2016年3月16日水曜日

第22回「参火会」3月例会 (通算386回) 2016年3月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」18回目  昭和35・36年 「安保闘争と高度成長」





今回は、NHK制作DVD18巻目の映像──
岸首相訪米・新安保条約に調印、自民党が新安保条約と会期延長を単独強行可決、安保阻止統一行動、ハガチー事件、全学連が国会突入し東大生樺美智子死亡、新安保条約自然承認、浅沼社会党委員長刺殺される、三井三池大争議、チリ地震三陸海岸に大津波、浩宮徳仁親王誕生、皇太子夫妻がアメリカ訪問、オリンビック・ローマ大会開催、池田勇人内閣成立、所得倍増計画発表、池田・ケネディ会談、第1回日米経済委員会開催、ソ連工業見本市にミコヤン副首相来日、北陸に豪雪、大阪釜ヶ崎で暴動、嶋中事件、三無事件(池田内閣要人暗殺計画発覚)、ソ連がヴォストーク1号打上げ成功、シベリア墓参団出発、全国一日一斉休診、小児麻痺大流行で生ワクチン輸入、文部省高校生急増対策発表、大相撲・柏鵬時代へ、日紡貝塚バレーボール部がヨーロッパ遠征で24戦全勝、余暇ブーム……など約50分を視聴後、新安保条約を中心に話し合いを行いました。






 「この時代の概要」

昭和35年1月19日、岸信介首相は、ワシントンでアメリカとの「安保改定(新安保)」の調印式に臨みました。前年10月までに、藤山外相とダレス国務長官とのあいだでの下固めもあり、ほぼ問題なく調印を終えました。新安保が以前のような、アメリカが日本防衛の義務のない、また期限もない、アメリカ側に都合のよいものでなく、「極東における国際平和・安全の維持、共通の危険に対処するため、日本は、軍隊を持たない・戦争はしないという憲法の制約の中で、アメリカに協力する。アメリカは日本を完全に守る」というもので、期限についても「当初10年の有効期間(固定)が経過した後は、1年前にどちらかが予告することにより、一方的に破棄できる」とし、過去にあるさまざまな条約改定と比べても、遜色ないものでした。

ところが、批准(承認)のために2月初めからの議会で、与野党の対決がはじまると、事態は一変。その後の半年間は、国論は真っ二つに分かれて日本社会を揺さぶりつづけ、まさに「安保」「安保」の半年間となりました。そのきっかけは、日米が協力しあう地域「極東」(far east)は、どの範囲をさすのかというものでした。「朝鮮半島と日本だ」「中国と国民政府(台湾)も入る」など、さまざまな議論が噴出すると、岸首相は「フィリピン以北、日本周辺」(2月8日答弁)、「北千島は含まず、金門島・馬祖島(台湾の中国よりの島)は範囲」(2月10日答弁)に対し、自民党内非主流派は「金門・馬祖は除外せよ」と、自民党内も一枚岩ではなくなってきました。

いっぽう、前年3月には、社会党と総評(連合の前身)を中心に、原水爆禁止日本協議会、憲法擁護国民連合など134団体が加盟する「安保条約改定阻止国民会議」(国民会議)が結成されていました。これらの団体は、新安保が成立すれば、日本側は自衛隊の増強を強いられ、極東有事の際には自衛隊が在日米軍と協力して、アメリカが引き起こしたアジアの戦争に日本も協力せざるをえないことになる。日本人は、再びアジア人と戦火を交えていいのか、さらにそれが日本を核戦争にまきこむ可能性だってあるという考えが共通の認識でした。この運動は、同年4月の第1次統一行動では全国で1万人ほどだったのが、6月の第3次統一行動では10万人に達すると、新聞テレビのマスコミでも積極的に報道されるようになり、大学人や文化人の啓蒙活動も活発化、さらに12月には、全国学生自治会総連合(全学連)が安保闘争に加わりました。

国会では、先の「極東」の範囲などをめぐり、社会党の猛反対など議論ははてしなく続きます。議論が重なるごとに条項の不備が指摘されてもめ続けるうち、6月19日に新安保の日本批准を見込んで、アメリカのアイゼンハワー大統領(アイク)の訪日が決定しました。条約というのは、衆議院を通過させれば、参議院の議決がなくても、30日後には自然成立することが憲法61条に規定されています。そのため岸首相は、5月19日までに衆議院を可決させなくてはなりません。しかし議会は紛糾して、そんな状況にならないまま5月19日をむかえました。一刻も早く国会審議を打ち切ろうとする岸内閣に対抗し、野党は、衆議院議長清瀬一郎を議長室におしこめて審議をさせない作戦。当日夜10時過ぎ、自民党は本会議開会を知らせる予鈴を鳴らして、安保特別委員会を開きました。そして、野党欠席のまま政府と与党だけで委員会を通し、本会議を開くために警察官500人を導入して、議長室前でスクラムを組む野党議員一人ひとりを排除して議長を衆議院議長席に座らせ、この重要法案をわずか数分で強行採決させたのでした。





