパスクア島(イースター島ともいわれるが、スペイン語でパスクア島、現地先住民の言葉でラパ・ニュイ)。この島にあるラパ・ニュイ国立公園は、絶海の孤島に生まれた謎の文明を伝える。島の面積119㎢がすべて国立公園で、世界遺産になっている。この島に文明がもたらされたのは、ポリネシアに起源を持つ長耳族が4~5世紀頃にカヌーに乗って移住してきてからで、有名なモアイ像が造られ始めたのは6世紀頃といわれる。モアイ像の石は島の東のラノ・ラナク火山周辺で採れる軟らかくて削りやすい凝灰岩で、火山付近の石切り場には、今も放棄されたモアイ像が400体も残されている。6~11世紀に造られたモアイ像は5~7mだったのが、12世紀に短耳族が移住してくると、高さ10mもの巨大なものが造られるようになり、最大のものは20mを超えるものもある。巨大モアイ像を共同で造った長耳族と短耳族は、初めのうちは共存していたのが、16世紀ころに人口増加による食糧難で争いが起こると、互いに相手のモアイ像を倒しあう「フリ・モアイ」という行為によって多くの像が損壊された。18世紀になって、モアイ像を信仰する貴族階級に代わって鳥人カルトを信仰する戦士階級が島の権力を握ると、モアイ像は造られなくなった。最大で20mにもなる巨大なモアイ像887体を、なぜ、どのように造ったのか、どのようにして最長十数kmもの距離を運んだのか、なぜモアイはみんな海を背にしているのかなど、多く説はあるものの、未だに定説はない。

10-9 ガラパゴス諸島
自然遺産 エクアドル 1978年登録/2001年範囲拡大 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 独自の進化を遂げた動物たちの宝庫
ガラパゴス諸島は、南米エクアドルの西へ約1000km、赤道直下の太平洋上に浮かぶ大小19の島と周辺の岩礁からなる火山群島(総面積は約880㎢)で、1978年に世界遺産の第1号12件の1つとして登録され、2001年には周辺海域のガラパゴス海洋保護区(13万8千㎢)も含めて拡張登録された。一度も大陸と地続きになったことがなく、風や潮流、あるいは鳥に運ばれてここに辿り着いた生物は、隔離された状況で環境に適応し、島ごとに独自の進化を遂げた。イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが測量船ビーグル号に乗船し、進化論の着想を得て『種の起源』を著したことはよく知られている。ここでしか見られない固有の自然こそが、ガラパゴス最大の魅力で、海に潜って餌を捕るウミイグアナ、飛ぶことをやめたガラパゴスコバネウなど、5500~6000種ともいわれる希少な動植物を間近で観察することができる。ガラパゴスペンギンは熱帯域に分布する唯一のペンギン。環境によってくちばしや習性が異なる鳥類、ダーウィンフィンチ(アトリ科の小鳥)は、ダーウィンに進化論の着想を与えたことでも有名だが、人を恐れない無邪気な様子に魅了されても、動物に触れることは固く禁じられている。進化の不思議を物語るガラパゴスの動物たちだが、2007年には危機遺産リスト入りする事態になった。野生生物の調査・研究を行うダーウィン研究所では、島の子どもたちによるゾウガメ保護活動を支援するなど、個体数の回復に努めてきたことで2010年に危機遺産リストから削除され、ガラパゴスは本来の姿を少しずつ取りもどしつつある。

10-10 キトの市街
文化遺産 エクアドル 1978年登録 登録基準②④
● 先住民文化とヨーロッパの様式が融合した宗教都市
アンデス山脈の標高2850mという高地に築かれたエクアドルの首都キトの旧市街は、1978年に登録された初の世界遺産12件の1つ。もともとこの地には、先住民のキトス族が築いた街があり、15世紀末にインカ帝国の支配下に入り、クスコに次ぐインカ第2の都市として繁栄した。1533年にスペイン人による侵略がはじまるとインカ族は自ら街を焼き払い、16世紀半ばにスペイン人が廃墟と化した街の跡地に、都市計画に沿った植民都市キトを建設した。その後18世紀ころまでの間に、フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会などが修道院、教会堂、宗教建築をつくり、ここを拠点として南米でのキリスト教を伝道を進めた。そのためキトは、「アメリカ大陸の修道院」ともいわれるほどだった。現在も、16~18世紀に建てられた教会堂や修道院は30以上残っている。主な宗教建築をあげると、「大聖堂」は、1572年に建造され独立広場に面して立ち、大祭壇にはインディオの彫刻家カスピカラの代表作「ラ・サバナ・サンタ」が飾られている。「サン・フランシスコ修道院」は1535年創建の南米最古の修道院で、付属するインディオのための教育機関は神学と美術を教え、「キト派」という様式と集団を生み出した。「ラ・コンパニーア教会堂」は、1766年に完成するまでに160年以上かかったイエズス会の聖堂で、エクアドルに残るバロック様式建造物の中では最高傑作と評されている。

10-11 カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群
文化遺産 コロンビア 1984年登録 登録基準④⑥
● 堅牢な要塞に守られた美しい港湾都市
コロンビア北部のカリブ海に面したカルタヘナは、1533年にペドロ・デ・エレディアによって建設されると、細長い湾を持ち、多くの船が停泊できる良港として発展した。1542年にアメリカ先住民の奴隷化が禁止されてからは、南米のプランテーションや鉱山の労働力としてアフリカから連れてこられた黒人奴隷の受け入れ港として機能したばかりか、アメリカ大陸の金、銀、タバコ、カカオなどをスペインへ運ぶ窓口となったために、たびたび海賊に狙われた。その対策として1657年に、長さ4km、高さ12m、幅17mの城壁が築かれた。この城壁には、海賊の襲撃に備えて無数の銃眼を設けた。さらに17世紀には、「サンフェリペ要塞」という、内部に侵入者を混乱させる迷路が設けられる構造の要塞を完成させた。こうした防衛施設群は、1741年、2か月にわたるイギリス軍による攻囲戦にもよく耐え、撃退に成功した。城壁や要塞のほか、バロック様式のファサード(正面部分)をもつ「旧宗教裁判所」、堅牢な「大聖堂」、「サント・ドミンゴ教会」などが知られている。


会の後半は、酒井義夫より次のような提案がなされました。
2018年1月よりスタートした本田技研系列「ピーエスジー」制作によるDVDは、ただいま視聴した10巻目の映像で、世界中に点在している代表的な「世界遺産」150か所を視聴したことになります。それでもまだ、「世界遺産」全体の1/7にすぎません。来年1月と2月は、日本の代表的な世界遺産(次の14か所)を視聴いたします。
2019年1月 日本の世界遺産① 古都京都の文化財/古都奈良の文化財/法隆寺地域の仏教建造物群/紀伊山地の霊場と参詣道/姫路城/日光の社寺/石見銀山遺跡とその文化的景観
2019年2月 日本の世界遺産② 白川郷と五箇山の合掌造り集落/原爆ドーム/琉球王国のグスク及び関連遺産群/厳島神社/白神山地/知床/屋久島
3月以降の会では、以下のような内容の「DVD10巻」を毎月1巻ずつ視聴することを提案いたします。このDVDは、2003年から4年間にわたってNHKがユネスコと共同しながら制作・放送してきたものを、小学館が地域別に再編集し「NHK世界遺産100」(1~5) および「NHK世界遺産100」(6~10) として刊行したもので、計200か所を収録しています。「ピーエスジー」制作によるDVDと重複するものは約半分ほどありますが、重複するものは、特に重要な世界遺産と考えてよいかと思います。

小学館DVDブック 「NHK世界遺産 全10巻」   *印は初登場
ヨーロッパ Ⅰ
1-1   ベネチアとその潟(イタリア)
1-2 モデナ大聖堂とグランデ広場(イタリア)  *
1-3 コルドバ歴史地区(スペイン)  *
1-4   古都トレド(スペイン)
1-5 サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼道(スペイン)   *
1-6   ヴェゼール渓谷の装飾洞窟群(フランス) ラスコー洞窟ほか   *
1-7 ランメルスベルク鉱山とゴスラー(ドイツ)   *
1-8 トリーアのローマ遺跡(ドイツ)    *
1-9 ブリュールのアウグストゥスブルク宮殿と別邸(ドイツ)   *
1-10 アーヘン大聖堂(ドイツ)   *
1-11 キュー王立植物園(イギリス)   *
1-12 ブリュージュ歴史地区(ベルギー)
1-13 ドロットニングホルムの王領地(スウェーデン)   *
1-14 ハルシュタットの文化的景観(オーストリア)
1-15 チェスキー・クルムロフ(チェコ)   * 
1-16 トカイ・ワイン生産地(ハンガリー)   *
1-17 ドブロブニク旧市街(クロアチア)
1-18 ドナウ・デルタ(ルーマニア)   *
1-19 イヴァノヴォの岩窟聖堂群(ブルガリア)   *
1-20 リラ修道院(ブルガリア)   *

ヨーロッパ Ⅱ
2-1   ポンペイ遺跡(イタリア)
2-2 サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院(イタリア) *  
2-3 サヴォイア家の王宮(イタリア)    *
2-4 セゴビア旧市街と水道橋(スペイン)
2-5 セビリア大聖堂(スペイン)
2-6   オビエドとアストゥリアス王国の建造物(スペイン)   *
2-7 ベルサイユ宮殿と庭園(フランス)   *
2-8 シャンボール城(フランス)
2-9 シャルトル大聖堂(フランス) 
2-10 アミアン大聖堂(フランス)
2-11 ヴェズレーの聖堂と丘(フランス)    *
2-12 ハドリアヌスの長城(イギリス)   *
2-13 フランドル地方の鐘楼(ベルギー)   *
2-14 シェーンブルン宮殿と庭園(オーストリア)
2-15 プラハ歴史地区(チェコ)
2-16 ハンザ同盟都市リューベック(ドイツ)   *
2-17 ケルン大聖堂(ドイツ)
2-18 中部ライン渓谷(ドイツ)
2-19 モルドバ地方の教会群(ルーマニア)   *
2-20 マラムレシュの木造教会群(ルーマニア)   *

アジア・オセアニア Ⅰ
3-1   白神山地(日本)
3-2   白川郷・五箇山(日本)
3-3   知床(日本)
3-4   高句麗古墳群(北朝鮮)   *
3-5   九寨溝(中国)
3-6   武陵源(中国)   *
3-7   アユタヤと周辺の歴史地区(タイ)
3-8   アンコール遺跡群(カンボジア)
3-9   古都ホイアン(ベトナム)
3-10 ミーソン聖域(ベトナム)
3-11 グヌン・ムル国立公園(マレーシア)
3-12 ビガン歴史地区(フィリピン)   *
3-13 コルディエラの棚田(フィリピン)   *
3-14 タージ・マハル(インド)
3-15 モヘンジョダロ(パキスタン)   *
3-16 聖地キャンディー(スリランカ)
3-17 ペトラ(ヨルダン)
3-18 バム遺跡(イラン)   *
3-19 カッパドキア(トルコ)
3-20 ニュージーランド亜南極諸島(ニュージーランド)   *

アジア・オセアニア Ⅱ
4-1   屋久島(日本・鹿児島県)
4-2   日光の寺社(日本・栃木県)
4-3   姫路城(日本・兵庫県)
4-4   厳島神社(日本)
4-5   秦の始皇帝陵(中国)
4-6   蘇州の古典庭園(中国)
4-7   黄龍(中国)
4-8   麗江(中国)   *
4-9   雲南・三江併流(中国)   *
4-10 ボロブドゥール寺院(インドネシア)
4-11 フエの建造物群(ベトナム)
4-12 ハロン湾(ベトナム)
4-13 ルアン・プラバン(ラオス)   *
4-14 チャンパサックのワット・プー(ラオス)   *
4-15 スコタイと周辺の歴史地区(タイ)
4-16 バン・チェン遺跡(タイ)   *
4-17 ダージリン・ヒマラヤ鉄道(インド)   *
4-18 ペルセポリス(イラン)   *
4-19 エルサレム旧市街地と城壁(イスラエル)   *
4-20 タスマニア原生地帯(オーストラリア)   *

アフリカ・南北アメリカ Ⅰ
5-1   大ピラミッド群(エジプト)
5-2 ティムガッド(アルジェリア)   *
5-3 フェズ旧市街(モロッコ)
5-4 ジェンネ旧市街(マリ)   *
5-5 ラリベラの岩窟教会群(エチオピア)   *
5-6 ケニア山国立公園(ケニア)   *
5-7 セレンゲティ国立公園(タンザニア)
5-8 マラウイ湖国立公園(マラウイ)   *
5-9 ビクトリアの滝(ザンビア/ジンバブエ)   *
5-10 ツィンギ・ド・ベマラハ(マダガスカル)
5-11 イエローストーン(アメリカ)    *
5-12 カナディアン・ロッキー山脈(カナダ)
5-13 シアン・カアン(メキシコ)   *
5-14 ココ島国立公園(コスタリカ)   *
5-15 ガラパゴス諸島(エクアドル)
5-16 カナイマ国立公園(ベネズエラ)    *
5-17 バルデス半島(アルゼンチン)   *
5-18 ロス・グラシアレス(アルゼンチン)
5-19 イグアス国立公園(アルゼンチン/ブラジル)
5-20 セラード自然保護地域(ブラジル)   *

