2015年10月22日木曜日

第17回「参火会」10月例会 (通算381回) 2015年10月20日(火) 実施

「現代史を考える集い」13回目  昭和25・26年 「講和条約調印」





今回は、NHK制作DVD13巻目の映像──

満年令の法律施行、米3軍首脳来日、聖徳太子の1000円札発行、荒川で一家10人心中、池田蔵相「中小企業の倒産やむなし」「貧乏人は麦を食え」発言、日本共産党批判、マッカーサー共産党非難声明、報道部門からレッドパージ開始、軍人初の追放解除、ダレス米国務省顧問来日、朝鮮戦争勃発、警察予備隊公布施行、川崎競輪で八百長騒ぎ、公団「つまみ食い」事件、「オー・ミステイク」事件、金閣寺全焼、「チャタレー夫人の恋人」発禁、ストリップショー流行、テレビ実験放送、初の日本シリーズ、ダレス・吉田会談開始、北朝鮮軍・中国軍南下、マッカーサー罷免、朝鮮停戦交渉を提案、対日講和条件・日米安全保障条約調印、社会党臨時大会、銀座に街灯復活、ローゼンストック来日、メニューヒン独奏会、日航「もく星号」就航、第1回アジア大会、世界スピード選手権で内藤選手優勝、六大学野球・早慶戦、桜木町駅国電火災、ルース台風襲来、全国各地干ばつ…など約50分を視聴後、わが国の政治や経済に大きな影響を与えた「朝鮮戦争」、世界戦略の中で米国が急いだ「講和条約への道すじ」を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

アメリカとソ連との「冷戦」が決定的となり、「日本を共産圏の防波堤にせよ」と、ケナン特別使節を訪日させてマッカーサーに伝えたトルーマン大統領は、さらに昭和25年初頭、日本国内の共産党とその支援者を追放する指示を出しました。そして、同年6月、マッカーサーは吉田茂首相あてに「徳田球一・野坂参三・志賀義雄・宮本顕治ら共産党幹部24名の公職追放」を命じ、7月には地下にもぐって出頭しない24名に逮捕状を出すとともに、機関誌「赤旗」の無期限停止、新聞協会代表に共産党員と同調者への追放を勧告しました。9月には公務員にも適用、「レッドパージ」を本格化させたことで、年末までに、民間人10972人、公務員1196人を追放しました。

いっぽう、同年6月25日に「朝鮮戦争」が勃発し、日本もまた戦争体制に組み込まれました。7月には75000人体制の警察予備隊と8000人体制の海上保安庁の創設を命じられ、平和憲法施行後わずか3年で、再軍備の第一歩を踏み出すことになりました。朝鮮戦争当初は、米軍の準備不足から、韓国軍は北朝鮮軍に圧倒され、開戦4日後にソウルを占領され、9月14日までに南端の釜山付近まで追い詰められました。

日本に駐留していた75000人の準備が整った米軍を中心とする国連軍(マッカーサー国連軍最高司令官)は、9月15日にソウルに近い仁川に上陸すると、この作戦は成功して、9月26日にはソウルを奪還、10月20日には平壌を占領したばかりか、11月25日には鴨緑江に到達し、北朝鮮軍を旧満州(中国東北部)へ追いやる勢いとなりました。これに対し1年前に新生した中国は、北朝鮮軍を支援するために、人民義勇軍を参戦させ、ソ連は武器・弾薬を支給して裏から援助しました。そのため、北朝鮮軍と人民義勇軍の合同軍は、12月5日には平壌を奪還、翌年1月26日にはソウルを奪還した上、韓国の北1/3余を占領しました。その後は国連軍と合同軍は北緯38度線をはさんで膠着状態となり、昭和28年7月27日に板門店で休戦協定を結ぶまで、3年1か月にわたる戦争を続けるのでした。

日本にとっての朝鮮戦争は「特需」を生みだし、経済的な安定をもたらしました。そして、国連軍の前線補給基地・空軍の発進基地・兵站(へいたん=戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給・整備・連絡などをする機関)基地として、大きな役割をはたしました。

しかし、アメリカによる日本の基地化、反共の防波堤の道を開くことになり、アメリカは、日本をいつまでも軍事同盟国としてつなぎとめるために、対日講和条約・日米安全保障条約(安保)の締結を急ぐことになり、ダレス米国務省顧問を来日させて、吉田首相と会談を重ねました。このことは、日本の国論を二分させることになり、共産主義の東側陣営を無視し西側諸国とだけ講和する派と、ソ連や中国を含めた全面講和派と激しい議論が高まり、社会党はこれにより、左派社会党と右派社会党に分裂するほどでした。

こうして昭和26年9月8日、アメリカ西海岸にあるサンフランシスコで、対日講和条約が調印されました。連合国55か国のうちインド、ビルマ、ユーゴスラビアは出席を拒否、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは出席するものの調印を拒否、中国は代表政権を中華人民共和国とするか中華民国(台湾)とするかをめぐり、米英が対立したため招聘されず、けっきょく日本と48か国が調印しました。また別の場所では、日米間だけで、日米安全保障条約が調印されました。両条約は、昭和27年4月28日に発効し、不完全ながらも日本は、独立を回復したのでした。




なお、昭和26年4月11日、アメリカは突如マッカーサーの解任を発表し、日本国民ばかりか世界を驚かせました。北緯38度線をはさんで膠着状態の朝鮮戦争にしびれをきらしたマッカーサーが、中国東北部にある北朝鮮軍と人民義勇軍への補給物資をつぶすため「原爆投下すべし」と主張。これにに対し、局地戦にとどめようとするアメリカ政府と対立したとされていますが、詳細は不明です。こうして、4月16日、惜しまれながらのマッカーサーの離日に、20万人もの日本人が歩道で見送り、銅像の建設や記念館・神社建立案も持ちあがるほどでした。ところが、翌月5月の米議会に呼ばれたマッカーサーが、「あらゆる面を総合すると、英米は45歳の壮年、ドイツも同様、日本人はまだ無邪気な12歳」との発言に、マッカーサー人気はいっきにしぼんでしまったのは、皮肉なことでした。



「参火会」10月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

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