2015年11月18日水曜日

第18回「参火会」11月例会 (通算382回) 2015年11月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」14回目  昭和27・28年 「独立はしたけれど」





今回は、NHK制作DVD14巻目の映像──

対日講和・安保条約発効、日米行政協定調印、血のメーデー事件、破壊活動防止法(破防法)公布、白鳥・菅生・吹田事件など警察めぐる事件頻発、警察予備隊から保安隊へ、第4次吉田内閣成立、日航「もく星号」三原山に墜落、明神礁爆発、鳥取市大火、卓球世界選手権初参加、白井義男初のフライ級世界チャンピオン、ヘルシンキオリンピックでレスリング石井金メダル、国内自動車生産に活気、美空ひばり人気、皇太子立太子礼、吉田首相「バカヤロー」と暴言し衆議院解散、第5次吉田内閣成立、日米交換文書発表、内灘闘争、全駐労・全日駐48時間スト、朝鮮戦争休戦協定調印、李承晩ラインで漁船拿捕あいつぐ、在華日本人引揚げ開始、比大統領日本人戦犯の特赦を発表、北九州に豪雨、NHKテレビ放送開始、皇太子外遊に出発、伊藤絹子ミスユニバース3位入賞・八頭身が話題に、山田敬蔵ボストンマラソンで優勝、「君の名は」ブーム、奄美群島日本に復帰…など約50分を視聴後、内灘を契機にいっきに国民の関心が集まった「米軍基地と反対闘争」、メーデー事件に端を発した「破防法」の成立、「安保条約」の裏側を中心に話し合いを行いました。





「この時代の概要」

昭和26年9月8日、アメリカ西海岸にあるサンフランシスコで、48か国と対日講和条約が調印されるとともに、日米間だけで「日米安全保障条約」(安保条約)が調印され、両条約は、昭和27年4月28日に発効しました。こうして日本は、昭和8年(1933年)に国際連盟を脱退して以来、世界との外交を閉ざしてから19年目、6年8か月の連合国の占領を終えて、独立を果たしたのでした。

しかし、防衛はすべてアメリカにまかせ、重装備を持たない「通商国家」としての再スタートに対し、「主権を回復したのに、防衛のすべてをアメリカにまかせてよいのか。そんなことで独立国家といえるのか」といった安保に対する反発の声があがっていました。そして、独立間もない5月1日に「血のメーデー」事件がおこりました。5コースに分かれて行進するデモ隊と警官隊が衝突、2名刺殺、1500人負傷、1300人以上の逮捕者を出しました。同様の事件が大阪や名古屋など全国的に頻発し、治安の空白を恐れた政府は、これらを理由に、7月21日に「破防法」(破壊暴力防止法)を制定し、共産党や労働者・学生の集会やデモ行為などを取り締まる条例を公布しました。





また、安保条約によって、独立後も全国630か所の残る米軍基地をそのまま認めるばかりか、米軍は日本全国どこでも無償で基地を要求する権利があるのに対し、米国には日本を防衛する義務のない「不平等条約」であること。またこの条約が、両国議会の承認を必要としない行政協定であること。米軍は「独立日本」を拠点に、極東で一方的に行動する権利も与えられていること。さらにアメリカの軍人・軍属とその家族は出入国自由、日本の裁判権の及ばない治外法権であることなど、その実態がわかるにつれ、米軍基地に対する反対闘争が高まりはじめました。その口火を切ったのが「内灘闘争」でした。





昭和27年9月、政府は石川県内灘村にあった砂丘にある試射場で、米軍が砲弾を撃つことを承認しました。これは、朝鮮戦争下の特需として製造されたアメリカ軍の砲弾の性能を試験するもので、砂丘から海へ撃ち込むため、漁業に大打撃を与えるものでした。すぐさま、村や県議会は反対を表明して座り込みなどをするものの、翌昭和28年3月には試射を開始しました。県労組や北陸鉄道労組などを中心に反対運動がまきおこり、政府は1700名もの警官を投入してこれを弾圧、村は漁業収益の何十倍もの土地使用料が入ることで政府と妥協し、1年間にわたる闘争は終結しました。この間、評論家の清水幾太郎は雑誌「世界」に論文「内灘」で「基地を日本が全面的に認めているのは、独立国とはいえない」と発表するなど、闘争は全国的に拡大しました。「内灘闘争」は敗北するものの、のちの妙義、浅間、北富士、新島、砂川(立川)などの基地闘争に大きな影響を与え、そのスローガン「金は1年・土地は万年」は、長く引き継がれていきました。

講和とともに、旧政治家の多くが追放解除によって復帰してきました。特に占領期を代表する吉田首相に対し、旧政治家たちは鳩山一郎を立てて政権の返還を求め、新憲法を守りぬくか、憲法を改正して戦前体制にもどるかるなどを中心に政界は混乱しだしました。しかし、国民の多くは、戦後初めて手にした基本的人権の保障、自由と民主主義理念、新憲法の感覚が次第に定着しだしていて、なんとなく明るい気分になっていました。そのため、政治問題や闘争問題など本気に考えることもなく、自分たちの生活を維持することが大切と、懸命に働き、少し余裕が出はじめたのが実情でした。

昭和28年はテレビ放送が始まり、スーパーマーケット、有料道路など、後の時代の主役となるさまざまな事柄がいっせいにスタートしだした年でもありました。7月には朝鮮戦争も休戦となり、世界的にも平和への新しい動きが始まっていて、国民生活はまだ戦前の水準には達していなかったものの、戦後の混乱からようやく脱し、新時代の期待が生まれはじめていました。





会の後半は、上の資料をもとに、「吉田茂外交の頂点」といわれた安保条約は、実はこの調印は吉田が執拗に固辞したもので、昭和天皇の働きかけで実現したものであること。アメリカ政府内にも対立があり、国務相側は、すでに5年以上にわたる占領を早期に終わらせないと日本国内で共産主義勢力が伸びることを懸念したのに対し、軍部は勃発した朝鮮戦争によって日本の基地の重要性が増大したため占領の継続を主張していました。特使のダレスは「妥協の産物」として、形式上は講和条約で占領を終え「独立」させ、実質的には占領期と変わらない「基地の自由使用」という特権を維持できる講和条約・安保条約の締結をはかったことを確認しました。
このように、いつの時代も、アメリカ政府内には対立する考え方があり、今問題化している沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移設に関しても、政府は安全保障上、唯一の選択といっているのに対し、アメリカでは「中国の弾道ミサイルの発達で、沖縄の米軍基地はそれほど重要なものでない」という声をあげる人もいるし、南シナ海の中国海洋進出への対策を重視するなら、フィリピンなどに代替施設をつくったほうが得策という人もいる。日本国土のわずか0.6%の沖縄に、日本全土の3/4の米軍専用施設を押しつけている現状に、政府も国民一人ひとりが目をむける必要があるのではないか、といった活発な議論がおこり、会は大いに盛り上がりました。


「参火会」11月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

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