この暴挙に、マスコミ全紙は「議会制民主主義の危機」と問題化し、総評は岸内閣を「ファッショ的」と断定、国民会議は「30日以内に国会解散を勝ち取れば新安保批准を阻止できる」と最後の盛り上げをはかり、全学連ら学生や一般市民までがいっしょになって、未曾有のデモ隊が国会議事堂を取り囲みはじめ、戦場さながらにした安保騒動が始まりました。さらに、雑誌「世界」に掲載された清水幾太郎の「今こそ国会へ請願のすすめ」という論文が話題になりました。全国の国民が1枚の請願書持って議事堂を取り巻き、その行列が途切れなかったら、新安保の批准を阻止し、議会政治を正道に戻せるというものでした。これが大評判となって、5月から6月にかけて全国各地の人々が毎日数万人の請願デモが国会へ押し寄せました。特に条約自然承認直前の6月15日から18日にかけては、全学連や労働組合のデモ隊が議事堂を取り囲みました。特に6月15日の夜には、構内に突入したデモ隊と警察官が激突。東大生樺美智子が死亡した他、重傷43名を含む数百人が負傷する大惨事となりました。後でわかったことですが、6月15日に岸首相は、赤城防衛庁長官に自衛隊の出動を打診、赤城は「戦車や機関銃を装備する自衛隊が出動すれば、デモは革命的に全国へ広がる(内乱の危機)」と拒否。そのため、岸は16日にアイク訪日を断る決断をせまられ、閣議決定されました。こうして、6月23日、目黒の外相官邸で批准書が日米で交わされ、その後まもなく岸首相は退陣を表明したことで、安保騒動は一気に終焉しました。

昭和35年7月19日、自民党内の総裁戦に勝利した池田勇人が首相になると、「国民の所得を10年で倍増させる」と打ち出したことで、大風呂敷と揶揄されながらも、12月27日に閣議決定されました。まさにこれが、日本の高度成長の幕開けとなったのでした……。

なお、この時代になると、ほとんどの参加者は高校生以上となり、中には大学を卒業して社会人になった人もいて、それぞれの立場から安保騒動とどう向き合ったかが語られる、印象深い会となりました。



「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒

2016年2月17日水曜日

第21回「参火会」2月例会 (通算385回) 2016年2月16日(火) 実施

「現代史を考える集い」17回目   昭和33・34年 「消費革命の時代へ」





今回は、NHK制作DVD17巻目の映像──
藤山ダレス会談、警職法改定案国会提出、和歌山で勤評阻止全国大会、「売春防止法」施行、のちの「水俣病」報道、本州製紙に漁民乱入、紀州沖で「南海丸」沈没、阿蘇山大爆発、狩野川台風襲来、関門国道トンネル開通、特急「こだま」運転開始、大相撲6場所制に/栃若時代、西鉄が日本シリーズで巨人に逆転優勝、1万円札発行、トランジスターラジオ普及、東京タワー完成、皇室会議・皇太子妃に正田美智子を承認、ミッチ―ブーム、皇太子ご成婚、馬車パレード、清宮貴子婚約発表、安保改定交渉再開、安保阻止国民会議ほか国会構内に入る、砂川裁判に伊達判決、浅沼社会党訪中団長「米帝国主義は日中共同の敵」と演説、民主党結成へ、岩戸景気による消費革命・農村へも波及、伊勢湾台風襲来、次回(第18回)オリンピックが東京に決定、巨人・阪神戦の天覧試合、児島明子がミス・ユニバースに、四国ブーム、自動車・オートバイ普及……など約55分を視聴後、ミッチ―ブーム・大衆社会とマスコミ文化を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

憲法改正、再軍備政策を進めたい岸信介首相は、もう一つの目的である、不平等な「日米安保条約」を改訂し、対米平等の立場を確固たるものにし、軍事大国をめざす──。この信念を、昭和33年に入っても変えませんでした。

3年前(昭和30年2月)の総選挙以後、鳩山・石橋・岸と3つも内閣が交替しながら、一度も国民に信を問うことがなかったことで、議会に解散の声が高まってきました。岸は解散は抜き打ちでやるべきではないと、社会党の鈴木茂三郎党首と会談し、「話し合い解散」を決めました。こうして、5月22日に衆議院選挙が行われます

その結果、自民党287人(選挙後11人入党)、社会党166人(選挙後1人入党)ということで、安定多数は保ったものの、憲法改正に必要な2/3にはほど遠いものでした。そこで第2次岸内閣は、「安保改定」に目的をしぼりました。しかし、これまでの低姿勢とは打って変わって高姿勢で臨み、閣僚もアメリカとの交渉を進めてきた藤山愛一郎外務大臣以外は総入れ替えし、主流派で固めました。そして、安保改定への動きを始めれば、反対勢力が立ちふさがるのは目に見えるため、その勢力を抑え込もうと、その第1弾として「日教組」への攻撃を開始します。当時「日教組」は、政府が打ち出した「勤務評定」(勤評)問題や、道徳教育の実施促進に大反対し、8月15日には、総評も支援した勤評反対・民主教育を守る全国大会を和歌山で開催。9月15日には、勤評反対全国統一行動をおこすなど、これが父兄を巻き込んでの大騒動となり、教育問題が政治問題化していきました。

そうした混乱がさめやらぬ10月8日、政府は突然、反対勢力抑え込みの第2弾となる「警察官職務執行法(警職法)改正案」を国会に提出しました。その内容は、警察官の権限を大幅に強化するもので、警察官の職務質問や所持品調べ、土地や建物への立ち入り、逮捕状なしで留置を可能にすることなどが含まれていました。戦前・戦中派は「オイコラ警察の復権」を危惧し、新憲法の人権尊重がすでに定着してきた戦後派世代からは、「デートを邪魔する警職法」と、私生活を脅かされるのを懸念しました。社会党、総評を中心に「警職法改悪反対国民会議」が結成されると、イデオロギーを越えて広範な反対運動が展開されました。以来、日本じゅうが「警職法」騒ぎに明け暮れ、国会も大荒れとなって、成立に執念を燃やしていた岸内閣もついに断念、11月22日、改正案は審議未了で廃案となりました。

そんなギスギスした世の中に、この騒ぎを鎮静化する話題が登場しました。「皇太子の婚約発表」です。皇太子妃候補の正田美智子さまが初めての「平民」だったこと、軽井沢のテニスコートでのロマンスなど「自由恋愛」を強調するマスコミ報道で、美智子さまはいちやく「昭和のシンデレラ」として国民の人気の的になり、「ミッチ―ブーム」がおこりました。