ヨーロッパ Ⅲ
6-1   ナポリ歴史地区(イタリア)
6-2 ポルトヴェーネレとチンクエ・テッレ(イタリア)   *
6-3 パリのセーヌ河岸(フランス)
6-4 アルク・エ・スナン王立製塩所(フランス)    *
6-5   オランジュのローマ劇場と凱旋門(フランス)   *
6-6 リヨンの歴史地区(フランス)
6-7 ポン・デュ・ガール(フランス)   *
6-8 海事都市グリニッジ(イギリス)   *
6-9 ウエストミンスター宮殿と修道院(イギリス)
6-10 ライヒェナウ(ドイツ)   *
6-11 ヒルデスハイムの大聖堂(ドイツ)   *
6-12 シュパイヤー大聖堂(ドイツ)   *
6-13 バンベルクの町(ドイツ)   *
6-14 古典主義の都ワイマール(ドイツ)   *
6-15 ベルン旧市街(スイス)
6-16 ザンクト・ガレン修道院(スイス)    *
6-17 キンデルダイクの風車群(オランダ)
6-18 イェリングの墳墓と石碑と聖堂(デンマーク)   *
6-19 クロンボー城(デンマーク)
6-20 サンクトペテルブルク歴史地区(ロシア)

アジア・オセアニア Ⅲ
7-1   古都奈良の文化財(日本・奈良県)
7-2   法隆寺(日本・奈良県)
7-3   広島・原爆ドーム(日本・広島県)
7-4   慶州歴史地区(韓国)   *
7-5   石窟庵と仏国寺(韓国)   *
7-6   万里の長城(中国)
7-7   黄山(中国)   *
7-8   マカオ歴史地区(中国) 
7-9   フィリピンのバロック様式教会(フィリピン)   *
7-10 カトマンズ盆地(ネパール)
7-11 サーンチーの仏教建造物(インド)   *
7-12 エレファンタ石窟群(インド)   *
7-13 ゴアの聖堂と修道院(インド)   *
7-14 クトゥブ・ミナールと建造物群(インド)
7-15 パッダタカルの建造物群(インド)   *
7-16 ゴール旧市街(スリランカ)    *
7-17 イスファハンのイマーム広場(イラン)   *
7-18 パルミラ(シリア)
7-19 イスタンブール歴史地区(トルコ)
7-20 ウルル、カタ・ジュタ国立公園(オーストラリア)

アフリカ・南北アメリカ Ⅱ
8-1   イスラム都市カイロ(エジプト)
8-2 古代都市テーベと墓地遺跡(エジプト)
8-3 タッシリ・ナジェール(アルジェリア)   *
8-4 ルウェンゾリ山地国立公園(ウガンダ)   *
8-5 アラスカ・カナダの自然公園群(カナダ/アメリカ)   *
8-6 グランドキャニオン国立公園(アメリカ)
8-7 エバーグレーズ国立公園(アメリカ)   *
8-8 ハバナ旧市街と要塞(キューバ)   *
8-9 トリニダーとロス・インヘニオス盆地(キューバ)   *
8-10 メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(メキシコ)
8-11 プエブラ歴史地区(メキシコ)   *
8-12 古代都市テオティワカン(メキシコ)
8-13 歴史的要塞都市カンペチェ(メキシコ)   *
8-14 モレリア歴史地区(メキシコ)   *
8-15 ポポカトペテル山麓の16世紀の修道院群(メキシコ)    *
8-16 オアハカ歴史地区とモンテ・アルバン遺跡(メキシコ)   *
8-17 古都グアナファトと近隣の鉱山群(メキシコ)    *
8-18 古代都市パレンケと国立公園(メキシコ)
8-19 クスコ市街(ペルー)
8-20 マチュピチュ(ペルー)

ヨーロッパ Ⅳ
9-1   ローマ歴史地区(イタリア)
9-2 マテーラの洞窟住居(イタリア)   *
9-3 アマルフィ海岸(イタリア)   *
9-4 サン・ジミニャーノ(イタリア)   *
9-5 ヴァラッロのサクロ・モンテ(イタリア)    *
9-6 シエナ歴史地区(イタリア)   *  
9-7 アルハンブラ宮殿(スペイン)
9-8 サンテミリオン(フランス)   *
9-9 ストラスブールの旧市街(フランス) 
9-10 アビニョン歴史地区(フランス)
9-11 アルルのローマ遺跡とロマネスク建築(フランス) *
9-12 クヴェトリンブルクの旧市街(ドイツ)   *
9-13 マウルブロン修道院群(ドイツ)   *
9-14 クラクフ歴史地区(ポーランド)
9-15 アウシュビッツ強制収容所(ポーランド)
9-16 ヴィエリチカの岩塩抗(ポーランド)
9-17 カルヴァリア・セブジドフスカ(ポーランド)   *
9-18 ホルトバージ国立公園(ハンガリー)   *
9-19 ロスキレ大聖堂(デンマーク)   *
9-20 アテネのアクロポリス(ギリシャ)

アジア・オセアニア Ⅳ
10-1   古都京都の文化財(日本・京都府)
10-2   紀伊山地の霊場と参詣道(日本・奈良県 三重県 和歌山県)
10-3   琉球王国のグスクと関連遺跡群(日本・沖縄県)
10-4   故宮(中国)
10-5   敦煌の莫高窟(中国)   *
10-6   峨眉山と楽山大仏(中国)   *
10-7   アジャンタ石窟群(インド)
10-8   エローラ石窟群(インド)
10-9   ブッダガヤのマハーボーディ寺院(インド)   *
10-10 コナーラクの太陽神寺院(インド)   *
10-11 アグラ城(インド)
10-12 ファテープル・シークリー(インド)   *
10-13 カジュラーホの建造物群(インド)
10-14 ハンピの建造物群(インド)   *
10-15 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(インド)   *
10-16 バーミヤン(アフガニスタン)   *
10-17 ハトラ(イラク)   *
10-18 アッシュール(イラク)   *
10-19 城壁都市シバーム(イエメン)   *
10-20 テ・ワヒポウナム(ニュージーランド)

小学館DVDブック「NHK世界遺産」の1枚目のDVD (ヨーロッパ Ⅰ) 1-1~1-20の映像の一部を全員で視聴した後、提案通り2019年3月例会から「世界遺産を考える集い」は、再スタートすることに決まりました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」12月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年11月21日水曜日

第48回「参火会」11月例会 (通算412回) 2018年11月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第10回目   南北アメリカ篇① カナダ・アメリカ・メキシコ・グアテマラ・ペルー

今回は、下記資料「9-1~9-15」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した9-1~9-15 の映像約42分を視聴しました。




9-1  カナディアン・ロッキーの山岳公園群
自然遺産 カナダ 1984年登録1990年範囲拡大 登録基準⑦⑧
● 氷河がつくりあげた雄大な山岳地帯
カナディアン・ロッキー山脈自然公園群は、バンフ・ジャスパー・ヨーホー・クート二ーの4つの国立公園、3つの州立公園で構成されている。北米大陸西部を南北に貫くロッキー山脈が、造山活動によって地上に姿を現したのは、6000万年前のこと。連なる山々は4500kmにも及び、このうちカナダ国内に延びる2200kmの連峰が、カナデイアン・ロッキーと呼ばれ、世界遺産に登録された総面積は2万3000㎢もある。標高1000mの低山から森林限界を超える高山帯まで、多種多様な植物が自生していて、山麓には針葉樹の森が広がる。こうした森にはハイイログマやアメリカグマ、アメリカライオンなどが生息し、山岳地帯には氷の斜面や岩山の歩行を得意とするシロイワヤギなどが生息する。100万年前の氷期に、この一帯は氷河に覆われた。氷河は山々を激しく削り、解けては多くの川や滝、湖となった。カナディアンロッキーには、1万年前に終わった氷河期からの氷河が数多く残っている。また、ロッキーの宝石と言われるルイーズ湖や氷河湖のベイトリー湖など美しい湖も多くある。他にコロンビア大氷原、タカッカウ滝、ヨーホー渓谷などカナディアンロッキーは自然の宝庫だけではなく、それまで知られていなかった三葉虫など古代生物の化石が約10万個も見つかったことで、「化石の宝庫」としても知られている。特に人気があるのは、1887年にカナダ初の国立公園となった「バンフ国立公園」で、温泉の発見と鉄道ルートの完成によりカナディアン・ロッキーは、未開の土地から観光地へと大きな変貌を遂げ、カナダが誇る世界有数の景勝地・一大リゾートとなっている。

9-2  ケベック旧市街の歴史地区
文化遺産 カナダ 1985年登録 登録基準④⑥
● フランス文化が色濃く残る北米唯一の城塞都市
カナダ東部にありケベック州のケベック旧市街の歴史地区は、フランスの植民地の拠点として1608年、探検家サミュエル・ド・シャンプランが丸太づくりの砦を築いたことに始まる。当時、イギリスとフランスは北米の植民地建設をめぐって長期間小競り合いを続けていたが、この植民地獲得争いでイギリスの勝利を決定づけたのが、1759年の戦い。この年の9月、イギリスは闇夜に乗じてセント・ローレンス川からケベック郊外のアブラハム平原に軍隊を上陸させた。フランスはその陣容を見て驚き、急いで軍勢を繰り出すものの、統率がとれずに敗北。わずか15分で決着がついたこの戦いの後、ケベックは陥落した。4年後のパリ和平条約で、イギリスの植民地になったが、ケベックは約150年のフランス植民地の間に、フランス文化が色濃く残った。1774年、イギリスはケベック法をを制定し、フランス民法の効力・信仰の自由、フランス語の使用を認めた。登録された物件は、ロウワータウンにある北米最古といわれる繁華街「プチ・シャンプラン」「ロワイヤル広場」「勝利のノートルダム教会」など。アッパータウンにある旧市街のシンボルとなっている高級ホテル「シャトー・フロンテナック」「ダルム広場」「トレゾール小路」「ノートルダム聖堂」などがある。

9-3  ナハニ国立公園
自然遺産 カナダ 1978年登録 登録基準⑦⑧
● サウスナハニ川一帯に広がる壮大な自然
カナディアン・ロッキーの北、イエローナイフより約500km西方に位置するナハニ国立公園は、サウス・ナハニ川沿いに広がる。サウスナハニ川は、上流はゆったり流れるが、落差90~100m(ナイアガラの滝の2倍)もあるヴァージニア滝を過ぎると岩も削る急流となり、峡谷が連続する地帯を蛇行する圧倒的な峡谷美、標高2972mのマッキンジー山など、大スケールの大自然を具現する。公園内は、高緯度のツンドラ地帯でありながら気候は穏やかで、野性のハッカやシオンなどが自生し、硫黄分を多く含む温泉もある。車道が敷設されていないため、唯一の交通手段はカヌー(他に飛行船かヘリコプター)。人間がほとんど入れないため、ハイイログマやシロイワヤギなど野生動物の生息地になっている。また、この国立公園は、タイガ山系・タイガ平原など、カナディアン・エコゾーンに3か所が指定されている。1978年、世界自然遺産に最初に登録された12件のうちのひとつでもある。

9-4  ウッド・バッファロー国立公園
自然遺産 カナダ 1983年登録 登録基準⑦⑨⑩
● バッファローなど野生動物の保護区
カナダ北西部アルバータ州にあるウッド・バッファロー国立公園は、絶滅の危機にあったウッド・バッファローを保護する目的で設立された。1922年にグレート・スレーヴ湖の南一帯が国立公園に指定され、4年後にその面積の倍(4万4800㎢、九州よりも広い)に拡張されたことで、やはり絶滅の危機にあったアメリカシロヅルなどの動物や植物が保護されることになった。そのほか、多種多様な野生動物が生息しており、ヘラジカやアメリカグマ、オオカミ、オオヤマネコ、ヒグマ、野ウサギ、カナダヅル、シンリンバイソン、ライチョウ、大蛇などがいる。公園内は車での移動が可能、自然散策ルートを歩くこともできる。