こうしてマスコミ報道は、皇室関連ニュースに占拠され、政治関連ニュースは片隅に追いやられていきました。そして翌昭和34年4月10日、盛大な「ご成婚式典」と「野外パレード」は、テレビ生中継され、この「世紀の祝典」の視聴者数は推定1500万人といわれ、「マスコミ文化」の中心は「テレビ」が主導するきっかけとなりました。

テレビは、昭和28年2月にNHKが放送を開始したものの当初は1000台弱、翌月でも企業をふくめ1500台足らずでした。同年8月に日本テレビ放送網(NTV)が開局して民間テレビ放送も始まりました。日本テレビは大型の受像機を全国の広場や街頭に設置して普及をはかり、力道山のプロレスや大相撲中継などスポーツが中心で「街頭テレビブーム」をおこすものの、高価だったため、一般家庭への普及にはいたりませんでした。それが皇太子の婚約二ュースが話題になりだした昭和33年末には100万台を突破、「ご成婚式典」時には200万台に達し、その半年後には300万台を越え、1~4月までにフジ、毎日など民間放送局14局が開局して「テレビ時代」に突入していきます。

もうひとつの「マスコミ文化」の大きな変化は、出版社系週刊誌の隆盛でしょう。週刊誌は戦前から続く『週刊朝日』『サンデー毎日』の2誌に加え、昭和27年に『週刊サンケイ』『週刊読売』が加わりました。昭和29年に初めての出版社からの週刊誌『週刊新潮』が新潮社から創刊され、五味康祐の「柳生武芸帳」と柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」の2大連載小説が大ヒットしました。昭和32年から33年には、『週刊女性』(主婦と生活社)、『週刊明星』(集英社)、『週刊大衆』(双葉社)、『週刊女性自身』(光文社)が創刊し、昭和34年には『週刊文春』(文芸春秋社)、『週刊現代』(講談社)、『週刊コウロン』(中央公論社)などが登場、テレビとともに日本文化をリードしていくのでした。

ご成婚も無事にすんだ昭和34年6月、岸首相もそろそろ本格的に動き出し、6月2日に参議院選挙が行われました。自民党は改選前より5つの議席を伸ばし、計132議席の安定多数を獲得したことで自信をとりもどし、10月には、党内で安保改定案のとりまとめを行い、翌年1月にワシントンで行われる「安保改定調印式」にそなえるのでした……。


「参火会」2月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年1月20日水曜日

第20回「参火会」1月例会 (通算384回) 2016年1月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」16回目  昭和31・32年  "もはや戦後ではない"





今回は、NHK制作DVD16巻目の映像──
日ソ交渉妥結、新教育委員会法案審議で参院大混乱の上に法案成立、鳩山内閣総辞職・石橋湛山内閣成立、日本国連に加盟、弥彦神社の初もうで大惨事、魚津市で大火、参宮線列車脱線、第7回冬季オリンピック(コルチナダンペッツォ)で猪谷千春銀メダル、メルボルンオリンピック開催、イタリア歌劇団公演、経済企画庁「経済白書」発表、大阪の通天閣再建完成、第1次南極観測船「宗谷」出発、最後の引揚船「興安丸」舞鶴港に入港、英・クリスマス島で水爆実験、石橋内閣総辞職・岸信介内閣成立、岸首相訪米に出発、日米共同声明発表、米駐留地上軍撤退開始、相馬ヶ原演習場ジラード事件、「第5北川丸」座礁転覆、谷中五重塔で放火心中、天城山心中事件、南極観測隊オングル島上陸、東海村に原子の火ともる、国産ロケット1号打ち上げ、ソ連人工衛星1号打ち上げ成功、国際ペン大会開催、ボリショイ・バレー団公演、カナダ杯ゴルフで中村寅吉優勝…など約50分を視聴後、日ソ国交回復、日本の国連加盟を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

昭和29年12月、ついに6年2か月(通算7年2か月)続いた吉田ワンマン内閣が退陣しました。吉田内閣の退陣は、同時に戦後期の終焉を意味していました。このころから、ようやく復興を遂げた日本経済は、昭和30年後半からアメリカの景気回復に支えられた船舶輸出などで貿易黒字は5億ドルに達し、空前の大豊作もあって好景気(いわゆる神武景気)をむかえ、ほとんどの経済指標は、戦前の水準を突破しました。翌昭和31年7月に発表された経済白書は「もはや戦後ではない」とバラ色の展望をしめしました。

政治面では、追放を解除された戦前政治家を中心とする鳩山一郎内閣は、「憲法改正・再軍備」を公然と進める保守路線を掲げ、昭和30年2月選挙で、鳩山一郎の「日本民主党」が第1党となりました。これに対し、平和を守り、憲法を擁護しようとする運動も高まり、この選挙では左派社会党が大躍進するなど、護憲派が、憲法改正阻止に必要な議席1/3を確保したばかりか、左右両派社会党統一の機運が高まり、昭和30年10月に4年ぶりに再統一をはかりました。

財界に危機感を与えたことから、同年11月15日「自由党」と「民主党」が保守合同して「自由民主党」(自民党)が結党され、これはのちに「55年体制」とよばれ、この「自民党」と「社会党」2党体制は、1993年まで38年も続く政治システムを形成したのでした。

「憲法改正・再軍備」という目標が困難とみた鳩山一郎は、第2の目標だった「対共産圏外交」特にソ連との国交回復に目を向けました。ソ連は、講和条約までは代表部が日本に駐留し、独立後も残留していました。鳩山が日ソ講和をめざしているのを感じたソ連代表部主席ドムニツキ―は、昭和31年1月、秘かに鳩山を訪問し「日ソ国交正常化文書」を手渡しました。