9-5  グランド・キャニオン国立公園
自然遺産 アメリカ合衆国 1979年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 20億年もの地球の歴史が刻まれた大渓谷
アメリカ西部アリゾナ州の北部、コロラド川沿いに横たわるグランド・キャニオンは、コロラド高原がコロラド川の浸食作用と風化によってつくりだされた世界最大規模の峡谷。この一帯の土地は、今から6500万年前に発生したカイバブ・アップリフトとよばれる造山活動で隆起。約1000万年前からコロラド川の浸食により削られたり、風化がくりかえされ、約120万年前に現在の形になったと考えられている。グランド・キャニオン最大の特徴は、時代の異なる地層が幾層にも折り重なっているところで、大きく11層に分けられ、最下層は地球最古20億年前の先カンブリア紀のもので、最上部の最も新しいものでも2億5千万年前(古生代)のもの。それらの層から、植物、昆虫、陸生動物、海生動物の化石がたくさん発見されたことで、この一帯の地質形成の歴史と生物進化の過程を知ることが出来る。そんな地球の歴史を秘めている価値と、雄大な景観から1919年に、合衆国初の国立公園に指定された。いっぽう赤茶けた不毛の大地のように見えるグランド・キャニオンだが、東西450km、総面積5000㎢の登録範囲のうち、標高の高い北側では森林が広がり雪も降る。南側は標高が低く降雨量が少ない。そのため、寒帯・亜寒帯・乾燥帯など異なる気候帯の動植物が見られる。植物は1500種、鳥類が355種、哺乳類が88種、爬虫類は47種、両生類が9種、魚類が17種生育が確認されている。

9-6  メキシコ・シティ歴史地区とソチミルコ
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準②③④⑤
● アステカ帝都の上に築かれた植民都市
メキシコの首都で人口2200万を越えるアメリカ大陸最大の都市メキシコシティと、メキシコシティの行政区の一つであるソチミルコは、メキシコシティの地下に眠る古代文明の遺跡だった。南アメリカにはかつてアステカ帝国が栄えていたが、16世紀にこの地を征服したスペイン人によりその文化、建築物は全て破壊されてしまった。ところが、1978年になってアメリカ大陸最大のキリスト教建築である大聖堂の地下から偶然アステカ帝国時代に作られた石積みが見つかり、メキシコシティはアステカ帝国の遺構の上に建設された都市であることが判明した。その後の発掘で、アステカの神ケツァルコアトルの大神殿が姿を現し、失われたアステカ帝国の文化が地上に復活することとなった。謎多きアステカ帝国の首都テノチティトランは、テスココ湖内の島の上に建設されたのだが、メキシコシティの南約30kmに位置するソチミルコはその湖の一部であり、今も残るアステカ時代の農業(アシなどで作ったいかだの上に湖底の泥をのせた浮き畑)の名残りが、アステカ帝国繁栄の当時をしのばせる。国立宮殿は、アステカ帝国を征服したスペインのコルテスが自身の宮殿として建設したもので、宮殿の正面階段周辺を覆い尽くす「メキシコの歴史」と題された壁画は、現代メキシコ芸術の巨匠ディエゴ・リベラの最高傑作と称される。ベジャス・アルテス宮殿(国立芸術院)は、大聖堂と並び壮麗な建造物の筆頭に挙げられるほど美しい建造物で、外観はアールヌーボー様式、内装はアール・デコ様式に統一されており、幾何学的なデザインが目を引く。そのほか植民地時代の建物として、サントドミンゴ教会堂、支倉常長が宿泊した旧オリサバ公爵邸(タイルの家)などが残る。

9-7  テオティワカンの古代都市
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 謎に包まれた巨大建築物群
メキシコシティ北東約50kmにあるテオティワカンは、2~8世紀中ごろまで、この場所に栄えた古代都市遺跡。「メソアメリカ」というメキシコ中央・南東、中央アメリカの一部にあった高度文明を遺した先住民が建造した、世界で3番目に大きいピラミッドといわれる「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」など約600基のピラミッドや宮殿、神殿などが整然と建設されている。その民族はいまだに不明だが、紀元前2世紀前後から小集落を統合し始め、350~650年ころに最盛期を迎え、人口15万もの大都市となった。遺跡から400以上もの黒曜石の加工所が見つかっていることから、黒曜石の交易で繁栄したと推測される。そんなテオティワカンだが、8世紀の中ごろに突然文明が滅びて放棄された。この都市を14世紀に発見したアステカの人々は、あまりのスケールの大きさに人の手による建造物だとは信じられず、「神が集う場所」という意味を持つテオティワカンという名をつけ、聖地として利用した。16世紀にアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人は、この遺跡の意味を理解できずに放置したが、メキシコ独立後の1884年から発掘調査が開始されているものの、現在でも広大な都市部の大半はいまだに地中に眠っている。テオティワカンは極めて計画的に設計された都市であり、遺跡からは多数の殉教者や生け贄を捧げる風習が存在した痕跡は発見されている。古代メソアメリカにおいて死ぬことは終わりではなく、常に生と死がつながりあって回転しているという古代人の祈りや宇宙観、宗教観を伝えている。

9-8  パレンケの古代都市と国立公園
文化遺産 メキシコ 1987年登録 登録基準①②③④
● 定説をくつがえした古代マヤ文明都市
メキシコ南東部の熱帯雨林が囲む盆地に残るパレンケの遺跡は、1952年に見つかったマヤ文明の古代都市遺跡。7世紀に最盛期を迎えたマヤ文明の古代都市パレンケは、宮殿を中心とする「マヤ遺跡の典型」ともいうべき建物群だが、18世紀にスペインの宣教師により発見されるまで、その姿は密林のなかに埋もれていた。建造物の本格的な調査が始まったのは、1940年代になってからで、8㎢に及ぶパレンケの遺跡には約500もの建築物が現存している。その中で最も有名なのが「碑文の神殿」と呼ばれるピラミッドで、1949年に発見されたこの神殿の小部屋から、パレンケ王家の歴史が記されたマヤ文字の碑文が発見された。そして、1952年の調査で、神殿の地下墓室に石棺を発見した。この石棺の中に、翡翠をモザイク状につなぎあわせた仮面で顔が覆われ、首、胸、腕などもビーズ玉や翡翠の宝飾で飾られた人骨が横たわっていた。後の調査でこの人物こそ、7世紀に君臨したバカル王であることが判明した。この王墓の発見は、それまで中央アメリカで発見されたピラミッドは神殿の土台に過ぎないものと長い間考えられてきた定説をくつがえし、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こした。パレンケの発掘は今も進められているが、そのほとんどは密林の中に眠っている。それでも、遺跡や階段に刻まれた碑文が良好な状態にあることから、この都市の歴史や文化、大きな出来事などが解明されつつある。

9-9  ウシュマルの古代都市
文化遺産 メキシコ 1996年登録 登録基準①②③
● 精緻なモザイク文様に彩られた建築群
メキシコのユカタン半島北部のジャングルに囲まれた「ウシュマルの古代都市」は、マヤ文明を代表する都市遺跡の一つ。東西約600m、南北1㎞の都市で、7~10世紀ごろに繁栄し、周辺における政治・経済の中心となって、最盛期には人口が2万5000人にも達したという。マヤ文明の他の都市には見られないプウク様式による建築群の特徴は、建物は横長で平らな屋根を持ち、壁にはコンクリートが使用され、上部に精巧なモザイク装飾が見られる。約2万個の切石を用いたプウク様式の最高傑作といわれる「総督の館」、ひと晩で完成したとされる「魔法使いのピラミッド」など、15あまりの建造物が残っている。

9-10 チチェン・イツァの古代都市
文化遺産 メキシコ 1988年登録 登録基準①②③
● マヤ・トルテカ文明の重要な遺跡
メキシコのユカタン半島北部にあるチチェン・イツァは、マヤとトルテカという2つの文明が融合した遺跡。マヤ語でチチェンは「泉のほとり」、イツァは「魔法使い」を意味する。その名の通り、この古代都市はセノーテ(地下泉)の上に築かれていた。都市を形成したマヤ族のイツァ人は7世紀ころからこの地から姿を消し、10世紀初頭に、テオティワカン文明の後継ともいえるトルテカ文明の影響を受けたイツァ人の末裔が再移住して、この都市を再建した。10世紀以前の遺構が多く残る「旧チチェン」と、10世紀以後の遺構が多く残る地域は「新チチェン」と呼ばれる。その後チチェン・イツァは、13世紀ごろ別のマヤ人の都市国家マヤバンから攻撃されてイツァ人が逃亡したため、建造物ののほとんどが廃墟となった。1885年、アメリカ合衆国の領事でアマチュアの考古学者だったエドワード・トンプソンが遺構のある土地を購入。1904~11年にかけて遺跡北端にあるセノーテを調査して、数々の宝物を発見して母国へ持ち出した。第2次世界大戦後、遺跡はメキシコ政府の管轄下となり、現在はメキシコ国立人類学研究所のスタッフが学術調査をつづけている。広大なジャングルの中に戦士の神殿、天文台など、数多くの遺跡群が点在するが、なかでも中央に聳える「カスティージョ」(スペイン語で城砦)は、高さ約24m、9層からなる壮大なピラミッド。4面に配された各91の階段に最上部の神殿を加えると階段の総数は「365」となり、全体が1年を表すマヤの暦となる。カスティージョは、春分と秋分の日に起こるククルカンの降臨現象で知られる。ククルカンとは羽を持つ蛇の姿をした農耕の神。太陽が西に傾くと、階段の側壁にピラミッドの影が蛇の胴体となって浮かび上がり、階段下部のククルカンの頭像と合体し、巨大な蛇が姿を現す。さらに夏至と冬至には、ピラミッドの一面が太陽の光と影の部分に、ちょうど半々に分かれる現象も確認されている。これらの現象は、天文学の驚異的な発達を示すもので、世界標準とされる太陽暦(365.2422日)と、マヤ暦(365.2420日)を比較してもほとんど誤差がない。こうしたマヤ人の高度な天文学知識と建築技術は驚嘆に値するもので、2007年にスイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」が選定した「新・世界の七不思議」にチチェン・イツァが選ばれたのも納得できる。この遺跡には、まだまだ解明されていない現象が多くありそうだ。

9-11 ティカル国立公園
複合遺産 グアテマラ 1979年登録 登録基準①③④⑨⑩
● マヤ文明最大級の都市遺跡
グアテマラ北部、ジャングル地帯にあるティカル国立公園には、熱帯雨林地帯で栄えたマヤ文明最大の神殿遺跡が多く残されている。この地に人が定住を始めたのは紀元前11世紀ごろとされ、マヤ文明の特色が現れるのは紀元前30年ころのこと。3~6世紀にはメキシコ中央高原の大都市テオティワカンに一時征服されるなど大きな影響を受けたが、7~9世紀には、宗教・芸術・科学などに独自の発展を見せ、マヤ各都市国家と翡翠やケツァールの羽根、黒曜石などの交易を行うなど、6万人もの人々が暮すほどだった。現在までに残る約3000もの建築物の多くが、この時期に建設された。9世紀にはいるとマヤの各都市は衰退し、ティカルもその例外ではなく、50年から100年かけてゆっくりと崩壊していき、やがて廃墟になってしまった。1699年、スペイン人神父が布教から帰る途中、密林の中に迷い込んで偶然見つけたが、本格的な調査は1939年に始まり、1955年5月にグアテマラ政府はティカルを国立公園に指定したことをきっかけに、エドウィン・シュック率いるペンシルベニア大学による大規模発掘が開始された。今もグアテマラ考古研究所による発掘が継続されているが、発掘されたのは全体のごく一部分にすぎない。ティカルの中央部にある1号神殿は高さ47mのピラミッド状の建築物で、古典期マヤを代表する建築物。最上部の神殿入口でジャガーの彫刻が発見されたために「大ジャガーの神殿」とも呼ばれ、ア・カカウ王の墓や埋葬品が発見された。その向かいの2号神殿との間の南北に中央アクロポリスと北アクロポリスがあり、多数の建築物がひしめきあっている。西には高さ65mの4号神殿、南東の6号神殿があり、東西に2つ並んだツイン・ピラミッド7つ複合体は、マヤ文明を解明する上で、重要な遺跡と考えられている。また、周囲の森林や生態系も重要で、保護の必要性が認められ、自然遺産の価値を含む複合遺産とされた。

9-12 クスコの市街
文化遺産 ペルー 1983年登録 登録基準③④
● インカ文明とキリスト教文化が交錯する都市
ペルー南部、アンデス山脈の東山脈と中央山脈の谷間標高3400mにあるクスコの市街は、インカ帝国の首都として栄えた歴史のある都市。クスコが建設されたのは、11~12世紀で、インカ人は、13世紀ごろから周辺部族の征服を進め、15世紀の9代皇帝パチャクテク時代に絶頂期を迎えると、16世紀初頭に現在のコロンビアからチリ北部までを支配下に治めた。同時期にインカ人にとって神聖な動物だったピューマを模してクスコの市街地整備が進めれたという。インカとはケチュア語(インカの公用語)で「太陽の子」、クスコは「へそ」を意味し、クスコは宇宙の中心で、インカの皇帝は太陽神の御子とされていた。黄金に彩られた宮殿や神殿が立ち並ぶクスコの街は人口1200万、南北5000kmに及ぶ大帝国の首都として栄華を極めた。しかし、1533年、スペインのフランシスコ・ピサロがこの地を占領し、インカ帝国は破滅する。征服者たちはインカの神々に捧げられた黄金を略奪し、宮殿や神殿を破壊した。しかし、インカの建造物はあまりにも精巧で堅牢だったため、土台部分は破壊できず、その上に数多くの教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区などを建設した。インカ帝国古来の建築方法に、スペインの影響が融合した建造物となった。クスコはアンデス地域において、スペイン植民地とキリスト教布教の中心であり、農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげでクスコは繁栄し、40万人を超える大都市として今日に至っている。「アルマス広場」は、インカ時代に戦士の広場として知られ、ピサロのクスコ征圧宣言など、重要な事件の舞台となってきた。スペイン人は、広場の周囲に今日まで残るアーケードを建設し、「大聖堂」とイエズス会の教会を意味する「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」は、どちらもこの広場に面している。

9-13 マチュ・ピチュ歴史保護区
複合遺産 ペルー 1983年登録 登録基準①③⑦⑨
● インカ帝国の面影を残す謎の空中都市
クスコの北西約70kmに位置するマチュ・ピチュは、15世紀半ばに誕生したとされるインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根にある。インカ帝国は1533年にスペイン人による征服で滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係や役割分担など、その理由はまだ明確にわかっていない。麓からは仰ぎ見ることのできない標高約2280mにあるため、スペイン人はその存在についに気づくことはなく、放棄された。1911年にアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見され、このインカの都市はようやく400年もの長い眠りから目覚めたと言われている。ウルバンバ川流域には貴重な生態系を有する密林が広がり、世界でも珍しい複合遺産の一つに数えられている。マチュピチュの都市部の総面積は約5㎢。その約半分が山の斜面を利用した段々畑で、トウモロコシやジャガイモなどの畑も開墾され、山頂近くにもかかわらず、高度な利水システムが完備されていることも注目に値する。西側の平坦な市街地には、神殿をはじめとする公共建築物や住居など200戸の石積みの建物が並び、インカ独特の精巧な石積み技術は見ごたえがある。遺跡最高点からの眺望には誰もが感嘆のため息をもらすほどの美しさ。多くの謎に包まれ、旅人のロマンをかき立てるマチュピチュ。通常の都市ではなく、王族の離宮であったという説が有力だが、確たる証拠はない。堅牢な神殿や住居をどのように建設したのか、そもそも材料となる巨石をどこから調達し、ここまでどうやって運んだのかも、未だ解明されていない。総面積326㎢におよぶ遺跡一帯は、絶滅の危機にあるアンデスイワドリやオセロット、珍獣とされるメガネグマの生息地となっている。

9-14 リマ歴史地区
文化遺産 ペルー 1988年登録1991年範囲拡大 登録基準④
● スペインによる南米支配の中心都市
ペルー中央部、リマック川南岸にあるペルーの首都リマは、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人のフランシスコ・ピサロによって1535年に築かれた。ピサロの母国マドリードがモデルになっており、アルマス広場を中心に碁盤の目状に道路が配されている。ピサロが太平洋沿岸のこの地を選んだのは、南米各地で収集した財宝を母国に運ぶのに便利だったからだったが、1541年に支配地をめぐる争いの末、この地で暗殺された。リマは、1544年にスペイン王が植民地支配を王に代わって支配する「ペルー副王領」の首都となると、南米諸国が独立するまで、スペインの南米支配の中心地として多くの重要な建築物が作られた。アルマス広場前にある大聖堂は、1535年の起工時はピサロ自身が礎石を据えたという。完成したのは1624年だが、礼拝堂は過剰なまでの装飾を施したチュリゲラ様式でつくられ、ピサロの遺骨を納める石棺が安置されている。また、南米の建築史上最高傑作といわれる美しいセビリアンタイルが貼られたサン・フランシスコ教会・修道院は、1574年に完成したものの、後に地震で損傷したため、バロック様式やキリスト教とイスラムの融合したムデハル様式で改築された。そのほか、コロニアル様式のトーレ・ダグレ邸、ペルー副王領時代の栄華を伝えるサント・ドミンゴ教会堂やラ・インキシシオン、ペルー軍の守り神で聖女メルセーが祀られたラ・メルセー教会などが見どころとなっている。この街の特徴は、数々の歴史的建造物が日常風景に渾然一体となっているところだといわれる。いくつもの教会や建物などがあるすぐ側にファーストフード店が並ぶといった不思議な光景がみられるが、その外観や看板の色は落ち着いた配色で、街の景観を壊さないような配慮がされている。

9-15 ナスカの地上絵
文化遺産 ペルー 1994年登録2016年名称変更 登録基準①③④
● 平原に描かれた巨大な地上絵
ペルー南部のナスカ川とインヘニオ川に囲まれた、乾燥した盆地状の高原や平原の地表面に描かれた巨大な幾何学図形・動植物の絵は、数々の研究にもかかわらず、考古学界にいまだに大きな謎を投げかけている。この地域は、年間降水量が10mm以下の乾燥地帯で、酸化により赤黒く変色した石の破片で表面が覆われている。地上絵は、このような石の破片を特定の場所だけ幅1m~2m、深さ20~30cm程度取り除くと、深層の酸化していない明るい黄色の岩石(沖積層)を露出させることによって「描かれて」いる。規模によってはもっと広く深い「線」で構成されている。制作年代は、およそ紀元前190~紀元後660年で、2~9世紀にこの地域で発展したナスカ文化と深い関係があったと推測されている。1939年6月のこと、ペルー政府から先インカ遺跡の依頼を受けていたアメリカの考古学者ポール・コソックが、調査に先駆けて行った空から現地視察の際、偶然にも動植物の地上絵を発見した。コソックの仕事を引き継いだドイツの女流数学者マリア・ライヘ(1903-98年)は、太平洋からアンデス山脈の約450㎢にもわたる広範囲に、約70の動植物の絵をはじめ、三角形、台形、渦巻など700本を超える幾何学的な線や図があることを発見した。さらにライヘは、小さな絵を縮尺図として比例拡大を利用して地上に描いたという仮説を掲げた。地上絵のそばから木の杭やロープが発掘されたためで、1980年代にはこの方法で地上絵を描く実験にも成功。現在この方法が、最も有力な説とされている。制作の目的については諸説あるが、「滑走路」とも呼ばれる直線図が地下水脈のありかを示し、地上絵が農耕と関連することから、農耕儀礼やこの地方の特産品である織物の制作作業団の儀礼との関係が重要視されている。世界遺産登録される十数年前、建設されたパン・アメリカン・ハイウェイが遺跡を分断したり、送電線の敷設や自動車による描線の破壊などがおこったため、ペルー政府は1977年、この地を保護地区に指定した。


会の後半は、メンバーの酒井猛夫がメキシコ・シティに7年半(1975~82年) 三菱電機の駐在員として赴任した際、フランスの牙城といわれきたメキシコ地下鉄に食い込んで1000台もの車両の売り込みに成功した話、観光ガイドにも力を入れて来訪者にソチミルコやテオティワカン他に数十回も案内して好評だったこと、日本人には好意的なメキシコ人の気質など、メキシコの魅力を語ってもらいました。
引き続き、ごく最近アフリカ南部を訪問されたメンバーの菅原勉氏に、100枚を越える写真を投射しながら、世界遺産となっているナミブ砂漠 (8000万年前に形成された世界最古の砂漠といわれ、高さ100~300mもの巨大な赤い砂丘が延々と連なる美しさは圧巻)、ケープタウン(ケープ植物区保護地域群・バスコダガマが発見した喜望峰など)、ビクトリア滝(南米のイグアス、北米のナイアガラと並ぶ世界三大瀑布の一つで、氏は三大瀑布のすべて踏破)など、その体験を語っていただきました。
(文責・酒井義夫)


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年10月22日月曜日

第47回「参火会」10月例会 (通算411回) 2018年10月16日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第9回目   アフリカ・オセアニア・中近東篇② タンザニア・オーストラリア・ニュージーランド・シリア・レバノン

今回は、下記資料「8-①~⑮」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した8-①~⑮ の映像約40分を視聴しました。




8-① ンゴロンゴロ自然保護区
複合遺産 タンザニア 1979年登録2010年範囲拡大 登録基準④⑦⑧⑨⑩
● マサイ族と動物が共存する自然保護区
タンザニア北部にあるンゴロンゴロ自然保護区は、現地の言葉で「巨大な穴」を意味し、数百万年前の大噴火とその後の地殻変動によってできた山の手線の内側ほど(約300㎢)の巨大なクレーターの草原は、乾季になっても水が絶えることがないため、絶滅危惧種のクロサイ、ゾウ、ライオン、ヒョウ、バッファローなど約2万5000頭の野生動物、オオフラミンゴなど約400種の鳥類が生息する。その多くは、人間を恐れる様子を見せないことから、保護区は動物の生態研究・調査に適した場所となっている。登録当初は自然遺産だったが、区域内のオルドワイ渓谷からは、アウストラロピテクスをはじめとする先史人類の化石や足跡などが発見されたことで、2010年に文化遺産としても評価されて複合遺産となった。ンゴロンゴロの一帯は、古くからマサイ族が住む地域だった。彼らは「動物たちはすべて神からの贈り物」という考えを持っており、放牧生活を営みながら動物と共存してきた。しかし、1951年、タンザニアを統治していたイギリス政府は、ンゴロンゴロ地区と隣接するセレンゲティ平原をひとつの国立公園に指定した。この政策にマサイ族は放牧権を奪われたと抗議したことで、ンゴロンゴロ地区は自然保護区として国立公園から分離されることになった。1975年、クレーターを放牧目的で使用することは禁止されたが、マサイ族はクレーター外で放牧を行う一方、密猟者の監視を行って動物との共存を続けている。しかし、少しずつ自然保護区の環境変化がおこっており、危惧するタンザニア政府は現在、町に住んで生計を立てるというマサイ族の定住化政策を進めている。

8-② セレンゲティ国立公園
自然遺産 タンザニア 1981年登録 登録基準⑦⑩
● 多くの哺乳類が暮らす「果てしない草原」
タンザニア北部、キリマンジャロ山の裾野に広がる大サバンナ地帯にあるセレンゲティ国立公園は、地球上で最も多くの哺乳類が暮らす場所として知られる。セレンゲティとはスワヒリ語で「果てしない草原」を意味し、その広さは1万4736㎢(四国の約8割)もあり、生息する野性動物は300万頭以上と推定されている。雨季の平原は植物に覆われるが、乾季を迎えると水は干上がり、灼熱の砂漠と化すことから、雨季と乾季の移り変わりに合わせ、水と食糧を求めて動物たちの大移動がみられる。なかでも野生動物の約3割、100万頭ものヌーの大群の大移動はセレンゲティ最大の見もので、雨季が終わり乾季が始まろうとする5~6月ころ、出産と子育てを終えたヌーたちは、草を求めて一斉にケニア側のマサイマラ国立保護区へ移動を開始する。雨季が始まる12~1月頃には再びセレンゲティへ大挙して戻ってくる。ケニアとの国境に近いマラ川周辺ではライオン、ハイエナ、チーター、ヒョウなどの肉食獣が待ち受け、水かさを増した川にはワニがひそみ、群れからはぐれたり、激流に溺れるヌーが犠牲になるまさに弱肉強食の世界。ときには、国境を越えて1500km(東京~沖縄間ほど)の大移動をくりかえすヌーの大群だけでなく、ヌーとともに移動するシマウマの群れ、ゾウやキリン、バッファローなどの大型哺乳類、500種もの鳥類など、多種多様な生き物たちが生息するセレンゲティは地球上でもまれな場所で、本能にしたがって生きる動物たちの、壮絶な野生の営みを垣間見ることができる。この地の豊かな生態系を世に知らせ、保護したのはドイツ人獣医のベルンハルト・クジメックとその息子のミヒャエルと言われる。彼らの著書『セレンゲティは滅びず』や記録映画『死ぬな、セレンゲティ』などをきっかけに研究所も建てられ、今では世界中から寄付金が集まって動物の研究に役立てられている。