いっぽう、同年2月24日、フルシチョフ第1書記が、第20回ソ連共産党大会最終日に、4時間にわたるスターリン批判の演説を行い、その権力欲と粗暴な性格を暴露しました。これは、自分たちがもはや秘密国家でなくなったことを国際的に示したものでした。(演説内容は6月4日、アメリカ国務省が全文を発表)これをチャンスとみた鳩山は、4月に北洋漁業で日ソ間でもめている問題を解決させようと河野一郎農相をモスクワへ送り、7月には重光葵外相をモスクワにやって、国交回復交渉を詰めさせました。懸案は、領土問題でした。ソ連側は歯舞、色丹のみの返還を提案したのに対し、日本側は国後、択捉を含めた4島返還を主張したことで暗礁にのりあげました。しかし、いずれ平和条約をを締結したときは、歯舞、色丹を返還するので、国交回復の共同宣言に合意しないかという提案を受け、同年10月鳩山・河野を全権代表とする代表団を自ら作り、「日ソ国交回復の共同宣言」の調印にこぎつけたのでした。




この共同宣言には、① 戦争状態の終結  ② 大使の交換 ③ 抑留者の送還 ④ 漁業条約締結 ⑤ 日本の国連加盟支援 とあり、その結果、12月18日には、日本の国連加盟案を国連総会が全会一致で可決し、めでたく80番目の「国連加盟」が実現しました。こうして、日本は「戦争犯罪国」から脱し、完全に国際復帰することができました。これはまた、貿易拡大を中心とする日本経済の高度成長への道を拓くものでした。




鳩山は、帰国と同時に、これらの成果を花道として退陣を表明。ここから、自民党内で、だれを次期総理にするかが大問題となりました。その混乱の中で、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3人が候補になり、決選投票で258対251票の僅差で石橋が岸に勝利し、12月23日に、石橋内閣が成立しました。石橋湛山といういう人物は、ジャーナリスト出身の剛毅な性格の持ち主で、東洋経済新報社長だったことから経済に強く、池田勇人を蔵相に起用して「積極財政」を表看板に掲げた政権でした。ところが、張り切り過ぎた石橋は、過労で倒れてしまい、当分静養が必要との診断に「議会の最重大な国政審議に出席できないのは総理大臣の資格はない」と言い張って辞任してしまいました。

昭和32年2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形で、岸信介内閣が成立しました。岸は、鳩山以上の憲法改正・再軍備論者で、「戦前の大日本帝国の栄光をとりもどせ」が持論でした。当初は、鳩山や石橋のようなブームらしきものが起こらなかったため、低姿勢でしたが、5月7日の参院内閣委員会で「憲法は、自衛のための核兵器を禁ずるものではない」と発言し、社会党は内閣不信任案を提出するほどでした。防衛問題にも積極的で、6月に国防会議が提案した、陸上自衛隊18万人増強などの「長期防衛計画」を即座に承認し、7月にはこれを手土産に訪米、アイゼンハワー大統領やダレス国務長官と会談して、「日米安保条約早急改定」など、「日米新時代」を主張しました。こうしたやり方は、平和護憲勢力との対立をますます激化させるもので、経済発展により国民生活は向上するものの、保守と革新、改憲と護憲、再軍備と平和などをめぐる国内の対立と緊張が高まっていく、そんな時代となっていきました。



「参火会」1月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年12月16日水曜日

第19回「参火会」12月例会 (通算383回) 2015年12月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」15回目  昭和29・30年 「政界再編と神武景気」




今回は、NHK制作DVD15巻目の映像──
造船疑獄容疑で有田二郎議員逮捕、犬養法相指揮権発動し佐藤栄作の逮捕阻止、衆院本会議大乱闘、日本民主党結成・総裁に鳩山一郎、吉田内閣総辞職、第1次鳩山一郎内閣成立、自衛隊発足、ビキニの水爆実験で「第5福竜丸」被災、ビキニ被災者の久保山愛吉氏死亡、近江絹糸スト、皇居参賀二重橋惨事16人死亡、洞爺丸転覆死者・不明1155人、法隆寺金堂修理完成、ルーブル美術展開催、マリリンモンロー来日、ヘップバーンスタイル流行、シャープ兄弟と力道山・木村の初タッグマッチ、「お富さん」大ヒット、第27回衆議院総選挙、第2次鳩山内閣成立、日ソ交渉開始、共産党第6回全国協議会、社会党統一大会、自由民主党結成、米軍・北富士演習場で射撃演習強行、砂川闘争開始、広島の原爆乙女渡米、初の原水爆禁止世界大会、養老院「聖母の園」全焼、宇高連絡船「紫雲丸」沈没、森永ヒ素ミルク事件、トニー谷の長男誘拐事件、神武景気…など約50分を視聴後、その後の「日本のかたち」となる再軍備(自衛隊スタート)、旧政治家の復帰による吉田・鳩山の対立後に成立した「55年体制」を中心に話し合いを行いました。




「この時代の概要」

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本はGHQによる占領状態を脱し、主権国家として新たな歩みを始めました。しかし、独立は回復するものの、日米安保条約により、米軍基地はそのまま残り、アメリカ側は日本の防衛力の漸増推進を求めました。昭和25年の朝鮮戦争勃発直後に、陸軍ともいえる75000人の「警察予備隊」に続き、講和条約が発効してわずか3か月後、警察予備隊は11万人に増員されただけでなく、海上警備隊が新設されて、定員12万の陸・海軍による「保安隊」が設置されました。さらに、「日米相互防衛協定」(MSA協定)が昭和29年3月に調印されて5月に発効、日本の再軍備は努力から義務となり、同年6月の防衛庁設置法と自衛隊法公布により、保安隊を「陸上自衛隊」、海上警備隊を「海上自衛隊」に改組、新たに「航空自衛隊」を組織し、15万を越える定員(現在は定員26万人)の陸・海・空軍の本格的軍隊を設置しました。そのため政府は、「近代戦遂行能力を持たない軍事力は戦力でない」という憲法解釈から「自衛のための軍隊は違憲ではない」という解釈に変えて、戦闘能力を高めていきました。