8-③ グレート・バリア・リーフ
自然遺産 オーストラリア 1981年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 海洋生物に富む世界最大のサンゴ礁
オーストラリア北東の海岸に沿うように全長2000kmにわたって広がるグレート・バリア・リーフは、世界最大のサンゴ礁地帯。誕生は約1800万年前までさかのぼり、約200万年前から石灰岩が堆積し、その上にサンゴが生息し始めたと推測されている。その後氷河期を経て、現在みられるサンゴ礁は、8000~6000年前といわれ、グレート・バリア・リーフは地球の歴史を知る上でも貴重な存在。面積は日本列島ほどの35万㎢もある。サンゴが生育するには、18~30℃の水温で、光が届く浅い場所であることが必要だが、この場所は年間を通じて水温が高く、遠浅の海であったことで、このような大サンゴ礁の形成が可能だった。グレート・バリア・リーフには400種以上のサンゴが生息し、1500種の魚類、約4000種の軟体動物・海綿動物・甲殻類などの海生動物も確認されている。また、それらを餌にするクジラやイルカ、ジュゴン、ウミガメ類なども見られ、カクレクマノミもここに生息している。サンゴは死に絶えると石灰質の体のため海に沈殿する。それが岩の周辺などに固まり、海面に達すると、215種以上もいるという鳥類の休息所になり、その後、鳥のふんにまみれて植物が芽を出すと地面が安定し、小島が形成される。こうした行程を踏んで生まれた、大小さまざまなサンゴ島が、グレート・バリア・リーフ海域には900近くもあるという。「グリーン島」は、ケアンズの宝石とも呼ばれ、約6000年前にサンゴ礁が隆起して出来た島で、多くの植物・鳥類・海洋生物が生息し、マリンアクティビティが楽しめる。「ウィットサンデー諸島」には74の島々があり、白い砂浜と青い海の美しさに魅了される人たちは少なくない。ハート形のサンゴ礁で有名な「ハミルトン島」、高級リゾートの「ヘイマン島」などが有名。「ミコマスケイ」は、ケアンズの北東約40㎞の場所にあるサンゴ礁の中州で、2万羽以上の海鳥が生息している。

8-④ クイーンズランドの湿潤熱帯地域
自然遺産 オーストラリア 1988年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 貿易風によって多量の雨が降る熱帯雨林
オーストラリア北東部、グレート・ディヴァイディング山脈に沿って広がるクイーンズランドの湿潤熱帯地域は、貿易風の影響を受け、年間1200~9000mmという多量の雨が降り注ぐ1億3000年前の白亜紀に形成された世界最古の熱帯雨林地帯で、南北に長い。その範囲はデーンツリー国立公園など10の国立公園、700以上の私有地を含めた保護区からなる。木登りカンガルー、ニオイネズミカンガルーをはじめ多数の希少動物が生息する他、寄生する「しめころしのイチジク」など約3000種の植物が生い茂る。また、1億2000万年前のシダ植物から、裸子植物・被子植物へと進化した過程が見られることで、植物学における重要な地とされている。19世紀に錫鉱山へ食料を運ぶ目的で建設された約34kmの鉄道が、原始の森を縫ってケアンズと熱帯雨林に囲まれたキュランダ村とを結び、車窓から世界遺産観光ができる。

8-⑤ カカドゥ国立公園
複合遺産 オーストラリア 1981年登録1987・1992年範囲拡大 登録基準①⑥⑦⑨⑩
● 先史時代の岩絵が残る豊かな自然公園
オーストラリア北部中央ダーウィンの東方にあるカカドゥ国立公園は、オーストラリア最大の国立公園で、四国とほぼ同じ2万㎢もの面積がある。公園内には、マングローブが群生する干潟、雨季には沼地と化す氾濫原、熱帯雨林、サバンナなど、さまざまな自然環境が広がる。植物は1600種以上、動物は人食いワニとして知られるイリエワニなど123種の爬虫類、ワラビーなど60種以上の哺乳類、5000種以上の昆虫が生息している。とくに野鳥が270種以上(全土の約34%)もいることで重要野鳥生息地に指定され、バードウォッチングの名所となっている。この一帯には5~4万年前からオーストラリア先住民(「アボリジニ」といわれてきたが差別的表現とされ、以下「豪先住民」と表現)の居住地域で、公園の土地も彼らのものとして正式に認められ、オーストラリア政府が所有権を借りて協議しながら運営する形がとられている。人類最古の石器といわれる4万年前の斧、1000か所以上で発見された岩画面によって証明されている。この地の先住民(ビニン族)の生活や宗教、伝説などが描かれた岩画面は、彼らの文化を伝える貴重な史料とされる。とくに動物や人間の絵に骨格と内臓を描きこんだ『X線描法』は、ビニン族独自のもので、ウルビやノーランジー・ロックにあるものは保存状態が良好。

8-⑥ ウルル・カタ・ジュタ国立公園
複合遺産 オーストラリア 1987年登録1994年範囲拡大 登録基準⑤⑥⑦⑧
● 偉大な祖先が眠る豪先住民の聖地
オーストラリアのほぼ中心に位置するウルル・カタ・ジュタ国立公園は、巨大な1枚岩で知られるウルル山(高さ340m・周囲9.4㎞)と、カタ・ジュタと呼ばれる大小36個の巨石群を中心とする国立公園。ウルル山は、1873年この地を訪れたウィリアム・ゴスが、当時の南オーストラリア総督ヘンリー・エアーズの名を取ってつけた「エアーズ・ロック」の名でも知られている。今もこの地一帯で暮らしている豪先住民アナング族が、5~4万年以上も前からここに住み、重要な聖地の1つとして崇めてきた。そして、先住民の痕跡を随所に残す文化的な場所であることが判明したため、カカドゥ国立公園と同様、オーストラリア政府がアナング族と土地の借受契約を結び、協議しながら運営する形がとられている。この地の一帯には、アカカンガルーやフクロモグラなどの有袋類を含む40種類の哺乳類、クルマサカオウムなど140種の鳥類、モロクトカゲなど70種類の爬虫類、アノイラアカシアなど480種類の植物が確認されている。

8-⑦ オーストラリアのゴンドワナ雨林
自然遺産 オーストラリア 1986年登録1994年範囲拡大 登録基準⑧⑨⑩
● ナンキョクブナなど太古の森林が残る多雨林
オーストラリア中東部のクイーンズランド州とニューサウスウェールズ州の一部に広がるゴンドワナ雨林には、34の自然保護地域からなる3700㎢もの多雨林地帯。希少な植物は200種以上、動物もコアラやカンガルーをはじめ、パルマヤブワラビーやヒメウォンバット、アルバートココドリなどの非常に珍しい動物も多く生息する。また、ナンキョクブナなどオーストラリア大陸が他の大陸から分離する前の痕跡なども残す貴重な遺産でもある。亜熱帯、乾燥帯、温帯、寒帯という4種類の多雨林が植生しており、ゴンドワナ南方古大陸の分裂期にまでさかのぼる古い系統に由来する脊椎動物、無脊椎動物の残存種も見ることができる。ビジターセンターや難易度別のウォーキング・トレイルもあり、多雨林やどこまでも続くきれいな浜辺、滝、澄み切った川など、旅行者は保護区内の多種多様な場所を訪れることができる。

8-⑧ フレーザー島
自然遺産 オーストラリア 1992年登録 登録基準⑦⑧⑨
● 鳥のふんと豊富な雨量によって形成された砂丘島
オーストラリア・クイーンズランド州のブリスベンから北に約300kmの所にあるフレーザー島は、世界でもっとも大きな砂島で、南北に123km・幅25kmの島のほぼ全域がグレート・サンディ国立公園となっている。約80万年前、オーストラリア大陸の東部にあるグレート・ディヴァイディング山脈で風化によって削られた砂が、堆積して誕生した。砂丘が鳥たちの安息所になると、鳥のふんから種子が芽を出し、安定した大地が形成されていった。この島に人間が住みついたのは、約1万9000年前で、先住民のパジャラ族が定住した。ヨーロッパ人がこの島の存在を知ったのは、1836年にエリザ・フレーザーという女性が、この島の体験を話したのがきっかけだった。エリザの乗るスターリング・キャッスル号が難破してこの島に流れ着き、夫の船長と船員たちはバジャラ族に捕まり、一人逃れたエリザが救済を求めたという。一説によると、この島の名も彼女の姓から来ているという。1842年、冒険家のアンドルー・ピートリがこの島を探検し、この島がマングローブやユーカリ、ナンヨウスギなど木材の資源が生い茂る自然豊かな島であることを発表すると、樹木伐採を目的とする集団が大挙して押しかけた。20世紀に入ると、西洋人がバジャラ族ら600~1000人の先住民を追い出し、製材所や鉄道などを建設したことで、島は荒廃していった。1972年に環境保護団体がこの島の北部1/3を保護下におき、伐採を止めるために企業と交渉を続け、その努力が実って1992年に世界遺産に登録された。今では、絶滅が危惧されていた両生類12種が生息する。また、島の地下には約2000万立方メートルもの淡水がたまっており、最も人気のある観光スポットで水深5mのマッケンジー湖など、島には40以上の淡水湖があり、どの湖も世界で最も透明度の高い湖といわれる。エリー川も人気があり、ハイキングや水泳を楽しむ人で一年じゅう絶えることがない。野鳥は350種以上確認されており、特に渡り鳥の中継地点として重要な島でもある。また、ハービー湾は繁殖と子育てのために訪れるザトウクジラの観察スポットとして有名。

8-⑨ ブルー・マウンテンズ地域
自然遺産 オーストラリア 2000年登録 登録基準⑨⑩
● ユーカリが繁茂する砂岩の連峰
オーストラリアの南東部、シドニーから西へ約60~108㎞の場所に位置するブルー・マウンテンズ地域は、標高1300m級の砂岩の峰々が連なる山岳地帯にある。ブルーマウンテン国立公園を含む7つの国立公園と、ジェノラン・ケイブス・カルスト保護区で構成されている。この地域一帯、乾燥地から湿原、草原などあらゆる場所に全部で91種類(世界の13%)のユーカリが自生しており、オーストラリア特有のユーカリの森が広がっている。地層がはっきりと現れた断崖が延々と続く渓谷や、滝、洞窟などその景観は変化に富んでいて、生態系においても絶滅危惧種、稀少種が多く生息している。「ブルーマウンテン」の名前は、気温の上昇でユーカリに含まれる油が気化し空気中に放出され、光の反射でその霧が青みがかり、山々が青く見えたことに由来する。多くの人が訪れる3つの巨大な奇岩が並ぶ「スリー・シスターズ」は、魔法で石に姿を変えられた3人姉妹の伝説が言い伝えられている。ウォーキング・トレイルも充実しているのでユーカリの森林、断崖の絶景が間近で見られるのも魅力。

8-⑩ トンガリロ国立公園
複合遺産 ニュージーランド 1990年登録1993年範囲拡大 登録基準⑥⑦⑧
● 原住民の祈りが届いた聖なる火山帯
ニュージーランド北島の中央に位置するトンガリロ国立公園は、東半球における環太平洋火山帯の最南端に位置づけられる火山帯にある。この山岳国立公園内にはルアペフ山(2797m)、ナウルホエ山(2291m)、トンガリロ山(1968m)の3つの活火山がそびえる。この地は、先住民マオリの人々にとって文化的に重要な意味を持つ聖地だったが、1840年にニュージーランドがイギリスの植民地になると入植者が増大し、神聖な土地は放牧地に変えられていった。1887年、マオリの首長テ・へウヘウ・ツキノ4世は、このままでは神聖な土地を将来にわたって守り続けることは困難であると判断し、3つの活火山とその周囲を取り巻く地域を、誰もが楽しめる固有の自然保護区とすることを条件に国にその権利を譲渡する提言をした。これが受け入れられ、1894年にニュージーランド初の国立公園として保護されることになった。当初は、3つの火山とその周辺だけだったがその範囲は少しずつ拡大され、今では約795㎢が指定範囲となっている。美しいエメラルドブルー色の火口湖、山間に広がる草原、北島最大の活火山の周辺に湧く温泉など、多様な自然環境にも恵まれている。3つの火山は現在も火山活動が続いており、トンガリロ山は2012年8月に噴火したばかりだが、スキー場での滑走や火口湖を巡るトレッキングまで、人々はそのままに楽しんでいる。これも、噴火を早期に予知する警告システムのおかげ。山々の低い斜面には、高山植物や低草木、亜麻などが生い茂り、植生も多様。鳥類も多く、ニュージーランド固有のキウイをはじめ、オウムの一種カカなど約60種が確認されており、天敵が少ないためか公園内はまるで「鳥の楽園」となっている。ニュージーランド固有動物としては唯一の哺乳類、短尾コウモリや長尾コウモリが公園内に生息している。