いっぽう、政界もまた「国のかたち」をどうするかという論争が長く続きました。そのきっかけとなったのが、昭和26年6月に旧政治家たちが「公職追放解除」により政界に復帰したことからでした。その多くは戦前の政友会・民政党など政党出身者だったため、「党人派」といわれ、その代表格が鳩山一郎でした。彼らは、昭和27年10月の衆議院総選挙で139人が当選をはたし、吉田政権に対する反支流派となり、論争を繰り広げます。吉田が「日本には本格的な軍備は不要、アメリカにまかせておけばよい」(これは当時のアメリカのアジア政策と一致する方針)に対し、鳩山は「日米関係は不平等、米軍におんぶにだっこなどせず、憲法を変えて再軍備する堂々たる国家にすべき」と主張して、真っ向から対立しました。その後、末期状態に陥った吉田内閣の居座りに政治腐敗事件「造船疑惑」がおこり、昭和29年4月、吉田の側近ともいえる佐藤栄作幹事長の逮捕と、捜査線上に池田勇人政調会長の名があがりました。政権崩壊の危機を恐れた吉田内閣は、指揮権発動によって事件のもみ消しをはかりました。これにより、国民の批判が高まり、鳩山は、もうひとつの党人派政党「改進党」と手を組んで「日本民主党」を結成し、鳩山が総裁(岸信介幹事長)となりました。




昭和29年12月、ついに6年2か月(通算7年2か月)続いた吉田ワンマン内閣が退陣すると、「鳩山ブーム」がまきおこり、昭和30年2月選挙では、鳩山の「日本民主党」が第1党となりました。これに危機感をおぼえた「右派」と「左派」に分かれた社会党は、昭和30年10月に4年ぶりに再統一をはかると、財界に危機感を与えたことから、同年11月15日「自由党」と「日本民主党」が保守合同して「自由民主党」(自民党)が結党されました。こうして、社会党統一と保守合同は、戦後の日本政治の大枠を決定づけました。これはのちに「55年体制」とよばれ、この「自由民主党」と「社会党」2党体制は、1993年まで38年も続く政治システムを形成しました。




この時代になると、小・中学時代を過ごした人たちも多く、「政治を官僚たちが牛耳る現状を正さなくてはならない」「米国や英国のような本当の意味の2大政党にしなくては……」といった活発な声があがり、大いに盛り上がりました。


「参火会」12月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年11月18日水曜日

第18回「参火会」11月例会 (通算382回) 2015年11月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」14回目  昭和27・28年 「独立はしたけれど」





今回は、NHK制作DVD14巻目の映像──

対日講和・安保条約発効、日米行政協定調印、血のメーデー事件、破壊活動防止法(破防法)公布、白鳥・菅生・吹田事件など警察めぐる事件頻発、警察予備隊から保安隊へ、第4次吉田内閣成立、日航「もく星号」三原山に墜落、明神礁爆発、鳥取市大火、卓球世界選手権初参加、白井義男初のフライ級世界チャンピオン、ヘルシンキオリンピックでレスリング石井金メダル、国内自動車生産に活気、美空ひばり人気、皇太子立太子礼、吉田首相「バカヤロー」と暴言し衆議院解散、第5次吉田内閣成立、日米交換文書発表、内灘闘争、全駐労・全日駐48時間スト、朝鮮戦争休戦協定調印、李承晩ラインで漁船拿捕あいつぐ、在華日本人引揚げ開始、比大統領日本人戦犯の特赦を発表、北九州に豪雨、NHKテレビ放送開始、皇太子外遊に出発、伊藤絹子ミスユニバース3位入賞・八頭身が話題に、山田敬蔵ボストンマラソンで優勝、「君の名は」ブーム、奄美群島日本に復帰…など約50分を視聴後、内灘を契機にいっきに国民の関心が集まった「米軍基地と反対闘争」、メーデー事件に端を発した「破防法」の成立、「安保条約」の裏側を中心に話し合いを行いました。





「この時代の概要」

昭和26年9月8日、アメリカ西海岸にあるサンフランシスコで、48か国と対日講和条約が調印されるとともに、日米間だけで「日米安全保障条約」(安保条約)が調印され、両条約は、昭和27年4月28日に発効しました。こうして日本は、昭和8年(1933年)に国際連盟を脱退して以来、世界との外交を閉ざしてから19年目、6年8か月の連合国の占領を終えて、独立を果たしたのでした。

しかし、防衛はすべてアメリカにまかせ、重装備を持たない「通商国家」としての再スタートに対し、「主権を回復したのに、防衛のすべてをアメリカにまかせてよいのか。そんなことで独立国家といえるのか」といった安保に対する反発の声があがっていました。そして、独立間もない5月1日に「血のメーデー」事件がおこりました。5コースに分かれて行進するデモ隊と警官隊が衝突、2名刺殺、1500人負傷、1300人以上の逮捕者を出しました。同様の事件が大阪や名古屋など全国的に頻発し、治安の空白を恐れた政府は、これらを理由に、7月21日に「破防法」(破壊暴力防止法)を制定し、共産党や労働者・学生の集会やデモ行為などを取り締まる条例を公布しました。





また、安保条約によって、独立後も全国630か所の残る米軍基地をそのまま認めるばかりか、米軍は日本全国どこでも無償で基地を要求する権利があるのに対し、米国には日本を防衛する義務のない「不平等条約」であること。またこの条約が、両国議会の承認を必要としない行政協定であること。米軍は「独立日本」を拠点に、極東で一方的に行動する権利も与えられていること。さらにアメリカの軍人・軍属とその家族は出入国自由、日本の裁判権の及ばない治外法権であることなど、その実態がわかるにつれ、米軍基地に対する反対闘争が高まりはじめました。その口火を切ったのが「内灘闘争」でした。





昭和27年9月、政府は石川県内灘村にあった砂丘にある試射場で、米軍が砲弾を撃つことを承認しました。これは、朝鮮戦争下の特需として製造されたアメリカ軍の砲弾の性能を試験するもので、砂丘から海へ撃ち込むため、漁業に大打撃を与えるものでした。すぐさま、村や県議会は反対を表明して座り込みなどをするものの、翌昭和28年3月には試射を開始しました。県労組や北陸鉄道労組などを中心に反対運動がまきおこり、政府は1700名もの警官を投入してこれを弾圧、村は漁業収益の何十倍もの土地使用料が入ることで政府と妥協し、1年間にわたる闘争は終結しました。この間、評論家の清水幾太郎は雑誌「世界」に論文「内灘」で「基地を日本が全面的に認めているのは、独立国とはいえない」と発表するなど、闘争は全国的に拡大しました。「内灘闘争」は敗北するものの、のちの妙義、浅間、北富士、新島、砂川(立川)などの基地闘争に大きな影響を与え、そのスローガン「金は1年・土地は万年」は、長く引き継がれていきました。

講和とともに、旧政治家の多くが追放解除によって復帰してきました。特に占領期を代表する吉田首相に対し、旧政治家たちは鳩山一郎を立てて政権の返還を求め、新憲法を守りぬくか、憲法を改正して戦前体制にもどるかるなどを中心に政界は混乱しだしました。しかし、国民の多くは、戦後初めて手にした基本的人権の保障、自由と民主主義理念、新憲法の感覚が次第に定着しだしていて、なんとなく明るい気分になっていました。そのため、政治問題や闘争問題など本気に考えることもなく、自分たちの生活を維持することが大切と、懸命に働き、少し余裕が出はじめたのが実情でした。

昭和28年はテレビ放送が始まり、スーパーマーケット、有料道路など、後の時代の主役となるさまざまな事柄がいっせいにスタートしだした年でもありました。7月には朝鮮戦争も休戦となり、世界的にも平和への新しい動きが始まっていて、国民生活はまだ戦前の水準には達していなかったものの、戦後の混乱からようやく脱し、新時代の期待が生まれはじめていました。





会の後半は、上の資料をもとに、「吉田茂外交の頂点」といわれた安保条約は、実はこの調印は吉田が執拗に固辞したもので、昭和天皇の働きかけで実現したものであること。アメリカ政府内にも対立があり、国務相側は、すでに5年以上にわたる占領を早期に終わらせないと日本国内で共産主義勢力が伸びることを懸念したのに対し、軍部は勃発した朝鮮戦争によって日本の基地の重要性が増大したため占領の継続を主張していました。特使のダレスは「妥協の産物」として、形式上は講和条約で占領を終え「独立」させ、実質的には占領期と変わらない「基地の自由使用」という特権を維持できる講和条約・安保条約の締結をはかったことを確認しました。
このように、いつの時代も、アメリカ政府内には対立する考え方があり、今問題化している沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移設に関しても、政府は安全保障上、唯一の選択といっているのに対し、アメリカでは「中国の弾道ミサイルの発達で、沖縄の米軍基地はそれほど重要なものでない」という声をあげる人もいるし、南シナ海の中国海洋進出への対策を重視するなら、フィリピンなどに代替施設をつくったほうが得策という人もいる。日本国土のわずか0.6%の沖縄に、日本全土の3/4の米軍専用施設を押しつけている現状に、政府も国民一人ひとりが目をむける必要があるのではないか、といった活発な議論がおこり、会は大いに盛り上がりました。


「参火会」11月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年10月22日木曜日

第17回「参火会」10月例会 (通算381回) 2015年10月20日(火) 実施

「現代史を考える集い」13回目  昭和25・26年 「講和条約調印」





今回は、NHK制作DVD13巻目の映像──

満年令の法律施行、米3軍首脳来日、聖徳太子の1000円札発行、荒川で一家10人心中、池田蔵相「中小企業の倒産やむなし」「貧乏人は麦を食え」発言、日本共産党批判、マッカーサー共産党非難声明、報道部門からレッドパージ開始、軍人初の追放解除、ダレス米国務省顧問来日、朝鮮戦争勃発、警察予備隊公布施行、川崎競輪で八百長騒ぎ、公団「つまみ食い」事件、「オー・ミステイク」事件、金閣寺全焼、「チャタレー夫人の恋人」発禁、ストリップショー流行、テレビ実験放送、初の日本シリーズ、ダレス・吉田会談開始、北朝鮮軍・中国軍南下、マッカーサー罷免、朝鮮停戦交渉を提案、対日講和条件・日米安全保障条約調印、社会党臨時大会、銀座に街灯復活、ローゼンストック来日、メニューヒン独奏会、日航「もく星号」就航、第1回アジア大会、世界スピード選手権で内藤選手優勝、六大学野球・早慶戦、桜木町駅国電火災、ルース台風襲来、全国各地干ばつ…など約50分を視聴後、わが国の政治や経済に大きな影響を与えた「朝鮮戦争」、世界戦略の中で米国が急いだ「講和条約への道すじ」を中心に話し合いをしました。