8-⑪ テ・ワヒポーナム
自然遺産 ニュージーランド 1990年登録 登録基準⑦⑧⑨⑩
● 氷河作用と地殻変動が生んだ豊かな景観
ニュージーランドの南島の南西部にあるテ・ワヒポウナムは、氷河作用と地殻変動によって生まれた、多彩な姿を見せる景観を特長とする総面積は2万6000㎢の地域。フィヨードランド、マウント・クック、ウェストランド、マウント・アスパイアリングの4つの国立公園を含む広大な自然保護区で、外界と隔てられた特異な地形と気候が育んだ、この地ならではの生態系を見ることができる。世界で最も雨量の多い地域に数えられるテ・ワヒポウナムには、温帯の南限にジャングル(冷温帯雨林)が形成され、各種の植物が自生している。なかでも高さ60mになるマキ科の巨木「カヒカテア」は、この木1本にシダやランなど101種類以上の植物が共生し、1000年を越える時を生き続けてきた。また、テアナウ湖西岸の「テアナウ洞窟」には土ボタルが生息。洞窟内に流れる川をボートに乗って奥へ進むと、無数の土ボタルが青白い光を放ち、満天の星を地底に再現したような神秘的な光景が広がる。他にもキウィ、ニュージーランド・オットセイなど固有種の生物も多く、絶滅の危機を防ぐため、保護活動が進められている。タスマン海に面し、フィヨードランド国立公園内にある「ミルフォード・サウンド」は、観光船によるフィヨルドクルーズで、約1時間半かけて大型船でフィヨルドを周遊するクルーズや、約3時間かけて小型船で自然と野生動物を観察するネイチャークルーズなど、人気の観光スポット。長い年月をかけて誕生した壮大な自然の景観と、多様性に富んだ生き物たちの営みが凝縮されたテ・ワヒポウナムは、世界でここだけの大自然の神秘を体感できる。

8-⑫ パルミラの遺跡
文化遺産 シリア 1980年登録 危機遺産/2013年登録 登録基準①②④
● 交易で栄えたオアシス都市の廃墟
シリアの首都ダマスカスの北東約230km、シリア砂漠の中央にあるパルミラは、メソポタミアと地中海を最短で結ぶ交易路にあったことで、紀元前1~後3世紀まで、シルクロードを行き交う隊商都市として繁栄した。かつては、ナツメヤシが茂る地下水に恵まれたオアシスだった。特に2世紀には、隊商都市ペトラから通商権を受け継ぎ、ローマ帝国の庇護のもとで黄金期を迎えた。ところが3世紀末、クレオパトラの末裔を自称するゼノビア女王が、ローマ帝国から独立を試みて失敗し、街は破壊され、廃墟となった。その後要塞として使用されることもあったが、交易路の変化によってさびれていった。城壁に囲まれた約10㎢には、街の南東奥にある最大の建造物ベル神殿など、保存状態の良いローマ建築の遺構が点在していたが、2015年8月、バールシャミン神殿に続きベル神殿もイスラム過激派組織ISによって爆破された。シリア騒乱による保全状況の悪化で、他のシリアの世界遺産とともに再度危機遺産リスト入りしている。

8-⑬ ダマスカスの旧市街
文化遺産 シリア 1979年登録 危機遺産/2013年登録 登録基準①②③④⑥
● 聖書に記された世界最古の都市
シリア南東部にあるダマスカスは、イスラム世界初の王朝ウマイヤ朝の首都として繁栄した古代都市。古代より「オリエントの真珠」と称えられてきた世界最古の都市の一つで、メソポタミアと地中海を結ぶ東西交易の交差点として発展してきた。『旧約聖書』には、アブラハムが旅の途中でこの地を訪れたと記されており、『新約聖書』には、キリストと聖母マリアの避難場所とある。ダマスカスは、アラビア半島、メソポタミア、地中海を結ぶ交易の十字路にあったことで、イスラム勢力の支配下に収まるまでは、エジプトをはじめアラム王国、ペルシア、ギリシア、ローマ帝国などが支配者として君臨した。ダマスカスに黄金時代が訪れるのは、 7世紀半ばにイスラム初の王朝であるウマイヤ朝が成立し、この街を首都と定めてからで、かつてキリスト教の聖堂があった場所に大規模なモスクが建設され、政治・経済の中心地として多くの学者や詩人、商人たちが集まり、世界最高水準の文化が花開いた。その後もダマスカスは、十字軍の襲来やモンゴル帝国の侵略、オスマン帝国の支配などを受けるが、その歴史を物語るのが城壁に囲まれた旧市街で、125の歴史的建造物が登録されている。旧市街の西側には、現存する世界最古のモスクといわれるウマイヤ・モスクをはじめスーク(市場)やマドラサ(イスラムの高等教育施設)などイスラム色が濃く、オスマン帝国時代の美しい宮殿も残っている。一方東側では、聖パウロゆかりの聖堂など、キリスト教の聖堂が多く見られる。なお、ダマスカスの旧市街もシリア騒乱による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに再度危機遺産リスト入りしている。

8-⑭ 隊商都市ボスラ
文化遺産 シリア 1980年登録 危機遺産/2013年登録 登録基準①③⑥
● ローマ道路の要衝として発展した古都
首都ダマスカスの南約110km、ヨルダン国境近くにあるボスラは、ローマ時代の遺跡が数多く残る古都。紀元前1世紀、ナバタイ王国の最初の都市となったが、106年、トラヤヌス帝時代のローマ帝国に征服されアラビア属州の州都となった。ローマ円形劇場、市場、浴場、水利施設、列柱道路など、紀元前から12世紀ころまでのローマ帝国、東ローマ(ビザンチン)帝国、イスラム時代の遺構が数多く残されている。これらの建造物は玄武岩で造られているため、遺跡全体が黒色をしているのが特徴。ローマ時代には穀倉地帯として、また地中海とアラビア海を結ぶ交易の拠点として栄えた。土砂に埋もれた遺跡の上に現在の街があるため、発掘されているのは一部分に過ぎない。しかし約100mの地下道や、ほぼ完全な姿を残しているローマ劇場の遺構などから往時をしのぶことができる。なお、シリア騒乱による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに再度危機遺産リスト入りしている。

8-⑮ アンジャル
文化遺産 レバノン 1984年登録 登録基準③④
● ウマイヤ朝の栄華を今に伝える貴重な都市遺産
レバノン東部ベカー高原にあるレバノン唯一の城塞都市遺跡のアンジャルは、首都ベイルートの東約50km、レバノン山脈の麓にある。8世紀初頭、初のイスラム王朝ウマイヤ朝のワリード1世が保養地として建設した都市で、レバノン唯一の城塞都市遺跡。この一帯に残されていたローマ帝国やビザンツ帝国の遺構を転用して造られている。この遺跡の中心に王宮が設けられ、その周辺にモスク、公共浴場、従者の住居や多数の商店が置かれた。現在は、ビザンツ帝国時代の聖堂建築様式による2層アーチを持つ王宮の一部が復元され、優美な姿を見せている。

8-⑯ 聖地バアルベック
文化遺産 レバノン 1984年登録 登録基準①④
● 天空の神ユピテルをまつるローマの聖域
レバノンの首都ベイルートの北東約80km、ベカー高原中央にある聖地バアルベックは、ローマ帝国時代の古代遺跡。この地域には、紀元前2000年ころから人が住みはじめ、フェニキア人によって最初の都市が作られた。バアルベックとは、フェニキア人の言葉で「平原の主神」という意味の名を与えられたバアルベックは、東西交易の交通路として発展したが、紀元前64年にローマ人に征服され、ローマの神々をまつる神殿が築かれた。神殿の中で最大のものは紀元後60年ころ、皇帝ネロの時代に完成したローマの天空ユピテル(ジュピター)をまつる「ユピテル神殿」で、屋根以外はほぼ原形をとどめており、直径約2mの柱の柱頭はアカンサスの葉をモチーフにしたコリント式。基壇の幅は約54m、奥行90mは、アテネのパルテノン神殿を上回る。2世紀ころには酒の神のバッカスをまつる神殿、3世紀初めには菜園の守護神ヴィーナスをまつる神殿も完成し、ローマ帝国領土内では最大規模の聖域となった。しかし4世紀末、コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた後は神殿の増築が中断し、イスラム教徒が流入した7世紀には神殿は要塞として使用され、1516年オスマン帝国が支配したころには、完全に忘れられてしまった。現在残る遺跡からも、ローマ帝国建築の威容やこの地の土着宗教などの影響を受けた特有の装飾を見ることができる。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


会の後半は、メンバーの酒井猛夫がオーストラリアのシドニーに現地企業の社長として11年間滞在したとき、来訪者へ最優先で案内する観光地にシドニー地区に酸素を供給する世界遺産の「ブルーマウンテンズ」(8-⑨) がありました。2001年2月、弟の私酒井義夫が訪れた際、猛夫さん運転の車に乗せてもらい、ユーカリやシダが豊かな森林地帯のベストコースを案内してもらいました。そのとき撮った写真を回覧しながら、大きな3つの岩山「スリー・シスターズ」など、その素晴らしさの一端を披露しました。
引き続き、メンバーの小田靖忠氏が最近、フィンランドのヘルシンキからエストニアのタリンを経て鉄道でロシアのサンクトベルグに入り、その後モスクワを訪問したレポートをしてもらいました。かつて音楽評論家としてサンクトベルグやモスクワを数回訪れたことのある反畑誠一氏、竹内光氏らの体験談も興味深いものでしたが、その印象は全体的にいまいちのようでした。未だ訪問していない私は、2、3年のうちに旅行し、この眼で評価したいものと思っています。
さらに、メンバーの山本明夫氏が先月の9月17日から1週間、松蔭大学教授として旧満州・中国黒竜江省の黒河(ヘイホー)と哈爾浜(ハルビン)を学術訪問した際の体験を、多くの写真を交えてレポートしてもらいました。黒河学院(日本の大学に相当)で開かれたシンポジュームに参加した際、「私と中国」と題した30分ほどの発表を行い、近代日本の光と影を題材に、福沢諭吉を筆頭とする富国強兵を念頭にした [西欧中心主義路線]と、勝海舟が主張した [中国と朝鮮半島からの文化・文明移入の成果を忘れてはならないという考え方] を比較しての論考でした。この発表により、黒河学院院長から客員教授に当たる「認定証」が手渡されたことは、嬉しいハプニングだったそうです。黒河市や哈爾浜市内の博物館・記念館などの視察も感銘深いもので、これを機に毎年旧満州を訪れることになるようです。
(文責・酒井義夫)


「参火会」10月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 小田靖忠  文新1966年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 増田一也    文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒

2018年9月20日木曜日

第46回「参火会」9月例会 (通算410回) 2018年9月18日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第8回目 アフリカ・オセアニア・中近東篇① エジプト・モロッコ・マダガスカル・ヨルダン

今回は、下記資料「7-①~⑬」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した7-①~⑬ の映像約40分を視聴した。




7-①  カイロ歴史地区
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①⑤⑥
● 豪華なモスク群を擁するイスラム都市 
エジプトの首都カイロは、7世紀にイスラム帝国がこの地に侵攻し、エジプト支配の拠点としてフスタートという都市を建設した。フスタートは、現在の市街地の南にあるオールド・カイロ地区にあった。以後、フスタートは首府や州治所としての役割を果たすようになる。10世紀の中ごろ、ファーティマ朝がフスタートを征服し、ミスル・アル=カーヒラ(勝利の町)を建設した。カーヒラ=カイロで、ここからカイロという名前が歴史上に出てくるようになり、宮殿やアズハル・モスクなどが造られた。12世紀から、アイユービ朝のサラーフ・アッディーンにより、エジプトの政府機能がすべてカイロに集約され、多くの歴史的建造物を抱えた。13世紀中ごろから16世紀初頭までのマムルーク朝時代に入るとカイロは黄金期をむかえ、十字軍やモンゴルの侵入を退け、世界最大規模のイスラム都市として繁栄した。14世紀には、600ものモスクがあるうえ、1000以上のミナレット(塔)を擁するため「千の塔の都」と称されるようになったという。1518年、イスタンブールを首都とするオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすと、エジプト全体が帝国の属州となり、カイロの世界における政治的地位は低下していった。イスラム建築の模範となっていたカイロ独特の建築も、イスタンブール風のモスクにおされ、独自性は失われていった。現在のカイロは、1200万人も住む大都市だが、地盤がゆるく、歴史的建造物が徐々に崩壊するなど、諸問題をかかえている。なお、1979年に「イスラーム都市カイロ」として世界遺産に登録された後、2007年に「カイロ歴史地区」と名称が変更された。その範囲は、カイロ東南部にある約8㎞×4㎞で、イスラム地区である旧市街と、カイロ発祥の地であるオールド・カイロが含まれる。主な建築物は、イスラム最古の大学「アズハル大学」、モカッタムの丘にある城塞「シタデル」、オスマン帝国のエジプト総督が建設した「ムハンマド・アリーモスク」、カイロで最も高い約80mのミナレット持つ「スルタン・ハサン・モスク」などがある。