「この時代の概要」

アメリカとソ連との「冷戦」が決定的となり、「日本を共産圏の防波堤にせよ」と、ケナン特別使節を訪日させてマッカーサーに伝えたトルーマン大統領は、さらに昭和25年初頭、日本国内の共産党とその支援者を追放する指示を出しました。そして、同年6月、マッカーサーは吉田茂首相あてに「徳田球一・野坂参三・志賀義雄・宮本顕治ら共産党幹部24名の公職追放」を命じ、7月には地下にもぐって出頭しない24名に逮捕状を出すとともに、機関誌「赤旗」の無期限停止、新聞協会代表に共産党員と同調者への追放を勧告しました。9月には公務員にも適用、「レッドパージ」を本格化させたことで、年末までに、民間人10972人、公務員1196人を追放しました。

いっぽう、同年6月25日に「朝鮮戦争」が勃発し、日本もまた戦争体制に組み込まれました。7月には75000人体制の警察予備隊と8000人体制の海上保安庁の創設を命じられ、平和憲法施行後わずか3年で、再軍備の第一歩を踏み出すことになりました。朝鮮戦争当初は、米軍の準備不足から、韓国軍は北朝鮮軍に圧倒され、開戦4日後にソウルを占領され、9月14日までに南端の釜山付近まで追い詰められました。

日本に駐留していた75000人の準備が整った米軍を中心とする国連軍(マッカーサー国連軍最高司令官)は、9月15日にソウルに近い仁川に上陸すると、この作戦は成功して、9月26日にはソウルを奪還、10月20日には平壌を占領したばかりか、11月25日には鴨緑江に到達し、北朝鮮軍を旧満州(中国東北部)へ追いやる勢いとなりました。これに対し1年前に新生した中国は、北朝鮮軍を支援するために、人民義勇軍を参戦させ、ソ連は武器・弾薬を支給して裏から援助しました。そのため、北朝鮮軍と人民義勇軍の合同軍は、12月5日には平壌を奪還、翌年1月26日にはソウルを奪還した上、韓国の北1/3余を占領しました。その後は国連軍と合同軍は北緯38度線をはさんで膠着状態となり、昭和28年7月27日に板門店で休戦協定を結ぶまで、3年1か月にわたる戦争を続けるのでした。

日本にとっての朝鮮戦争は「特需」を生みだし、経済的な安定をもたらしました。そして、国連軍の前線補給基地・空軍の発進基地・兵站(へいたん=戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給・整備・連絡などをする機関)基地として、大きな役割をはたしました。

しかし、アメリカによる日本の基地化、反共の防波堤の道を開くことになり、アメリカは、日本をいつまでも軍事同盟国としてつなぎとめるために、対日講和条約・日米安全保障条約(安保)の締結を急ぐことになり、ダレス米国務省顧問を来日させて、吉田首相と会談を重ねました。このことは、日本の国論を二分させることになり、共産主義の東側陣営を無視し西側諸国とだけ講和する派と、ソ連や中国を含めた全面講和派と激しい議論が高まり、社会党はこれにより、左派社会党と右派社会党に分裂するほどでした。

こうして昭和26年9月8日、アメリカ西海岸にあるサンフランシスコで、対日講和条約が調印されました。連合国55か国のうちインド、ビルマ、ユーゴスラビアは出席を拒否、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは出席するものの調印を拒否、中国は代表政権を中華人民共和国とするか中華民国(台湾)とするかをめぐり、米英が対立したため招聘されず、けっきょく日本と48か国が調印しました。また別の場所では、日米間だけで、日米安全保障条約が調印されました。両条約は、昭和27年4月28日に発効し、不完全ながらも日本は、独立を回復したのでした。




なお、昭和26年4月11日、アメリカは突如マッカーサーの解任を発表し、日本国民ばかりか世界を驚かせました。北緯38度線をはさんで膠着状態の朝鮮戦争にしびれをきらしたマッカーサーが、中国東北部にある北朝鮮軍と人民義勇軍への補給物資をつぶすため「原爆投下すべし」と主張。これにに対し、局地戦にとどめようとするアメリカ政府と対立したとされていますが、詳細は不明です。こうして、4月16日、惜しまれながらのマッカーサーの離日に、20万人もの日本人が歩道で見送り、銅像の建設や記念館・神社建立案も持ちあがるほどでした。ところが、翌月5月の米議会に呼ばれたマッカーサーが、「あらゆる面を総合すると、英米は45歳の壮年、ドイツも同様、日本人はまだ無邪気な12歳」との発言に、マッカーサー人気はいっきにしぼんでしまったのは、皮肉なことでした。



「参火会」10月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2015年9月16日水曜日

第16回 「参火会」 9月例会 (通算380回) 2015年9月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」 12回目  昭和23・24年 「再建の道けわし」




今回は、NHK制作DVD12巻目の映像視聴(約50分)から始まりました──

皇居一般参賀始まる、帝銀事件、芦田均内閣成立、昭電疑獄、第2次吉田茂内閣成立、改正国家公務員法成立、東宝争議開始、本庄事件、ソ連引揚げ再開第1船帰国、「異国の丘」大流行、復興のきざし(両国花火大会、国産自動車ダットサン・C62機関車登場、集団見合いなど)、主婦連合結成、泉山蔵相国会で酔態、踊る宗教の北村サヨ上京、作家太宰治情死、福井大地震、極東国際軍事裁判(東京裁判)判決、第24回衆議院総選挙、第3次吉田内閣成立、ドッジ公使経済安定政策、国鉄人員整理、下山事件、三鷹事件、松川事件、湯川秀樹ノーベル賞、古橋・橋爪全米水上選手権で世界記録、「青い山脈」ヒット、プロ野球・プロボクシング・上野動物園人気、国立新制大学69校設置、「光クラブ」山崎自殺、法隆寺金堂の壁画焼失…など。




「この時代の概要」

前年(昭和22年)、新憲法体制を築き上げるために行われた4月の総選挙では、民主・国民共同との連立内閣ながら、社会党首班の片山哲内閣が成立しました。

当時の世界情勢は、中国では延安に押し込まれていた毛沢東率いる共産党が優勢になり、アメリカが支持してきた蒋介石の「国民党」が広東など南方に退却。朝鮮半島では、38度線をはさんで、ソ連の支持をえた金日成が北朝鮮を牛耳る勢い。ドイツにおいては、米・英・仏による西ドイツを共同占領統治、ソ連は東ドイツを占領統治をしますが、ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニアを衛星国にしつつあり、さらに4国が共同統治していたベルリンを東西に分割し、封鎖(S23.6)。核兵器を含む原子力を国連管理下にしようとするアメリカのもくろみも、まもなく原爆を製造するとつっぱねるなど、「冷戦」は決定的になっていました。

アメリカ本国政府(トルーマン大統領)としては、マッカーサー率いるGHQの日本統治に疑問が生まれ、このままでは、日本も共産主義国になりかねないと、昭和23年初頭にマッカーサーへ「日本を共産主義進出の防波堤にせよ」と命じました。アメリカ政府としては、マッカーサーは、大統領→陸軍長官→統合参謀本部→参謀総長の下の「アメリカ太平洋陸軍総司令官」でしかありません。しかし、マッカーサーには「連合国軍最高司令官」という意識があって、独立してやりたいことがやれるという自負心から、ワシントン政府の指示を素直に受け入れません。

しびれをきらしたアメリカ政府は、昭和23年3月、ケナン特別使節を送り、次の命令を伝えました。① 改革、追放をこれ以上進めない ② 東京裁判の早期終結 ③ 貿易など経済復興をめざせ ④ 日本の独立に向けGHQの権限を日本政府に委譲せよ──というものでした。




(東京裁判)

これに対し、マッカーサーはしぶしぶ受け入れながらも、できるところから片づけると、「東京裁判」を昭和23年11月12日に判決を下し、A級戦犯被告28人のうち、、判決前に死去した松岡洋右と永野修身、精神異常とされた大川周明を除く25被告には全員有罪、東条英機ら7人が絞首刑、木戸幸一ら16名が終身禁固刑、東郷茂徳が禁固20年、重光葵が禁固7年になりました。同年12月23日に東条ら7名を処刑、翌日、岸信介・笹川良一・児玉誉志夫らA級戦犯容疑者19名釈放することで、東京裁判を終結させました。終身禁固・禁固者もS58年までに全員出獄)

アメリカのキーナン主席検察官のもとで連合国11か国のおこなった「東京裁判」のねらいは、① アメリカの原爆投下やソ連の満州侵攻など、連合国側の正義を確認するもので、日本の侵略性をもつ戦争の否定するもの ② 連合国でも、多数の国民の死があり、その死が無駄でなかったことを自国民に納得させる儀式的なもの ③ 戦争中の言論封鎖により、具体的なことを知らされなかった日本人に、南京事件、無通告の真珠湾攻撃、シンガポール虐殺事件、バターン死の行進など、日本軍国主義の罪状を明らかにし、犯罪的軍閥だけを処罰。日本人を啓蒙し、よき日本人民主主義国家の人民となることを導くもの──という側面があったことを確認しました。

いっぽう日本が、戦争総括を自分たちでは何も行わず、この「東京裁判」にゆだねてしまったことが、同じ敗戦国のドイツと大きく違い、開戦計画の実態、戦場での残虐行為、それに対する徹底した償いをしなかったことが、いまだにアジア諸国との本当の意味の融和がはかれないといった意見が出され、多くの賛同をえました。




(ドッジの施策 [ドッジライン] とその影響)

日本の経済力強化を求めるアメリカ政府は、昭和23年12月に「経済安定9原則」を、GHQを通じ日本へ指示しました。固定為替レートの早期導入、金融機関の融資抑制、徴税強化、賃金安定などで、インフレを終わらせ、デフレ状態化させることが目的でした。GHQ内部の改革も進め、マッカーサーの腹心で「日本国憲法制定」に大きな貢献をしたホイットニー民生局長とケーディス民生局次長らを解任し、「経済科学局」のウィロビーを中心に経済改革へと大転換をします。

そして昭和24年2月、デトロイト銀行頭取でドイツの経済改革に実績を残したドッジ公使が、アメリカ政府から派遣されると、大蔵省に詳細な指示を行い、一般会計・特別会計ともに黒字という「超均衡財政」を組ませました。4月には1ドル360円の為替レートを決定し、5月末には公務員を28万5千人を整理の対象とする「行政機関職員定員法」を公布させました。

国鉄(今のJR)を独立採算制の公社とし、6月1日に下山定則が国鉄総裁となり、7月4日に3万7千名の人員整理を発表すると、翌々日に総裁が常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見される「下山事件」がおこり、7月15日には中央線三鷹駅で無人電車が民家に突っ込み6人が即死する「三鷹事件」、8月17日には東北本線松川駅付近で列車が脱線転覆して乗員3名する「松川事件」が相次いで発生しました。いずれの事件も真相がわからず、迷宮入りとなりますが、労働組合に大きな打撃を与え、年末までに国鉄だけで9万5千人が解雇されたほか、企業倒産も続出しました。ドッジのもくろみ通り、インフレの元となっていいヤミ値は急速に下落し、庶民の生活は苦しいながらも安定につながったのでした。



「参火会」9月例会参加者
 (50音順・敬称略)


  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 岩崎  学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