7-②  メンフィスのピラミッド地帯
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 古代エジプト文明の象徴的存在
エジプトの首都カイロの近郊、ナイル川西岸にある「メンフィスのピラミッド地帯」は、古代エジプトの古王国時代(紀元前2650~前2120年ころ)の首都メンフィスと、王たちが作った巨大墓地遺跡で、メンフィス周辺のギザから、サッカラ、ダハシュールにかけて、約30のピラミッドや建造物が点在する遺跡群が含まれている。この遺跡群の多くは、エジプト古王国時代の第3王朝期から第6王朝期にかけて建設された。この世界遺産の見どころはやはり「ギザの3大ピラミッド」だろう。第1は「クフ王のピラミッド」……紀元前2550年ころに建造されたエジプト最大のピラミッドで、基底部の1辺の長さ約230m・高さ137m。第2は「カフラー王のピラミッド」……クフ王のすぐ南西にあり紀元前2500年ころ建造、基底部の1辺の長さ約214m・高さ136.5m、参道の途中にスフィンクスが横たわる。第3は「メンカウラー王のピラミッド」……カフラー王のすぐ南西にあり紀元前2450年ころに建造、基底部の1辺の長さ約105m・高さ66.5m。その他の主なピラミッドを3つあげると、「階段ピラミッド」……サッカラにあり、紀元前2650年ころジェセル王により建造された最古のピラミッド。「屈折ピラミッド」……ダハシュールにある紀元前2600年ころに建造されたピラミッドで、下部に比べ上部が緩やかになっているのは建設中に地盤がゆるんだためといわれる、基底部の1辺の長さ約190m。「赤のピラミッド」……ダハシュールにあり、スネフェル王により紀元前2600年ごろに建造された赤い石材が使用された現存最古の正四角錘ピラミッドで、基底部の1辺の長さ約220m。さて、あの巨大建造物のピラミッドは、どのように作られたのかは、さまざまな説が唱えられてきた。もっとも信憑性のある説として、農閑期の国家事業として農民たちによって作られたというもの。ナイル川は毎年7~10月にかけて氾濫し、農閑期に入ってしまうため、失業状態の農民達に仕事を与える意味もあった。切り出した石をどうやって運んでどうやって積み上げていったかだが、使われた石は堆積岩で、砂が集まってできた石なので、切り出すのも容易。石切場から離れたピラミッド建造現場までは、氾濫して水かさが増えたナイル川を船で運び、コロを使って現場まで運ぶ。クフ王のピラミッドは平均2.5tの石が230万個使用され、完成までに22~23年の年月がかかっている。石を積む作業は、ピラミッドの横に傾斜のついた坂を築いて、石を引いてあげたとされ、上に行くほどに傾斜を高くしていった。粗く形成された石は、角を直角にして水平にならして積んでいき、積み上げるたびに水平を測っていったという説が有力。

7-③  古代都市テーベとその墓地遺跡
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● ツタンカーメン王の墓がある新王国時代の遺跡
エジプトの首都カイロの南約670㎞、ナイル川中流にある「古代都市テーベとその墓地遺跡」は、ルクソール近郊にあり、地中海からおよそ800㎞南方に位置している。テーベは約1000年もエジプトの首都として栄華を誇り、現在ではルクソールと呼ばれている。この地は、紀元前4000年頃から紀元前3000年頃にかけて、セペトという都市国家があった。その後、エジプト中王国(紀元前2000年~前1800年ころ)の第11王朝の時にエジプトの首都となり、新王国(紀元前1570年~前1069年ころ)の第18~20王朝までの約1000年間にわたって王国の中心として繁栄した。元来ここではアメン神が信仰されていたが、エジプト王国の太陽神ラー信仰と合わさり、アメン・ラーとなり、「カルナク神殿」はアメン・ラー信仰の総本山となって、約5000㎡の大列柱広間は、第19王朝期のラメセス2世の時に完成した。その他、テーベの主な遺跡には、カルナク神殿の副神殿にあたる「ルクソール神殿」があり、カルナク神殿と参道でむすばれている。ラムセス2世の建てた高さ25mのオベリスクや中庭、第18王朝第9代ファラオのアメンヘテプ3世の中庭などがある。ナイル西岸の墓地遺跡群には、「王家の谷」があり、第18王朝トトメス1世から第20王朝ラムセス11世までが眠っているが、特に有名なのは、1922年に発見された第18王朝12代目ファラオのツタンカーメンの墓。王家の墓の南西にある「王妃の谷」には、第17王朝から20王朝までの王子や王女が眠る。ナイル西岸の葬祭殿群には、8tもの巨大胸像のある「ラメセス2世葬祭殿」や第18王朝5代目ファラオの「ハトシェプト女王葬祭殿」がある。この地は、考古学的価値が非常に高い一大遺跡地区として名高い。

7-④  (アブ・シンベルからフィラエまでの)ヌビア遺跡群
文化遺産 エジプト 1979年登録 登録基準①③⑥
● 危機を免れた新王国期・プトレマイオス期の遺跡群
ヌビア遺跡群は、エジプトのナイル川上流にある古代エジプト文明の遺跡で、新王国時代とプトレマイオス朝時代(紀元前304~前30年)に建てられた建造物群。1960年代、エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったが、このダムが完成すると、ヌビア遺跡が水没する危機が懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始すると、世界60ヶ国が名乗りをあげ、約20か国の調査団が技術支援、考古学調査支援などを行った。その後、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立したため、ヌビア遺跡群は、世界遺産が出来るきっかけとなった物件といえる。ヌビア遺跡群を代表するのは、古代エジプト神殿建築の最高傑作といわれる「アブ・シンベル大神殿」。新王国時代第19王朝のファラオで「建築王」と呼ばれたラムセス2世が建てたもので、1964年から1968年の間に正確に分割され、ナイル川にせり出した岩山を掘削して造られた岩窟に移築された。神殿正面には高さ約22mもあるラムセス2世の座像が4体並び、足元には王の母や王妃、息子、娘などの小さな立像がある。「アブ・シンベル小神殿」は、大神殿の北100mほどの場所にあり、ラムセス2世が王妃ネフェルタリのために建造した神殿。「カラブシャ神殿」は、ヌビアの太陽神マンドゥリスが祀られ、ヌビアの神々に捧げられた神殿で、新王国時代に建設されアメンホテプ2世やトトメス3世が関わっていたといわれており、その後、プトレマイオス朝、ローマ帝国支配時代に再建されてアスワンの南約50キロのナイル川西岸にあったが、1970年にアスワン・ハイ・ダムの近くに移築された。ナイル川上流の中州にあるフィラエ島の「イシス神殿」は、古代エジプトの神オシリスの妹であり妻でもある女神イシスに捧げられた神殿で、紀元前3~4世紀のプトレマイオス朝時代に建てられた。神殿の壁面には、神々の姿を描いたレリーフが残っている。

7-⑤  フェズ旧市街
文化遺産 モロッコ 1981年登録 登録基準②⑤
● モロッコ最古のイスラム都市
モロッコの首都ラバトの東170km、セブ川中流のフェズ旧市街は、2.2㎞×1.2㎞の城壁に囲まれており、複雑な街並みから「世界一の迷宮都市」とも呼ばれている。789年、ベルベル人でイドリース朝のイドリース1世により建設され、フェズはモロッコ最古のイスラム王都となった。マリーン朝などの以後のイスラム王朝でも王都とされ、13世紀頃からモスクやマドラサ(イスラム教における高等教育施設)が造られたことで、アラブ諸国から多くの留学生を迎え入れ、芸術や学問の中心として繁栄した。特に、旧市街の中心に位置するカラウィーン・モスクは、859年ころに建てられた礼拝堂が元になって、増改築がくりかえされ、北アフリカ最大の2万人収容のモスクとなったが、非ムスリムは入ることができない。このモスクに付随する世界最古のマドラサは、10世紀に大学の機能を持ち、カイロのアズハル大学と並ぶイスラム最古の大学のカラウィーン大学の前身となった。歴史家のイブン・ハルドゥーンら偉大な学者が教鞭を執ったことで、遠くヨーロッパにまで名を馳せ「アフリカのアテネ」と呼ばれている。街並みが複雑になったのは、外敵の侵入を防ぐためで、坂や路地、階段が入り組んで、車が入ることができない場所がほとんど。そのため、今でも物流の手段としてロバやラバが使われている。手工業が盛んで、最も有名なものはタンネリという一画があり、皮をなめして染める産業は、モロッコでも最大規模を誇る。また、フェズブルーという青一色で彩色した陶器も生産されている。旧市街には約30万人が暮らすが、住宅環境や水利環境が充分でないのが、大きな課題となっている。

7-⑥  古都メクネス
文化遺産 モロッコ 1996年登録 登録基準④
● 北アフリカのヴェルサイユ
モロッコの首都ラバトの東130km、フェズの西60kmの平野に位置するメクネス(ミクナース)は、総延長約40kmの城壁に囲まれた旧市街が世界遺産に登録された地域。9世紀に軍事拠点として建設されたメクネスは、17世紀にイスラム教のアラウィー朝の首都となった。スルタン(王)のムーレイ・イスマイルはヨーロッパとの交流に力を入れ、特にルイ14世に傾倒したため、メクネスをヴェルサイユのような街にしたいと考え、大規模な改修を始めた。古い街並みを壊し、ヨーロッパの文化を取り入れた建物を造ったことで、イスラム+ヨーロッパ風の建物はマグレブ(ヒスパノ・モレスク)様式と呼ばれ、街の至る所に見られるようになった。しかし、街が完成する前にイスマイルは亡くなり、後を継いだ王の息子は他に都を移してしまったことで、メクネスはわずか50年ほどで衰退の一途をたどることになったがために、歴史的建造物が残されることになった。旧市街の南半分を占める王宮地区には、1732年に完成したマンスール門をはじめ、クベット・エル・キャティン、20年分の兵食を蓄えられる巨大穀物倉庫、キリスト教徒の地下牢、スルタンの眠るムーレイ・イスマイル廟などが林立しており、どれもモザイク・スタイル装飾が見もの。

7-⑦  ヴォルビリス遺跡
文化遺産 モロッコ 1996年登録2008年範囲拡大 登録基準②③④⑥
● モロッコ最大のローマ都市遺跡
モロッコの首都ラバトとフェズの間にあるヴォルビリスは、北アフリカにおける古代ローマ都市の最も保存状態のよい遺跡のひとつで、総面積40万㎡もあり、西暦40年ころに発展した。作物が豊かに育つため、小麦やオリーブなどが大量に生産される農業都市となって3世紀ころまで繁栄は続いた。2万人もの人々がこの地にすんでいたといわれ、217年には「カラカラ帝の凱旋門」が建造されたり、全長2300mの城壁や8つの城門、40以上の塔、公共浴場など壮麗なローマ建築が建造された。しかし、3世紀末にローマ帝国が撤退すると、ベルベル人の侵入を許し衰退していった。7世紀にはイスラムが席巻し、681年にはアッバース朝の支配下に入った。やがて、イドリース2世によってフェズの都市が建設されると、ヴォルビリスの重要性は失われた。遺跡群は、1755年のリスボン大地震の際に被害を受け、さらに前後する時期には、メクネスでの建築資材として大理石が一部持ち去られなど、廃墟状態となっていった。1915年、フランス人の調査団によって発掘が開始され、広範囲にわたるローマ都市遺跡群が出土した。大通りにある邸宅群の床にある美しいモザイクは見もの。オリーブの圧搾施設や穀物倉庫など農業都市ならではの遺跡も見つかっている。

7-⑧  マラケシュ旧市街
文化遺産 モロッコ 1985年登録 登録基準①②④⑤
● 南方の真珠とうたわれた赤レンガの古都
モロッコ中央部、サハラ砂漠西方に位置し、アトラス山脈のふもとに位置するマラケシュ旧市街は、1071年、ムラービト朝の君主ユースフ・ブン・ターシュフィンが築き、首都として整備されてきた都市。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」を意味し、モロッコではフェズに次ぐ歴史を持つ。ムラービト朝は、西サハラからイベリア半島南部に至る広大な地域を占領したため、イベリア半島や大西洋沿岸、東のサハラ砂漠を越えた地域をつなぐ通商路の要衝となった。その後、1147年にムワッヒド朝により、ムラービト朝時代の建物は大半が壊されてしまった。前王朝の建造物を破壊して新たなものを造り直すのが、当時のイスラム王朝のやり方だった。マラケシュは、1147年、ムラービト朝を滅ぼしたムワッヒド朝の時代でも首都で、政治・経済・文化の中心都市として発展した。全長20kmの城壁の中で、赤土色のレンガでできた民家が美しく映える光景は、ヨーロッパの詩人から「アトラス山脈に投げられた南方の真珠」と称賛されている。現在残っている建物は、ムワッヒド朝が建てた12世紀のものがほとんどで、クトゥビーヤ・モスクは、この街の中心的な建造物。12世紀半ばに建設されたこのモスクの特徴は、69mのミナレット(小塔)が併設されていることで、旧市街のシンボルでもある。このミナレットは、スペイン・セビリアのヒラルダの塔、首都ラバトのハサンの塔と並び、三大ミナレットのひとつに数えられ、今日でもミナレット建築の手本とされている。ムワッヒド朝時代につくられた著名な建物としては、馬蹄形のアーチ周辺の装飾の美しさと赤い砂岩が特徴的なアグノー門があげられる。旧市街の城壁に設置された巨大な門で、マラケシュで最も美しい門と絶賛されている。1269年にムワッヒド朝を滅ぼしたマリーン朝は、マラケシュを首都としなかったが、この時代にも大規模なマドラサ(イスラム世界の高等教育機関)が建造されている。ベン・ユーセフ・マドラサは、16世紀に再び首都としたサアド朝時代に手が加えられ、さらに大規模なイスラム神学校になって現存している。「バイーヤ宮殿」は、白い壁とタイル張りの床や天井が美しい宮殿で、中庭を囲むように女性たちの部屋が配置されているアラブ・アンダルシア建築の傑作といわれている。「ジャマエルフナ広場」は、旧市街の中心にあり、アラビア語で「死人の集会所」という意味の名を持つ広場は、昔は公開処刑が行われた場所だった。400m四方の広場には多くの屋台がひしめき合い、大道芸人がこぞって芸を披露している。人々は活気にあふれ、この空間は「ジャマエルフナ広場の文化空間」として、2001年に無形文化遺産に登録されている。

7-⑨  要塞村アイット・ベン・ハドゥ
文化遺産 モロッコ 1987年登録 登録基準④⑤
● イスラムから逃れた人々が築いた要塞村
モロッコ中部にありアトラス山脈南麓に位置するアイット・ベン・ハドゥは、7世紀に北アフリカの先住民ベルベル人が造った要塞型の村。一帯にはイスラム勢力から逃れてきた人たちが、部族間抗争や盗賊などの略奪から自分たちを守る「クサール」と呼ばれる要塞化した村がいくつかあるが、そのなかでもアイット・ベン・ハドゥの集落は最も保存状態が良いもののひとつ。村は城壁に囲まれ、単純な造りの家屋から、複数階建ての「カスバ」(砦・城砦の意)とよばれる建物までが立ち並ぶ。カスバは1階が馬小屋、2階が食糧倉庫、3階以上が居住空間になっている。建物は赤茶色の日干し煉瓦を使用して造られ、壁は非常に厚く、夏季に40度を超える気候にあっても、室内を涼しく保てるようにできている。外敵の侵入に備えて入口は1つしかなく、道は細く入り組んで、まるで迷路のよう。住居は侵入してきた敵の視界をさえぎるために室内は暗く、飾り窓に見せかけた銃眼から敵を銃撃することができる仕組みなど、侵入者を防ぐたるの工夫がいくつも施されている。村の丘の上には、アガディールと呼ばれる見張り台を兼ねた穀物倉庫、羊の群れを監視する共同小屋、会議を行う会堂などもある。また、8世紀にイスラム化したこともあり、学校やモスクも遺されている。これらの土やレンガでできた建物はは耐久性に乏しく、2世紀以上の歴史をもつものはひとつもなく、周辺のクサールの中には風化したものもある。家々も傷みが進み、近年、復旧作業が続けられているが、今も居住している住人が数家族いるものの、ほとんどの住民は対岸の住居に移住している。なお、この地は、映画『ソドムとゴモラ』『アラビアのロレンス』などのロケ地としても有名な場所で、年間を通して多くの観光客が訪れる地となっている。

7-⑩  テトゥアン旧市街
文化遺産 モロッコ 1997年登録 登録基準②④⑤
● イスラムとスペインが混じった白亜の街並み
モロッコ北端の街テトゥアン旧市街は、古くからモロッコとイベリア半島をつなぐ拠点として栄えていたが、14世紀末、8世紀から行われてきたキリスト教徒のによるイベリア半島の解放運動「レコンキスタ」の一環として、スペインによって破壊されてしまった。再建したのは、15世紀ごろに「レコンキスタ」(特に1492年のグラナダ陥落で)難民となり土地を追われてきたイスラム教徒とユダヤ教徒の手で、テトゥアンは城塞都市として建設された。20世紀、モロッコの大半はフランス領となったが、テトゥアンの街は1956年までスペイン領だったため、南スペイン・アンダルシア地方の影響を受け、イスラム文化と融合した白亜の街並が広がっており、これらはスペイン・ムーア文化と呼ばれている。旧市街中央に立つ17世紀の王宮はその典型。

7-⑪  ツィンギ・ド・ベマラハ厳正自然保護区
自然遺産 マダガスカル 1990年登録 登録基準⑦⑩
● 奇岩が連なるキツネザルの避難所
マダガスカル島西部にあるツィンギ・デ・ベマラ厳正自然保護区は、自然保護、景観保護を目的とした約1520万㎢の保護地域。ツィンギとは、マダガスカル語で「先の尖った」という意味で、ナイフのように尖った高さ100mもの岩が多数そそり立つ特異な景観が広がっている。この岩山は、石灰岩のカルスト台地が1億6千万年もかけて侵食され、形成したものと考えられている。この奇岩地帯は、降水があっても尖った岩と岩との隙間に吸収されてしまうため、植物はこの地を原産とするアロエやサボテンの仲間などの乾燥に強い珍しい種類のものが多数自生して、保護区内には原生林やマングローブの沼地も広がっている。これらの樹木は岩肌に根を張り、石灰岩台地の地下にまで根を伸ばして水をくみ上げることから、動物たちが暮らせる環境を作り出す。森や沼地には、多くの種類の鳥や世界でも珍しい動物が生息し、黒い顔に真っ白な毛を持つベローシファカというマダガスカル固有種のサルをはじめ、童謡でおなじみの絶滅危惧種アイアイなどのキツネザルの仲間、体長が60~70cmにもなる世界最大のカメレオンのウスタレカメレオンなどがよく知られている。

7-⑫  隊商都市ペトラ
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● 砂漠に浮かぶナバテア王国の古代都市
ヨルダン南部のテトラは、紀元前2世紀ころ北アラビアを起源とする砂漠の遊牧民族ナバテア人によって栄えた隊商都市。もともと隊商の略奪や保護料の徴収などを行っていたナバテア人だったが、やがて自分たちで交易を始めるようになり、ペトラを首都にナバテア王国を興した。ペトラは砂漠の交易路を支配することで大いに繁栄したが、やがて交易ルートから外れ、衰退していった。4、5世紀にはキリスト教の教会が作られ、7世紀にはイスラム教徒の支配に入り、12世紀に十字軍の城塞が築かれたのを最後に、廃墟となって砂に埋もれてしまった。1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトによって再発見され、20世紀初頭から発掘調査が始まったが、2014年時点でもわずか15%しか発掘が進まず、85%が未発掘とされている。ペトラの都市遺跡は、総面積900㎢の山岳地帯に点在し、岩山に刻まれた壮大な建物や用水路などで構成されている。最も有名な遺跡は、砂岩の断崖に刻まれた「カズネ・ファルウン」(エル・カズネ)で、宝物殿として知られる。2003年の調査で、1世紀初頭にナバテア人の王の墳墓として造られたものと推測され、切り立った岩の壁を削って造られた正面は、幅30m、高さ43mにもおよぶ。この遺跡をはじめ、ペトラの遺跡の多くは岩壁を彫刻のように彫りぬいて造られている。ナバテア人は、平らに削った岩壁に設計図を書き、その輪郭にそって彫りぬく方法で、大半の遺跡を築いたとされる。そうした優れた建築技術で多くの防水施設や用水路を建設しており、ほとんど雨の降らない砂漠地帯でありながら、充分な飲料水を確保したと考えられている。2世紀初頭に、ローマ帝国の支配下に入ったこともあるペトラには、円形劇場や、列柱を備えた大通り、王家の墓と呼ばれる岩窟墳墓群が建ち並び、800段もの石段を上り詰めた先には、ペトラ最大の遺跡エド・ディルがある。山と一体となった荘厳な神殿の周囲には、修道僧が住んでいたと思われるおびただしい数の洞穴住居もある。スイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」は、2007年にペトラ遺跡を「世界の七不思議」の一つに選定した。

7-⑬  砂漠の城クサイラ・アムラ城 119
文化遺産 ヨルダン 1985年登録 登録基準①③④
● フレスコ画で彩られたカリフの隠れ家
ヨルダンの首都アンマンの東方、シリア砂漠の西側にあるクサイラ・アムラは、8世紀初頭、初のイスラム世襲王朝のウマイヤ朝第6代カリフ・ワリード1世が築いた離宮。近くには30もの宮殿跡があるが、クサイラ・アムラは保存状態が特に優れている。隊商宿を増改築した石造建築物は、謁見の間と浴場に分かれる。謁見の間の壁や天井は踊り子や神話の場面、狩猟のようすなどを描いたフレスコ画で彩られ、床はモザイクタイルでおおわれている。一方、温水・冷水浴室、サウナ、脱衣場が設けられた浴場も、イスラム社会には珍しい裸婦などのフレスコ画におおわれている。厳格なイスラム教徒の目を逃れ、ここで王族らが酒宴や入浴を楽しんだ場所だったようだ。

世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後は、ユネスコで「世界遺産」がどのように誕生し、何をめざすか、世界遺産はどのように決まるかなどを「ヌビア遺跡群」(7-④)を例に確認しました。
古代エジプトの新王国時代(紀元1500年頃から約500年間)に建造され、アブシンベル神殿をはじめとする「ヌビア遺跡群」が、1960年代に危機的な状況に陥りました。エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がり、このダムが完成すると、ナイル川周辺に無数に存在する神殿や墓が、ダムの湖底に沈んでしまいます。ユネスコが「ヌビア水没遺跡救済キャンペーン」を開始すると、世界60か国が支援を表明し、そのうち20ヶ国が調査・技術支援などを行いました。特に古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオで「建築王・大王」と呼ばれたラムセス2世が建てた神殿建築の最高傑作とされる「アブシンベル神殿」をいかに救うか、画期的なアイデアが世界多数から集まりました。最終的に、アブシンベル神殿他を1000個以上のブロックに分けて移築するスウェーデン案が採用され、約4年をかけ、およそ60m上方の高台にある岩山を削って作られた幅38m高さ33mもある岩窟に移築されました。この壮大な移築を記録する約15分の映像 (ユニバーサルミュージック発行・ディアコスティーニ発売)は感動的なもので、よくぞそこまでやったかと歓声があがるほどでした。このキャンペーンにより、世界じゅうから募金や協力の手が差し伸べられ、救うことができた遺跡は、神殿18・墓2・聖堂3・教会1となりましたが、千数百もの遺跡がダムの湖底に消えてしまったのも事実です。
このキャンペーンの成功により、これまでの「宝を持つその国が管理・保護するもの」という考えから、「地球の宝は、国を超え、世界じゅうの人々の協力により、守られべき」という考えが主流となっていきます。こうして、歴史的価値のある遺跡・建築物・自然等を国際的な組織運営で守っていこうという機運が生まれ、1972年11月16日、第17回ユネスコ総会にて、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が満場一致で成立しました。
まず、世界遺産をつくりたい国は、国としてこの条約に加盟しなくてはなりません。遺産を守る一員となる宣言で、2018年7月現在193ヵ国が加盟しています。加盟国は、自国にはこんな素晴しい自然や文化があるので世界遺産に登録してくれませんかと立候補します。
各国から提出された世界遺産の候補地は、その可否が毎年6月下旬から7月上旬に開かれる「世界遺産委員会」で決定されます。委員国は21か国で、任期は6年となっています。これまでに登録された世界遺産の総数は1092件で、文化遺産845件・自然遺産209件・複合遺産38件・危機遺産54件・登録抹消の世界遺産2件がその内訳です。
国別上位12位までは、次の通り。①イタリア 54件 ②中国 53件 ③スペイン 47件 ④ドイツ・フランス 各44件 ⑥インド 37件 ⑦メキシコ 31件 ⑧イギリス 31件 ⑨ロシア 28件 ⑩アメリカ・イラン 各23件 ⑫日本 22件
こうして誕生した世界遺産リストは、世界じゅうのみんなで守るべき「地球の宝」なので、世界遺産を未来に残すことは平和を守ることと同意語であることであり、ユネスコが守るべは緊急性の高いリストは内戦が行われているシリアの6つの世界遺産やエルサレムなど「危機にさらされている世界遺産(危機遺産)」54件であることも知っておく必要がありそうです。
(文責・酒井義夫)


「参火会」9月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫    文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 谷内秀夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一    文新1960年卒
  • 深澤雅子    文独1977年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